(2021年11月)

 ・ 11月28日
 ・ 11月21日
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 ・ 11月 7日
 




 11月28日
礼拝メッセージ要約 主題:「内なる人は日々新たにされています」

       コリント人への手紙第二4章16節~18節      松島修兄

 第二コリント4:16~18節のみことばから受けた恵みを皆さんと分かち合いたいと思います。招きの言葉の「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(第二コリント5:17)と本日の聖書箇所の4:16のみことばは、共通点があると思います。

 「古い人と新しい人」と「外なる人と内なる人」との対比が似ていて、表現は違っていますが、同じことを伝えています。私たちは、古いものに執着してしまうことが多々あります。古き懐かしい過去の思い出にどっぷり浸り感傷的になったり、古いもの、例えば本や趣味で集めた物に執着して、なかなか処分できなかったりします。私も断捨離(だんしゃり)をして、シンプルな生活をしたいと思っているのですが、なかなか古い物を処分できません。そこには、思い出に浸り、過去を懐かしむ自分がいます。そしてこの傾向は、信仰においてもそうなりやすい。救われたときの感激や徹夜で祈ったことが思い出され、あのときの燃えた信仰はどこに行ったのか、昔のほうがもっと純粋で、熱心だったと思うことがあります。でもそれはもうすべて古い出来事です。後ろにしていくべきこと、本当は、今の信仰がなによりも大事です。また、信仰を保ち続ける事が大切です。

 シモン・ペテロは、イエス様を三度裏切る前に、イエス様はシモンの信仰がなくならないようにとりなしの祈りをしました。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりまさい。」(ルカ22:32) シモンは、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と言いましたが、口先だけの覚悟に終わります。私たちも今、信仰が保たれているのは、シモン・ペテロのように、イエス様がとりなして下さっているからです。また、兄弟姉妹のとりなしの祈りがあるから、教会につながっているのだと思います。私たちは、信仰においても過去の信仰や体験を追い求めやすい弱さがあります大切なことは、今イエス様を救い主として信じる信仰があるかないか、過去の信仰ではない、過去にどんな霊的な体験をして、恵まれたとしても、今、信仰がなければ意味がありません。

 あるとき、NHKを見ていたら禅寺の僧侶が臨済宗の沢庵禅師のことばを紹介していました。そのことばは、「前後裁断」という言葉でした。この言葉は、過去=前と今、今と未来=後を切り離して生きよという意味だそうです。とても含蓄のある、いさぎよい言葉だと思います。大リーグのエンゼルスに所属する大谷翔平選手が満票でMVPを受賞しました。彼の投打にわたる活躍は、日本人としてとても誇らしいことでした。彼の受賞式のインタビューはとても落ち着いていて、浮かれる様子もなく淡々としていました。もう次のシーズンのことを考え次の目標を話していました。私は、彼はすでに「前後裁断」で生きていると思いました。

 また、この言葉は、第二コリント5:17に通じることばではないかと思いました。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 古い過去の自分に執着せず、死んだものを相手にせず、自己憐憫に陥ったり、過去の罪をああでもない、こうでもないとほじくり返すのではなく、過ぎ去ったもの、罪赦された者として後ろにし、イエス様のくださった、新しいいのちを感謝し、キリストのいのちで生きる。自分一人で、生きていくのではない、キリストとともに生きていく、主とともに歩む人生は、聖歌588番で歌われているように「ひとあし ひとあし主にすがって歩む人生」です。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです」(ローマ6:4) 「私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています」(ローマ6:8) 「前後裁断」の人生は、古い自分のいのちを後ろにし、新しいキリストのいのちで歩む人生です。「もうふりむかない」と言うさんびがあります。一番の歌詞に「もうふりむかない もうふりむけない イエス様とともに歩む日々は もう輝いている」とあります。ロトの嫁はソドムとゴモラの町が慕わしかったのか、後ろを振り返ってはいけないと言われたのに振り返り、塩の柱になりました。私たちは後ろを振り返らず、常に、どんなときも信仰の創始者であり完成者であるイエス様を見ていきましょう。イエス様を見て行けば、歌詞にあるように振り向かない自分が、もう振り向けない、振り向けなくなる自分にいつしか変えられていきます(へブル12:2)。


 <16節>

 「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」 文語訳聖書では「この故に我らは気落ちせず、我らが外なる人は壊(やぶ)るれども、内なる人は日々に新たなり」です。 私たちは年齢を重ねるごとに、外なる人、外見は着実に衰えてきます。体力、記憶力、脚力、視力、聴力、気力、握力など個人差はありますがこのように力のつく能力は、年々衰え、古びてきます。落胆ということばは、英訳では、“lose heart”、 心を失うと訳されています。文語訳では、「気落ちする」と書かれています。歳を取ることは、心が折れ、気落ちすることの連続だと言えるかもしれません。しかし、パウロはそんな自分に落胆しないと言っています。古くなっていく自分の容姿、見た目や姿を気にしないパウロ、パウロにとって肝心なことは見た目より中身、内なる自分でした。その理由は、内なる自分は日々主にあって新しくされる自分だからでした。外なる自分は、日々衰えていきます、新しくなっていきません。外なる人は、壊(やぶ)れるばかり。でも大丈夫です、内なる人は日々に新たにされています。日々新たにしていくのではなく、日々に新たにされている。つまり受動形です。主が自動更新してくださる。キリストとともに生きるなら、キリストのいのちが内に宿っているので、聖霊が私たちを自動的にバージョンアップして下さいます。ですから、私たちは主につながり、主から霊の養分をいただいて行けばいい。自分を頼みとせず、キリストにすがり、キリストにすべてお任せしていく、明け渡していくだけです。私たちは、キリストにつながらない限り、実を結ぶことはできません。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことはできないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(ヨハネ15:4) ヨハネ15:1~11節までに「とどまりなさい」ということばは、11回も記され、強調されています。

 また、「内なる人」は英訳で、“our inner self” と訳されています。セルフはセルフサービスで使われるセルフです。自分自身のことです。私たちはキリストをインナーにもつ者です。これが「内なる人」の正体です。寒くなると私たちは、暖かい素材のインナーウェアを着ます。これから寒くなるので着る機会が増えますが、それと同じように私たちはいつも、キリストをインナーに着ているでしょうか? 「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです」(ガラテヤ3:27)。「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13:14)。「内なる人」は、キリストにとどまる人、つながる人であり、キリストを常に内側に着て歩む人です。だから、内なる人は日々新たにされています。私たちは主につながっているだけです。後は主がしてくださいます。


 <17節>

 「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」(17節)。リビングバイブルでは、「今の私たちの苦しみや悩みは、結局のところ、取るに足りないものであり、それほど長くは続きません。そして、このつかの間の苦しみは、永遠に尽きない、あふれるばかりの神の祝福をもたらすのです。」 類似聖句として、「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」(ローマ8:18) 「私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。」(ローマ8:24)

 私たちは生きている限り、様々な苦難が襲って来ますが、パウロはそれは軽い苦難であり、取るに足りないものだと言っています。それは、苦難の後に待つ永遠の栄光が、永遠の住まいが、私たちには与えられているからです。この栄光を望むとき、私たちは喜びと希望をもって、どんな苦しみにも耐えることができます。私たちの国籍、本籍は天にあります。この世は寄留地に過ぎません。「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊(こわ)れても、私たちには天に、神がくださる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています」(第二コリント5:1) 「愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(第一ペテロ2:11)


 <18節>

 「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」(18節)。リビングバイブルでは、「ですから私たちは、今見えるもの、すなわち身の回りの苦しみには目をとめません。むしろ、今は天にある喜びを望み見ているのです。苦しみは、やがて消え去ります。しかし、その喜びは永遠に続くのです。」と、わかりやすく説明しています。私たちは見える現実にではなく、今は見えないけれど確実に与えられる永遠の住まい、天にある喜びを待ち望みましょう。外なる自分は古びていきますが、落胆せず、振り返らず、前を向いて、前後裁断で、御国を目指して、この世の荒波を今週も主とともに歩んで行きましょう。ひとあし、ひとあし、主にすがり、キリストによって日々更新されている「内なる人」とされたことを感謝し、日々新しいキリストのいのちで歩んで行きましょう。イエス様を毎日、内側に着て、身も心をイエス様に温めていただき、今週も歩んで行きましょう。
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 11月21日
「児童祝福親子・聖日礼拝メッセージ要約 主題:「良いものを選ぶ」

       テサロニケ人への手紙第一 5章16節~21節(21節)    倉持守兄

 今日、みんなに伝えたい聖書のことばは、テサロニケ人への第一5章21節のことばです。
 「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」 (テサロニケ人への手紙第一 5章21節(※新改訳第3版))

 神様はみんなに、良いものを“堅く守りなさい”と言っています。堅く守るというのは、それを大事にするということです。

 二人の人の話しをしたいと思います。一人は私の親友です。みんなには仲の良い友だちいますか? 私には小学校からの友人がいます。その親しい彼が、小学生の時、ある時期から授業に出なくなってしまいました。毎日のように学校や学校が終わってからも家で一緒に遊んでいたので、どうしたんだろう?と思っていました。授業にあまり出なくなってから、彼の家に学校の行き道や帰り道に寄って、資料を届けたり、様子を聞いたりしていました。人気のある友だちだったので、クラスの他のみんなも「どうしたんだろう?」という思いだったはずです。長い期間の間で少しずつ、まずは教室ではなくて保健室に登校するようになりました。私は、授業の間の休み時間やお昼の時間の後に保健室にいって彼と話したりして、彼と一緒にいる時間を大切にしていました。そのうち、夏休みのプールの時間にはなんとかプールサイドまで来たり、授業をしている教室のドアの前まで来たりするようになりました。他の友だちも興味をもち始めて、保健室に来て話をしてくれる人がいたり、授業に誘う子が来たりもしました。そして、ある時から彼は授業に復帰してくることができました。無事に一緒に学校も卒業出来ました。

 みんなと違う行動をする、輪の中に入って来ない人と関わるのは難しいことがあるかもしれません。小さな時から私は教会に通っていましたが、その中で、どんな人とも関わっていくこと、相手を受け入れることを教わっていました。聖書から学ぶだけでなく、ちょっと自分よりも年齢が上の先輩クリスチャン?たちがいつも遊んでくれました。誰かを受け入れたり、支えることを自分も経験していました。聖書は何か良いことを聞くだけのものではありません。良いことをする、良いことを選択する(選ぶ)ことができます。みんなも、いろん な出来事の中で、何が神様の喜ばれることか、良いことを選ぶ人になってほしいと願っています。

 もう一人の人の話しは、聖書に出てくる人でマリヤという人です。

 ルカの福音書10章に書かれています。マリヤにはマルタというお姉さん(※姉と仮定)がいました。この二人は、同じ状況で違う行動をしました。ある時、二人の住んでいる家に、イエス様がこられました。お客様として家にイエス様はこられたので、お姉さんのマルタは、食事を用意したり、掃除したり、色んなことをせっせと準備していました。「そんな横でマリヤはどうしていたか、・・・」、家に来られたイエス様の話しにずっと聞き入っていた、耳を傾けていたのです。そんなマリヤを見て、お姉さんのマルタは言いました。ルカの福音書10章40節です。

 「ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。』」(ルカ10:40)

 別の聖書の訳、リビングバイブルではもう少し感情をオ-バ-に書かれています。

 「一方マルタはというと、てんてこ舞いの忙しさで、『どんなおもてなしをしようかしら。あれがいいかしら、それとも……』と、気が落ち着きません。とうとう彼女は、イエスのところへ来て、文句を言いました。『先生。私が目が回るほど忙しい思いをしているのに、妹ときたら、何もしないで座っているだけなんです。少しは手伝いをするように、おっしゃってください。』 」(ルカ10:40)。

 このマルタの訴えにイエス様は答えられました。

 「主は答えられた。『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリヤはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。』」(ルカ10:41〜42)

 イエス様はマリヤのしていることをやめさせませんでした。お姉さんのマルタもお客様をもてなす大切なことをしています。でも、ここに書かれているように、「マリヤは良いほうを選んだ」のです。さきほどのリビングバイブルの訳では、“良い方を選んだ”ではなく“見つけた”と書いてあります。イエス様は、何をするために彼女たちの家に来たのでしょうか。食事に来ることが最も重要なことではありませんでした。一番大切だったのは、話をされるためでした。イエス様はいろんなことを話して、彼女たちに大切なことを伝えようとしていたのです。

 同じように、私たちも教会に来る時、神様のことばを聞こうという思いが大切です。お食事することや誰かと会うことはとても嬉しいことです。しかし、最も大切なことは、イエス様のことばである聖書のことばを聞くことです。そして、聞いたことを私たちが行なっていくことです。

 今日、みんなに伝えたいことは、良いことを選ぶということです。神様が私たちに望まれていること、神様が喜ばれることは、「礼拝を守る」ということです。今日、このようにみんなで礼拝をささげられることはとても嬉しいです。それを、何よりも神様は喜んでくださっています。日曜日に礼拝に参加すること、聖書のことばを聞くことを大事にしてください。

 今日の聖書のことばを見るなら、それが「良いほうを選ぶ」という重要なことです。 そして、イエス様がそうだったように、自分のためだけでなく他の人のために生きる人になっていきましょう。みんなが神様のことばによって成長して、色んなところで活躍していくことを期待しています。必ず神様は、みんなを良いことのために用いてくだいます。礼拝を大切にして歩んでいきましょう。
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 11月14日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「胸が熱くなるほどのあわれみの心」

       ローマ人への手紙11章25節~31節    三浦真信牧師


<25節~27節>

 「兄弟たち」という呼びかけは、17節以降から続いている異邦人たちを主に指しています。神の民として選ばれたイスラエルの人たちがキリストを拒否したことで、福音が異邦人世界に広がっていきました。異邦人たちが、キリストを信じて救いの喜びを経験していきました。だからと言って、「思い上がることなく、むしろ恐れなさい」(20節)、たしかにキリストを受け入れた「あなた方の上には神のいつくしみがあるが、その神のいつくしみ、恵みにとどまっていなければ、切り取られることになります」(22節)と、神のいつくしみと厳しさの両面をパウロは伝えています。信仰によって神に義と認められ救われるという祝福は、イスラエルの族長であるアブラハムたちの信仰が根っこにあるので、その恵みに接ぎ木されて今異邦人である私たちもこの救いの恵みに預かっていることを忘れてはいけません。

 パウロがこのことを伝えたのは、「あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするため」です。自分が知恵ある者だと考えた途端に、私たちは神の知恵に頼らなくなります。「自分を知恵のある者と考えるな」(箴言3:7)と言われています。その前節では「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる」(箴言3:5~6)とあります。自分は知恵があり、自分の考えがいつも正しいのだと確信していると、神の言葉も人のアドバイスも受け入れられなくなってしまいます。そういう意味では、自分の愚かさを折に触れて知ることは大切なことです。

 自分の知恵を絶対としないで、むしろ神の奥義を知ってほしいとパウロは異邦人たちに願っています。奥義(ミュステーリオン→英語のミステリー)とは、「これまで秘められていたが今は露わにされているもの」を意味します。パウロが書いた手紙(ロマ書以外も含め)の中では、21回この言葉を使っています。ここでは、「イスラエルの救いの完成に関しての奥義」についてです。異邦人たちが、キリストを信じて救われたことで思い上がることがないように、イスラエルの救いの完成という奥義を知る必要があります。

 「イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです」

 「異邦人の満ちる時」の「満ちる」の言語はプレーローマで、「一杯に満ちる」「一杯の状態」を表す言葉です。文語訳では「異邦人の数満つるまで」となっています。これは異邦人がすべて救われるまでという意味ではなく、「異邦人の中の救われるべき数がいっぱいに満ちるまで」という意味です。ルカ14:22~23で、主人が「でもまだ席があります」と言うしもべに対して、「街道や垣根の所に出ていき、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい」と命じています。今はまだ天の祝宴の席があいています。まだいっぱいになっていません。「この家がいっぱいになる」のが、異邦人の満ちる時でもあります。

 黙示録を読むと、「獣」という言葉で表されている反キリストが出てきます。最後まで頑強に神を拒む存在で、これに仕える預言者たち(サタンと運命を共にする者たち)がいます(黙示録19:19~20)。また終わりの日の聖書の中の預言では、救われるものと滅ぼされる者の両方がいることが繰り返し語られています。ですから、異邦人すべてが救われるということではありません。そうではなく、「異邦人の救われる人の数が満ちる時(その数はわかりませんが)がやがてきます」、その時に「イスラエルはみな救われるのです」。

 ここの「イスラエル」も、イスラエル民族の全員というより、イスラエル民族含めキリストを信じて罪きよめられた者たちすべて(霊的イスラエル)をさしています。キリストが再び来られる終わりの日に、キリストを信じ恵みによって罪をきよめられた者たちの救いが完成します。

  「救い出すものがシオンから現れ~罪を取り除くときである」(イザヤ59:20~21、エレミヤ31:33の結合)。

 「救い出す者がシオンから現れ」とは、天上のエルサレムから再臨するキリストを示しています。

 「ヤコブ(イスラエル)から不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」

 終わりの時、イスラエルの家との契約が施行されます(エレミヤ31:33~34)。神の律法を破り、神に従うことができない彼らの心のただ中に、神ご自身がこれを書き記します。その時に、彼らは神の民となります。それは、神ご自身が彼らの不義を赦し、彼らの罪を思い起こさないからです。つまり彼らイスラエルが、キリストを受け入れて、罪の赦しを受ける時が来るのです。いや、もうそれが始まっています。民族的イスラエルも、そして異邦人も、キリストを心に迎え入れて、罪をきよめられる終わりの時代が来ています。神の国はキリストが来られた時から来ています(マルコ1:15)。キリストを信じた者たちは、ユダヤ人も異邦人も区別なく、霊的イスラエルとして神の国民となります。今すでに、キリストを受け入れた者たちの心に、神の支配が及んでいます。


<28節>

 イスラエルは、キリストの福音に関しては、異邦人が救われるために神に敵対している役割を演じているという独特の表現です。しかし選びという原理においては、父祖たち(アブラハム達)の信仰と契約のゆえに神に愛されている者です。現在は神に反逆しているかのように見えるイスラエル民族にも、終末における救いの希望が残されています。

<29節>

 「取り消されることがない」の言語は、アメタメレートス「変えられることがない」「悔いて引っ込めることがない」の意味です。神が与えた賜物と召命を、神が変えたり悔いたりはなさいません。アブラハムを祝福し、その子孫を祝福するという約束(契約)も、変えられません。一時的にその約束を変えられたかのように見えても、(どんなに失敗し神から外れてしまったイスラエルであっても)、神は終わりの日に回復してくださいます。神がイスラエル民族に与えた祝福を、心変わりによって取り消すようなことはなさいません。


<30節~31節>

 「あなたがた」は異邦人、「彼ら」がイスラエル民族です。 「今は」(ヌーン)が3回使われていて、最後の「今」は「やがて」を含む「今」です。異邦人クリスチャンは、かつては神に不従順であったが、今は(イスラエル民族の不従順のゆえに)神のあわれみを受けています。それと同じように、イスラエル民族は今不従順であるが、やがて神のあわれみを受けることができるようになるということです。


※まとめ

 異邦人にまで及んだイスラエルの祝福は、アブラハムの信仰を初穂としています。

 「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(創世記15:6)。本来なら子どもを産むことができない妻サラとアブラハムから、星の数ほどの子孫が与えられるという神の約束を、アブラハムは信じました。見える状況では絶対あり得ない時にも、アブラハムは見える状況ではなく神の言葉を信じました。神の約束を信仰によって受け取りました。その信仰のゆえに、アブラハムの子孫、イスラエル民族は神の祝福を受ける民となりました。そのアブラハムと神との契約ゆえに、イスラエル民族は神のご愛を受けますが、民たちの方はたえず神から目をそらして、自分たちの欲望を満たすための偶像を求めていきました。絶対義なる神は、造り主を侮る民たちをすぐにも滅ぼすことができました。しかし、アブラハムとの契約ゆえに、そして神のご愛のゆえに、彼らを見捨てることができず、なおも彼らが神のもとに帰ってくることを待ち望んでくださっているのです。


<ホセア14:1~3、11:8>

 預言者ホセアも(ヨエルも)、主の日(終わりの日)のさばきがどのようなものかを預言し、神の民でありながら神から心が離れてしまっている民たちが何とか神に立ち返るように迫っています。決定的な神のさばきの前に、神は民たちに悔い改めて立ち返るように、様々な形で呼びかけておられます。そして神を忘れているような時でさえも、ご自身の民に対して、神の心はあわれみで沸き返り熱くなっています。「エフライムよ、どうしてあなたを引き離すことができるだろうか。イスラエルよ、どうしてあなたを見捨てることができるだろうか」(ホセア11:8)の「エフライムよ、イスラエルよ」に自分の名前を入れてみてください。

 胸が熱くなるほどのあわれみの心で、神はイスラエルに(私たちに)、「わたしのもとに立ち返れ」と繰り返し呼びかけておられます。まだ神の国の祝宴の席は空いています。でもいつかいっぱいになる日が来ます。神は今の時代も、様々な天変地異や目に見えないウイルスの拡大などを通して、主の日が近いことを警告しておられます。今日という日に、心を頑なにせず、主の御声を聞いて立ち返りましょう(へブル3:15)。また、まだ席が埋まっていない神の国の祝宴に、人々をお招きしましょう。
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 11月7日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「聖なるものとされた初穂」

       ローマ人への手紙11章16節~24節    三浦真信牧師

<16節>

 イスラエル人がキリストを受け入れなかったことで、キリストの福音が異邦人世界に届けられ、そして異邦人がキリストを受け入れて喜びに満たされることを通して、イスラエルが刺激され、やがては福音を受け入れるとパウロは信じています。また実際そのようにイスラエル人たちの中にも救われる人が起きていきました。

 そしてここで、イスラエルの救いの可能性をさらに示す理由を述べています。このことは、イスラエル人のことだけではなく、キリストの救いを受けた者たちの家族や親族、ひいては自分の同国民の救いにも関連しますので、私たちの周囲の人たちの救いに関することとして受けとめていきましょう。  


 パウロは民数記15:17~21を比喩的に引用しています。「麦の初穂」とは、最初に収穫した麦のことです。旧約時代、最初に収穫したもの、最初に与えられたものの十分の一をささげていました。最初のものをささげることで、すべてが聖別され祝福されていくという主の教えです(ネヘミヤ10:37、エゼキエル44:30)。私たちが神にささげる献金も、残ったものをささげるのではなく、最初に主にささげていくことで、家計や生活すべてが祝福されていきます。与えられたものを、まず主にささげていく時に、すべてが主のものとして聖別されていきます。ささげ物に関して新約においては、「わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたがいつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです」(Ⅱコリント9:6~8)とあります。これがキリストの恵みと愛を受けた者たちのささげもの(献金)をする時の心です。


 「麦の初穂が聖なるものであれば、こねた粉全体も聖なるものである」の「初穂」はアブラハム・イサク・ヤコブたちイスラエルの族長たちを表し、「こねた粉」は、イスラエル民族全体をさしています。アブラハムを神が祝福の民として選ばれたということは、その子孫であるイスラエル民族全体も祝福の民として選ばれ聖別されているということです。

 それはこのあとの「根が聖なるものであれば、枝もそうなのです」も同じです。「根」がアブラハムたちイスラエルの族長、「枝」がイスラエル民族全体です。


<17~18節>

 イスラエル民族の一部の枝が折られて、そこに野生のオリーブである異邦人がその枝に接ぎ木されました。普通接ぎ木というのは、野生の台木(だいき)に育成された木を接ぐ方法がとられましたが、台木が弱っている場合は、若く威勢の良い野生の枝を接ぐことで台木を若返らせることも行われました。

 今使徒たちを通して福音が異邦人たちに伝えられ、キリストの救いを受けた人たちが喜びで活き活きとして勢いがある状態であったとしても、もとは「そのオリーブの根」であるイスラエルの族長アブラハムたちから豊かな神の恵みの養分をともに受けているのだから、枝であるイスラエル民族に対して異邦人が誇ってはいけないのです。異邦人が、神の民に組み込まれたことはどこまでも神の恩恵なのです。そしてイスラエルの枝が再び接ぎ合わされる可能性が十分あるのです。もちろんイスラエルが神の民としてもともと選ばれたことも神の恵みなのですが、私たちがイスラエルの人たちよりも先にキリストを信じて救われたとしても、だから自分たちが根っこを支えているのだと誇ることはできません。どこまでも、根が支えているのです。イスラエルの族長であったアブラハムの信仰が、イスラエルだけでなく、全世界の祝福に繋がっているのです。


<19節>

 「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」

 「私」(エゴー)が強調されています。「イスラエル民族が、神が遣わしたキリストを拒否したためにその救いの恵みを受けられなかった、それは自分たち異邦人である私が神の民の祝福を受け継ぐためだ」と思うなら、それは思い上がりです。この「私が」に、高慢と霊的危機があることをパウロは懸念しています。実際そのように受け取っている人もいたのでしょう。


<20~21節>

 確かに、アブラハムの祝福を受け継ぐはずのイスラエル民族は、不信仰によって折られました。その一方、異邦人クリスチャンは、キリストを信じる信仰に今立っています。それをどこまでも神の恵みと受け取り、「思い上がることなく恐れなさい」とパウロは命じています。自分の正しさを主張して恵みの福音を拒否した(本来は神の民として選ばれた)イスラエルに対して、神が惜しむことなくその祝福を取り除かれたのなら、異邦人であるあなたをも神は惜しまれないでしょう。つまりイスラエル人も異邦人も、「思い上がってはいけない、どこまでも神の御前に恐れへりくだるように」とパウロは命じます。


<22節>

 愛なる神は、義なる神でもあり、神の恵みを拒否し続ける者に対しては、厳しく臨まれます。それは行いの悪い者ということではなく、罪深い者をもキリストの十字架の死と復活により救ってくださるこの神の恵みを拒否する者に対してです。今はまだ「恵みの時、救いの日」(Ⅱコリント6:2)ですから、神は忍耐して待っておられます。神の祝宴の席はまだあります(ルカ14:22)。でもそれは永遠ではありません。またこの「神のいつくしみの中にとどまっていれば」限りないいつくしみがありますが、「とどまらなければ切り取られます」という厳しい現実が待っています。  


<23節>

 「あの人たちも不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます」。

 イスラエルも、不信仰に居続けないなら、また接ぎ木されていきます。

 「神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」。

 ここは、「できる」が文頭に来て非常に強調されています。神にとっては、今キリストを拒否しているイスラエルを、再び神の民とすることはたやすいのです。


<24節>

 (神の民ではなかった)野生のオリーブから切り取られた異邦人が、(自然に反して)栽培されたオリーブの木に接ぎ木されたのなら、本来栽培された枝であったイスラエルは、もっとたやすく自分の元のオリーブに接ぎ木されるはずなのです。 パウロは、今神の恵みを受けている異邦人が、思い上がることなく、神を恐れ、へりくだり感謝するように命じつつ、今なお頑なにキリストを拒んでいるイスラエルの救い、回復も、神にはおできになると確信しています。


 今日の聖書箇所から、特に三つのことを受け取りましょう。

  ① 私たちはキリストにあって聖なる初穂とされた者です。

 キリストの救いを受けた者たちは、キリストのきよめを受けた初穂です。ですから、初穂である一人ひとりを通して、また福音が広がり、周囲の人々がキリストによる罪の赦し、きよめを受けていきます。もちろんその人々がキリストを受け入れていく時に、罪のきよめと神との和解が成り立ちますが、すでにそのような祝福の中に置かれています。パウロは、キリストを今拒否しているイスラエル人たちでも、その初穂であるアブラハムの祝福が根っこにあるから、神は彼らをやがて救いに導いてくださると信じています。

 皆さんのご家族、一緒に仕事をしたり学んでいる人たち、日々関わる人々に、福音の初穂として救われた皆さんを通して、この祝福が流れていきます。だから、あの人もこの人も、やがて主のもとに立ち返ってくる人々、この祝福を受けることができる人として、接することができます。この事実を受け取りましょう。


 ② 神のいつくしみにとどまり続けましょう。

 福音を信じてキリストの救いを受けた異邦人たちも、思い上がってこの恵みにとどまらないなら、厳しいさばきを受けることになります。神をおそれ敬う気持ちを失い、神のいつくしみを侮るなら、イスラエルであっても異邦人であっても枝を折られることになります。神のいつくしみにとどまり続けましょう。「あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればです」(22節)。 


 ③ 神はどのような者をも再び接ぎ木できる方です。

 神が遣わしたキリストを拒んで折られたイスラエルさえも、神は再び接ぎ木することがおできになります。そうであるなら、キリストを通して神の祝福を受けた私たちの周囲にいる人たちも、あるいはそのいつくしみから一度離れてしまった人たちも、神は再び接ぎ木することがおできになります。ルカ15章に出てくる、父親の財産を湯水のように使い果たした放蕩息子さえも、立ち返った時に息子としての祝福を存分に受けることができました。ですから今主のもとから離れている身近な人たちを見て「だめだ」とため息をつくのではなく、「おできになる」神を信じ、すでにその祝福の中に置かれている一人ひとりとして見ていきましょう。初穂である皆さんを通して、彼らも神の祝福を受ける人々なのです。「神のいつくしみがこの人にもあの人にもあるのだ」という視点で関わりましょう。その視点で身近な人を見るようになると、その人との関係が変わってきます。今まで以上に尊い大切な存在となっていきます。

 「私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。だれでもキリストのうちになるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:16~17)。生まれながらの肉にある人としてではなく、やがてキリストの祝福を受けて新しくされる人として、関わりましょう。その時には、今の古い肉の姿は過ぎ去るのです。神はどのような人をもお救いになることができます。そのキリストの祝福を運ぶ者として、まず私たちを聖なる初穂として選んでくださいました。今週もキリストの祝福が、私たちの遣わされた場所に広がっていくことを喜び感謝しましょう。
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