(2022年1月)

 ・ 1月30日
 ・ 1月23日
 ・ 1月16日
 ・ 1月 9日
 ・ 1月 2日
 




 1月30日
礼拝メッセージ要約 主題:「返済不可能な借金を免除された者」

               マタイの福音書18章21節~35節  三浦真信牧師

 マタイ18章から、今年のテーマ「祈りの交わり」についての最後になります。イエスの弟子たちが、「神の国の中でだれが一番偉いか?」という質問をした時に、「偉くなること」を求める生き方から、「自分を低くする」生き方を求めるように、また小さいものたちを受け入れていくようにと、イエスは語られました。

 そして罪を犯している者たち、つまずきを与えている者たちに対しては、どのように忠告をしていくべきか、どのような心構えで伝えるべきかを語っておられます。その人をさばくため、貶(おとし)めるためではなく、キリストにある兄弟として、また段階を踏んで、忠告をするように(15~18節)語られます。ですから忠告をする時にも二人三人の祈りが必要です。


<21~22節>

 今日の箇所でイエスは、交わりにおいても大切な「赦し」について語られます。ペテロが「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。7回まででしょうか」とイエスに質問します。

 ペテロが「7回」と具体的な数字を提示したのには理由があります。当時のユダヤ教教師であるラビたちは、3回までは隣人に罪の赦しを乞うことができると教えていました。3回までは同じ過ちを犯しても赦すように教えていたのです。またイエスも以前弟子たちにこのように言っていました。

 「兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。一日に7回あなたに対して罪を犯しても、7回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい」(ルカ17:4)。このイエスの言葉もペテロの頭の中にあったかもしれません。少なくともレビたちが教えている3回よりも数が多いから、7回と言えばイエス様にほめられると思ったかもしれません。ペテロとしては、意気揚々と優等生気分でこの質問をしています。

 ところが次のイエス様の言葉でその思いは砕かれます。「わたしは7回までとは言いません。7回を70倍するまでです」。これは490回という意味ではありません。ユダヤでは数字の7は完全数を表わします。しかも7を70倍ですから「無限に」という意味です。ペテロとしては、7回位までなら耐えられると思っていたのかもしれません。限度が分かっていれば比較的耐えられる場合があります。期限があれば、そこまでは我慢できるという力が人にはあります。しかしイエスは「無限に赦しなさい」とおっしゃったので、ペテロも他の弟子たちもそれは無理だと思ったでしょう。

 そこで、イエスは次に一つのたとえを用いて、神の赦しと互いの赦しについて語ります。


<23~27節>

 「天の御国は、王である一人の人にたとえることができます」とあります。このたとえは、家来のたとえではなく王のたとえです。この王は神をたとえています。神がどのような方であるかがメインテーマです。

 王のもとに、1万タラント負債がある人が連れてこられました。1万タラントとは、普通の人が支払える金額ではありませんでした。1タラントが6000デナリで、1デナリは当時の1日の労働賃金です。6000万日分の賃金になります。約20万年分に近い労働賃金です。到底(とうてい)返済できる金額ではありません。

 その主君(王)は彼に「自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた」。持ち物だけでなく、自分も妻子も奴隷として売って返済するように求めました。当時奴隷一人の値段は最高で1タラントです。とてもそれでも返済できる金額ではありません。

 その1万タラントを借金している家来は、ひれ伏して「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」と言いました。20万年分の労働賃金を返せるはずはありませんが、まだもう少し時間があれば全額返済できると思っています。そこに彼の問題がありました。それでも主君である王は、かわいそうに思って、彼の負債を免除してあげます。王から見ても、とても返済は無理だとわかっていたこともあるでしょう。これ以上追い詰めても、もう苦しめるだけでかわいそうだから、彼を赦してあげました。


<28~30節>

 ところが、その1タラントの借金を免除された家来が出て行くと、彼が100デナリのお金を貸していた仲間に出会いました。そして彼は、その人を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と要求したのです。彼はひれ伏して、「もう少し待ってください。そうすればお返しします」と嘆願しました(26節で家来が王に言ったのと同じ内容です)。王は、1万タラント借金のあった家来のこの言葉を聞いて赦しましたが、赦されたこの家来は、1万タラントに比べれば60万分の1に過ぎない100デナリの借金返済を待つことすらせずに、その場でお金を貸していた彼を引いて行って牢に放り込みました。


<31~35節>

 1万タラントの借金を免除された家来と、その家来から100デナリを借りていた仲間とのこのやりとりを見て非常に心を痛めた別の仲間が、一部始終を主君(王)に話しました。それを聞いた主君は、32~33節のように言って、獄吏(ごくり)(牢屋の役人)たちに家来を引き渡して牢に入れました。「負債をすべて返すまで」とありますが、彼に返済能力はありませんので、「永遠に」ということです。


 イエスはこのたとえ話をして、「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです」と締めくくります。ここだけ読むと、誰かを赦すことが神に赦される条件のように感じてしまいますが、そうではありません。

 最初にお伝えしましたが、このたとえは、天の御国の王である神がテーマです。神がどのようなお方であるかがメインテーマです。1万タラントの借金があって返済できずにひれ伏す家来を、かわいそうに思って赦し、負債を免除した王のたとえです。そして神に対して、すべての人がこの家来と同じ、返済できないほどの罪の借金をしているのです。人間同士であれば、法律に触れることをしなければ、罪とはされません。しかし神に対する罪の借金は、人がどんなに頑張っても、どれほど立派な行いをしても、返済することはできません。それほど、人間の罪は悲惨であり深刻なのです。この世界がその悲惨さと深刻さを現しています。

 1万タラント借金していた家来は、もう少し猶予期間があれば、1万タラントの借金を返せると思っていました。そもそもそれ自体が間違いでした。返せると思っていたから、主君に借金を全部免除された時も、心からそれをありがたいと受け取ってはいなかったかもしれません。ですから、まだ100デナリ貸していた人からしっかり返してもらおうとしました。借金を免除されたのだから、急いで100デナリを返してもらわなくても良かったはずです。

 結局この家来は、返済不可能である事実を認めていなかったのでしょう。そのため免除されたことも、心から感謝して受け取ってはいません。その結果100デナリ貸していた人にすぐに返却することを求めました。すぐに返さないことを赦しませんでした。


 神の赦しをしっかり受け取ることが、人を赦すことに繋がっていきます。まず神に対する私たちの罪の借金が返済不可能であること、それほどのものであることを知る必要があります。そして、自分の力では返済できない、負い切れない罪の借金を、イエス・キリストがすべて肩代わりしてくださったことがどれほどありがたいことかを知るときに、その赦された感謝と恵みで、また赦す者になりたいと思えるようになります。

 「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」(エペソ4:32)。この「神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」という事実が、自分の中で「本当にそうだ、感謝だ、嬉しい」と深いところで受け取られていく中で、人を(本来の自分なら赦せないはずの人を)赦すという奇跡が起きてきます。

 まず「主が私を赦してくださった」、「私は十字架の恵みによって赦された」、そのことをはっきり受け取ることが、赦しの力となります。人を赦せないその根底に、まず自分自身を赦せていない場合があります。神の赦しを自分自身がまず受け取る必要があります。


 人が集まれば、難しい関係がたえず生じてきます。最終的に「赦し合う」ということがなければ、その交わりは長続きしません。「自分の兄弟を心から赦す」ことの難しさを交わりの中で経験する時こそ、「自分自身が神から赦されたことの大きさ」を受け取り直す大切な時です。

 今誰か赦せない人がいますか?過去の、あるいは今の自分を赦せないで悶々(もんもん)としていませんか?まず神の赦しを受け取りましょう。キリストは、私たちの力では負い切れない罪の重荷を代わりに担ってくださいました。とてつもない借金を肩代わりして、十字架で死なれました。人類に罪が入った結果死が入りましたが、キリストは死からよみがえって罪と死に勝利しました。キリストの復活は、キリストを信じる者たちが完全な罪の赦しを受け、復活のからだがやがて与えられることのしるしです。


 ある時は交わりの中でも難しい関係が生じますが、キリストとの関係で解決していきましょう。一見マイナスに思える出来事も、すべては信仰を学ぶためにあります。二人三人でも共に祈るところに主がおられます。難しい人間関係の中でも、神の赦しを受け取りながら、みことばの真実を味わいましょう。一人では抱えきれないことも、二人三人兄弟姉妹にとりなし祈られながら、神の臨在を体験しましょう。
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 1月23日
礼拝メッセージ要約 主題:「聖霊を注いでくださったのです」

               使徒の働き2章32節~35節   松島修兄

 本日は、使徒の働きの2章のみことばから、イエス様が十字架に架かり、3日目に死を打ち破りよみがえった後、40日間弟子たちに現われ、昇天されたイエス様の働きについて、みことばから教えられたことを皆さんとともに分かち合いたいと思います。使徒の働き2章は、復活されたイエス様が弟子たちに40日間現れた後、昇天され、その10日後の出来事が書かれています、復活の日から数えると50日目にあたる日の出来事です。まず、過ぎ越しの祭りから数えて7週後、五旬節・ペンテコステ(ギリシア語)、50日目に守られた小麦の収穫感謝祭の日に待ちに待った約束の聖霊が弟子たちに下り、世界で初めて教会が誕生したことが語られています。14節からペテロの大胆な説教が語られ、聖霊の降臨は、旧約ヨエル2:28~32の預言の成就であることを教え、次にイエス様がよみがえられ、神の右の座についておられることを詩篇110篇:1から引用しました。先ほど読んだ使徒2:34のみことばが、その聖句です。


 実は、新約聖書の中で、一番多く引用されている旧約聖書は、このキリスト・イエスの昇天についての預言の聖句だそうです。調べてみると、詩篇110篇1節は、マタイ・マルコ・ルカの福音書に各2回、使徒の働きに1回・へブル人への手紙に1回、計8回も引用されています。この聖句は、死を打ち破り、天に凱旋(がいせん)なさった圧倒的な勝利者であるイエス様が、昇天し、王として父なる神様の右にお着きになったことを預言したみことばです。イエス・キリストが、父なる神の栄光の御座の右に着かれたということが昇天の意義です。だから、大切な聖句として、数多く引用されています。


 召天という二つ目の意味の「しょうてん」があります。クリスチャンが亡くなったことを天に召されたと言います。久遠教会も多くの兄弟姉妹が召天され、天国はさぞにぎやかなことだろうと思います。そしてまた、いつか兄弟姉妹と再会できると思うとなんだか嬉しい気持ちになります。尾崎紀世彦の歌のタイトルのように、「また逢う日まで」と言えるのはクリスチャンの特権だと思います。賛美歌の「神ともにいまして」にも、また逢う日までという歌詞がありますね。この言葉は、クリスチャンにしか言えない、希望に満ちた辞世のことばだと思います。私もそう言って召されたいなあと思います。しかし、イエス様が、天にお帰りになったことは、天に召されたわけではないので、天に昇る方の昇天となります。旧約聖書の中では、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼をとられたので、彼はいなくなった」(創世記5:24)エノクと、「エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った」(Ⅱ列王2:11)エリヤ、この二人が昇天しました。この二人は、父なる神の右に座すことはありませんでした。神の子イエス様だけが、父なる神の右に着座したのです。イエス様は、父なる神様がサタンの働きを徹底的に滅ぼし、新天新地が完成するまで、イエス様は父なる神様の右に座しておられます。そして、私たちを見守っていて下さいます。天に帰られたイエス様は、もう人間の姿をきれいさっぱり捨てて受肉前の姿に戻ってしまわれたのではありません。どこまでも人間の弱さを知っておられるイエス様は、生前のイエス様の姿のまま、父なる神様の右に座り、私たちのためにとりなしをして下さっています(ローマ8:34)。私たちにはイエス様のとりなしがあるのです。また、イエス様は、三度イエス様を裏切ったペテロに対しても、信仰がなくならないようにとりなしの祈りをなさいました(ルカ22:32)。また、今年のみことばにあるように、二人三人で集まるところには、必ずイエス様もいて下さる方です。イエス様の方から、近づいて私たちの心の扉をノックして下さる方です(ヨハネ黙示3:20)。


 そして、昇天し、父なる神の右に座したイエス様の最大のお働きは、聖霊を私たちに注ぐということでした(使徒2:33)。天に凱旋されたイエス様がなされたことは、まずこの約束の聖霊を父なる神から受けて、それを私たちに注ぐことでした。今も、天に帰られたイエス様が、父なる神様から聖霊を受けて、日々私たちに注いで下さっています。だから初代教会では、一日に3000人も救われるという御業(みわざ)が現れました。その聖霊の御業は今も働いています。私たちは、天から御霊が注がれていることを信じて、御霊によって歩んで行きましょう(ガラテヤ5:16)。文語訳では、「肉の欲を遂げざるべし。」御霊が守って下さるので、肉の欲を成し遂げないようにしてくださるのです。


 また、驚くことにイエス様によって救われた私たちは、死んでも、イエス様とともに生きることが赦され、イエス様とともに天の御座に着かせてくださるとパウロはエペソ人への手紙で語っています(エペソ2:4~6)。生まれながら罪を負い御怒り受ける私たちを愛し、イエス様の十字架の血潮で私たちを一方的に贖い、信仰によって救いの道を開いて下さった父なる神様は、天上にあって御座にまで、私たちを座らせてくださるという破格の恵みを与えてくださいました。なんと素晴らしい一方的な恵みでしょう。

 今週も、昇天され栄光の父なる神の右に座しながら、常に私たちとともに歩んで下さるイエス様を見上げながら、この世を歩んで行きましょう。イエス様は、天上で、私たちにキリストの霊である聖霊を注いで下さり、御霊によって歩めるように導いて下さっています。このキリストの霊である聖霊を日々受け取りましょう。そして、やがて来たるべき御国では、私たちも天上の座に着かせていただける恵みを感謝し、パウロが言うように、私たちに与えられた日々の歩みを、死んでよみがえった方のために、それぞれ神様から与えられた賜物を活かして、イエス様のために生きていきましょう(Ⅱコリント5:15)。
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 1月16日
礼拝メッセージ要約 主題:「地上で心を一つにして祈るなら」

               マタイの福音書18章15節~20節       三浦真信牧師

 「誰が一番偉いか」ということにフォーカスしている弟子たちに、神の国で一番偉いのは「自分を低くする人」であるとイエス様はおっしゃいました(18:4)。「偉くなること」から「低くなること」に価値を置くよう、向きを変えるようにイエス様は弟子たちに語ります。
 そして、小さな者たちを受け入れていくこと、小さな者たちをつまずかせないように配慮していくことの大切さを語ります(5~6節、10節)。


 そして今日の箇所では、交わりにおいてどのように忠告をしていくかが語られます。つまずかせるとは、罪を犯させることです。交わりの中で誰かが罪を犯しているなら、それはつまずいていることになります。ですからそのつまずきを取り除くために、ある時は忠告をするということが必要になります。ただしそれはその人をさばくことではありません。


<15~17節>

 「兄弟を得るため」の忠告です。どこまでも主にある兄弟姉妹として、その人が神との関係を損なうような罪を犯しながら気が付かないでいるなら、神との関係が回復して交わりにおいても喜びを回復するように、ある時は忠告をします。

 教会の中において人に忠告をすることは、とても難しく気を遣うことかもしれません。教会は、弱い人を受け入れることと、キリストのからだとしての秩序を整えることとの両方が必要です。弱い人を大切にするからといって、誰かが罪を犯したり、その人のわがままを許容するわけではありません。聖書で語られていることに明らかに反していない限りは、どこまで忠告するか難しいところもあります。

 具体的に、以下のような時に忠告が必要となります。

① その人が明らかに罪を犯していて、それによって神との関係が妨げられているとき。 ② キリストの共同体の秩序を壊すようなことをしているとき。
③ 人に危害を加えたりつまずきを与えているとき。

  ②と③に関して具体的には、暴力を振るったり暴言を吐いて人を傷つけたり、故意に人を無視したり、ストーカー行為を行ったり、異端的な教えを広めたり、分派活動を行ったりなどがあります。

 そのような時に、交わりの中で段階を追って忠告するように勧められています。ここは教会戒規と言われているところです。このイエス様の教えは、教会だけでなく、広く社会でも用いられています。聖書の言葉は、私たちの社会生活の中でもいろいろなところで用いられています。

 「あなたに対して」(15節)とありますが、ここは罪全般ととってよいでしょう。だれかがつまずきを起こすような罪を犯している時に、まず第一段階として、「行って二人だけのところで指摘しなさい」。いきなり公衆の面前で指摘されたら、言われた人は立ち上がれなくなるかもしれないし、それによって悔い改めの機会を失ってしまうかもしれません。恥をかかせられたと、逆に被害者意識を持ってしまうだけかもしれません。 

 まず二人だけの所で指摘しなさい。教会の交わりだけでなく、家庭・学校・職場などあらゆる人間関係にもあてはまります。みんなで寄ってたかって一人の人を責めたら、言われた内容が真実であったとしても、その人自身の心が折れてしまったり、自己防衛に走ってかえって自分の罪を認められなくなるかもしれません。

 また指摘する時も、敵対心を持ってではなく、怒りながらでなく、「柔和な心で」しましょう。ガラテヤ6:1「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分も誘惑に陥らないように気をつけなさい」とあります。御霊を内に与えられている者として、柔和な心で、そして上から目線ではなく、自分自身も誘惑に陥る弱さを常に持っている者として指摘しなさい、と言われています。

 またエペソ4:15では、「愛をもって真理を語りなさい」とあります。ただ冷たく真理を語るのではなく、「愛を持って」です。愛をもって語ることができないなら、まだ指摘しない方がいいかもしれません。愛をもって柔和な心で指摘できるまで、伝える側も祈りが必要です。

 指摘して、それを聞き入れるなら、今後主にある兄弟姉妹として安心し信頼して交わることができるようになります。


 それでも聞き入れないなら、「他に一人か二人、一緒に連れていきなさい」(16節)。ただ自分の主観や、好き嫌いで指摘しているのではないことを知ってもらうために、客観的な証言として伝えられるように、第2段階として二人か三人で指摘するようにしましょう。


 そしてそれでも聞き入れないなら、最終段階として「教会に伝えなさい」。つまり教会で牧会責任を持っている長老、役員(教職者)に伝えましょう。

 「教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」(17節)。イエス様は、異邦人や取税人にも福音を語り、彼らも救われていきましたから、この言葉には、そうすることでなお回復の余地があることも示唆しています。

 いずれにしましても、忠告をする時の言い方、伝える人、神の時があります。そしてそれは、どこまでも「兄弟を得るため」という目的で、愛をもってなされるものです。その目的を忘れて、ただ人を貶(おとし)めるためにするようなことがあれば、今度は忠告する側が神からさばかれることになってしまいます。もちろん私たちは人間ですから、完璧にはできません。忠告の内容自体も間違ったり、伝え方が適切でなかったと反省することもあります。そのことに気づいたら謝りましょう。それも含めて交わりです。


<18~19節>

 これは、イエス様がペテロに16:19でおっしゃった内容です。ペテロに与えられた天の御国の鍵は、ペテロだけでなく、「あなたがた」と言われるように、教会に与えられています。地上でつなぐこと(禁じること)も解くこと(許すこと)も、天の御国と同じであるように、私たちは地上で心を一つにして祈るのですね。ですから教会戒規を行う時に、私たちは本当に祈らなければできません。私たちが、2人3人心をあわせて祈るのは、何よりも神のみこころを知るためです。ここは、特に罪を犯している者たち、つまずきを与えたり自らつまずいている者たちに忠告をする時の助言としてイエス様は語っておられます。

 私たちの悩みには、「この問題をどのように対応したらよいかわからない」ということが多々あります。どうすればよいかわかっていれば実行するのみでしょう。でもすべきことはしたけど、後はどうしてよいかわからないことがあります。その中で神のみこころを求めます。本当に悩んでいることや、人の罪やつまずきに関わることは、なかなか大人数では話せませんし、大勢では祈りあうことも難しい場合があります。安心してその課題を祈りあえる交わりが必要です。


<20節>

 「2人か3人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」とイエス様は言われます。ですから安心して祈り続けましょう。人に忠告する場合も、その問題を知っている2人3人で心合わせて祈りましょう。そうすれば、いつ、どのように、誰が、それを伝えるべきかを主が教えてくださいます。困難なこと、苦しいこと、どうしてよいかわからないこと、大人数では話せないような悩みも、2人3人で祈りましょう。神がどのように働いてくださるか、祈りの実を見る時に、共に祈ってきた者たちで、神をほめたたえることになります。


 教会の交わりは、楽しいことばかりではありません。教会は、キリストのからだであり、また神の家族です(エペソ2:18~22)。組織でもないし、会社でも、趣味サークルでもありません。家族にはたえず問題や痛みが起きます。その時に、互いに忠告したり話し合ったりします。でも家族の中だけでは立ち行かない問題も起きてきます。その時に、たえず祈ることができる神がいてくださり、またとりなして祈ってくださる兄弟姉妹がいることは本当にありがたいことです。教会という神の共同体、家族の中にも、たえず問題は起きます。でもそこで共に祈りながら、神から愛と知恵をいただきながら、神の共同体は揺らぎつつも成長していきます。教会の課題も、互いの抱えている問題も、ぜひ共に負いあいながら、2人3人でも、また教会全体でも、祈ってまいりましょう。どうしてよいかわからないことも、祈っていく時に、神が必ず最善に導いてくださいます。私たちが思い描いていたような結果ではなくても、不思議な神のやり方で解決してくださいます。

 「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:20)と言われたイエス様を信じて、小さな交わりでも、また礼拝や祈り会でも、共におられるキリストに祈り叫んでまいりましょう。
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 1月9日
礼拝メッセージ要約 主題:「神にとって大切な迷える羊」

               マタイの福音書18章10節~14節       三浦真信牧師

 マタイ18章でイエス様が、交わりにおいて大切なことを語っておられますので、今月は教会の交わりということに特にフォーカスをあてて、礼拝でメッセージさせていただきます。

 前回の箇所では、弟子たちから「神の国でだれが一番偉いのか」という質問を受けて、イエス様から、「偉くなること」より「低くなる」ことに価値を置くようにとの方向転換が示されました。当時のユダヤ社会では低く見られていた子どもたちのように、自分を低くする者が天の御国では一番偉いのです(1~5節)。またそのような小さな者たちを受け入れる者こそ低い者であり、小さな者たちを受け入れる人はキリストご自身を受けいれる人なのです(5節)。この世がつまずきを与えるものなので完全に避けることはできないけど、それでも小さい者たちをつまずかせる(罪を犯させる)ことは極力避けるよう配慮するようにと語られました。今日は、「小さな者たちを受け入れる」という5節6節のテーマの続きになります。


<10節>

 「あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい」 

 信仰の弱い人たちや、様々な弱さを抱えている人たちを、軽んじたりつまずかせたりしないようにとの忠告です。この時の弟子たちのように、自分たちが偉くなることに価値を置いていると、どうしても弱い人を見下したり軽んじてしまいがちです。神さまの前に身を低くすること、自分が砕かれていくことを大切にしていくなら、むしろ小さい者たち、弱い人たちを大切にするはずです。

 小さい者たちを軽んじないということは、小さい者たちを特別に扱いなさいということではありません。小さい者たちだけを大事にしなさいということではありません。「たとえ小さい者であっても軽んじないようにしなさい」という意味です。要するに「だれをも軽んじてはいけない」という意味です。


 そしてその理由を語られます。御使いについては、聖書の中でもところどころ出てきます。御使いは、神の使者であり神のしもべです。神に仕えるために、天地が造られる前に神によって造られました。ヨブ記38:4~7を見ますと、神がこの地を造られた時に、「神の子たちが喜び叫んだ」(7節)とあります。これは御使いのことです。

 神は御使いを、神に仕える者として造られましたが、選択の自由を持っていたために、神のしもべという特権を拒んだ御使いもいました。その長がサタンであり、また多くの御使いはサタンに加担していきました。「またイエスは、自分の領分を守らず自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました」(ユダ1:6)。

 また「天の軍勢」として度々登場するように(ルカ2:13など)、多くの御使いが今も神に仕えています。そして神に仕える御使いたちは、忠実に神の命令に従い、地上で神の子たちを守っています。

 「主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される」(詩篇34:7)

 「主があなたのために御使いたちに命じて、あなたのすべての道で守られるからだ」(詩篇91:11) 「

 御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか」(へブル1:14)

 初代教会の異端で、御使いを崇拝する教えが出てきたようですが(コロサイ2:18)、決して御使いは崇拝の対象ではありません。どこまでも、神に仕え、神の子らを守るために遣わされている神のしもべです。


 マタイ18:10に戻りますが、「天にいる彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父(神)の御顔をいつも見ているからです」とあります。つまり彼ら小さい者たちを守る御使いたちから神がたえず報告を受けるほど、神は彼らを大切にしておられるということです。だから彼らを軽んじてはいけないのです。それは彼らだけでなく、お互いに私たちは皆、そのような神の配慮を受けて守られている大切な存在です。このような御使いたちの守りがあり、御使いはいつも神の御顔を見て、神の子たちのことを報告し、神は私たちのすべての今の状況をご存じで守っていてくださいます。小さな者たちも同じなのです。ですから、弱いから、小さいからという理由で、軽んじたり見下したりしてはいけないのです。


<※11節>

 11節は、古い写本の多くには入っていないため、本文にはありません(脚注)。恐らく後代にルカ19:10から挿入されたものでしょう。


<12~14節>

 有名な1匹の迷える羊のたとえです。ルカ15:4~7でも話されていますし、イエス様はいろいろな機会にこのたとえを話されていたようです。実際、羊がユダヤの高原の牧草地から迷いだし、峡谷に落ちて死んでしまうことがよくありました。羊は目が悪いし、少しおっちょこちょいで、迷いやすい習性のようです。そのくせとても臆病です。それだけに迷いだしたときに羊飼いは、羊がどんなに怖がって不安でいるかを思うと、いてもたってもいられませんでした。迷い出た羊を、羊飼いはその足跡をたよりに遠くまで捜しにいきます。急斜面、ごつごつした岩場、危険な場所も全力で捜し出して、ようやく見つけたら肩にかついで帰ります。

 当時羊は、村のものとして共同で飼われることが多く、羊の群れには2~3人の羊飼いがついていました。ですから迷い出た1匹の羊を捜すために、他の99匹を残していくということが可能でした。こうして、迷い出た1匹の羊が連れ戻された時には、村中が喜び湧いたのです。

 神にとっては、1匹の羊が100分1の価値ではなく、1匹としての価値があります。99匹残っているから、1匹くらいいなくなってもいいということはないのです。ですから、1匹が迷いだした時には必死で捜します。そしてこの迷いだした1匹が見つかったことを喜びます。だからといって他の羊がどうでもよいということではありません。99匹の羊は、安全な羊飼いのもとにいるので安心です。でも迷いだした1匹は、オオカミや獣に襲われるかもしれないし、心配なことがいっぱいあります。大変な危険に晒(さら)されているのです。だから見つかったら安心します。

 「このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません」(14節)。迷い出る小さい者たちは必ずいます。しかし、その一人でも滅びることは神のみこころではありません。一人ひとりが神の前にはかけがえのない大切な存在なのです。この時の弟子たちのように、「だれが一番偉いか」などという考え方は、神の国では無意味なのです。一人ひとりが神にとっては尊い存在であって、誰が偉いとか上下など、神ご自身にはありません。人間の側が勝手に気にしているだけです。  


 ですから、一人ひとり「神にとって」大切なかけがえのない存在であることを覚えて、キリストにある交わりを尊びましょう。「私にとって大切な人」という視点だと、自分にとっての損得で、関わりを重んじたり軽んじることになってしまいます。そうではなくて、「神にとって」大切な一人ひとりです。神の愛を知った者たちは、神が大切にしておられる人を大切にし、神が喜ばれることを大切にしたいと願います。

 コロナ禍で、地上においては物理的に人と人との距離ができてしまいました。しかし神の国は何もコロナの影響を受けてはいません。決して揺らいではいません。決して揺り動かされない御国を私たちは受けているのです(へブル12:28)。キリストは今も私たちといつも共におられます。外からは御使いが神の子らを守り、私たちの内には聖霊がおられて日々助けてくださいます。そして神が愛しておられる兄弟姉妹が、今も苦悩しつつそれぞれの場所で生きています。互いに弱さを持つ者として、祈りあいながら、キリストを見上げながら、歩んでまいりましょう。キリストがおられる交わりを、また礼拝を、一回一回、大切にしましょう。地上で次にいつ会えるかわからない、これが最後かもしれないという思いで、主にある交わりを尊びましょう。
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 1月2日
新年礼拝メッセージ要約 主題:「小さい者を受け入れる交わり」

               マタイの福音書18章1節~9節       三浦真信牧師

 主にあって、新年おめでとうございます。
2022年のみことばとテーマです。
テーマ:「祈りの交わり」
みことば:「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:20)

以下目標です。
①2人3人の小さな祈りの交わりを大切にしよう。
 コロナ禍でも2〜3人なら集まれる時がありました。少人数でも集まった時に、短くても祈り合う交わりを大切にしましょう。

②キリストの名において集まる中にキリストがおられることを信じよう。
 主にある兄弟姉妹が共にいるその場所に、キリストがおられることを信じましょう。食事をしたり会話を楽しむ時にも、互いのうちにおられるキリストを通して、私たちは霊的力を得ることができます。

③人々が教会で神の臨在を体験することができるように祈ろう。
 初めて教会に来られる方が、「ここに神はおられる」という神の臨在を感じてくださるように祈りましょう。礼拝堂だけでなく、交わりの場で、家庭で、神の臨在が満ち溢れるように祈り求めましょう。「私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられると聞いたから」(ゼカリヤ8:23)と人々が言って、神の民となりますように。

 イエス様は、キリストにある交わりにおいて大切なことをマタイ18章で語っておられます。その中に今年のみことばがあります。「交わり」という視点から、このマタイ18章のイエス様の言葉を今月聖日礼拝で共に受け取りましょう。

 主にある交わりでは、「謙遜」「へりくだること」がとても大切です。それは、表面的な謙遜ではありません。本日の箇所では、そのことをイエス様が語っておられます。

<1節>

  弟子たちの中ではこの頃、まだ「だれが弟子の中で一番偉いか」という論争が続いていました。人が集まるところどこでも、このような論争が起きてきます。表面化しなくても、たえず権力争いや足の引っ張り合いが起きます。イエスの弟子たちといえども同じでした。でもイエス様は、それでよいとおっしゃったわけではなく、弟子たちにそのような価値感から解放されてほしいと願っておられました。

 後にイエス様が、十字架の死と復活を予告された時には、二人の弟子の母親まで来て、神の国でイエスの隣に座れるように、高い地位につけるようにとお願いしています(マタイ20:17~21)。イエスが十字架にかけられる前夜にも、「自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか」という議論が弟子たちの間で起きています(ルカ22:24)。イエスはそのたびに、神の国で一番偉いのは仕える者であること、皆のしもべ(奴隷、給仕)となる者だとおっしゃいました。そして誰よりもイエス様ご自身が罪人の私たちに仕えるため、十字架の死までへりくだってくださったのです(20:25~28)。何度も弟子たちはイエス様のその言葉を聞いています。それなのに、気がつくとまた「誰が偉いか論争」を繰り返していました。それほど、人間の中にこのような価値観が根深くあるということでしょう。


<2~4節>

  そこでイエス様は、一人の子どもを呼び寄せ、弟子たちの真ん中に立たせて言われました。「まことにあながたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」と。

 「向きを変えて」は、以前の新改訳聖書では「悔い改めて」と訳されています。「悔い改める」という言葉(メタノエオー)は、「180度向きを変える」という意味があります。「偉さ」を考えることから「低さ」を考えることに心を転じるように、イエス様は弟子たちに伝えておられます。

 ユダヤ人社会で当時子どもは、無力で無価値な存在として扱われていました。人数にも数えられませんでした。その子どもたちのような立場に自らを置いて低くする人が、天の御国では一番偉いのです。「人の前で子どもっぽくなりなさい、幼稚な態度をとりなさい」ということでは決してありません。

  イエス様の言われた言葉は、弟子たちにとって衝撃的な言葉でした。「天の御国でも一番偉くなりたい」と思っている彼らにはこの言葉は突き刺さったことでしょう。また弟子たち同士で誰が偉いかなどと比べ合っていることを恥ずかしく思ったことでしょう。


<5節>

 自分自身がへりくだらないと、無価値とされていた子どもたちを受け入れることはできません。へりくだるということは、ただ謙遜っぽい態度をとることではなく、小さな者たちを見下さずに受け入れるということです。社会的な立場がどうであるとか、自分より年が若いからではなく、一人の人格をもった神が大切にしておられる存在として、受け入れることです。そのような小さな者たちを受け入れることが、「わたし」(イエス)を受け入れることなのです。私たちは、日々出会う人を通して、イエスを受け入れるということを学んでいるのです。

 またここでイエス様は、「わたしの名のゆえに受け入れる人は」とおっしゃっています。つまり、イエスの名を信じてイエスに従っている弟子たちのことを「このような子どもたち」と指しておられるとも言えます。弟子たち同士でも、このようにお互い比べ合ったり、誰が偉いかと言って足を引っ張り合ったりして互いを受け入れないなら、それはイエスを受け入れないことになってしまいます。私たちの交わり、また人間関係を通して、実は私たちは常にイエスから「わたしを受け入れるか?」と問われています。「この小さい者を、わたしの名のゆえに受け入れるか?」と。


<6節>

 ここの「わたしを信じる小さい者」は、キリストを信じるすべての人ですが、特に信仰を持って日の浅い人とか、「信仰の弱い人」(ローマ14:1)、「弱い人」(Ⅰコリント8:11) を指しています。  

 「つまずかせる」とは、人を罪に陥れることです。他の人をつまずかせる場合と、自分自身をつまずかせる場合の両方があります。 イエスはあえて、残酷なローマの刑罰の一つを例にしています。人を罪に陥れる、あるいは自分自身を罪に陥れるということが、それほど重たいことなのです。


<7節>

 実際、この世そのものが人を罪に陥れるものだとイエス様は指摘します。今の社会で、人を罪に陥れる要素は数えきれないほど沢山あります。ですから、生きている限りつまずきは避けられません。また人が集まれば、この時の弟子たちのように誰が偉いかと比べ合ったり、妬みや好き嫌いが出てきたりすることもあります。だからと言って、イエス様はそれでよいとはおっしゃっていません。


<8~9節>

 すごい表現ですが、「自分にとって大切だと思っているものが整っていながら神を見失うより、その大切なものを失っても神に近づく方がよい」ということをここで強調しておられます。実際こうしなさいということではなく、それほどに神を見失うことは恐ろしいことだということです。人に罪を犯させて神を見失うようにしてしまうこと、あるいは自分自身が見える大切なものにとらわれて神を見失ってしまうことが、最終的にどれほど恐ろしいことかを伝えています。この世はつまずきに満ちているから仕方がない、自分がつまずいても、人をつまずかせても仕方がないということではなく、互いにつまずかないように、つまずかせないように、交わりにおいても、つまずきの種となるものは極力取り除いた方がいいのです。どこまでも小さな者たちをつまずかせないように、互いに配慮しましょう。それは弟子たち同士においても、またやがて弟子たちが異邦人たちに福音を伝え、教会という共同体ができていく時にも大切な基準となっていきます。


まとめ

①イエス様がおっしゃったように、「偉くなることより、低くなること」を求めましょう。 そのた めに、たえず神に(神の言葉に)向きを変えましょう。偉大な神に目を向けましょう。 そうすれば、いかに偉大な神の前に自分が小さなものであるかを知らさ れます。神は 小さい者たち、低い者たちに心を留めてくださいます。イエス様が  示してくださったよう に、互いに仕えることを求めましょう(ピリピ2:3~9)。

②弱い人を受け入れましょう。お互いに弱さを持つものです。Ⅰコリント12:21~25

 みんなが強い人だったら、互いに競争し合い、足を引っ張り合いかねません。弱い人 を大切にすることで、互いに補い合ったり配慮し合う交わりが生まれてきます。力のあ る人は、神から与えられた力を感謝して、弱い人のためにその力を用いていきましょう。

③つまずきは避けられませんが、それでもイエス様がつまずかせないようにとおっしゃっ ているのですから、互いにつまずきとなる種は極力避けましょう。
  私たちの弱さによって、人をつまずかせないように注意しましょう。交わりにおいてつま ずきを与えるようなことが起きた場合に、どのように忠告したらよいかは、この後のところ でイエス様が教えてくださっています。弱い者を受け入れなさいと言われているからと 言って、主にある交わりの中では何をしても、何を言ってもよいわけではありません。弱 いのだから仕方ないだろうと開き直っていたら、今度は逆に神さまからその人が裁かれ ることになってしまいます。


 神の国で一番偉い人は、向きを変えて自分を低くする人です。小さい者たちを受け入れる人です。主にある交わりを通して、主が求めておられるようなへりくだり、謙遜を与えられるように求めましょう。神の国は、偉さを競ったり、立派さを誇るような方向とは正反対です。むしろ自分の弱さやみじめさを出して、共に祈ることができるのです。そのような互いに飾らなくてもよい、小さな祈りの交わりを今年大切にしましょう。  
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