(2022年5月)

 ・ 5月29日
 ・ 5月22日
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 ・ 5月 8日
 ・ 5月 1日

 5月29日
礼拝メッセージ要約 
主題:「主人公の座を明け渡す」

        マタイの福音書16章24節他  三浦真信牧師

 「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしがたって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)

 神を愛する人たちには、「すべてのことが益となる」と聖書は約束しています。自分の計画した通りにならなかったことですら、神は益としてくださいます。  

 思いもよらない出来事が、人生の中では起きます。その時にはどう対処してよいかわからず、私たちは戸惑います。でも神を愛する人たちは、またこのみことばの約束に立ち返って、「神がすべて益としてくださる」という信頼に立つことができます。これは信仰を持つ者の強みでもあります。しかもそれはただの気休めではなく、事実その通りにしてくださるのです。神の言葉は、必ずその通りになります。  


 神さまのご計画は、私たち人間の思いを遥かに超えています。この宇宙を造り、人をも造られ、壮大な宇宙の歴史をも支配しておられる神の前に、私たちは小さな存在です。今の見えている出来事を基準にして、いろいろ計画したり検討したりしています。神さまからご覧になれば、私たちの見ているものはほんの一部分に過ぎません。知識もわずかです。世界でもまだ解明されていない出来事、私たちが知らないことは山ほどあります。その中で何かを計画したところで、その通りにならないことがあっても不思議ではありません。神の見ておられるもの、神の知識は壮大です。そのすべてをご存じの神が、神を愛する者たちのために最善のことをしてくださるのです。  


 神はこう言われました。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8~9)  

 わたしの思いや計画よりも、神が備えてくださる道は、はるかに高いのです。一部分しか見えていない私たちが、自分の計画通りに生きようとすると、障害物にぶつかってばかりになります。  


 「だれでもわたし(キリスト)について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)  

 これまで、「人生の主人公は自分」として生きてきたかもしれません。でもそれを止めて、わたしに従ってきなさいと、イエス・キリストは私たちを招いておられます。自分を主人公にしているから、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしてしまいます。私たち一人ひとりを目的をもって造られた方に、自分のリードもあずけて(散歩中の犬のように)導いていただけば、安全で楽です。それを預けないで、「これは私の人生、私が主人公」と、目が見えていないのに自分の思いや計画通りに進もうとするから、出来事にぶつかり、人にぶつかり、人生に行き詰まります。  

 心を新たにして(ローマ12:2)、主人公の座をキリストに明け渡しましょう。私の計画の中にはなかった出来事が起きても、キリストは責任を持って最善に導いてくださいます。リードを、手綱を、キリストに渡してみましょう。もっと楽になります。  


 イエス様はこうも言われました。「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:29~30)。

 自分の十字架も、キリストのくびきも、キリストが共に担ってくださるから軽いのです。人生の中で、私たち一人ひとりに神さまから与えられている使命や役割があります。いっけんそれは重たく感じる十字架かもしれませんが、受け取ってみると、キリストが共に担ってくださいます。 運転席にこれまで自分が座っていたために、事故だらけだったかもしれません。イエス様に、席を譲って運転していただきましょう。神は宇宙の始まりから新天新地に向かって私たちを導いてくださる完璧なドライバーです。今直面している問題も、将来の不安も、お任せしてついていきましょう。  


 聖書では、神と人との関係を、羊飼いと羊に例えています。羊飼いである主は、私たちの人生を安全に導いてくださる信頼できる方です。「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません」(ヨハネの福音書10:27~28)。  

 羊という動物は、目が悪く、おっちょこちょいで、すぐに穴に落ちたり迷子になります(おっちょこちょいな羊・動画)。羊飼いがいないで行動する羊は、とても危なっかしいです。ですから、羊飼いの声を聞き分け、必死で羊飼いについていきます。キリストという羊飼いは、私たちの人生を導くだけでなく、永遠のいのちを与えます。羊は、羊飼いについていけば永遠に安全です。羊が、「自分の方が羊飼いだ」と言い張って、羊飼いより先を歩いたら、すぐに穴に落ちるか危ないところに行ってしまいます。私たちはどこまでも羊のような存在であることを認めて、羊飼いであるイエス様についていきましょう。「私の人生の主人公は、私ではなくキリスト」と認めましょう。キリストは、私たちを束縛するのではなく、むしろその羊らしい生き方ができるようにサポートしてくださいます。だから、イエス様という羊飼いのもとでは、いろいろなタイプの羊が、自分らしく安心して生きていけます。肝心なところは、羊飼いがしっかり見守っていてくれるので、いろいろなタイプの羊が安心していられるのです。教会も、キリストが羊飼いですから、キリストが一人ひとりの個性を活かして成長させてくださいます。羊飼いであるキリストに導いていただき、安心して人生の旅を続けましょう。
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 5月22日
礼拝メッセージ要約 
主題:「喜びで満たす神」

        伝道者の書5章8節~20節  三浦真信牧師

<8~9節>

 貧しい者が虐(しいた)げられ、権利と正義が踏みにじられているという現実が、どこの国にもあります。貧しい者から不正に搾取(さくしゅ)した役人には、またその人から不正に搾取する上役がいて、不正の連鎖が生まれています。いつの時代も、身分が低い人たち、貧しい人たちが虐げられて辛い思いをしているという構図があります。

 貧しい人たちの権利が守られ、彼らも虐げられることなく平等に農地を耕し仕事ができて平和に暮らせるような政治が望ましいけれど、そのような王をどこに見出(みいだ)せるだろうかと、社会の不条理を伝道者は訴えます。


<10~12節>

 そのような権利と正義が踏みにじられている原因に、人間の金銭、富を求める貪欲があります。金銭を愛し、富を愛する者は、いくら富を得ても満足しません。さらに欲しい、もっと豊かになりたい、もっと儲けたいと、その欲は留まることがありません。

 金銭、富を愛することについては、イエス様も警告しておられます。「どんな貪欲にも気をつけ警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです」(ルカ12:15)。十戒の最後には、「あなたの隣人のものを欲してはならない」とあります。今あるもので満足できず、隣の人が持っている者まで欲しがる貪欲が、人をさらに罪に陥れていきます。「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:15)。「貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です」(コロサイ3:5)ともあります。金銭を愛し、今与えられているものでは満足できず、もっと欲しい、もっと欲しいという貪欲が、さらに罪を犯させ、また神を見失う偶像ともなっていきます。

 財産が増えると、寄食者(他人の財産を食いつぶす者)も増えます。類は友を呼ぶで、お金を愛する者の周りには、お金を愛する人たちが集まってきます。そして貪欲な者は、貪欲な人たちに食いつぶされていきます。いつ食いつぶされるか、いつ持っているものを失うか不安で、安眠を妨げられ、夜もうかうか眠れません。


<13~14節>

 富そのものが、所有者に害を加えることもあります。景気が良い時に事業を拡大して、突然の不況や今のコロナのような社会がストップするような出来事で、どんどん縮小せざるをえず、気がついたら借金だらけになるということがあります。何か不幸な出来事が突然起きて、それまで豊かにあったものが、あっという間になくなってしまうこともあります。富を愛し、金銭を貪欲に追いかけていた人が、かえって自己破産したり、差し押さえられることもあります。子どもに財産を残すどころか、借金を残していくことで子どもたちまで苦労することになっていきます。


<15~17節>

 これは、ヨブが家族や持ち物を失い、悲しみの真っ只中で言った言葉にも似ています。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)。富や財産があっても、私たちは裸のまま何も持たずに生まれてきたように、また何一つ地上の物をもたずに死を迎えます。自分の物は自分の物だと言い張っても、永遠に自分のものとして保持できるものは何一つありません。死ぬ時にはすべてを手放していきます。生まれた時と同じように、何一つ持たず去っていくことになります。そんな空しい、風を追うようなことに労苦して何の益になるだろうかと。

 しかも、人は一生、「闇の中で食事をします」(17節)。様々な出来事に、「苛立(いらだ)ち、病気をし、激しく怒り」、どれほど富を得ても、そのような闇の現実はあり、しかも最後はすべてを放棄して死んでいきます。金銭、富を愛しても、結局それに振り回され、失う恐怖を抱き、実際失って辛い思いをすることもあるのに、結局最後は必ずすべてを手放すことになるなら、お金や持ち物にとらわれていく生き方が何と空しいかを、この伝道者は感じています。


<18~20節>

 この3節の中で、繰り返し「神」が出てきます。ここで伝道者は、世界の不条理から、神に目を向けます。神が一人ひとりに与えておられる「労苦」をむしろ積極的に受けとめて、その労苦も、食べたり飲んだりという日常生活で、感謝して楽しんでいくようにと。

 神が与えてくださっている中で喜んでいくこと、今与えられている小さなものや出来事を、「神の賜物」として、感謝していきましょう。神が私たちの心を喜びで満たしてくださるから、「自分の生涯のことをあれこれ思い返して」思い悩まず、神がくださる喜びを受けましょう。

 神様は、一人ひとりに必要なものを与え、その人その人にあった形で喜びを与えてくださっています。神さまが他の人に対してしておられることを見ると、神さまのあわれみやご愛さえも、妬(ねた)ましく思えてきます。ヨナがそうでした。

 ヨナ3:10~4:4

 ヨナが、「悪に染まったニネべの町を神が滅ぼされる」とニネべで叫んだところ、ニネべの人たちは神を信じ、悔い改めて神に赦しを求めました。そのため神はわざわいを思い直し、ニネべの町を滅ぼすことをやめました(3章)。でもヨナは、そのことを不愉快に思いました。「どうせ神は情け深くあわれみ深く、恵み豊かな神だから、ニネべを滅ぼすのも思い直されると思いました。40日間歩き回って滅びを宣告したのに、無駄でした。私が伝えたとおりにならずに恥をかきました」という思いでしょう。そんな怒り狂うヨナにも、神さまは熱い地域では日よけになる一本の唐(とう)胡麻(ごま)の木を備えて、慰めてくださいました。しかしその木が枯れてしまうと、ヨナはまた怒ります。神は、「ヨナが一本の唐胡麻さえそれほど惜しむのに、ニネべの町に住む12万人を惜しまないでいられるだろうか」と言われて、ヨナ書は終わります(4:5~11)。

 伝道者が言っていることとも繋(つな)がりますが、この時のヨナの視点に立つと、人生は本当につまらないものとなります。神さまの視点に立てば、ヨナがここで経験したことはすばらしいことです。喜ぶべきことで、嬉しい楽しい出来事でした。サタンは、神が私たちに与えてくださった楽しみ、本来喜ぶべきことさえも、つまらない出来事に変えていきます。ヨナの視点では、神のあわれみ深いご性質さえ、怒りとなります。ヨナ自身も、神の言葉を避けて最初ニネべに行かずタルシシュへ逃れた時に、海に投げられ魚の腹の中で3日過ごす中で神の言葉に逆らったことを悔い改め、赦された経験をしています。大きな神のあわれみを、ヨナ自身が経験しているのです(1~2章)。それにもかかわらず、他の人に向けられた神さまのあわれみ深さは腹立たしいだけでした。

 神様の視点に立つなら、ヨナがニネべで神の言葉を呼びかけたことで、12万人の人たちが悔い改めて神に立ち返り救われたのだから、これは本当に喜ばしい出来事です。その12万人が救われるためにヨナは用いられたのですから、そのことを神はヨナにも喜んでほしかったのです。ヨナ自身は、神の言葉を避けて確かに嵐にあって辛い思いをしたけど、ちゃんと神さまはヨナの命を守り助けてくださいました。暑い日中には、ヨナのためだけに唐胡麻の木を備えてヨナを楽しませてくださいました。神はヨナにもたくさんの恵みを与え、日常の些細な出来事を通しても、ヨナを楽しませてくださっているのです。そこに立てば、すべて感謝、喜ぶ出来事なのに、ヨナはすべてをつまらない出来事に変えてしまいました。

 確かに、罪に覆われたこの世界は暗闇ですが、でも神はその中でも、私たちを楽しみ喜んで生きるように、小さな喜びをも日々与えてくださっています。それを感謝し、私たちも喜んでいくようにと願っておられるのです。

 Ⅰテサロニケ5:16~18

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」とあります。

 神は、私たちがいつも喜び、祈り、感謝をして生きることを望んでおられます。いつも苦しんで、暗い気持ちでいてほしいと望んでおられるわけではありません。現実は辛く苦しいことに囲まれているかもしれないけど、そこに埋没することは決して神が望んでおられる生き方ではありません。他の人がどうではなく、今神が私に与えてくださっている小さな恵みを感謝しましょう。神が私に与えてくださった恵みにいつも目を留めましょう。キリスト・イエスにあって私たちが罪から贖(あがな)われたことは、どれほど感謝しても感謝しきれない恵みです。神の恵みを知らなければ、私たちは目に見える富や、物、何かを偶像としてたえずそれらにとらわれ、依存していく空しい人生を歩み、最後はただすべてを失うだけの死を迎えるしかありませんでした。

 自分に与えられている神のあわれみ、恵みの大きさを深く受けとめていくなら、この神のあわれみがすべての人に向けられていることも感謝となっていきます。与えられている神の恵みを、自分自身が十分受け取っていないと、この時のヨナのように恵みの出来事さえすべてがつまらない、不満な出来事になってしまいます。様々な労苦はありますが、その中でも、神は私たちに小さな喜びも与えてくださっています。その神の賜物に、目を向け感謝を捧げましょう。

 Ⅰテモテ6:6~12

  今与えられているもので満ち足りる心を持ち、金銭を愛し追い求めるより、「義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めて、永遠のいのちを獲得することに心を向けなさい(10~11節)と、パウロも勧めています。

 金銭や持ち物を愛し追い求めていくなら、どこまでも満たされず、そしてやがてはすべてを放棄することになります。しかし神が今与えてくださっているものを感謝して喜び楽しみ、永遠のいのちを求めて生きるなら、暗闇の世にあっても、神が喜びで私たちを満たしてくださいます。

 不条理なこの世界ですが、私たちが神を見上げ、神がくださる賜物、恵みに目を留めていくなら、「いつも喜んでいなさい」というみことばが成就します。神さまは、不可能なことを決して命じられません。いや、自分にはできなくても、聖霊がそうさせてくださいます。ですから、たえず私たちは主に目を向け、主が与えてくださっているもので喜びましょう。
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 5月15日
礼拝メッセージ要約 
主題:「眠りから覚める時が来ています~主イエス・キリストを着なさい~」

        ロ-マ人への手紙13章11節~14節  三浦真信牧師

 パウロは続けて、どのように私たちがキリストの福音で生きるべきかを示しています。またここは、中世の思想家、神学者でもあったアウグスティヌスが回心した聖句としても知られています。彼は若い時には、荒(すさ)んだ生活をしていました。結婚していない女性との間に子供ができたり、新興宗教にはまったり、何をしても満たされずにあえいでいました。彼の自伝とも言える「告白」という本に、赤裸々な彼の当時の生活が記されています。それによると、紀元386年ミラノのある庭園で、彼の回心が起きました。隣の家から子どもたちの歌声が聞こえて来て、「取って読め、取って読め」と繰り返していました。その時、アウグスティヌスは、自分の生まれながらの弱さのために、いくら努力しても罪の生活から抜け出せず苦しみもがいて涙していました。でもその子供たちの不思議な声を聞いて立ち上がり、彼の親友アリピウスのもとに来て、そこに置いてあった新約聖書を取り上げ、最初に開いたところを読みました。それが、このローマ13:13~14でした。それを読んだ時に、彼の心の中で何が起きたかを「告白」で記しています。「わたしはそれから先は読もうとせず、また読むには及ばなかった。この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れて、疑惑の闇はすっかり消え失せたからである」と。この箇所だけではありませんが、聖書はこのように一人の人の人生を変え、また変えられた人たちを通して多くの人々に信仰の火をもたらす力となっています。神の言葉には力があります。


<11節>

 「あなたがたは、今がどのような時であるか知っています」とあります。この「時(カイロス)」は、特別な出来事が起きる時を表しています。「神の時」です。ここは特に、終末、キリスト再臨を意識しているようです。クリスチャンは、今がどのような時であるかを知っています。なぜなら、聖書を通して私たちは知らされているからです。

 「今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります」(Ⅰヨハネ2:18)。最終という意味ではなく、終わりの時代に入っているということです。多くの反キリストが現れています。自分こそキリスト、あるいは救世主だと名乗って人々を集めている異端やカルトがたくさんあります。 「偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たち(すでにキリストを信じている人たち)さえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います」(マタイ24:24)とあります。クリスチャンさえ偽キリストのターゲットにされています。聖書の言葉を使いながら、あるいは似たようなことを言いながら、福音とは全く違う教えがたくさん出てきます。今もすでに出ています。大きなしるしや不思議、奇跡さえ彼らはします。奇跡を行うから真理とは言えません。でも人はそういうものに惑わされます。

 マタイ24:3~14でイエス様は、終わりの時には戦争が起き、あちこちで飢饉や地震が起き、多くの人の愛が冷えますと言われました。そして本当の終わりが来るのは、福音が全世界に宣べ伝えられ、すべての民族に証されてからです。このような終わりの日、再臨が近づく終末の時代に、私たちは生きているのです。

 イエス様やパウロたちがそう言ってからも、まだ実際に終わりは来ないではないかと言ってあざ笑う人々もいます。終わりの時には、そのように言ってあざ笑いながら、自分たちの欲望にどこまでも従う人たちが現れるとも予告されています(Ⅱペテロ3:3~4)。でも千年が一日のような主なる神にとっては、イエス様が来られて神の国が近づいたと言われた約2000年前から、まだ二日しか経っていないようなものです。約束を遅らせておられるのではなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んで神が忍耐しておられるのです(Ⅱペテロ3:8~13)。


 クリスチャンは、このように今の時代がどのような時であるかを知っているのです。それにもかかわらず、パウロは「あなたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです」と言います。「もう起きる時間ですよ」と。「そのような危機的な時代にいるのに、眠っているのですか?」と言いたくなりますが、残念ながら「あなたがた」とパウロが呼びかけている人たちは眠ってしまっています。この「あなたがた」は、私たちみんなです。こんなに終わりの日が近い終末を生きているということがわかっているのに、今の生活に埋もれ、自分の欲に浸り、思い煩いに心奪われ、霊の目が眠ってしまっている私たちに、パウロは「いつまで眠っているのか、いいかげんに起きなさい」と、呼びかけているのです。

 「今は救い(の完成の時)がもっと私たちに近づいているのですから」。パウロが言っている時からすれば、さらに救いの完成の時、つまり主イエスが再びこの地に来てすべてを新しくするその再臨の日が近づいているからです。

 私たちは、びっくりしないとなかなか目が覚めません。熟睡している時に、大きな地震がくれば目が覚めます。なかなか起きない人を起こすのに、大きな音を出したり、からだを揺すったりして驚かせたりします。同じように、私たちの霊の目が眠っている時に、神はショック療法を行ってでも、私たちの目を覚まさせてくださることがあります。

 世界で起きている人間の力ではどうすることもできない出来事や、身近なところで起きる途方に暮れるような出来事も、ある意味では私たちの眠ってしまっている霊の目を覚ますために用いられているかもしれません。それによって、主だけに向かうように、みことばだけを信じていくように訓練してくださいます。


<12~13節>

  「昼(ヘーメラ)」と訳されていますが、これは「夜明け」という意味です。今の終わりの時代はまだ闇に覆われていますが、刻一刻と夜明けは近づいています。再臨が近づいています。やがて夜は終わり、闇は終わるのですから、「闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身につけようではありませんか」と。「闇のわざ」は、罪の闇に覆われたこの世界においてだけあるもので、神が用意しておられる新天新地にはないものです。闇のわざとは、13節にあるような「遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活」です。キリストを信じても、古い肉の残骸がありますから、自分の欲望を優先してしまうようなこともあるでしょう。でもたえず脱ぎ捨てましょう。ただ脱ぎ捨てようと言っても脱ぎ捨てられないので、「光の武具を身に着ける」ことが必要です。自分の力では脱ぎ捨てられないから、「光の武具」が必要です。まだ完全に真昼になってはいないので、私たちは戦いの中にいます。悪魔との戦いです。

 エペソ6:11、13「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさい。邪悪な日に際して対抗できるように、神のすべての武具を取りなさい」と言われています。武具とは、もちろん戦車や爆弾のことではありません。信仰、愛、みことば、祈りなどです(エペソ6:11~20)。この光の武具、神の武具を身に着けるために、毎週の礼拝は大切です。神を礼拝することを疎(おろそ)かにしていると、私たちの肉は弱いですから次第に闇のわざに戻っていきます。争い、ねたみの生活になってしまいます。たえず祈り、たえず神の言葉を受け、絶えず主のことばを中心とした交わりを持っていないと、いつしか悪魔の策略(罠(わな))にはまってしまいます。悪魔の策略はとても巧妙です。罠ですから、気がつかないように、私たちの心を神から引き離し、神の恵みから遠ざけていきます。その罠にかからないためにも、礼拝や交わりを大切にしましょう。

 「遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか」

 ここの「昼(ヘーメラ)」も「夜明け」の意味です。まだ真昼ではありません。 「昼らしい、品位のある生き方をしよう」とは、上品な生き方という意味ではなく、「夜明けを生きる者としてふさわしく歩こう」という意味です。今は、真昼を目指して夜明けを生きていることを意識して生きましょう。


<14節>

  「主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません」 遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、「主イエス・キリストを着なさい」とあります。この「着る」という言葉は、「霊的に結合する」というニュアンスがあります。たえずキリストと結合していきなさい、キリストに結び付くことを求めていきなさいと。私たちの心には、たえず古い肉の欲が働きます。「キリストを信じたのに、どうしてこんな思いが出てくるのか」などと驚く必要はありません。欲望も肉の思いも出てくるのです。でもそれで満たし、それに心を用いていくのではなく、むしろキリストと結びつくことを求めましょう。失敗したら悔い改めて、またそこからキリストと一つになることをさらに求めましょう。

 信仰は、知情意(知識、感情、意志)の出来事です。「もう夜明けが近づいているのだから闇のわざを脱ぎ捨てよう、そのためにはキリストといよいよ結びついていくことが大切。闇のわざを脱ぎ捨てるのには、光の武具を身に着けることが必要だ」と聖書を通して知識として知ります。そして、「闇のわざを着たままでは重たく空しいし、肉の欲望に心を用いても満たされない」という感情が生じます。その時に、「もう闇のわざではなく、キリストを着て生きたい、キリストともっと結びつきたい、一つになりたい」と思い、自分の意志として、キリストと結びつくことを求めていきます。そして光の武具を身につける方向に歩みだします。このように信仰とは、知情意あげてキリストを求めていくことです。  


 ただ「闇のわざを捨てなさい」と言われても、私たちは簡単には捨てられません。その闇のわざでこれまで生きてきてしまったからです。一時的でも破壊的であったとしても、それらで心を満たしてきてしまったから、それに代わる満たすものがなければ、なかなか捨てられません。キリストがそれらに代わって、私たちを満たしてくださいます。キリストに結びつき、キリストご自身を着ていく時に、キリストの喜びや平安によって心が満たされます(ヨハネ福音書14:27)。ですからキリストを着て、キリストで満たされていくなら、段々これまで満たしてきた闇のわざは必要なくなってきます。何かをやめること以上に、キリストを着ていくことに心を用いましょう。キリストと結びつくために、礼拝を大切にし、たえず祈り、日々神の言葉で生きようと願うなら、聖霊が助けてくださいます。聖霊にあらゆることを助けていただきながら、聖霊に一切を委ねていきましょう。もっともっと、キリストに結び付くこ とを求めましょう。キリストを着なければ、闇のわざに戻ってしまいます。キリストを着ましょう。


 6月第一聖日はペンテコステです。聖霊がイエスの弟子たちに降った時に、人を恐れて縮こまっていた弟子たちは力を得て、大胆に福音を宣べ伝えるようになりました。人の知恵や、人のわざを超えて、聖霊は人にはどうすることもできない出来事も解決してくださいます。

 ペンテコステに向かって、私たちはもっとキリストを着ていくこと、キリストと結びついていくことに心を注ぎましょう。いつしかコロナ禍で眠ってしまった信仰を、呼び覚ましていただきましょう。今はもう眠りから覚める時間です。しっかりと霊の目を覚ましていただき、キリストを着ることに心を用いましょう。知恵と啓示の御霊を与えていただき、私たちの心の目をあけて、神が見せようとしておられる望み、栄光、力がどれほどすばらしいかを見せていただきましょう(エペソ1:17~19)。
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 5月8日
児童祝福礼拝メッセージ要約 主題:「喜びの礼拝」

        ネヘミヤ記8章10節  倉持守兄

 「今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなた がたの力だからだ。」 (ネヘミヤ8:10)


 今日、この箇所から覚えて欲しいことは一つです。“喜んで賛美する”ということです。
 みなさんにとって賛美するとはどんなことですか? 賛美はどんな時間でしょうか? 賛美は主(おも)に教会で使われることばです。神様を誉めたたえること、英語では(Praise)です。礼拝の中の重要な要素として、よく三つのことが取り上げられます。“祈り”と“みことば”、そして“賛美”で す。しかし案外、礼拝のプログラムからカットされてしまったり、あったり無かったりしてしまうのは、この賛美だけなのです。賛美の時間はスクリーンに映されたことばを見る時間ではありま せん。コロナ禍だからなるべく歌わないようにする。小さな声で・・・、そんなことがメインになっ てしまっているかも知れません。しかし、賛美はとても重要です。聖書にはこのようなことばが あります。


 「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」 (詩篇22:3) (新改訳第3版)  

 あなたというのは神様です。私たちが賛美の歌を歌うそのところに、神様が住われるのです。神様は遠い存在ではありません。天から見下ろしている、そんなイメージになってはいないでしょうか。聖書に書かれている神様は違います。私たちに寄り添ってくださる方です。私たちと一緒いる存在、それが神様です。そのことを特別に知ることができる、実感することができるもの、それが“賛美”なのです。今の時代、歌う声は小さいかもしれませんが、心から賛美する時に、神様が住まわれます。


 先日、日本で新しい賛美を多数つくり、礼拝の賛美を大きく変えた小坂忠先生が亡くなられました。現代のわかりやすいことばで神様を賛美するWorship Song(ワーシップソング)を作曲し、多くの教会で小坂先生の賛美は親しまれています。昨日、葬儀に参加しましたが、会場に入った途端、とても葬儀とは思えない華々しい飾りと楽器のステージセッティングに驚きました。式が始まると、小坂先生と親しかった方々が思い出を語られていましたが、誰もしんみりすることなく、別れを惜しみつつも、喜びと賛美に満ち溢れる、素晴らしい葬儀でした。クリスチャンの葬儀は悲しみに暮れるものではありません。確かに、寂しさはありますが、死んで終わりではなく、神様がおられる天国に行くことが約束されているからです。


 礼拝では、様々な歌をもって神様を誉めたたえます。聖歌や讃美歌といった、昔からある素晴らしい歌があります。しかし、神様を新鮮な心で賛美するために、今の時代にあった新しい歌も必要です。聖歌の目次にはこのような言葉が書かれています。

 『私たちは人に音楽技術を教わるのは、すばらしいことですが、普段は音楽勉強歴には捕らわれずに、内在する能力を積極的に活用すべきでしょう。例えば大きな声が出ない時は、小さい声でも素直に心をこめて、感動をもって歌うことができます。そして、今まで歌ったことの無い優れた聖歌をたくさん選択し、生涯歌い続けられる愛唱聖歌を、何百にも、何千にも増やしましょう。』(聖歌総合版P957)


 賛美は歌が上手な人だけが歌うものではありません。楽器が特別に上手な人だけが演奏できるものではありません。賛美において大切なことは、心からささげることです。一般の曲を覚えて歌えたり、演奏できたりすることも良いですが、それ以上に、神様を賛美する歌を覚えましょう。 また、大きな声が出せないような場所でも、心から賛美しましょう。新しい歌を歌うことも勧められています。知らない歌を歌うことは、実はとても大切なのです。そのことによって、もっと 神様を豊かに知ることができるからです。古くからある曲も、新しくつくられた曲も歌えると、多くの人と一緒に神様を賛美することができます。詩篇にはこのように書かれています。


 「もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。」 詩篇137:6(新改訳第3版)


 私たちの口は何のためにつくられているのかが、ここに記されています。誰かを非難することでしょうか?または、難しいことを色々と議論するためでしょうか。この詩篇の作者は言っています。神様を最上の喜びとして、何よりも喜んで神様を誉めたたえるために、口はつくられているのだと。心から賛美しましょう。新しい歌を歌いましょう。喜んで賛美する時、それが喜びの礼 拝となるのです。
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 5月1日
礼拝メッセージ要約 主題:「愛は隣人に対して悪を行いません」

               ローマ人への手紙13章8節~10節  三浦真信牧師

 12章前半では、福音で生きるとはどのようなことかを語り、後半ではキリストのからだである教会の交わりにおいて大切なこと、そして13章においては社会における私たちの生き方について語っています。13:1~7では、国との関係においてどのような態度であるべきかが語られ、社会における義務は果たすようにとの勧めがあります。


<8節>

 そして、その社会的義務を果たすということとの繋(つな)がりで、互いに愛し合うという責任をも果たすようにとパウロは勧めます。税金を納めることや、恐れ敬うべき人を敬うという責任に加え、キリストの愛を受けた者たちには、互いに愛し合うという責任が与えられています。

 「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です」。

 物質的な貸し借りも含め、誰かに借りを作るということは、自分も相手も、不安や不信感を持つ原因となりがちです。

 しかし、「互いに愛し合うことは別です」とパウロは言います。これは、人から愛を受けた時には、お返ししなくてよいという意味ではなく、私たちがどれほど愛したつもりになっても、これでもう十分といえる愛を人に与えることはできないということです。完全な愛を私たちはもっていません。この勧めは、神の愛を受け取った者たちに対して語られています。神の愛は無限です。その無限の愛を、私たちは一生かかっても人に注ぐことはできません。ですから、愛においては払いきれない負債を私たちは負っています。

 神は、私たち罪人を救うために、ひとり子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。人は神に造られたのに、神に従わない生き方を選びました。その結果、神との間を埋めることのできない溝ができてしまいました。暗闇の中でもがき疲れて、神の元に帰ろうとしても、罪の断絶により帰ることができなくなっていました。でも神の方で私たちとの関係を回復するために、イエス様を送ってくださいました。イエス様が、私たちの罪の宥(なだ)めの供え物となって、十字架で死なれました。私たち人間の罪の罰を、ひとり子イエスに負わせたのです。そうしてまでも、私たちを罪から救い出し、神が人を造られた時のあの関係に戻そうと、神の方でしてくださったのです(Ⅰヨハネ4:9~11)。罪なきキリストが、人の罪に対する神の怒りを宥めるために、罪人の代表となって十字架で死なれました。この神の愛、御子イエス・キリストの十字架の死までへりくだってくださったことにより、信じる者たちに罪の赦しがもたらされました。

 「神がこれほどまでに私たちを愛してくださった」のです。だから互いに愛し合うべきなのです。「神がこれほどまでに私たちを愛してくださった」ということを知っているなら、その愛に応えて互いに愛し合いましょう。どれほど神を愛し、人を愛したとしても、その愛に対しては負債を返しきることはできません。

 「他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです」

 完全な愛で人を愛するなら、それは律法の要求を完全に満たしていることになります。常に不完全な愛し方しかできない私たちですが、それでも律法の要求を満たすものが愛であるなら、愛する方向を求めていきましょう。


<9~10節>

 「『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない』という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』ということばに要約されるからです」。 

 最初のかっこ内4つの戒めは、出エジプト記20章にある、十戒の後半にある戒めです。この戒めが基本となって、ユダヤ民族の社会生活における規定が作られていきました。これらの戒めは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに集約されます。隣人を愛するなら、姦淫も殺人も盗みも、人の物を欲しがって貪(むさぼ)ることもしないのです。

 「愛は隣人に対して悪を行いません」

 愛は隣人に対して悪を行わないのですから、人の物を騙(だま)して奪おうとしたり、人のいのちや名誉を損なおうとしたり、人の肉体や心を傷つけようとしたりはしません。人を苦しめ悩ますような悪を働きません。自分の言動で人を悩ませたり苦しめているとわかったら、自分自身が苦しくなるからできません。

 でも実際には、人を愛そうとすればするほど、愛せない者だと知らされます。神の愛を知れば知るほど、この愛を完全に実行することはできないことを知るのです。だから、神の愛に対しては、どこまでも負い目があります。とても借りを返せるような愛を人が行うことはできません。でも「神がこれほどまでに私たちを愛してくださった」ことを知っているなら、互いに愛し合いましょう。どこまでも神の愛に対して完全な愛でお返しすることはできませんが、それでも互いに愛し合うことを求めましょう。


 Ⅰコリント13:4~8、14:1

 愛の賛歌と言われている箇所です。「愛」を英語の「I 」(私は)に変えて読んでみましょう。ムズムズして決して気持ちよくは読めないでしょう。愛というものがそういうものだということは、キリストが示してくださったので少しはわかります。でもそれを自分に置き換えた時に、それとは反対の自分であることを思い知らされます。パウロも、自分がそういう人間だと自負してここで言っているわけではありません。でも14:1で、そのような愛を追い求めなさい、求めていこうと言っています。愛は、このように追い求めるものです。私たちの中からは出てこないから、無いことを知った時にまた求めましょう。

 愛を人に要求すると、恐ろしい裁き合いになります。聖書のことば自体そうですが、どこまでも自分に語られている神のことばであって、これを人をさばく武器にしたら大変なことになります。互いに愛を要求し合うと、教会も家族も、社会も、さばきあいで暗くなります。


 「愛は寛容であり」(Ⅰコリント13:4)という一つをとっても、足りないことを日々思い知らされます。私たちは、神の驚くべき寛容により救われました。パウロも、救われる前に犯した罪を思うと、自分のような者が救われたことが、いかに神が寛容であわれみ深い方であるかを人々に示すことになっていると証ししています(Ⅰテモテ1:13~16)。この寛容さ一つとっても、私たちの中にはありません。すぐに腹を立て、いら立ちます。でも寛容さがないこと、結局このような愛が自分の中にないことを認めると楽になります。こんなはずではないと、無いものを自分の中から出そうとするから苦しくなります。無いことを認めて、神に求めましょう。

 神から無条件で一方的な愛が、キリストを通して注がれています。その愛によって、救われるに値しない者が救われたのです。神の子というもったいない特権をいただき、キリストのいのちで今も生かされ、復活の望みが与えられています。その愛に対して、愛ですべてをお返しすることはとてもできませんが、「神がこれほどまでに私たちを愛してくださった」のですから、愛を追い求めましょう。愛のない自分に期待するのをやめて、神に求めましょう。隣人に対して悪を行っていることに気がついたら、悔い改めて悪をやめましょう。聖霊が、私たちの内に神の愛を満たしてくださいますように。
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