(2022年4月)

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 ・ 4月 3日

 4月24日
礼拝メッセージ要約 主題:「主の御声に耳を傾ける礼拝」

               伝道者の書5章1節~7節  三浦真信牧師

<1節>

 「神の宮に行くときは、自分の足に気をつけよ。近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げるのにまさる」  礼拝に対する態度についてです。神の宮では神のことばが語られます。だからその礼拝する態度に気をつけるようにと伝道者は警告します。

 礼拝をする時には、神のことばに対して、「近くに行ってよく聞くこと」が大事です。礼拝をする時に、神の近くに身を寄せるように、心もからだも近寄ってよく聞くことです。

 Ⅰサムエル15:22~23a 「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に従うほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」。

 形だけささげ物をしていればいいのではない、雄羊の脂肪のような良いものをささげたことで満足してしまって、神の言葉をよく聞いて従わないなら、それは神が喜ばれる礼拝ではありません。「主の御声に耳を傾けること」「聞くだけでなく、主の御声に従うこと」こそ、神が喜ばれる生き方であり、神が喜ばれる礼拝です。
 「従わないことは占いの罪」です。聖書では、占いの罪を、偶像礼拝の罪と同様に重く扱っています。占いも偶像礼拝も、神以外のものを神のように崇めることであり、神以外のものに頼って生きることですから、神がもっとも忌み嫌われるものです。神の声に聞き従わないということは、自らを神とすることですから、「高慢」になります。これは、当時の王であったサウルに神がサムエルを通して言われた言葉です。神の言葉を退けたサウルを、主は王位から退けました。

 形式的な礼拝を神は忌み嫌われます。イエス様が2000年前この地に来られた時も、エルサレム神殿で形骸化した礼拝がささげられていて、イエス様は「霊とまことをもって礼拝する」ことの大切さを訴えました。毎週礼拝に出席しささげ物をしていることで、自らを礼拝者だと思っているなら、神からご覧になれば「愚かな者たちがいけにえを献げている」ことになってしまいます。

 心の飢え渇きをもって、全存在を神に向けてみことばを聞き、受け取り、従っていくことこそ、神が喜ばれる礼拝です。神が喜ばれるいけにえは、打ち砕かれた心で、神の御声を求め、それに応答していく礼拝です(詩篇51:17)。


 「彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ」

 神の宮に行って礼拝をしているのに、それが「悪を行っている」というのです。礼拝に毎週出席して、ささげ物もして、讃美やお祈りもしているのに、「近くに行って聞かないなら、神のことばに全存在をあげて聞き、それに応答していこうとしていないなら、それは形だけの礼拝であって、神からご覧になれば「悪を行っているのに、それに気づいてもいない」という状態なのです。礼拝が形式的になっていないでしょうか?心神にあらずになっていないでしょうか?神は、そんな形だけ「はい、今日も礼拝しました」と言って自己満足で終わっている礼拝を喜ばれないどころか、「悪を行っている」と言われます。礼拝をしたふりをする偽善です。しかもその悪にすら気がついていない状態です。

 「神の宮へ行く時は、自分の足に気をつけよ」。今どのような態度で、神を礼拝しているでしょうか。神の近くに行って御声を聞く態度でいるでしょうか。

 神の御声に身を寄せて聞いていれば、私たちの中には悔い改めが起こされます。なぜなら、「神の言葉は生きていて、力があり、両刃(もろは)の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」(へブル4:12)からです。神の言葉を真剣に受けていこうとする時に、グサッとみことばに刺されます。鋭いみことばの剣で刺し貫かれ、自分の罪を示されます。 「主よ、お話しください。しもべは聞いております」(Ⅰサムエル3:9~10)と少年サムエルのようにみことばを受けていくなら、神の言葉は私たちの心の思いやはかりごとを見分ける力がありますから、私たちの心の問題や罪が示されます。そして心が打ち砕かれるのです。そのような礼拝こそ、神が喜ばれ求めておられる礼拝です。神に触れていただく礼拝です。


<2節>

 ここは祈りについてです。

 「神は天におられ、あなたは地にいるからだ」

 神と私たち人間は全く違います。あまりにも違うから、神がわからないのです。だから神と等しい方キリストが、この地にまで来てくださって、神がどのような方かを見せてくださいました。人間同士なら、自分のことをわかってもらうのに、かなり言葉が必要でしょう。いくら自己紹介しても、自分の生い立ちや考え方を話しても、それでもまだ十分には理解してもらえません。でも神は私たちとは違います。

 「天におられ」とは、遠くにおられるという意味ではなく、神と人は天と地ほどの違いがあるという意味です。だからこそ、神のことばをよく聞かないと、神のことは理解できないのです。祈りにおいて、神に自分のことや、自分の悩みを知っていただくために、言葉でいっぱい説明する必要はありません。神は、私たちが祈る前から、その心をご存じです。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)。ことば数が多ければ聞かれて、少ないと聞かれないわけではありません。イエス様もおっしゃいました。「祈るとき、異邦人のように、同じ言葉をただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです」(マタイ6:7)と。たくさん祈ってもいいのです。イエス様も夜を徹して祈るときもありました。ただここも礼拝と同じで、形だけの祈り、美辞麗句を並べて形式的に祈って、祈ったつもりになることを指摘しています。祈りは心からするものです。真実な祈り、心からの祈りであるなら、一言でもいいのです。上手なお祈りなどというものはありません。言葉が少なくても、言葉が拙くても、それが真実な祈りであるなら、滑らかできれいな言葉をたくさん並べた形式的な祈りより、神は喜んでくださいます。上手な祈りではなく、心からの真実の祈りをささげましょう。


<3~7節>

 3節と7節は繋がっているようです。その間に、神への誓いに関することが述べられています。ここの誓い、誓願は、私たちが祈りの中で神に何かを誓うというのとは重さが違うのでしょうが、でも神に対して誓ったことは守ることが大切です。

 「使者の前で「あれは過失だ」と言ってはならない」(6節)

 使者は、祭司のことです。あの時は、そう誓ったけど、「あれは過失だ」と言ってはならないと。要するに、軽々しく誓ってはいけないということです。逆に神の御前で誓うということは、それほど重たいものだということを覚えておきましょう。

 誓いとまではいかなくても、私たちはたえずみことばに促されて、神の御前で決心をします。みことばを聞きっぱなしにしないためにも、それは大切なことです。でも決心しても、その通りにできない時もあります。その時には、「神様、あの時はそう決心したけど、できませんでした。ごめんなさい」と祈りましょう。みことばに従おうとするその心を、神さまは決してないがしろにはされません。


 「夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。ただ、神を恐れよ」(7節)

 3節とも繋がっていますが、働きが多くなると、「もっとこうしていきたい」という夢が多くなり、ことばも多くなります。その働きや夢のことばかりに心が向かい、気がつくと何も残っていなかったり、トラブルばかりだったりということがあります。調子のよい時はいいのですが、夢破れた時や、ある程度することをし終えた時に、結局それだけでは空しさが残ります。正にかつてエルサレムの王でもあったこの伝道者自身が今感じていることです。

 大事なのは、「ただ、神を恐れよ」です。神を恐れて生きるのでなければ、神抜きにいくら夢を語っても空しいのです。この伝道者は、人生の空しさを訴えながら、何が人生で大切であるかを語っています。私たちを造られ、今もこの地を治めておられ、新天新地に向かってご自身の計画を着々と進めておられる神です。この方を恐れ敬って生きること無しには、何をしても、どれほど夢を語っても空しいのです。

 「神を恐れて生きる」とは、神の言葉で生きることです。自分の思いや、自分の計画通りにならなくても、神の言葉をどこまでも真実として、最善と信じて従いましょう。そのために、神に近寄って、みことばをよく聞きましょう。
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 4月17日
イ-スタ-礼拝メッセージ要約 主題:「途方に暮れても行き詰まらない」

               ルカの福音書24章1節~8節  三浦真信牧師


 イエス・キリストが十字架の道を歩まれた最後の週、受難週を経て、今日はその死からキリストが復活されたことを祝う復活節(イースター)です。死んだ人が生き返るという、人の理性では信じがたいことを、聖書は繰り返し語っています。それほど大切な出来事なのです。パウロは言います、「キリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:17~20)。

 キリストがよみがえらず、十字架にかけられて死んで終わりだったら、私たちが信じるキリストは、ただの人であり、死に対しても、また死の根本原因である罪に対しても、何の解決も持っていないということになってしまいます。「私こそキリストだ、救世主だ」といって人々を惹きつけた人は多くいます。しかし皆死んだままです。しかしキリストは死からよみがえられました。

  聖書では、人類に死が入った原因は、神に造られた人間が神に従わずサタンの声に従った罪であるとはっきり語っています。キリストは、神の子でありながら、神の御性質は失わずに、でも私たちと同じ人としての肉体をとって、この地に生まれてくださいました。その方が、すべての人の罪の身代わりとなって十字架で死なれました。しかし死からよみがえって、この方が死というものに支配されない神の子であり、またキリストを信じるなら死の根本原因である罪からも解放されることを証明してくださったのです。もしキリストが死んでよみがえることなく、そのままでしたら、すでにキリストを信じて死んだ人も滅んでしまったことになります。また、死んだ後に与えられる復活の希望はなくなり、この地上のいのちにおいてのみキリストに望みを抱いているだけで、私たちは一番哀れな者となってしまいます。今も生きておられるキリストでなければ信じていても空しいですし、まして地上だけで終わる望みなら、一時的でいつかは終わります。キリストが死からよみがえられたからこそ、私たちは罪から完全に贖われ、神と共にこの人生を歩むことができ、しかもやがて必ずくる死の後にも、永遠に続く復活の望みが与えられます。 今日はキリスト復活の時のことをヨハネの福音書を中心に読みましょう。


<1~2節>

 「彼女たち」とは、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」(マルコ16:1)です。

 「週の初めの日の明け方早く」とは、日曜日の早朝です。イエス様が十字架で死なれたのが金曜日の午後でした。金曜日の日没(夕方)から土曜日の日没時(夕方)までがユダヤでは安息日になります。安息日は、仕事だけでなく、一切のことを休まなければならないので、安息日が始まる前に彼女たちは急いでイエスの遺体に塗る香料と香油を用意しました(23:56)。

 「そして安息日には、戒めに従って休みました」。安息日とは、神の御前に心もからだも休め、神を礼拝する日です(今はキリストの復活した日を記念して日曜日を安息日として覚えています)。これをいい加減にしたら、私たちの生活はすべてちぐはぐなものになっていきます。

 安息日が明けるのが、土曜日の日没で暗くなっているので、翌日日曜日の朝、日が昇る頃に彼女たちは墓に着きました。

 「見ると、石が墓からわきに転がされていました」

 大きな墓石で、とても女性たちだけでは動かすことができないものです。早朝で墓の管理人もいないし、誰がその墓石を開けてくれるか不安になりながらも、彼女たちはとにかくイエス様の納められた墓に一刻も早く行きたい一心でやってきました。

 イエス様の復活は、この大きな墓石という障害物がわきに転がされていたことから始まります。サタンは、この墓石のような大きな障害物を見せて、私たちがイエス様にお会いすることや、イエス様のために何かをしようとすることを妨害してきます。「こんな大きな障害があるから無理だよ、やめた方がいいよ、行かない方がいいよ」と。でもその障害物があっても、彼女たちのようにあきらめずにとにかく前進してみると、そこですばらしい神のみわざを見ることができます。 「あの大きな石をだれが転がしてくれるでしょうか」(マルコ16:3~4)と話し合いながらも、ちゃんと石は転がされて墓は開いていました。このような不安を互いに話し合いながらも、共に復活したイエス様のもとに向かっていく、これが交わりです。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:20)。二人か三人で、「あれどうしようか、このことで悩んでいるけどどうしたらいいだろうか」などと話し合い、でも互いにイエス様を信じて祈っていこうと歩んでいるうちに、イエス様が最善にしてくださる事実を見ていきます。一人だと、「大きな墓石があるから、引き返そう」と言って、あきらめてしまうかもしれません。でも、そこで互いに励まし合いながら進んでいくと、イエス様の生きておられる事実を体験することができます。「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない」(伝道者の書4:12)のみことば通りです。


<3~4節>

 墓の中に彼女たちが入ってみると、そこに主イエスのからだは見当たりませんでした。確かにイエスの遺体は、祭司長やパリサイ人たちが、番兵たちとともに行って墓の中に納め、石で封印しました(マタイ27:62~66)。祭司長たちが、「イエスが三日後に生き返ると言っていたから、弟子たちが来てイエスの遺体を盗むかもしれない」と総督ピラトに言ったため、ピラトは厳重に遺体を納めさせ、屈強なローマ兵たちが番をしていました。実は、この大きな墓石を転がしたのは、主の使いであって、それを見た番兵たちは恐怖で震え上がり死人のようになって動けなくなりました(マタイ28:1~4)。

 まだ何が起きたかわからず、墓の中でイエスのからだがないことで彼女たちは途方に暮れました。十字架刑で死なれたイエスの遺体に香料を塗ろうとして、朝早く彼女たちはやってきました。大きな墓石をどうしたらよいかもわからず、とにかく一刻も早くイエスのからだに香料を塗りたいと思ってきた彼女たちですが、肝心なイエスのからだが見当たらないために、途方に暮れてしまいました。目標がはっきりあったので、墓石の障害も乗り越えてこられました。でも今イエスのからだ自体がないのでは、香料を塗ることもできません。目標が閉ざされた時に、人は途方に暮れます。


 「見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た」 でも神さまは、私たちが途方に暮れている時に、「見よ(イドゥー)」という、驚嘆の出来事を起こしてくださいます。途方に暮れている時はうつむきがちですが、目をあげてみると、そこに神さまの助けが備えられています。「もうだめだ」と言って途方に暮れていないで、しっかり主のなさる奇跡を見なさいと、主は私たちに今も呼びかけてくださいます。神はこのように主の使い(人である場合もあります)を送ってでも、私たちを助けてくださいます。  


<5~8節>

 「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中(死んだ人を納める墓の中)に探すのですか」

 お墓の中にあるのは、死んだ人の遺体であって、生きている人はお墓の中にはいません。イエス様はよみがえられたから、墓の中にはおられません。イエス様は死からよみがえられたのです(ここは受動態です。「(神によってよみがえらされた」)。  


 「主がお話になったことを思い出しなさい」と主の使いに言われて、ようやく「彼女たちはイエスのことばを思い出しました」。すなわち、「人の子(キリスト)は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われた」ことです。

 イエス様がおられる時は、「イエス様、イエス様」と言いながらも、いい加減にイエス様の言葉を聞いていたと反省したことでしょう。いざという時に、イエス様の言葉をすっかり忘れて気が動転してしまうことがあります。私たちも、その繰り返しかもしれません。礼拝やディボーションの時には、「そうだ、そうだ」と思いながら、具体的な生活の場所で道が閉ざされたり、思い描いていたことと違うことが起きると、もうあたふたしてイエス様の言葉がどこかに行ってしまい、自分であれこれ思い悩み、かえって余計なことをして神の働きを妨げるようなことをしてしまいます。


 イエス様は、ご自身に従う者たちに予め、十字架の死と復活のことを予告しておられました。主のことばは必ず実現します。その通りになります。途方に暮れている時に、みことばを思い起こしましょう。助け主聖霊が、イエスの言葉を思い起こさせてくださいます(ヨハネ14:26)。 苦しいこと、大変なことがいっぱいある人生ですが、キリストという宝を持つ者は、途方に暮れても決して行き詰まりません。「私たちは、このキリストという宝を、土の器のような脆(もろ)い自分の内に入れています。脆く弱い土の器であることで、測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになります。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません」(Ⅱコリント4:7~8)。四方八方から苦しめられる時、途方に暮れる時こそ、死からよみがえられて今も私の内に生きておられる復活のキリストの力が明らかになる時です。イエスのいのちが、私たちの身に現れる時です。今途方に暮れているでしょうか?土の器のように今にも自分自身が壊れそうでしょうか?死からよみがえられたキリストの力を体験する時です。途方に暮れていても大丈夫です。キリストという宝が内にいてくだされば、絶対に行き詰まることはありません。このみことばの約束を信じてまいりましょう。
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 4月10日
受難週礼拝メッセージ要約 主題:「仕える者となって与えるいのち」

               マルコの福音書15章6節~39節  三浦真信牧師


<6~15節>

 ピラトとは、ポンテオ・ピラトのことです。使徒信条にも、「(キリストは)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ~」とあります。紀元26年~36年まで、ローマから派遣されてユダヤ地方を治めていた5代目のユダヤ総督です。  

 イエスは、弟子の一人であったイスカリオテのユダの裏切りにより、捕らえられ、不当な裁判を受けて拘留されていました。群衆たちは、祭りの時に当時行われていた風習に則(のっと)って、囚人の一人を釈放するように要求し始めました。そこでピラトは「イエスを釈放してほしいのか」と群衆に尋ねます。ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを知っていた(10節)ので、群衆はきっとイエスの釈放を求めるだろうと思ったのでしょう。しかし、祭司長たちは群衆をも扇動して、正真正銘の犯罪人であるバラバを釈放して、罪のないイエスを十字架刑に処するように叫ばせました(11~12節)。総督ピラトが「あの人がどんな悪いことをしたのか」(14節)と言うほど、何も罪に値することはしていないのに、祭司長たちのイエスへのねたみから真実が曲げられ、人々は扇動されてしまいました。公正に真実を検証して判断を下すべきピラトも、群衆を満足させようと思って(15節)、結局バラバを釈放して、イエスを十字架につけるために引き渡しました。  

 祭司長たちのイエスへのねたみと、ユダヤ全体の責任を担っていた総督の人気取りのために、犯罪者が釈放され、罪のないイエスが極刑を受けることになります。とんでもない冤罪(えんざい)がここに記録されているのです。でもこのようになることが神のみこころでした。


<16~22節>

 十字架刑が下されたイエスは、ローマ兵たちに総督官邸の中庭に連れていかれ、王など位の高い人が着る色であった紫の衣を着せられ(マタイの福音書27:28では「緋色のマント」と書かれています)、茨の冠をかぶらされ、「ユダヤ人の王様、万歳」と言ってからかわれました。兵士たちは葦の棒で、茨の棘で血だらけのイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝むポーズをとりました。人々を救うために、神でありながらあえて人となって人類の歴史の真っただ中に飛び込んできてくださった方が、とてつもなくひどい仕打ちを人から受けています。  

 そしてイエスは、十字架につけられるため、連れ出されました。十字架の横木を、囚人が目的地まで自分で背負い、見せしめのために町中を引き回されることになっていました。イエスは、15節にあるように、鞭で打たれて傷だらけです。ローマ人が使用した鞭は、フラグラムと呼ばれる、獣の骨や金属の破片などがついた特性の鞭です。皮膚が張り裂ける程に鞭で打たれるので、すでに血だらけです。場合によっては、これだけでも出血多量で死に至ることがあります。そして兵士たちから散々虐待を受けています。その傷だらけのからだで、ゴルゴタまで十字架を担いで行きます。途中で衰弱しきって重い十字架を運ぶ力が無くなってしまったのでしょう、兵士たちは通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり負わせました(21節)。クレネ人とは、クレネに住んでいる人という意味です。クレネとは、北アフリカにある地中海に面した所です。恐らく過ぎ越しの祭りのために、クレネからエルサレムに来ていたのでしょう。シモンは、クレネに離散して住んでいたユダヤ人です。  

 「アレクサンドロとルフォスの父」とありますように、このマルコの福音書の読者が読んで説明なしにわかる人であったことから、この二人は初代教会でも有名なキリスト者であったようです。ローマ16:13で、パウロが「ルフォスによろしく」と書いているのが、このクレネ人シモンの息子ルフォスであるかもしれません。このクレネ人シモンが、その時は不本意にも重たい十字架をイエスの代わりに担いだことで、イエスの恵みに与り、十字架上のイエスを見たり、その言葉態度を聞いて、イエスを神の子、救い主と信じたのでしょう。その恵みが、子どもたちにまで及んでいたことがわかります。私たちも、重い十字架を負わされることはその時は辛いと感じますが、それによって神の恵みと祝福が後々に及んでいくことが多々あります。神のご計画は不思議です。


<23~32節>

 没薬を混ぜたぶどう酒は、処刑する前に感覚を麻痺させて苦しみをやわらげるため、囚人に飲ませるのが習慣でした。しかしイエスは、あえてそれをお受けにならず、神によって与えられる苦しみをすべて味わわれました(23節)。  

 十字架には裸でつけられました。手足(手首と足のかかと)を30センチほどの太い釘で打ち付けられ、時間とともにからだが下がっていき、横隔膜が伸縮できなくなって呼吸困難になり、窒息死するという残酷な刑です。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれ、二人の強盗犯といっしょにかけられました。通りすがりの人にも、祭司長や律法学者たちにも、「他人は救ったが、自分は救えない」「キリストなら、今十字架から降りてみろ」と嘲(あざけ)られ、ののしられました。散々嫌味を言われても、イエスは十字架から降りませんでした。神の子ですから、降りようとすれば降りられたでしょう。でもここで降りたら、人類の救いはありませんでした。

<33~39節>

 朝9時に十字架につけられ(25節)、昼12時になった時に闇が全地をおおい、午後3時まで闇に覆われた状態が続きました。そして3時にイエスは大声で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)と叫びました。そして最後は、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と大声をあげて息を引き取られました(ルカ23:46)。たいてい十字架刑では、2~3日かかって最後窒息死するのですが、そこまで時間がかかっていないことや大声をあげられたことなどから、窒息する前に出血多量で死んだのかもしれません。  

 人からも最愛の父なる神からも見捨てられる孤独と悲しみを経験して、最後はすべてを神の御手にゆだねてイエスは十字架上で死にました。  

 この時に、エルサレム神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました(38節)。神殿には、聖所と至聖所の間に幕があり、至聖所は年に一度贖罪の日だけ、大祭司が入ることが許された神聖な場所です。イエスの死により、大祭司だけでなく、すべての罪人がいつでもどこでも神に近づくことができるようになったことを、この出来事は示しています。  

 イエスの処刑を監督していたローマの百人隊長は、十字架上でのイエスの最期を目の当たりにして、「この方は本当に神の子であった」(39節)と言っています。イエスに初めてここで会った、しかもユダヤ人ではないローマの百人隊長という地位のある人が、イエスの最期に接して、イエスが本当に神の子であったとわかったのです。  


 神の子である方が、どこまでもへりくだり、仕える者の姿をとり、十字架の死にまで従って、私たちにいのちを与えてくださいました。造り主である神の元から迷い出て、罪の暗やみを歩んでいた私たちを救うために、神と等しい方が、あえて人の姿をとってくださり、十字架の道を歩んでくださいました。人々から嘲(あざけ)られ、神からもいっとき見捨てられ、罪人が本来受けるべき罪の罰を代わりにその身に負ってくださったのです。イエスを信じる者に、この地上においても、そして死んだ後も、神と共に生きる永遠のいのちを与えるために、神の子はしもべの姿をとってくださいました。


<イザヤ53:3~6>

 神の子キリストが、丸ごと私たちの病と痛みを十字架で担ってくださいました。罪の病だけでなく、私たちが受けるこのからだの病、痛みをも主イエスは担ってくださったのです。私たちが病に苦しみ痛む時も、主はそれを担ってくださり、そして癒しを与えてくださり、最終的には復活のからだを与えてくださいます。病、けが、死、罪の苦しみと一切関係がない、復活のからだを、神は新天新地において与えてくださいます。キリストを受け入れて、造り主である神のもとに帰る時に、神はこの地上のからだも心も癒し、罪の呪いから完全に私たちを解放してくださいます。キリストのもとに行きましょう。そこに癒しと解放があります。
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 4月3日
礼拝メッセージ要約 主題:「神によって立てられた権威」

               ローマ人への手紙13章1節~7節  三浦真信牧師

 12章1節で、福音によって生きることの基本として、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」とあり、私たちがからだを神に献げるとはどのようなことかが、続けて述べられています。12章では、特にキリストのからだである教会の器官として、私たちがどのようなことをその交わりの中で大切にしていくべきかが示されています。 そして次の13章では、社会との関わりにおける態度についてパウロは語ります。


<1~2節>

 国家の権威、為政者の権威は、絶対的な権威ではなく、「神によって立てられている」権威です(1節)。総理大臣や国のために立てられているリーダーたちは、自分でそう思おうと思うまいと、神から委任された権威なのです。したがって、神によって立てられた権威に従わないことは、神の定めに逆らうことになります(2節)。  

 パウロがこのことを語っているのは、権力者による迫害が実際に行われていたり、皇帝崇拝などもあった時代です。ですから、決して盲目的に権力者の言うとおりにするようにという勧めではありません。  

 ペテロたちも、イエスの名を語ってはいけないと、時の権力者たちに言われた時に、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません」と言っています(使徒4:19~20)。また「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29)とも言っています。それでもその場所で語るなと言われたら、それに従って、また違う場所に移動して語っています。そういう意味では、神の命令に背く内容でない限りは、権力者たちに従っています。神が今秩序を保つために立てられた権威として、敬いつつ従っています。やり方が間違っている、政策がおかしいと感じる時には、意見を言うことがあっても、それでも神が立てられた権威として受け取っています。そうすることで、神に従っているのです。でもどこまでも、「人に従うより神に従うべきです」という中でのことです。  

 「逆らう者は自分の身にさばきを招きます」

 神が立てた者に逆らうことで、神のさばきを受けることになります。ですから、神に今立てられている権威を通して、自分たちの社会を神が守っておられるという信仰に立って従いましょう。


<3節>

 悪を行っている時は、権威者を恐ろしいと思います。それは罰を恐れるからです。神の前にも同じです。悪いことを行っていれば、それを見ておられる神がおられるので、心の中に恐怖があります。ですから、どこまでも「善を行いなさい」とパウロは命じます。たとえ問題のある権威であっても、あなたがたは善を行いなさい。12:17~21と同じです。悪い政権だから、復讐してやろうとか、平和を乱してやろうとするのではなく、自分では復讐せず、できる限り平和を保つことを求めていきましょう。神が背後におられるのですから、間違っている時には神が正してくださいます。神が立ち上がって復讐してくださいます。権力を悪用した人たちは、必ず主がさばかれます。主の許しなしには、決してそのまま立てられ続けることはありません。おかしなことはおかしいと声を上げつつも、その背後に私たちにはわからない神のご計画があることを信じて、善を行いましょう。


<4~5節>

 国の権威というと遠くの人に感じるかもしれませんが、もっと身近なところで、神が立てた権威に従うということを私たちは学ばされます。職場の上司であったり、学校の先生であったり、いわゆる目上の人も、神が私たちのために立てた権威と言えます。目上の人でも、必ずしも尊敬できるような人ばかりではないでしょう。でも神が立てておられ、どのような人であろうと神が「あなたに益を与えるために立てた神のしもべ」なのです。その人がクリスチャンでなくても、神があなたに益を与えるために立てておられるのです。この「しもべ」の原語は、先週紹介しましたが、パウロが自分のことを「神のしもべ」と言っていたのと同じ「ディアコニア」が使われています。その人自身はそう思っていなくても、神が私の益のために立ててくださった「神のしもべ」なのです。その「益」というのは、いかにも「益」と思えるような益ではないかもしれません。嫌なことばかりを言ってきたり、むしろ自分を損なうように思える人かもしれません。それでも、その存在を通して、神が私に何かを教えたり、あるいは砕かれることを学ばせたり、みことばを体験するために備えられたかもしれません。そうであるなら、それも益となります(もちろん、暴力やパワハラなど危害を加えることに関しては、しかるべき人に助けを求めることも必要です)。  

 神が立てておられる限りは、何かしらその人を通して秩序が保たれていたり、神の意図があります。ですから、その罰を恐れるからではなく、自分の良心からも従いましょう。


<6~7節>

 パウロは、ここではあくまで国家の権威者という視点で語っていますので、神が立てた公僕として、社会秩序のために働いている彼らのためにも、税金の義務を果たしなさいと勧めます。自分たちのことを迫害するから税金など納めるものか、という態度ではなく、どこまでも神が立てられ、神の許しの中でその責任を担っている権威者のために、税金を納め、また納めるべき義務のあるものは果たしましょう。  

 「恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい」

 神が立てておられるゆえに、敬うべき人を敬いましょう。  

 私たちはこの社会の中で生きています。そして、今もこの社会の秩序を守るために多くの人が責任を担っています。権威を持つ人に従うというだけでなく、社会の中で決められているルールに従うということもあります。


<Ⅰペテロ2:13~20>

 キリストの自由を受けて私はキリストのしもべだから、人には従わない、人の造ったルールには従わない、というのではなく、「その自由を悪を行う言い訳にせず、神のしもべとして」、神に従うように従いましょう。悪を行うことではなく、「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが神のみこころ」なのです(15節)。神に従い、愚直なほどに善を行うことで、罪を犯していたり悪を平気で行っている人たちが恥じ入り、自分たちのしていることが正しいなどと言えなくなることが、神のみこころです。ですから、悪を行ったり復讐する方向ではなく、神のしもべとして善を行う生き方を求めましょう。善良でやさしい主人だけでなく、意地悪な主人にも、神のしもべとして従い、また人が立てた制度や決まりには、主のゆえに従いましょう。どこまでも、「主のゆえに」です。ですから、パウロたちは、主にあってできないことに関しては、「それはできません」と言って、法律に従って罰則を受けていきました。  


 私たちが、国の王やリーダーたちのために従うという時に、何よりも大切なのはとりなしの祈りです。「私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい」(Ⅰテモテ2:1)。パウロが、何よりも勧めますと言って、すべての人のために、特に王たちと高い地位にあるすべての人のために、祈りとりなすようにと命じます。神がこの社会の秩序を守るために彼らを立てたのですから、正しくその役割を果たせるようにとりなし祈る責任があります。確かに権威を持っている人自身が、社会の秩序を壊したり戦争を起こす場合も現実にはあります。だからこそ祈りが必要なのです。各国の首相や様々な分野で責任ある立場にいる人たちのために、また地域、職場、学校などで責任を持っている方々のために、また教会で責任を担っている人たちのために、たえずとりなし祈りましょう。  

 祈りは神をも動かす力ですので、決して過小評価してはいけません。事実祈りによって国が変えられたケースもあります。一時はキリスト教を禁じたローマ帝国が、公認するようになった紀元313年ミラノの勅令(コンスタンチヌス帝)の例もあります。すぐに祈りの実を見られるとは限りませんので、祈りには忍耐が必要です。  

 また祈っていると、そのために(その人のために)何を具体的にすべきかが示されます。ウクライナ支援のためにも、多くの神に迫られた人たちが、現地や周辺地域で具体的な助けをしています。すべての人がそうすることはできませんが、またその人たちを今いる場所で支援することもできます。祈りの中で示されたことは、すぐに実行しましょう。


<まとめ>

 ①神によって立てられているすべての権威やルールに、主にあって従いましょう。

 ②敬うべき人を敬い、すべての人に義務を果たしましょう。

 ③できる限り善を行い、立てられている王やすべての人のためにとりなし祈りましょう。

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