(2022年3月)

 ・ 3月27日
 ・ 3月20日
 ・ 3月13日
 ・ 3月 6日

 3月27日
礼拝メッセージ要約 主題:「名声の空しさ」

               伝道者の書4章13節~16節  三浦真信牧師

 この伝道者の書の著者である「伝道者(コーへレス)」は、この地上社会における様々な不条理をあげながら、「すべては空しく、風を追うようなものだ」と、繰り返し言っています。どれほど成功しても、地位や富を得ても、かえって得たもので苦しんだり失うことで不安になったりして、結局満足することができません。地上のものではどこまでも完全な満足や安心を得ることができません。この伝道者はそのことに気づかせて、何が真に大切であるかを伝えようとしています。


<13節>

 1:12にあるように、この伝道者自身が、かつてイスラエルの王でした。自分自身が王という立場を経験しています。そして他の国の王たちとも関わり、王たちの言動を注視してきました。また自分が王になる前や、王を退いた後でも、自国の王たちの生き方、交代時に起きる王と民たちの課題なども見てきました。そこで、彼が知恵ある王と愚かな王の違いとして、「忠告を受け入れるか受け入れないか」をあげています。それが「年老いた愚かな王」と「知恵のある若者」と言いう表現で対比されています。どうしても、年齢を重ねて経験や知識も増えると、「自分の考えは正しい」という思いが強くなり、人の忠告を受け入れづらくなりがちです。若い時は、初めてのことも多く知らないことも多いから、周りから教えてもらおうと思います。この伝道者もそのような事例を見てきたので、あえてそのように言っているのでしょう。  

 そうならないように年をとっても人の忠告を大切にしようとする人もいますし、若くても万能感と勢いで、人の忠告を聞かずに突っ走る人もいます。そういう意味では、若いからとか年老いたからということより、「忠告を受け入れる柔軟な心」というものが、王には必要であり、それが知恵ある王であると、この伝道者はとらえています。  

 いくら忠告しても聞く耳がなければ、誰も忠告してくれなくなります。「自分の考えが間違っているかもしれない」と思って、人の意見にも耳を傾け吟味(ぎんみ)することは、結果として多くの知恵が結集されていくので、知恵ある生き方となります。  

 もちろんすべての忠告が正しいとは限りません。忠告する人も、自分の思いやフィーリングを語っていたり、表面的なことだけで意見を言っている場合もあります。一面だけしか見ないで意見を言っているかもしれません。場合によっては、右から左まで全く違う忠告を受ける場合もあります。ですから、すべての忠告をそのまま受け入れるべきということではありませんが、ある程度自分のことを思って言われる忠告や、客観的立場で語ってくださる忠告は、ありがたいと思って心に留めましょう。  

 いずれにしても、「自分はこれだけの実績があるから、経験があるから、知識があるから間違いない」と言って奢(おご)ることなく、私たちはたえず間違う可能性がある不完全な人間であることを忘れないようにしましょう。


<14節>

 知恵ある若者で、牢獄から王に近い立場になった人としては、創世記37章以降にあるヨセフがいます。一度は兄たちのねたみをかって、奴隷としてエジプトに連れて行かれ、牢獄にも入れられますが、神が共にいて彼に知恵を与え、人々の好意を得、やがて王の側近として大きな仕事を任されます。


<15~16節>

 日の下(この地上)では、王はいつか交代し、また新しい王になります。その時には良かったと歓迎しますが、また実際に王となれば民衆からは不満が出てきます。日本の総理大臣の支持率を見ていると、就任当初は支持率がとても高いのに、たいていは続けている間に段々下がってきます。政権交代するごとに、同じようなことが繰り返されています。人の評価というものも当てになりません。ウクライナのゼレンスキー大統領の場合は、ロシアの軍事侵攻前までは支持率が41%と低迷していたのに、軍事侵攻後2月末でウクライナ国民の支持率が91%になりました。  

 王たちは、そのような民衆の支持率、評判を気にして一喜一憂したりします。しかし民衆の人気は変わりやすく、それに振り回されること自体空しいことです。もし人の評判というものを人生の目標としていたら、決して満足も安心もできません。そして王も時代を経て次々に代わっていきます。この伝道者自身も王としての働きを退き、現役時代は人からの好評も悪評も受けながら、必死で様々な事案に対応してきたけど、振り返ってみると何とも空しいと今感じています。  

 サタンは、人にこの世の栄華、名声を与えて、この空しさを味わわせようと誘惑してきます。一番それを味わわせたかったのが、イエス・キリストに対してです。イエスが公に宣教を始める前に、荒野でサタンの試みに遭いました。三つの誘惑の中で最後の誘惑は、世界を統一する王としての地位を与えるというものでした。いまだかつて、世界を統一した王はいません。広範囲を支配した者たちはいましたが、世界中を治めた王はいません。悪魔は、ひれ伏して自分を拝むなら、全世界の王となって支配する地位を与えようと、イエスを誘惑しました。しかしイエスはその誘惑を、みことばで退けます(マタイ4:9~10)。もしこの誘惑を受け入れて悪魔にひれ伏し世界の王となっていたら、それは悪魔の支配下に置かれることですから、悪魔に敗北し、私たちの救いはありませんでした。イエスは世界の王どころか、神の子でありながら神としての在り方さえも捨てても良いとして、しもべの姿をとられました(ピリピ2:6~11)。その結果、神によって高く上げられ、すべての名にまさる名を与えられました。それはどこまでも神に栄光を帰するためです。  

 この世界を仮にすべて治めたとしても、その先には何もありません。あとはすべてを手放すだけです。やがて死とともにすべてを手放すことになります。その後にあるのは、神を侮った結果の滅びが待つだけです。だから世界のすべてを手に入れても、世界の王になっても空しいだけです。  


 人からの誉れ、名声を求め、人の評価をいつも気にする生き方がいかに空しいかを、伝道者は語っています。どうすればそこから解放されるのか、そのヒントをパウロがⅡコリント6:3~ 10で語っています。  

 パウロは、あらゆる苦難や受ける迫害を、神の力によって乗り越えていきました。その中で、人からもほめられたりそしられたりしてきました(8節)。パウロ自身は、救いの恵みを伝える者として、そしられたりつまずきを与えないように、努めて自分を神のしもべとして推薦するような生き方をしてきました。それでも、人はパウロのことをそしったり悪評を流しました。でもそれによってパウロの働きが止められることはありませんでした。この「神のしもべである」という自覚が、人の評価や悪意ある言葉にも振り回されない支えとなったのです。「神のしもべ」として生きたことが、人の評価に振り回されないだけでなく、あらゆる苦難を乗り越える力となっていたことがわかります。  

 ここの「しもべ」は、原語で「ディアコニア」という言葉が使われています。この言葉は、「主人の食卓の前で給仕をするしもべ(執事)」という意味の言葉です。主人から「~してほしい」と言われたら、すぐにできるようにそばにいて仕えるしもべです。パウロは、神に仕えるためにいつも待機しているしもべでした。同じことばが、Ⅰコリント3:5でも使われています「アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです」。ここの「奉仕者」も「ディアコニア」です。コリント教会で、「私はアポロ先生を支持する、私はパウロ先生につく」と言って分裂がおきていました。パウロは、自分たちはただ神に仕える奉仕者、しもべに過ぎず、大切なのは私たちが仕え、成長させてくださる神であると、神を見上げるように、みんな神に仕えるようにと訴えました。   

 神のしもべは、神の評価で生きます。神が私に何を求め、また私をどのように見ておられるかに常に焦点を合わせます。それを知るために、私たちはたえず神のことばであるみことばを真剣に求めます。主人の思いをしっかり受け取るためにです。聖書には、神が私たちに求めておられる生き方、また神が私たちをどのように見てくださっているかが書かれています。 神のしもべは、たとえ人から良い評価を受けてもそれを鵜吞(うの)みにして高ぶることなく、悪い評価を聞いた時には、そこでもし自分に非があり悔い改めることがあれば悔い改めて後ろにしていきます。でも決して人の奴隷ではなく、神のしもべであることを、いつもはっきりしていきます。  


 パウロはこうも言いました、「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません」(ガラテヤ1:10)。キリストのしもべは、どこまでも神の喜ばれることを求めます。神の思いを優先します。たしかに伝道者が言ったように、人の忠告も聞きます。でも最終的には、神のことばと導きに従います。人の言葉か神のことばかを迷った時には、神のことばに従います。それが神のしもべです。イエス・キリストの十字架の贖いを受けた者たちは、みな神のしもべです。キリストの死という代価によって、神のものとされました。ですから、神のしもべとして、神から言われたらそれに従う心をいつも持っていましょう。神のしもべとしての自覚をもって日々生活しましょう。自分の立場がどうであろうと、人からどのように見られていようと、それにとらわれることなく、「私は神のしもべである」、ここに自分のアイデンティティーを置いていくなら、様々なとらわれから少しずつ解放されていきます。人から受けた評価も、次々降りかかる困難も、むしろ「私は神のしもべ」であることをさらに自覚する機会としていきましょう。  


 私たちの名は、すでにキリストにあって天に書き記されています(ルカ10:20)。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とイエス様が弟子たちにおっしゃいました。ですからやがて過ぎ去っていくこの地上に名を残す必要はありません。人々から忘れ去られてもいいのです。この地上には永遠に覚えられる名はありません。 そうであるなら名声にとらわれていくことも、「また空しく風を追うようなものだ」という伝道者のことば通りです。わたしの名はもう天に書き記されている、キリストにあって私は神のしもべ、神の執事。いつでも神の命令に従う用意ができている、そのようなしもべの心で生きましょう。聖霊が、私たちを日々そのように整えてくださいます。
 ページの先頭に戻る

 3月20日
礼拝メッセージ要約 主題:「善をもって悪に打ち勝ちなさい」

               ローマ人への手紙12章18節~21節  三浦真信牧師

<18節>

 「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい」 「自分に関することについては」は、「あなたの側では」という意味です。平和な関係でいたいとこちらが願っても、相手がそう願わないことがあります。それでも、「あなたの側ではできる限り平和を保つように、最善を尽くしなさい」ということです。

 この前節の「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい」に続く言葉です。自分に向かって悪を行う人がいても、あなたの側は悪を返さず、できる限り主体的に平和を求めていきなさいと、パウロは勧めます。


 イエス様も「平和をつくる者は幸いです」(マタイ5:9)とおっしゃいました。誰かに平和を要求するのではなく、「あなた自身が平和をつくる者(ピースメーカー)になりなさい」と、イエス様はおっしゃいます。「あの人が平和を乱している」「この人がいるからいつも争いが起きる」と言って、誰かのせいにしていても何も変わりません。人がどうではなく「あなたがそういう者となりなさい」「あなたがピースメーカーになりなさい」と。人を変えようと、人に要求するのをやめて、「あなた自身が平和をつくる者となりなさい」。一人ひとりが、まず自分のいるところで平和をつくる者となっていくことから平和が広がっていきます。

 キリストを通して与えられた神との和解によって、すでに私たちの内に神の平和が与えられています。そこからいつも目を離さないようにしましょう。神との平和な関係でいることが、また神の平和を周囲に流していくことになります。ですから神との関係をこじらせているものがあるなら、それを解決していくことが平和をつくる近道となるでしょう。御霊が、キリストにある平安を私たちの内に満たして、私たち自身を平和をつくる者としてくださいますように。自分自身の中からは、平和を打ち壊すような苦々しいものしか出てこないことを認めて、聖霊がみことば通りに生かしてくださるように求めましょう。


<19節>

 「愛する者たち」

 パウロは、この手紙を読むすべての人に、このように呼びかけます。愛するがゆえにどうしてもこのことを知ってほしい、という切なる思いが込められています。同時に、神からも愛されているあなた方だからこそ、このことをしっかり受けとめてほしいという意味も込められています。それは、前節の「平和を保つこと」と直結していることですが、「自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい」ということです。

 まさにこの「復讐」が、平和を壊していくものです。復讐が復讐を生み、憎しみと仕返しの連鎖が続いていきます。そのため人類史上争い、戦争は無くなりません。復讐は、誰かがやめない限りずっと続いていきます。益々エスカレートしていきます。でも生まれながらの人間の肉は、やられたらやり返さないと気が済みません。「復讐してはいけません」と言われても、受けた痛みやその怒りをどう処理してよいかわからない私たちだからこそ、その解決方法を提示しています。

 すなわち「神の怒りにゆだねる」という方法です。直訳は、「神の怒りに場所を与えなさい」となっています。相手に仕返しをしたい、やっつけたい、このままでは気が済まないというその怒りの場所を、神さまに与えなさい。神にその場所を預けなさい、ということです。怒りを復讐と言う形で人に向けていくなら、また相手にも憎しみが残り、恨みの関係が永遠に続いていきます。  

 パウロは、あくまでも神に愛されている者たち、神の愛を身をもって経験し、神を信頼している者たちに、このことを命じています。神の偉大さと神のご愛を知っているのだから、自分で復讐しないで神の怒りにゆだねなさいと。  


 そして、このあと二つの旧約聖書のことばを引用しています。
 まず 「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」(申命記32:35の引用)。 この言葉は、へブル10:30でも引用されています。 「恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかがわかるでしょう。私たちは、『復讐は私のもの。わたしが報復する。』また、『主は御民をさばかれる』と言われる方を知っています。生ける神の御手の中に陥ることは恐ろしいことです」(へブル10:29b~31)と、恵みの御霊を侮ってはいけないという文脈で引用されています。  

 神が正しいさばきをしてくださるので、私たちが自らの手で復讐する必要はありません。人間がする復讐よりも、生ける神の御手に陥ることの方が遥かに恐ろしいことです。


<20節>

 これは、箴言25:21~22の引用です。敵対してくる人に対して、復讐するのではなく、むしろ食べる者を与え、飲み物を与え、恵みを与えることによって、勝利しなさいという意味です。

 「こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ」
 難しい表現ですが、ニュアンスとしては、「からだ中が熱くなるような恥ずかしい思いをさせる」という感じです。「あなたの敵を親切に扱いなさい。そうすれば彼を恥じ入らせ、悔い改めに導きます」と。復讐すれば、相手も怒ってまた力で攻撃してきますが、恵みを返すことで相手は自分のしたことを恥ずかしいと思うようになります(必ずそうとは限りませんが)。もしそれによって悔い改めるなら、大勝利です。それによってもし敵が友となるなら、関係を引き裂くサタンの悪だくみを打ち破ることになります。復讐し合って、勝った負けたと言いあっても、何のよいものも生まれません。


<21節>

 「悪に負けてはいけません。むしろ、善を持って悪に打ち勝ちなさい」 
 結論として、パウロはこのように言います。17節のように、悪に悪を返して勝とうとするのではなく、むしろ善(相手の益になること)をすることで悪に打ち勝ちなさい。やられてやり返したら負けです。それで得するのは、サタンだけです。

 キリストが、復讐をしないことの見本を私たちに見せてくださいました。キリストは、ののしられてもののしり返さず、神のさばきにお任せになりました。それによって、サタンに完全勝利し、罪に縛られていた私たちを解放してくださいました。 Ⅰペテロ2:21~25

 キリストは、ののしられても、苦しめられても、復讐したり脅したりせずに、正しくさばかれる神にお任せになりました。神の怒りにゆだねました。そして不当な裁判で十字架刑が決められましたが、それも神のご計画と受け取り、私たちの罪をその身に負って十字架で死なれました。どこまでも神にお任せして十字架の道を歩まれたことで、信じる者たちを癒し生かしてくださったのです。キリストが、ご自分を攻撃してくる人たちに復讐したり脅すことをせず、十字架の上で私たちの罪をその身に負ってくださったので、私たちの罪は癒され、たましいの牧者である神の元に帰ることができました。神と私たちの間を罪によって引き裂くサタンの悪だくみは見事に打ち砕かれたのです。悪に悪を返さず、善をもって悪魔に打ち勝ったのです。

 パウロは、9節以降「愛(アガペー)」について具体的にどのようなものかを語っています。それはどこまでも、神がキリストを通して見せてくださった生き方です。その神の愛の前に、私たちはどこまでいっても負い目のある者です。神の愛を実感するほどに、自分の愛のなさを知らされます。だからこそ、「愛(アガペー)を追い求めなさい」(Ⅰコリント14:1)と言われています。アガペーの愛は、無条件の愛、敵をも祝福する愛です。無いから、求めるのです。「どうせないから仕方ない」ではなく、神の驚くべき愛を受けているのですから求めましょう。

 聖書の言葉は、生活の現場で体験するものです。メラメラと復讐心が湧いてくるような人間関係の中で、嫌な言葉を浴びせられたり不愉快な態度を人からとられるようなその現場で、私たちはこの神の言葉の真実を体験します。みことばで生きる時に後になって、みことばに従ってよかったと必ず思えるようにされます。できない時には、御霊が助けてくださいます。これまで、悪をされたらいつも悪で返していたとしたら、善を返してみましょう。敵対してくる人に、食べさせ飲ませ、恵みの言葉を返してみましょう。御言葉に従っていく時に、主はすばらしい出来事を起こしてくださいます。キリストがしてくださったご愛を思い起こし、アガペーの愛を追い求めましょう。
 ページの先頭に戻る

 3月13日
礼拝メッセージ要約 主題:「悪に悪を返さず」

               ローマ人への手紙12章13節~17節  三浦真信牧師

 パウロは、このローマ人への手紙11章までで、福音がどのようなものであるかを語ってきました。そしてこの12章からは、具体的に福音で生きるとはどのようなことかを語っています。それは12章1節に集約されています。神のあわれみを受けた者として、自分のからだを神に喜ばれる聖なる生きたささげ物として献げる、礼拝生活をしていくことです。

 3節以降では、キリストに贖われた者たちが、キリストのからだである教会の器官とされていること、そして互いを生かすための器官として一人ひとりが尊敬すべき存在であること語っています。そのからだの器官として、どのようなことを大切にすべきかが続きます。


<13節>

 「聖徒たちの必要をともに満たし」

 「愛」は、困難と不安の中にある人たちと共に生きることでもあります。ここの「ともに満たし」は、コイノニア(交わり、共有)を意味する単語の動詞が使われています。

 ここは、「共有」に近い意味として使われています。経済的に必要がある団体や兄弟姉妹のための援助をしていくことです。伝道の働きのために献金をしたり、また特別に必要がある人たちのために互いに助け合うことをします。ただ個人の場合には、支援することが本当に良いかどうかは難しい場合もありますし、場合によってはトラブルになることもあります。そこは知恵が必要ですが、様々な形で互いの必要を満たしていくようにパウロは勧めています。

 「努めて人をもてなしなさい」

 特にパウロの時代には、交通機関も発達しておらず、旅行するときには大きな危険と不安が伴いました。そのような旅で疲れている人や、また互いの弱さを労わり合い、互いにもてなすように勧められています。


<14節>

 「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません」

 ここの「祝福する」は、「恵みの言葉をかける」で、「呪う」は「滅亡を求める」の意味です。自分を迫害してくる者たち、敵対してくる者たちに対して、呪うようにその人の滅亡を求めるのではなく、祝福して恵みの言葉をかけていくようにとの勧めです。人間の肉の性質は、迫害する者の滅亡を求めていきます。呪う気持ちが出てきます。でもそこで、祝福する方向、恵みの言葉をかけていくようにしなさいと。これは人間の生まれながらの肉の力ではできません。聖霊に満たされなければこのような愛は出てきません。正にこのような迫害の中でも、ステパノは彼に石を投げつける人々に罪を負わせないでくださいととりなし祈りました(使徒7:54~60)。ステパノは55節にあるように、「聖霊に満たされ」ていたのです。聖霊の助けなしに、自分を攻撃し迫害する者を祝福したり、その赦しを神に心から祈り求めることはできません。ですから、パウロはここで道徳的生き方について語っているのではなく、どこまでも神の愛(アガペーの愛)はこのようなものであり、迫害する者をも祝福するような愛を追い求めていきなさいと語っているのです。聖霊が働くときに、このようにさせられていくのです。みことばがこの身に成っていくのです。

 このステパノのように迫害の真っただ中でも、あるいは日常生活の中でも、聖霊は働いています。道を歩いている時に突然神への感謝が溢れてきたり、実生活の中でみことばを思い起こした時に聖霊に満たされたり、突発的なことが起きて戸惑っている時に聖霊に覆われて平安になったりすることがあります。どのような時も、御霊に満たされることを求めましょう(エペソ5:18)。御霊の満たしの中で、主がこのみことばを自然にさせてくださいます。そのことを信じましょう。迫害されたりののしられた時に、自分の力で無理矢理相手を祝福するのではなく、祝福できない自分を認めて聖霊の助けを求めましょう。このローマ書12章以降で言われていることは、すべて聖霊に満たされてさせていただくことです。道徳や人間の頑張りでしようとすれば自分自身がパンクします。私たちの心の中からは、たえず敵対してくるもの、いや敵対すらしていない人さえも呪ってしまうような肉の心があります。その事実を認めながら、でもアガペーの愛を求めましょう。呪いの気持ちが出てくるような現場で、自分の愛のなさを認めて、御霊が与えてくださる愛を追い求めましょう。


<15節>

 ここの「喜びなさい」「泣きなさい」は、とても強い命令形が使われています。教会がキリストのからだとしてキリストにあって一体とされているからこそ、兄弟姉妹の喜びや悲しみに無関心でいないようにと、命じています。今は共感力というものが社会においても求められるようになりました。ただ仕事ができればいいのではなく、人の痛みに共感できる力とか、協調性などが重視される風潮があります。でもここで言われている、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」は、共感とか同情を超えたものです。御霊に満たされていく中で与えられていくものです。見せかけの喜び、悲しみではなく、聖霊によって一つにされているゆえに喜び悲しみを共にしていくものです。人間の肉は、自分が悲しんでいたり苦しんでいる時に、そばに喜んでいる人がいると心から喜べなかったり妬んだりすることがあります。自分より辛い状況にある人を見て、どこかで自分を優位に思ったりする場合もあります。でも御霊にあって一つからだとされていく時には、兄弟姉妹の喜びがそのまま喜びとなり、悲しみがそのまま悲しみとなって祈りとなっていきます。


<16節>

 「互いに一つ心となり」

 直訳は、「互いに同じことを思う」です。機械的・画一的に同じ考えを持ちなさいということではありません。民族、性別、背景、性格、環境も違う者同士ですが、キリストによって一体とされた者として、一つ心になりなさいということです。一つ心にするものは、みことばと聖霊です。私たちの共通の価値観は、みことばを神の言葉として信じていることと、聖霊が神の思いを一人ひとりに与えてくださるという信仰です。見えるところでは一つになれなくても、神がやがて一つにしてくださるという信仰に立つことができます。無理矢理同じになろうとせず、神が一つにしてくださる時を祈って待ちましょう。

 「思い上がることなく、むしろ身分の低いたちと交わりなさい」

 「思い上がることなく」の直訳は、「高ぶった思いを持たず」です。自分はあの人とは違うなどと高い位置に自分を置かず、人を見下すことをせず、身分の低い人たちと積極的に交わりましょう。キリストにあって一つにされたのですから、どのような人とも同じ目線に立つように心がけましょう。キリストが、全く違う私たちを十字架の死によって買い取ってくださり、神の者としてくださいました。キリストが私たちを一つからだとしてくださいました。ですからどのような人とも同じ立場で交わることができます。

 「自分を知恵ある者と考えてはいけません」

 神から離れてしまった人間は、自らを知恵ある者とする誤りに陥りやすいのです(ローマ1:21~23)。自分は正しい、自分の知恵は間違っていないと、頑なに自分の知恵に立つ時に、人は神の知恵から離れて愚かになります。

 「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい」

 人から悪を行われたら、悪を返してしまうのが生まれながらの人間の肉の性質です。嫌なことをされたら、その何倍にもして返さないと腹の虫が収まらない傾向があります。しかしパウロは、された悪に対して報復をしないように、むしろすべての人が良いと思うことを行うように心がけなさいと言います。この最後の部分は、直訳すると「すべての人の前で善を配りなさい」です。人の判断する善というよりは、神のみこころに沿った善です。放っておけば、悪をされたら同じ悪かそれ以上を本能的に返してしまいがちですが、そこで一呼吸おいて、「この悪に対して、イエス様だったらどうされるだろう、イエス様はどうすることを喜ばれるだろう」と考えてみましょう。皆が常にそのように生きられれば、喧嘩も戦争も起きないのでしょう。しかし人は、された悪に対しては、悪で返すことに寛容です。

 マタイ5:38~48「目には目を…」という当時の一般常識に対して、イエス様は「そうではない」とおっしゃいました。天の父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、恵みの雨を降らせてくださいます。ですから、誰に対しても「悪に悪を返さず、神が喜ばれる態度でいきなさい」と。ある時には全く不当な嫌がらせや攻撃を受けることもあります。今のウクライナの人たちも同じような思いでしょう。悪を返さないからといって、そのまま悪を受け続けなさいということではありません。自分の身を守ることも大切です。声に出して助けを求める場合もあるでしょう。

 あるドラマで、主人公が言った言葉がネットで話題になっています。「いじめを受けた人は、いじめられた自分が悪いんだと思いがちだけど、海外ではいじめる人が病んでいるのであって、カウンセリングが必要なんだ」と。その言葉で、いじめやパワハラを受けた経験のある人が救われたとのコメントが多数あります。軽い気持ちで始まったいじめだとしても、いじめる側が段々心が壊れてきて人格障害になって病んでしまうということが精神医学的にも言われているようです。攻撃的に向かって悪を行ってくる人がいれば、受ける側は嫌だし腹が立つでしょうが、それを決して他人事とすることはできません。

 罪の闇がこの世界を覆っているのですから、私たちもその闇と無関係ではないのです。今のプーチン大統領を擁護するつもりは決してありませんが、彼がこれまで歩んできた、あるいは今置かれている環境にあれば、誰もが同じようなことを考えたり行動してしまう可能性はあります。同じ爆弾を私たちは心に抱えています。この世界が罪で覆われている限りは、このようなことが繰り返されていきます。神が「すべてを新しくする」と言われるその時が来るまでは、この闇の状況は続きます(ヨハネ黙示録21:1~5)。

 悪を見る時に、なお罪に覆われたこの世界を思い、罪が完全に贖われる時を待ち望み祈りましょう。報復する方向ではなく、神のみこころを求めて祈り、その中で自分にできることをしていきましょう。「悪に悪を返す」のは、生まれながらの人間の肉の方向です。それを生かしていくなら、争いが続いていきます。みことばで生きることができるように、聖霊の助けを今週も求めましょう。
 ページの先頭に戻る

 3月6日
礼拝メッセージ要約 主題:「互いに尊敬し合う交わり」

               ローマ人への手紙12章9節~12節  三浦真信牧師

 12章から、キリストの福音を受け取った者たちが、具体的に福音によってどのように生きるかが記されています。その土台となっているのは、12:1「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」です。キリストの十字架の死により、私たちの罪は取り除かれ、キリストを信じる者たちは神のものとなりました。キリストの死という尊い代価が支払われて、私たちは神に贖われ、買い取られた者です。そのことが本当にわかったら、神に喜ばれる生き方をしたい、神にこの存在をささげて生きたいと願うのは自然なことです。そういう意味では、クリスチャンはみな献身者です。

 礼拝は、日曜礼拝の時間だけのことではありません。キリストに贖われた者たちにとっては、すべての生活時間が礼拝です。イエス様の愛を知っている人、イエス様が好きな人にとっては、それは決して煩わしいことではなく、むしろ嬉しいことです。礼拝は喜びです。義務でも嫌々するものでもありません。日々自分のからだを神にささげるとはどういう生き方かを、パウロは具体的にこの12章以降で示しています。

 3~8節では、キリストの救いを受けた者たちは、キリストのからだである教会の器官とされていることが記されています。神の恵みによって、一人ひとりに賜物が与えられていて、それは自分のためではなく互いのために与えられています。互いのために、キリストのからだのために用いていく時に、また自分自身もお互いも生かされ、からだは成長していきます。ですから、それぞれに与えられているものを、互いのために、信仰によって、惜しまずに、熱心に、喜んで用いていくようにパウロは勧めています。そのキリストのからだにおける大切なことを、パウロは続けて語ります。


<9節>

 「愛には偽りがあってはなりません」
 ここの「愛」は、アガペーの愛です。日本語の「愛」は、ギリシャ語ではいくつも言葉があります。「フィレオー」(親しい者同士の愛)、「エロス」(情愛)など、使い分けています。神の愛は、必ず「アガペー」です。これは無条件の愛です。相手の何にもよらず、状態にもよらず、その人がその人だから愛する、存在を愛するという愛です。この9節も、アガペーの愛です。アガペーの愛には、偽りがあってはなりません。というより、偽りはありません。神の愛には偽りがありません。生まれながらの人間の中には、このようなアガペーの愛はありません。相手の出方次第で、好きになったり嫌いになったりします。いつも条件付きです。しかしアガペーの愛は、そうではありません。相手が自分を無視したり、ひどい仕打ちをしても愛する愛です。事実イエス様は、自分をあざけり唾をかけ、十字架につけて殺そうとしている人たちのために、罪の赦しを願ってとりなし祈りました(ルカ23:33~35)。これが神の愛です。私たちの生まれながらの肉の性質からは出てこない愛です。でも、神はこの愛を追い求めなさいと言っています(Ⅰコリント14:1)。この追い求めるべき愛も、アガペーです。無条件に相手を愛するなんてできるはずがないと思うかもしれません。でも神は「あなたも、キリストの無条件の愛で赦されたのだから、互いに赦し合いなさい」とおっしゃいます(エペソ4:32)。事実、ステパノは、自分に石を投げつけてくる人々のために、「この罪を彼らに負わせないでください」と祈って死んでいきました(使徒7:54~60)。自分の中にはアガペーの愛がないことを認めて、神に求めましょう。無いことを認めないと、求めもしません。様々な人間関係を通して、私たちは自分の愛のなさを思い知らされます。それでいいのです。難しい人間関係や、自分の苦手な人、嫌いな人は、自分の愛のなさを教えてくれる教師でもあります。でもそこで終わってはいけません。そこで主に「私にも、アガペーの愛をください」と求めるようにパウロは命じています。そのたびに、主が私にどのように接してくださったかを思い起こす恵みの時となります。生涯その繰り返しです。愛のなさを知れば知るほど、そこで愛を主に求めるなら、結果的にその人は愛の人となっていきます。それでもどこまでも不完全です。神の愛は完全ですが、人の愛は地上では不完全です。それでも求めましょう。神の愛を知っているなら、受けたのなら、アガペーの愛を追い求めましょう。  


 さて、「愛」とは、このようなものですから、当然「偽りがあってはなりません」。 「偽り」の原語は、アニュポクリトスです。「演技やお芝居であってはならない」「外と内が異なって2重であってはいけない」という意味です。形だけの愛であったり、自分の利益を求めるための見せかけではなく、純粋な愛を求めましょう。


 また神の愛がそうであるように、「悪を憎み、善から離れないようにしましょう」。神は聖なる完全義なる方、正しい方です。キリストと共に生きていれば、キリストが憎まれることは段々嫌いになっていきます。「善から離れないようにしなさい」とは、「善にぴったりとくっつくように親しみ、困難に屈しないで最後までやり通しなさい」という意味があります。「神は愛だから、何でもありなんだ」ということではなく、真実の愛は、悪に対しては毅然とした態度をとります。これは人に要求するものではなく、自分自身が求めていく生き方です。

 でもこれすらも、私たちは不完全です。悪を憎んでも、気が付いたら悪を引き寄せてしまう肉の性質が根強くあります。その事実を認めつつも、なお善にくっついて親しむ方向を求めましょう。


<10節>

 「兄弟愛をもって互いに愛し合い」

 「兄弟愛」の原語は、フィラデルフィアです。ヨハネの黙示録に出てくるアジアの7つの教会の一つと同じです。もともと肉親の愛情を表す言葉です。その家族愛と同じ愛を、クリスチャン相互の愛とするようにと勧められています。実際、教会でも互いのことを「兄弟姉妹」と呼びます。呼びかけだけでなく、真にそのような思いで愛し合うように、交わりを持つようにと言われています。そのような交わりを求めましょう。常にそうなっていない現実はありますが、それでも求めましょう。そのために大切なこととして、 「互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい」と言われています。

 これを直訳すると「尊敬においては互いに先立ちなさい」「競い合って尊敬しなさい」(注釈)です。「どちらが相手を尊敬しているか、尊敬することにおいて競争しなさい」というニュアンスです。「マウントをとる」(相手より自分が優位なことを自慢しようとして威圧的な態度をとる)こととは全く反対の行動です。  

 おべっかを使ったり悪い意図をもって持ち上げるような態度ではなく、純粋に相手の存在を尊敬していきましょう。尊敬しやすい人を尊敬するならまだいいのですが、尊敬しにくい人を尊敬するのは大変でしょう。神さまがその人のことを大切な存在としておられること、またどのような人であっても、その人の存在を神は用いておられることを受け取ることが必要です。

 身近な家族などいつも一緒にいる人の場合は、どうしても互いの粗(あら)が見えてしまいますから、気が付くと尊敬するより非難したり責めがちです。でも神さまが私の罪を洗いきよめてくださり、尊んでくださっていることを受け取るなら、一人ひとりの存在を認め、良いところを尊敬していくという気持ちが生まれていきます。「競い合って互いに尊敬する」を実践してみてください。聖霊の助けが必要です。


<11節>

 「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」

 「勤勉で怠らず」の直訳は、「熱心をもってなまけることなく」です。ここは勉強をしっかりするようにという意味より、「愛の働きに対して、また主に仕えることにおいて、怠惰になることなく、熱心をもってするように」との意味です。

 その熱心は、その後にあるように「霊に燃えて」の熱心です。聖霊によって燃やされた熱心です。「気合を入れて頑張るぞ」ではなく、常に聖霊に燃やされ、聖霊の力をいただきながらの熱心です。人間の熱心では、すぐに冷めます。上手くいかないことが起きたり、人から何か言われたら、もうやる気を失います。でも聖霊に燃やされてすることは、困難が起きても、妨げが入っても、燃やされていきます。そうでなければ、迫害の中でリバイバルが起きるということはなかったでしょう。


<12節>

 「望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい」

 この「望み」とは、やがて神の栄光にあずかる希望です。 ローマ5:2「キリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」キリストを信じる信仰によって、私たちはキリストの一方的な恵みによって、罪から救われました。そして今もその恵みを日々体験しますが、やがて新天新地において復活のからだが与えられるという希望が与えられています。

 この新天新地(ヨハネ黙示録21章以降)がゴールです。ここが栄光の望みです。そこに至る終末の預言は多々ありますが、そこは通過点にすぎません。 ピリピ3:21「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」。この栄光の望みをしっかり抱いて喜びましょう。この希望が、「苦難に耐える」力を与えます。そして苦難の中でも、「ひたすら祈りなさい」とあります。祈りこそ、クリスチャンに与えられている特権です。いつでもどこにいても、私たちは生きておられる神に祈ることができます。苦難の時にも、祈ることでまた神の恵みを思い起こし、栄光の望みが与えられていることを思い、喜びが湧きあがります。苦難の中で、栄光の望みを抱きましょう。そしてひたすら祈りましょう。

 祈り続けることは、私たちの霊の目を覚ましていることになるのです。 コロサイ4:2「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい」「キリストがいつ来られても良いように、目を覚ましていなさい」と繰り返し命じられています。平穏無事だと、日常生活に埋没してしまい、霊の目が眠ってしまいます。主のことばにも鈍感になってしまいます。今が終わりの時代であることを忘れてしまいます。だから神は苦難を通して、また社会の様々な痛みを通して、私たちの眠った魂に揺さぶりをかけられます。霊の目が眠りこけてしまわないように、ひたすら祈り続けましょう。
 ページの先頭に戻る