(2022年2月)

 ・ 2月27日
 ・ 2月20日
 ・ 2月13日
 ・ 2月 6日

 2月27日
礼拝メッセージ要約 主題:「簡単には切れない三つよりの糸」

               伝道者の書4章7節~12節   三浦真信牧師

<7~8節>

 ひたすら富だけを求めて生きた人の空しさを伝道者は語っています。富に心を奪われた者が、いかに孤独になっていくかを描いています。富をはじめとして、成功志向を常に追い求める生き方です。富を得た者、事業で成功した者、エリートコースを生きた者を勝ち組と呼んでしまう価値観があります。しかしそれでいえば勝ち組人生を歩んできたこの伝道者が、それで本当に良かったかと言えばそうではないことが「空しい、空しい」を繰り返していることからもわかります。富を追い求め、成功を追い求めても、終わりがありません。まだ足りない、まだ足りないという不足感があります。人間の欲望には切りがありません。

 富だけを求め、「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない」、そういう人が著者である伝道者の身近にいたのでしょう。側(はた)から見れば、「一体誰のためにあれほど労苦し、楽しみもなく、自分を犠牲にしているのか」と言われるけど、本人はそんなことも言いません。それも何とも空しく辛い営みです。


 イエス様は、自分のために富を蓄える生き方がどのようなことかを指摘しておられます。ルカ福音書12:15~22。「人のいのちは財産、地上の富にあるのではない」(12:15)のです。保管する場所がないほどの穀物があっても、一生使い切れないほどの財産があったとしても、「今夜あなたの魂が取り去られるとしたら(つまり今夜死ぬとしたら)、それらはどうするのか、あなた自身はどうなるのか」と問いかけます。

 むしろいつ魂が取り去られてもあわてずにすむように、「神に対して富む生き方をするように」(12:21)との勧めです。働かなくてよいということではありません。富に心とらわれて、地上の富だけを、地上の成功だけを求めて生きるなら、取り返しのつかないことになるという警告です。神の守りを信じ、その中でなすべきことをしていくなら、神が生きるのに必要なものは与えてくださいます。むしろ「神の国と神の義を第一に求めなさい。神ご自身を求めて生きなさい。永遠に続く神の国の生き方を求めなさい」と。


 パウロも、富や成功を誇る生き方ではなく、私たちの罪の贖いとなってくださったキリストの十字架を誇りとして生きるようにと語っています。「割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました」(ガラテヤ6:13~14)。

 私たちの罪の性質は、肉を誇りたい、自分に付随する見える肉を誇りたいものです。でも、それは富と地上の成功を追い求める生き方です。そこから解放されて、神ご自身を求め、また神が喜ばれる道を求めましょう。私たちを救うために十字架で死なれ、三日目によみがえられたキリストご自身を、この方をこそ誇りとしましょう。

 また地上の富や成功のための労苦は、地上限りのものですが、主にある労苦は永遠に続き決して無駄にはなりません。

 「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)。主のための労苦は、永遠につながるものです。だから「いつも主のわざに励みなさい」とパウロは勧めています。地上の労苦は、目に見える成果がないと報われないように感じますが、神のための労苦は永遠に続きます。死んだ後も、その労苦の実が成ります。今すぐ労苦の報いを受けなくても、やがて自分が死んでからでも、報いがあります。生きている間に結果を見られなくても、決して主にある労苦は無駄ではないと約束されています。しかも主のわざは、永遠に至る救いをもたらします。ですから、安心して主のわざに励みましょう。


<9節>

 よく結婚式でも読まれるところですが、必ずしも夫婦のことだけを言っているわけではありません。前節で、富を求めて仲間もなく一人で労苦するなら空しいことだけど、二人で労苦するなら、良い報いがあります。その労苦を共に分かち合いながら、達成する喜びがあります。目に見える成果が見られなくても、共に労苦を分かち合いながら歩むことができます。「あなたがたの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます」(マタイ18:19)。主にある二人三人が、心を一つにして祈りながら主のために労していく時に、主はすばらしいことをしてくださいます。そしてその喜びも労苦も共に分かち合うことができます。


<10節>

 一緒に何かをやり遂げようとする時に、一人が倒れそうになっても、また一人の仲間が起こすことができます。このように、一人では倒れてしまうしかない時に、二人三人いれば、他の者が支え起こすことができます。教会の交わりも同じです。人生の中で、誰かが倒れそうになっている時、落ち込んでいる時に、また他のものが励ましたり共に祈りながら支え合うことができます。支え起こした人が、今度は倒れそうになる時に、また誰かが支え起こしていくことができます。このようなことは、一人ではできません。

 倒れた時に起こしてくれる人がいる、一緒に神を見上げるように祈り励ましてくれる人がいることは、大きな信仰の助けとなります。


<11節>

 日中は熱く、夜は急に冷え込むパレスチナにおいて、よく人々が旅で実感することを伝道者は例に挙げています。一人で旅をしている時より、二人三人で旅をしている時の方が、夜テントなどで寝る時も、暖かく寝られます。  

 コロナ禍で、礼拝堂に人が少ない時と、また礼拝堂に人が戻ってきたときとでは、暖房の設定温度が同じでも、暖かさが違うように感じます。人がいることで、実際に温度も上がりますし、また心も温かくなります。


<12節>

 旅の途中に強盗に襲われることも、この当時はよくありました。一人旅では打ち負かされても、二人いるなら協力して敵に立ち向かうことができます。

 キリストを信じる者たちにとっての唯一の敵は、神のみこころから引き離そうとするサタン(悪魔)だけです。悪魔の誘惑や攻撃に立ち向かうのも、一人では太刀打ちできません。でも二人で心合わせて祈りサタンに立ち向かうなら大丈夫です。二人で心ひとつにして祈る時に、キリストもそこにいてくださいます。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:20)。二人三人が心ひとつにして祈るところに、キリストがおられます。二人は一人にまさり、三人は二人に勝ります。三つよりの糸のように簡単には切れません。そこにキリストがいてくださるなら、百人力です。一人ではできることが限られていても、二人三人が協力し、そして心ひとつにして祈るなら、すごいことが起きます。正に福音宣教は、そのようにして世界中に広がっています。


 地上の富や成功という一時的なことをひたすら求めて、孤独に生きるのならそれは空しいことだと伝道者は語ります。キリストを求めて、二人三人で生きる時に、私たちは決して徒労に終わらない主のわざに参与することができます。

 今は、ネットですぐに情報が入り、あらゆるものがネットで購入できます。普段は人と関わらなくても、ほとんど済んでしまいます。でも有事の時に(病気やけがで動けなくなったり、災害の時など)、人とのつながりがあるかないかは大きな違いが出てきます。それは教会でも同じで、日ごろ交わりがあるかないかで、何か起きた時の連絡や支え合いに影響があります。そういう意味では、このコロナ禍においてもできる形で連絡を取り合ったり、教会や兄弟姉妹の状況を互いに知っていく必要があります。


 一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえます。三つよりの糸は簡単には切れません。「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞をも打ち倒す力があるものです」(Ⅱコリント10:4)。私たちには、「祈り」という武器があります。目に見える一時的な肉の武器ではありません。永遠に無くならない、霊的武器です。祈りは、神のために要塞をも打ち倒す力ある武器です。二人三人でも心ひとつにして祈る時に、計り知れない神の力が働きます。悪魔の働きをも打ち破る、キリストがおられる交わり、礼拝を大切にしましょう。  
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 2月20日
礼拝メッセージ要約 主題:「多くの器官がある一つのからだ」

               ローマ人への手紙4節~8節   三浦真信牧師

 キリストを信じて神の一方的な救いの恵みに与った者たちは、キリストのからだである教会を通して成長していきます。キリストを神の子、救い主として崇める教会は、公同の教会として一つですが、一人ひとりがそこで信仰を学び、互いに交わり、賜物を生かしあって仕えていくようにと、一つひとつの地域教会が置かれています。

 「なぜ私は今この久遠キリスト教会にいるのだろうか」と考えたことがあるでしょうか?教会に来たきっかけは様々でしょう。でもどこかで、「ここが神の導いてくださった教会であり、ここで神に仕えていくのだ」ということを、はっきり主から受け取る必要があります。

 教会は、キリストがおられ、キリストの恵みを受けた者たちの集まりですが、それでも一人ひとり地上にある限りは肉の弱さを持ち不完全です。教会がとても生き生きとしている時もあれば、様々な痛みを経験して沈んでいる時もあります。様々な問題が起きて、バラバラになってしまったり、一つの教会を閉鎖することもあります。人間のからだと同じで、決して良い状態の時だけではありません。「神がここで信仰を学び礼拝していくように導かれた」と受け取っていなければ、問題が生じた時にその教会にいることができなくなってしまうかもしれません。問題が起きるたびに教会を転々としていては、キリストのからだとしての真の恵みをいつまでも体験することができません。逆に、主が導かれた教会だとはっきり受け取っていたら、たとえ問題が起きた時でも、それを自分のからだの痛みとして祈り、その解決のためにできることをしようと思えます。


<4~5節>

 教会について、みことばを通して正しく認識する必要があります。パウロは、教会を「からだ」という、命のあるもの、そして有機的なものととらえています。

 「一つのからだには多くの器官があります」「器官(メレー)」です。「メレー」は、英語の「メンバー」と同じ意味です。人間のからだと同じように、キリストのからだである教会にも多くの器官があります。そして人間のからだの各器官がみな同じ働きをしていないように、教会にも様々な働きをする器官があります。


 「大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです」。みなそれぞれ役割は違いますが、キリストにあって一つのからだです。それが教会です。みなが同じ役割を果たすのではなく働きは違います。人間のからだがそうであるように、役割が違っても一つのからだです。教会は、「キリストにあって」「キリストをかしらとして」「キリストを司令塔として」一つです。

 「たとえ足が『私は手ではないから、からだに属さない』と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。たとえ耳が『私は目ではないから、からだに属さない』と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません」(Ⅰコリント12:15~16)とあります。一人ひとりはキリストのからだの器官であると聖書で言われているのですから、教会というキリストのからだにみな属しているのです。

 「一人ひとりは互いに器官なのです」。

 直訳は、「しかも、互いにそれぞれのための器官」です。互いに、他の人のために存在しています。一人の存在は、他の誰かのためにもあるのです。ですから、互いにかけがえのない存在です。

 「目が手に向かって『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです」(Ⅰコリント12:21~22)。どの器官も、からだにとって必要で大切な器官です。「いらない」存在はありません。

 中国の兪曲園(ゆきょくえん)という学者がいました。彼の著作に「顔面問答」という話があります。顔の中で口が一番下であることに不満を抱き、鼻、目、眉毛に問答するという内容です。それぞれと話して、それぞれの役割があり、それぞれの役割に応じて位置があることを互いに納得していきます。そして最後に、口は、鼻と目と連れ立って、眉毛に談判します。

 「僕らは、飲食とか呼吸とか監視とか、それぞれ重要な任務を負っている。いったい君はいかなる任務を負って顔の最高位を占めているのか理由を承りたい」と。これを聞いて、眉毛はその姿をひそめるでもなく、答えたものである。「いかにも、君たちの労苦には大いに感謝している。ただ、僕自身は何をしておるかということになると、お恥ずかしいことだが、一向に判らん。君らは自己の職務について他に対して誇れるべきものをもっておられるが、僕にはそれがない。ただ、こうせいと言われるままに、こうしているばかりである」と。

 兪曲園は、この問答の後、「自分は今まで口とか鼻とか目のような心がけで過ごしてきたが、今後は、眉毛のような心がけをもって世の中を渡っていきたい」と結んでいます。

 眉毛は気が付いたらここにいた。動くにも動けず、ここにこうしているのです。眉毛は、自分では何のために存在しているかわからなくても、そこに置かれているから、そこにいるのです。自分ではわからなくても、神は目的をもってすべてを造っておられます。実際眉毛が顔の上にあることで、汗をかいた時に目に汗が入らないで済みます。眉毛が目の上に存在する意味があります。明確な言葉で、「こういう働きです、このような役割です」と言えるものがなくても、そこに存在していること自体が神さまのご計画によります。「こんなに役に立っているぞ」と口や目や鼻のように取り立てて言わなくても、神が配置してくださった所にいればいいのです。キリストのからだの中にも、いらない器官はありません。神は適材適所に一人ひとりを必要な場所に置いてくださっています。


<6~8節>

 からだの器官の役割が違うように、一人ひとりの賜物が異なっているので、教会におけるそれぞれの役割も異なります。その賜物も、「与えられた恵みによって」とありますように、神から与えられたものです。キリストのからだにおいて用いるために、「皆の益となるために」(Ⅰコリント12:7)、恵みによって神から与えられました。眉毛のような、他の器官のようにわかりやすい役割ではないかもしれないけど、それでも神の恵みによって、神がその人の存在を用いておられます。

 「預言」とは、将来起こることを当てるというよりは、ここでは神の言葉を語ることを指しています。このローマ人への手紙が書かれた頃は、まだ私たちが今読んでいるような新約聖書はありません。ですから、パウロのような人が、神からの啓示を受けて語りました。それでも、使徒たちは旧約聖書の言葉を引用しながら語っています。ですから、「預言の賜物」が重視されています。今の時代、預言する人がいても、聖書から外れたことを語っていたら、それは偽預言者になります。

  「その信仰に応じて預言し」

 ここの「信仰」は、クリスチャンが皆もっている信仰のことではなく、神の言葉を理解し人に伝える霊的な能力を指しています。そのような霊的に神の言葉を伝える賜物が与えられている人は、その賜物を用いて預言するようにという勧めです。


 「奉仕であれば奉仕し」

 「奉仕」の原語は、ディアコニアです。「執事」のことを、ディアコノスと言います。執事は、伝道者を支えて教会のいろいろな働きを助けていく人です。ここの「奉仕」は、教会の管理運営に関わる様々な働きをする働きです。初代教会でも、最初に7人の執事が立てられています(使徒6:1~7)。その発端は、ギリシャ語を使うユダヤ人たちからヘブル語を使うユダヤ人たちに対してやもめたちの配給のことで苦情が出たことからでした。使徒たちが、このような日常で起きてくる細々とした問題に一つひとつ当たっていると、使徒が本来しなければいけない「祈りとみことばの奉仕」(6:4)が十分できなくなってしまいます。事実そのような苦情処理にあたっていて、「神のことばが後回しに」なっていました(6:2)。そこで、十二使徒たちは、教会の兄弟姉妹を呼び集めて、「あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを7人選びなさい。その人たちにこの務め(配給のことや苦情処理)を任せることにして、私たちは祈りとみことばの奉仕に専念します」(6:3)と伝え、信仰と聖霊に満ちた7人の人たちが選ばれました。彼らは、教会の管理運営も行いつつ、ステパノのように伝道の働きもしていきました(6:8)。この7人がしっかり立てられたことで、使徒たちは祈りとみことばに専念できるようになりました。そしてその結果どうなったかというと、「神のことばはますます広まっていき、キリストの弟子の数が非常に増えていきました」(6:7)。このように、教会の運営や管理が整えられることで、使徒たちが祈りとみことばの奉仕に専念できるようになり、その結果福音がさらに広がっていったのです。ですから、このような奉仕(ディアコニア)の働きも福音宣教のためにとても大切です。


 「勧めをする人」

 信仰の弱い人や、気力を失っている人を励ます人です。問題を抱えている人に寄り添い、共に祈ったりみ言葉で励ます賜物です。これは交わりの中で、お互いに皆がすることですが、特にそのことに重荷を神から与えられている人のことです。そのような人たちが教会に与えられていることで、愛の交わりが保たれていきます。


 「分け与える人」

 福音宣教のために、また生活に困っている兄弟姉妹のために、経済的に援助協力する人。「惜しまずに(ハプロテーティ)」と言う言葉は、「真実に、単純に」という意味の言葉です。見返りを求めたりせず、ただ真実に支援したいという思いです。ただ分け与えることを喜びとしてささげていくこと。「これだけささげたのだから相手もお礼すべき」とか、「神も見返りを私に与えるべき」とは思わないで、与えることだけを嬉しく感謝していくようにとの勧めです。

 この後の「慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい」も同じです。自分に与えられているものは、すべて神から与えられたもの。神の恵みとして、必要なことのためには喜んでささげましょう。この「喜んでささげる」ことが大事です。あとになって「もったいないことをした」「もう少し減らしておけばよかった」と後悔しないで、喜んですっきりさっぱりささげましょう。「ささげる時には喜んでささげる」、本来ささげ物は、そのようなものです。ささげること自体が喜びです。


 「指導する人は熱心に指導し」

 霊的指導、また現実的な指導をする人。初代教会では、長老・役員などの役割でした。


 働き全体をここで網羅してはいません。要は「教会の働きは様々にあるけど、どのような働きであっても、信仰によって、惜しむことなく(純粋な心で)、熱心に、喜んでするように」という神に仕える時の基本的な態度についての勧めです。

 「キリストがおられるところにいること」、それがキリストに仕えることです(ヨハネ12:26)。キリストについていけばいい、キリストと共にいればいいのです。その時に、眉毛のように、知らないうちに必要な役割を果たさせてくださいます。ですから、あまり賜物に着目しすぎて、さきほどの口のように、「俺たちはこんな役を担っているんだ」と自己主張していくと、またおかしな方向に行ってしまいます。眉毛のように、置かれたところに感謝していればいい。キリストがいるところに身を置いていれば、自然に知らないうちに、神に仕え人に仕えている、それが奉仕です。だから、「こんなに自分はやっている」なんて思わないのです。

 「右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」(マタイ6:3)。

 「自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:10)とイエス様がおっしゃっています。主が今しなさいと言われたことを、足りなさを感じながらもさせていただくだけです。取り立てて大騒ぎすることではありません。


 みなキリストと一緒にいるのですから、それぞれ違った働きをしていても、一つキリストのからだです。決してバラバラではありません。キリストのからだの出来事です。キリストが置かれたところで、淡々と今できることをしていく時に、主に仕える喜びを経験させてくださいます。キリストがおられるところにいればいいのです。それが主に仕えることです。キリストが一人ひとりを一つにして、ご自身のからだを成長させてくださいます。働きも、置かれるところも違っていても、キリストのからだは一つです。皆でなかなか集まりにくいコロナ禍においても、このことを忘れないようにしましょう。  
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 2月13日
礼拝メッセージ要約 主題:「神から預かったものに忠実であること」

               ローマ人への手紙12章3節  三浦真信牧師

 この12章以降、パウロはキリストの福音を知った者たちが、具体的に福音で生きるように勧めています。その福音で生きることを学び、実践するために、神は地上に教会を与えてくださいました。神に呼び出された者たちの集まり(エクレシア)が教会です。教会という時に、地域教会と普遍的教会があります。地域教会は、地域に置かれた一つひとつの教会です。普遍的教会とは、全世界、全時代を通して一つである公同の教会です。キリストを神の子と信じ、聖書を神の言葉として信じるすべての教会です。

 「時が満ちると、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって一つに集められる」、これが神のみこころの奥義だとエペソ1:9~11でパウロは語っています。キリストにあって、この御国を私たちは受け継ぐ者となりました。普段は各地域教会で福音を伝え、互いに助け合い成長していきますが、いざという時には公同の教会として互いに助け合うこともします。いずれは神の国において一つに集められる共同体です。


<3節>

 「自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います」。 パウロに与えられた恵みとは、使徒という働きのことです。パウロは、使徒として異邦人伝道のために仕えました。でもそれは、どこまでも神の恵みによるものでした。「私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが」(第一コリント15:9~10)とあります。パウロは、かつて神の教会を迫害していました。多くのクリスチャンに暴力を振るったり、投獄したり、教会を破壊してきました。そのような自分に、復活のキリストから近づいてくださり、恵みの救いを与えてくださり、そればかりか今度はキリストを宣べ伝える使徒として召してくださいました。これは神の恵み以外の何ものでもありません。パウロは使徒として大きな働きをしましたが、それすらもいよいよ神のあわれみでしかないことを実感していました。すべて神の恵みです。

 ですからこの3節も、本来でしたら「使徒である立場から言わせていただきます」と言うところですが、パウロとしては、使徒としての役割は「神から自分に与えられた恵み」であったので、どこまでも「神の恵みを受けた使徒パウロとして」と、神の恵みなしには何ものでもない自分であることを弁(わきま)えながら、一人ひとりに語りかけます。


 「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい」

 パウロはこのあと、教会がキリストのからだであり、からだには様々な器官があるように、教会の中にも様々な器官があり、役割があると語っています(4~5節)。キリストのからだにおいて、「思うべき限度を超えて思い上がってはいけない」と語っています。

 このことを理解するのに、イエス様が語られたタラントのたとえが分かりやすいので、そちら(マタイ25:14~30)も読んでみましょう。

 5タラント、2タラント、1タラントのお金を主人から預かったしもべがいます。5タラントと2タラント預かったしもべたちは、預かったお金を忠実に用いて、それぞれほかに5タラント、2タラントをもうけました。21節、23節で主人は同じように、二人が預かったものを忠実に用いたことをほめています。そして信頼してさらに多くのものを任せました。1タラント預かったしもべは、主人のことを厳しい怖い人と思っていて、預かった1タラントを減らしたら叱られると思い、その1タラントを何にも使わず地に隠しておきました。主人はそれを聞いて、それなら銀行に預けておけば少しは利息がついて返ってきてよかったと言って、その1タラントを取り上げ、5タラントを10タラントにしたしもべに与えました。

 神はこのように、神の民一人ひとりに、タラントを預けておられます。それが5タラントであろうと1タラントであろうと関係なく、与えられたものを忠実に用いることを喜ばれます。それを、「どうせ自分は1タラントしか預かっていないから」と言って地に隠そうとするなら、その1タラントすらも取り上げられてしまいます。タラントの量は関係ありません。与えられたものを、主のために忠実に用いることが求められています。人に与えられているものを見て妬(ねた)んだり、僻(ひが)んだりして、結局自分に与えられたものを用いないなら、与えられているものまで取り上げられてしまいます。実際5タラント、2タラントというのも人の側で判断しているもので、神からご覧になれば、どの賜物が尊くて、どの賜物は価値が低いということはありません。自分に与えられたことに忠実であるなら、神はまたその人に他のことも任せてくださいます。結果的に忠実な人は多くを任されていきます。多く与えられたとしたら、その分多くを要求されます。「多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます」(ルカ12:48b)。


 「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません」と、神から自分に託されていることにどこまでも忠実であることをパウロは一人ひとりに求めています。自分は1タラント与えられているのに、それでは嫌だと言って、2タラント、3タラントだと思っていこうとするなら、それは限度を超えたことになります。逆に5タラント与えられているのに、自己卑下して、自分にはそれほど与えられていないからと言って用いないでいるなら、それはタラントを地に隠したしもべのようになってしまいます。

 パウロは、次節でも言われているように、キリストのからだである教会における基本的な態度を述べています。神さまは、一人ひとりが教会(神の国)において忠実に用いるために、それぞれに何かしら賜物を与えています。賜物というと特別な能力をイメージしやすいですが、そうではありません。その人だからこそ喜んで仕えることができる働きがあります。他の人は気が付かないけど、自分は気が付いている穴や破れ口があります。「こういうことだったら自分にもできる」ということが、実は神の国において、教会において、とても大切な働きなのです。地上で生かされている限り、神の国のためにできることが一人ひとりにあります。ぜひそれが何であるのかを主に問いかけてください。そして受け取ったことに忠実でありましょう。他の人に与えられているものは他の人に任せて、自分に与えられているものに忠実でありましょう。


 「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい」

 ここの「慎み深く考えなさい」という言葉は、「ソーフロネオー」で、「健全な思い、正しい思い、明るい思い」等の意味があります。自分や人の賜物に対して、信仰によって健全な見方をするように勧められています。肉に立って、人を見て妬(ねた)んだり劣等感に陥るのでなく、信仰に立って、神が自分にまた兄弟姉妹に与えておられる賜物が、健全に神の国の前進のために用いられるように考えましょう。賜物は自分のために用いるのではなく、「皆の益となるために」与えられています(Ⅰコリント12:7)。他の人の賜物が用いられる時に、全体の益となり、結果的に私にとっても益となっていきます。

 神の国が成長し、神の栄光が崇められるために、賜物が一人ひとりに与えられています。それは神の恵みによって与えられているものですから、その賜物を誇ることも卑下することも違います。


<まとめ>

 ① 神は一人ひとりに恵みによって賜物を与えておられます。どこまでも恵みによってです。まず神の国のために、キリストのからだである教会のために、自分は何をするように託されているのかを主から受け取りましょう。

 ② 自分に与えられていることに忠実でありましょう。自分の賜物、他の人の賜物を、肉によってではなく信仰によって、慎み深く健全な見方で考えられるように、聖霊の助けを求めましょう。

 ③ 自己卑下することなく、与えられているものは、皆の益となるために、また神の国の建設のために、大胆に用いていきましょう。互いの賜物を、互いのために生かし合うことができますように。  
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 2月6日
礼拝メッセージ要約 主題:「心を新たにして変えられる」

               ローマ人への手紙12章1節~2節  三浦真信牧師

 パウロは、このローマ人への手紙の3分の2を費やして、キリストが人類にもたらした福音(Good News)について伝えています。この世界の苦しみの根源となっている、神(造り主)に対する罪がどのようなものであるか、それを抱えたままでいることがいかに悲惨なことであるか、そしてそこから救うために、神の子イエス・キリストが遣わされたことを伝えています。またその救いの計画が、何千年も前から、世界が造られる前から、すでに進められていたことも旧約聖書の言葉を度々引用してパウロは語ってきました。


 最初の人アダムが、造り主なる神の言葉に従うことをやめた時から、人類に罪が入り、死が入ってきました。その罪が代々引き継がれていき、私たちは生まれながらにして罪ある存在であると聖書は語ります。それは造り主である神と断絶した状態です。その結果、物心ついたばかりの子どもが、人から教わらなくても悪いことをしたり、考えたりします。そして罪ある人間社会は、いつも争い、騙し合い、奪い合いがあり、混乱に満ちています。人は先にある死に対する不安・恐れを抱きながら、「今さえよければ良い」という歩みを続けています。生まれながらに罪を持つ人間には、この悲惨な状況を変える力がありません。どれほど良い行いを積んでも、努力しても、自分自身のうちに本当の平和・安心をもつことができないのです。神は、そのような人間をあわれんでくださり、独り子イエス・キリストを2000年以上前にこの地に送ってくださいました。人間のように原罪を持たない神の子キリストは、それでも私たちと同じ肉体をもって歩まれました。そして何の罪も無いのに、ローマ帝国の法で裁かれ、十字架刑により死にました。死んで墓に納められたキリストは、三日目に死からよみがえり、罪と死に打ち勝ちます。キリストを信じる者たちは、もう罪に定められることはない、罪の結果である死をも恐れなくていい、肉体の死を皆経験しますがそれは単なる通過点、神の国において復活のからだが与えられることを、約束してくださいました。

 このキリストの罪からの救いは、どこまでも神の一方的な恵みによるものです。私たち人間の側の何にもよらない、神から一方的に与えられた救いです。それに対して人間ができることは、それを感謝して受け取るだけです。このキリストの恵みを受け取る時に、不安な状況下でも平安でいられたり、悩みの只中にいながらも希望や喜びがあるという人生になります。「だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)という新生を体験していきます。これらのことは、すべて神から出ています。神がキリストを遣わしてくださって、この素晴らしい救いを与えてくださったのです。

 このような福音について、パウロは11章まで(手紙全体の約3分の2)語ってきました。そして、12章からは、そのような神の恵みを味わった者たちがどのように生きるのがふさわしいかについて述べていきます。そう生きなければいけないという道徳を説いているのではありません。罪に死んでいた者を神がこのように生かしてくださり、あわれんでくださり、恵みでいっぱいに覆ってくださったのだから、このように生きるのはごく自然なことなのです。その生き方含めて「福音」です。福音は、学んで頭で知るだけでは不十分で、生きるものです。福音で生きなければ、ただパウロという有名人の手紙を読んだ、聖書という世界のベストセラーである書物を読んだ…で終わってしまいます。


<1節>

 パウロは、11章までの福音の内容を前提として、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます」と呼びかけます。このようなすばらしい神の恵みと赦しを受けているのだからと、同じキリストにある兄弟として勧めます。

 「あなたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献(ささ)げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」。

 ここの「ふさわしい」の原語は、「理にかなった」「ごく自然な」という意味の言葉です。キリストのこのような恵みを受けた者は、自分のからだを神にささげて生きるのが、理にかなっていて自然な生き方なのです。むしろそうでなければ、逆に違和感があり、無理な生き方になってしまいます。

 では、自分のからだをささげる生き方とはどのようなことでしょうか?そのことが2節以降で書かれています。


<2節>

 「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」。

 この世と調子を合わせないとは、どのようなことでしょうか?

 私たちはこの世界で生きています。社会生活をしています。その中で、社会ルールに従ったり、人々の声に耳を傾けて生きています。それらを全く無視して生きていたら、社会生活ができなくなってしまいます。では「この世と調子を合わせない」とは、どうすることでしょうか?  

 まず、「この世」という言葉ですが、原語はアイオーンで、「時代」という意味があります。つまり、「この時代」という意味になります。今の時代です。今の時代というのは、過ぎゆく時代です。やがてキリストが再びこの地に来られて、すべてを新しくします。キリストを信じる者たちは、神が備えておられる新天新地において、復活のからだが与えられ、永遠に生きることが約束されています。その「永遠に続く神の国」に対する「一時的な今の時代」です。

 「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます」(Ⅰヨハネ2:17)。今の時代は過ぎ去ります。しかし神の国は永遠に続きます。ですから、永遠に続く神の国で生きる者が、過ぎ行く今の時代の調子に合わせることには無理があります。


 キリストがこの地に来られて宣教を始めた時に、「時が満ち、神の国が近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われました。もうその時から神の国は来ています。福音を信じる者たちのうちから、神の国はすでに始まり今も世界に広がり続けています。しかしその神の国の完成は、キリスト再臨の後の新天新地においてです。今なおサタンが働くことが許されているこの時代は、やがて過ぎ去ります。ですから、過ぎ去る今の時代の調子に私たちが合わせて生きようとしたら、無理がきてしまいます。それこそ、その生き方は理にかなわない、不自然な生き方です。


 では今のこの社会の中で「この世と調子を合わせない」でどのように生きればよいのでしょうか?それにはまず「(私たちの)心を新たにすることで、自分を変えていただく」必要があります。そうすると、「神のみこころは何か?」を見分けるようになります。キリストに贖われて神の者とされたなら、神のみこころを求めていきます。神のみこころを知りたいと常に願います。なぜならそれが最善だと知っているからです。神の御心、つまり神に喜ばれることが一番良いことであり、完全(最善)であると知っているので、どのような時にも、「神のみこころは何だろうか?どうすることを神は喜ばれるだろうか」を求めていきます。「この世と調子を合わせてはいけません」を、あえて一言で言うなら「神のみこころを求めて生きる」ことと言えるでしょう。今の時代の常識はこうだ、またこういう時はこうするといい、という人の意見も聞きます。決して神のみこころを求めるから、人の意見や考えを聞かないということではありません。神は、人を通してご自身のみこころを私たちに伝えることもありますから、人の意見も聞きます。でもその中で、祈りながら、みことばに聞きながら、そして具体的な導きを見ながら、私たちは最終的に神のみこころを受け取っていきます。

 どこの学校に行くのか、どのような仕事をするのか、誰と結婚するのか、今直面している問題をどう解決していくのか、親の介護をどうするのか、老後をどこでどのように生きるのか…実際に迷いながら人生の大切なことを私たちは決めていきます。でもそこで神のみこころを求めて祈りつつ歩んでいくなら、最終的に神が最善に導いてくださることを経験していきます。

 この生き方をしていくためには、「心を新たにされ、自分を変えていただく」必要があります。この「心」(ヌース)という言葉は、「理性」を表す心です。理性は、物事を判断していく心の働きです。その理性も基準がなければ正しく判断することができません。「今の時代」を基準にしていると、今の時代と言ったそばから、もう過去になってしまい、基準も変わっていきます。時代によって、様々な基準は変化していきます。

 日本において、戦前と戦後で、社会の基準が大きく変わりましたし、東日本大震災後も社会の在り方が変わりました。また今のコロナ禍を経て社会は大きく変わっていくことでしょう。何が正しいか、何が良いことかという基準も、時代を経て変わっていきます。今の時代に調子を合わせていると、たえずその時代で強調されていること、流れに振り回され、気がつくと大きく間違っていた、ということになりかねません。


 この「心」「理性」を新たにするために、永遠に変わることのない神の言葉を基準としていきましょう。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(マタイ24:35)と言われた、主のことば(聖書)を基準として、理性としての心(ヌース)を判断していくことができます。

 同時に、その判断をしていく自分自身が変えられる必要があります。神の霊である御霊は、私たちを変え続けてくださいます。御霊が、私たちを栄光から栄光へと、主と同じかたちに変え続けてくださいます(Ⅱコリント3:16~18)。「御霊なる主の働きによる」のです。御霊が、私たちを変え続けてくださり、みことばによって心を新たにしてくださいます。時代が移り変わり、価値基準が変わっても、神のみこころを求め、神が喜び望まれる完全な道を見分けることができるように、御霊が私たちを助けてくださいます。

<まとめ>

① 今の時代は過ぎゆくものです。たえず時代によって基準が変わります。しかし神の国は永遠に続きます。この移り行く時代にあっても、たえず神のみこころを求めましょう。

② 神の言葉を土台として、心の理性(ヌース)を新たにしましょう。たえず心の理性を新しくされるために、聖書を読みましょう。心にとどめましょう。

③ 私たちの古い判断基準や、生まれながらの罪に根差した肉の基準があります。たえずそれを脱ぎ捨てていきましょう。そのために、御霊に自分自身を明け渡し、明け渡し、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えていただきましょう。自分自身を握りしめ、自分の基準を絶としていると、神のみこころがわからなくなります。ですから、自分自身をささげましょう。自分自身を神にささげる理にかなった礼拝をささげましょう。

 自分自身が御霊によって砕かれ、変えられていく中で、神のみこころがわかってきます。神のみこころが完全であり、最善です。 
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