(2021年10月)

 ・ 10月31日
 ・ 10月24日
 ・ 10月17日
 ・ 10月10日
 ・ 10月 3日
 




 10月31日
聖日礼拝メッセージ要約 -宗教改革記念礼拝- 主題:「コロナ禍を経験した教会~キリストの恵みに応答して生きる~」

       使徒の働き2章46節~47節          コリント人への手紙第一 12章4節~12節           コリント人への手紙第二 5章15節  他   三浦真信牧師 
                 
 毎年10月最終日曜日は、プロテスタント教会の基盤ともなった宗教改革がどのような精神であったかを覚えて記念礼拝を持っています。大切なことは繰り返し確認する必要があります。ドイツのマルチン・ルターがヴィッテンベルク大学にある城教会の掲示板に「95箇条の提題」という論文を張った日が1517年10月31日で、そこから全ヨーロッパに宗教改革の波がひろがっていきました。その1517年10月31日を、プロテスタントの始まりとしているため、10月最終日曜日に記念礼拝をしています。

1)宗教改革の精神

① 聖書のみ

  中世ヨーロッパ教会では、自分たちで聖書を読むと勝手な解釈をするからと、直に聖書を読むことが禁じられていました。そのため、教皇や司祭の言うことを鵜呑みにしていました。ですから、みことばを語る司祭たちが政治と一体になってしまった時に、教皇の指針を伝えるようになり、それを真実として受け取るようになりました。その最たるものが、免罪符の販売でした。免罪符というお札を買えば罪が赦されるとして、教会で免罪符が販売されるようになりました。聖書を読んでいれば、免罪符を購入することで罪が赦されることはあり得ないとわかったはずです。「罪の赦しはキリストの贖いによる」ことが繰り返し聖書で語られています。地位や影響力のある人の言葉が必ずしも正しいのではなく、聖書に聞いていくことが福音的信仰の在り方です。ベレヤの人たちも、熱心にみことばを受け入れ、聖書で確認していました。

 「ベレヤのユダヤ人たちは、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてその通りかどうか、毎日聖書を調べた」(使徒17:11)。

 このコロナ禍で、動画でいろいろなメッセージや情報を聞く機会が増えた方も多いでしょう。日ごろから聖書を読んでいないと、聖書の言葉を使いながらも、聖書が語る福音とは全く違う土台で教えているものがたくさん出回っています。日頃から真理に触れていないと、間違ったものに触れた時に、違うと気付かないまま受け入れかねません。ですから神の言葉である聖書を読みましょう。聖書をぜひ通読しましょう。聖書全体が神のメッセージです。

 最近聞いたある方の証しです。聖書通読をしていて、旧約の聖絶のところが何度も出てきます。どうしてここまで偶像に対して神が厳しい対応をされたのかを考えていました。その頃朝起きると、過去の痛みがうずいて苦しくなっていたそうです。それ自体が自分の偶像で、聖絶されるべきものだと気づいたときに解放され、それからその思いがなくなったそうです。通読をしていると、そのような気づきや解放が与えられます。

 「私たちはみな、神の子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪だくみや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ愛を持って真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです」(エペソ4:13~15)。

 「神の子に対する信仰と知識」は、みことばを通して養われていきます。

② 信仰のみ、恵みのみ

 聖書は、私たちが罪から救われるのは、人間の行いによるのではなく、私たちの罪の代わりとなって十字架で死なれ、三日目によみがえられた神の子キリストを信じる信仰によると繰り返し語っています。  

 中世ヨーロッパ教会では、人間の行いが救いであるという教えがはびこっていました。免罪符を買うことも、買うという行為による救いが説かれました。人間の良い行いをどんなに積んでも、それで罪が贖われるわけではありません。ちょっと良いことをしたから、それで帳消しにできるほど、私たちの神に対する罪は小さくないのです。人間の努力行いによっては、罪の解決はありません。救いは受ける資格のない者に一方的な神の恵みで、キリストの十字架の贖いを通して与えられます。ですから救われた者には神への感謝・讃美しかありません。

③ 万人祭司

 キリストの救いを受けた者は、みな神と人とを仲介する祭司の役目が与えられています。祭司とは、ラテン語で「ポンティ・フェクス」です。ポンティは「橋」で、フェクスは「ファキオー(作る)」という語に由来します。「橋を造る」「橋渡しをする」の意味です。教皇や司祭だけでなく、また牧師や伝道者だけでなく、キリストの贖いを受けた者はみな、神と人の橋渡しをする祭司です。「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それはあなたがたを闇の中からご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」(Ⅰペテロ2:9)。すでにそのような存在とされていることを、まず受け取りましょう。そうすれば、主がそこでどのように生きるべきかを教えてくださいます。


2)コロナ後の教会で大切にしたいこと

①小グループによる礼拝(使徒2:46~47)

 このコロナ禍で、今までのように1か所に集まって礼拝できない日が続き、多くの方がライブ配信で礼拝するようになりました。そのため自然に礼拝場所が広がっていきました。初代教会も、「家々でパンを裂き」とありますように、家々で集まって、礼拝・聖餐をしていました。そして「喜び真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった」のです。このように家々で集まった人たちで、礼拝をし、食事の交わりをし、また宣教がなされていきました。この「家々」が、教会の役割を網羅していたのです。

 この小グループの礼拝を教会でできないものかと、コロナ前から考えていました。特に台風や大雨のため、ここ数年何度か教会の礼拝に集まれないことがありました。また東日本大震災の時には、安否を確認するために近くに住む人同士の連携が必要でした。今後もそのようなことが増えてくるでしょう。  

 今ライブ配信だと、一人で、夫婦で、親子での参加が大半です。今まで礼拝にいらっしゃらなかったご家族の方が、ライブ配信になってから参加してくださっています。そのようにご家族で集まって礼拝もできるでしょうし、コロナが落ち着いたら近隣の方たちで、毎週でなくても月1回位でも、どなたかの家か、貸しスペース、公共の場所などを借りてライブ配信を使って礼拝することもよいのではないかと考えています。小グループで礼拝をする場合は、そこで礼拝、交わり、宣教すべてができます。

②賜物を主のために用いる(Ⅰコリント12:4~7、12)

 神は、「皆の益となるために、また主に仕えるために」、一人ひとりに賜物を与えておられます。それをぜひ全員が受け取って、自分のからだの器官としての役割を果たしましょう。それは、自分自身の信仰の成長のためにも、また神がキリストの体なる教会でどのように生きて働かれるかを見て、体験するためにも必要なことです。

 キリストのからだの器官としてそれぞれに与えられたものをキリストのために用いましょう。賜物といっても、特別の能力を必要としてるわけではありません。これなら自分にできる、この時間なら何かできる、教会に来るといつも気になっていることがあるなど。気がつくことも賜物です。教会に来るといつも気になっていることがありませんか?あそこが壊れている、あそこに花を飾りたい、あの汚れが気になっている、あの人がいつも悩んでいるみたいで気になる…。礼拝堂も建って20年過ぎ、建物のメンテナンスをしようと計画しています。ホームページや教会案内、週報なども専門家に新しくデザインしていただくことも検討しています。配信設備も、いろいろな人が関われるようなシンプルなものが徐々に整えられることを願います。礼拝にも、いろいろな世代の人たちに関わっていただきたいと思います。皆の益となるために、またキリストのからだが成長し、主に仕える喜びが皆で経験できるように、主から与えられた賜物をまず明確に受け取りましょう。

③ 広い意味での宣教(Ⅱコリント5:15)

 10年前の東日本大震災の時に多くの方が被災し、苦しむ人々に福音を知ってほしいとクリスチャンは誰も思ったことでしょう。宣教という時には、まず具体的にその人の困っていることを助けるということがあります。困っている人、苦しんでいる人に、「あなたが信じたら助けます」というのはただの脅しになります。イエス様も、病の人、悪霊につかれて苦しんでいる人がいたら、その人がキリストを信じても信じなくても、助け癒されました。また癒された人がみな信じたわけではありません。それがイエス様のなさったことですから、私たちも同じ宣教の視点を持つ必要があります。もちろん具体的に苦しんでいる人をサポートしていく中で、その方がキリストに出会い、救われていくこともあります。また福音を伝える機会も自然に増えるでしょう。その時には大胆に伝えましょう。でもその人が信じなくても、必要な助けは続け、導かれる限り寄り添っていく、それが宣教でありイエス様が私たちに見せてくださった模範です。

 その方たちも、イエス様が決して報いを失うことはないとおっしゃった、私たちに一杯の水を飲ませてくれる人かもしれません(マルコ9:41)。私たちが助けていると思っている人は、実は私たちを助けてくれている人です。一杯の水どころではない、目に見えない豊かさを与えてくれる人であったりします。「助けてくれてありがとう、祈ってくれてありがとう」と言ってくださる方から、逆に神のみわざを見せていただき、こちらが恵みを味わわせていただいているのです。

 もちろん私たちは万人祭司とされているのですから、罪の暗やみから驚くべきキリストの光の中に招いてくださった方の栄誉を伝えますが、何よりも私たちのために死んでよみがえってくださったキリストのために生きます(Ⅱコリント5:15)。キリストのために生きるとは、キリストが歩まれたように生き、キリストが願っておられるように生きることです。ただ伝道すればいいではなく、キリストのために生きるとは、もっと広い宣教の歩みを意味しています。一人ひとりがキリストのために生き、与えられた宣教の使命を果たしていくことです。キリストの恵みに一人ひとりが応答していく時に、宣教が前進していくと信じます。

 伝道は、宣教の一部分です。初代教会の弟子たちも、朝から晩まで「伝道するぞ」と意気込んでいたわけではなく、キリストの者として社会の中で生きていただけです。主を礼拝し、主の言葉に従って生きていたら、そこに人々が自然に集まってきて、福音が広がっていきました。与えられた仕事を忠実にしながら、人々に寄り添い、キリストの者として普通に生活していたのです。苦しんでいる人や悲しんでいる人がいたら、自分にできる形で寄り添い助けていく中で、神を礼拝する人々が起こされていきました。あらゆる形で、地域に、家族に、知人たちに仕え、主が喜ばれる歩みをしていきましょう。その結果、「民全体から好意を持たれ、主が救われる人々を加えて一つにして」くださいますように。一人ひとりに与えられた賜物が活かされて、宣教の教会となりますように。
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 10月24日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「片手に安らかさを満たす生き方」

       伝道者の書4章1節~6節    三浦真信牧師

<1節>

 「私は再び、日の下で行われる一切の虐(しいた)げを見た」

 日の下(この地上世界)では、いたるところに「虐げ(虐待)」があります。強い者が、あるいは強い立場にあるものが、弱い者たちを虐げる世界です。罪が支配するこの世界においては、人が人を虐げる世界が続いています。今でこそ、パワハラとかDV、あるいは「いじめ」という言葉で問題とされていますが、それでも虐げが無くなることはありません。

 パワハラで訴えられるケースが増えてから、パワハラが起きていないかたえず審査する組織が増えました。これまでは、上司が部下から訴えられるケースがほとんどでしたが、最近は逆に「パワハラで訴えますよ」と上司が部下から言われて精神的ダメージを受けるケースも増えています。家庭の中でも、DV(ドメスティック・バイオレンス)で、身体的暴力、言葉による暴力で、多くの人たちが虐げられて苦しんでいます。同僚や、友人同士でも、特定の人を仲間外れにしていじめたり、立場に関係なく、人が集まると虐げが起きてきます。

 「見よ。虐げられている者たちの涙を」

 虐げる側は、その時は痛くも痒くもないかもしれませんが、虐げられる側は、辛くて涙を流しています。職場のパワハラで、精神的にボロボロになった方が多くいます。家庭内の暴力、暴言で鬱(うつ)になり家庭が破綻することもあります。虐げる側は、パワハラだともDVだとも思わない。どうしてそんなふうに受け取るのかさえ理解できないかもしれません。でも受けた側は、それで涙しています。


 「しかし、彼らには慰める者がいない。彼らを虐げる者たちが権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない」  

 虐げられ、涙を流し、身も心もボロボロになっても、「慰める者がいない」と、繰り返し言われています。多くの場合は、権力のある者が虐げる側になります。虐げられる者たちは涙を流し、ひどい時は病んでしまいますが、それでも「彼らには慰める者がいない」のです。

 実際、誰にも相談できずに悩み果て、普通の生活ができなくなってはじめて周囲が気づく場合もあります。誰かに相談できて、慰めやアドバイスを受ける場合もありますが、それでも渦中にある本人の苦しみは癒えません。その苦しい心を、人が完全に理解し、慰めることはできません。一時的な慰めを人から得ることができても、その虐げられている状態が変わらない限り、いや改善されても、そこで受けた傷はずっと心の中でうずき続け、また何かあると再燃することもあります。


<2~3節>

 このように、虐げられる者たちが涙しながらも慰められることがなく、不正や悪がはびこる世界を見ると、「死んだ方がまし、いや生まれてこなければよかった」という悲観的な考えも生じてきます。 様々な不条理な出来事が起き、苦難だらけの「日の下」です。しかし苦しい時に、ずっと寄り添い慰め助けてくださる神がおられます。

 「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し、あなたはわたしをあがめる」(詩篇50:15)。

 「私の救いと栄光は、ただ神にある。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ、どんな時にも神に信頼せよ。あなたがたの心を、神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」(詩篇62:7~8)。

 「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、あなたのみことばは私を生かします」(詩篇119:50)

 苦しくて祈ることもできないとき、詩篇を読むと良いと勧められたことがあります。神が、みことばによって真実の祈りへと導き、虐げの中で涙する者たちを慰めてくださいます。生きられない、生まれてこなければよかったと思えるような中でも、神こそ慰め助けてくださる方です。


<4節>

 この伝道者(コーへレス)は、事業で成功し多くの財産を得ました(2:4~11)。しかしそこにあるのは、人間同士のねたみや競争心、権威やお金に対する欲望が土台となり、表面上は世のため人のためと歌いながらも、醜(みにく)い心がぶつかり合っているだけでした。そこで成功した、しなかった、勝ち組負け組が生じたところで、「これまた空しく、風を追うようなものだ」と。


 「嫉妬」と「妬み」の違いについて。嫉妬(jealousy)は、「奪われること、失うことに対する恐怖・不安」から生じます。妬み(envy)は、「自分より上の何かを持っている人に対して、その差異を解消したい、羨ましい」という思いから生じます。神が私たちをねたむほどに愛しておられる、「ねたむ神」と表現されているのは、私たちの心が様々な世の偶像に心奪われていること、本来崇めるべき神ではなく、神ではない偶像を崇めていることへの悲しみを現わす表現です。嫉妬に近いかもしれません。しかし神の完全な愛からくるものなので、人間の罪の性質による「ねたみ」とは全く違います。


 ねたみは、人間の古い肉の性質です。ガラテヤ5:19~21に肉の行いのリストがあります。パウロは、その肉を生かす方向ではなく、むしろ「御霊によって歩みなさい」と命じています。

 「気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」(ガラテヤ5:15~16)。

 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。うぬぼれて、互いに挑(いど)み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう」(がラテヤ5:24~26)。


 教会といえども、罪人の集まりです。キリストの恵みによって罪赦されたけど、なお聖化の道をたどっている者たちの集まりです。たえず肉の思いも出てくるし、肉と肉のぶつかり合いがあります。また教会は、人によってはこの世と別世界の空間に見えるかもしれませんが、そんなことはなく、社会の縮図のようなところです。みなそれぞれこの社会で生きていますから、そこで起きてくる出来事で悩み、苦しみながら、それでも神に祈り、神の言葉に聞きながら、また互いのために祈り合いながら、歩んでいます。そしてその悩みの根底には、自分の内側から出てくるねたみや欲など、古い肉の性質との戦いがあります。肉を土台とはせず、御霊に支配していただくことを求めていきましょう。肉はキリストの十字架で処分されたものとしてたえず後ろにし、御霊に満たしていただくことを求めましょう。

 この世界は肉を土台とした原理で動きますので、ねたみをエネルギーにして、見える成功を追い求めていきます。すべてを手に入れたこの伝道者は、それ自体が風を追うような虚(むな)しいことだと言っています。


<5~6節>

 これは当時あった箴言(格言)の引用と思われます。「ねたみを土台として成功しても空しいだけだから、怠けていよう」とただ腕組みして何もしないでいると、困窮することになります。決して怠惰が良いわけではありません。  

 かといって、競争社会の中で成功して、隣人へのねたみを原動力にしながら「両手に労苦を満たして」生きるのも空の空です。それよりも、「片手に安らかさを満たすこと」の方が勝っています。

 「片手に安らかさを満たす人生」。仕事や自分に与えられている使命を果たしながらも、イエス様のもとで休み、安らぎと力をいただく生き方です。イエス様はおっしゃいました、

 「寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」(マルコ6:31)

 「わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」(マタイ11:29)。

 ねたみや競争心をエネルギーにしていく時には、両手に労苦を満たし、いっときも休まることができず、周囲を破壊し自分をも損なっていきます。しかし片手を空けて、イエス様の愛にどっぷり浸って休み、イエス様との交わりで安らぎを得ていくなら、決して風を追うような虚しい人生では終わりません。ねたみ、嫉妬、競争心などをエネルギーとするのではなく、イエス様の愛を原動力としていくなら、人や自分を損なうより生かす生き方となっていくことでしょう。ねたみを土台としていく時には、人を殺していきます。蹴落とし、損なっていきます。しかしキリストの愛を土台としていく時には、人を生かします。その結果自分自身も生かされていきます。肉を土台として人を損なっていく時には、自分自身をも損なっているのです。

 決して怠惰に生きるのではなく、片手ではしっかり為すべきことをしながら、でもそこにどっぷり漬(つ)かって両手に労苦を満たす生き方ではなく、たえずキリストのもとで休み、キリストから学んで力を回復し、たえず正気に戻されて生きることを求めましょう。聖書の言葉は私たちに安らぎを与えます。人の言葉や、世の情報で私たちの心はたえず動揺し、不安になりますが、神の言葉を真理として聞きましょう。みことばに留まりましょう。

 そしてやがて、地上の労苦から解放された時には、両手いっぱいに神の愛だけに満たされる神の国が待っています。その時まで、両手が地上の労苦や仕事だけでいっぱいにならないように、片手に神の安らかさを満たしましょう。
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 10月17日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「和解の務めを託された私たち」

       ローマ人への手紙11章13節~15節    三浦真信牧師

<13節>

 ローマの教会にもユダヤ人がいましたが、ここでは特に「異邦人であるあなたがたに言います」とあります。パウロは、異邦人にキリストの福音を宣べ伝えるために召されました。最初はユダヤ人の会堂で福音を伝えていましたが、ユダヤ人たちがパウロの語る福音を拒否していったため、異邦人たちに福音を伝えていくようになりました。それでもパウロは、自分と同じ民族であるユダヤ人の救いを切に願っていました。

 パウロは、自分が「異邦人への使徒」として召されたことをはっきり受け取っていました。そしてその務めを重く受けとめています。神から異邦人伝道のために召されたことを、しっかり受け取り、またそれを神から託された大切な務めとして重く、最優先事項として受けとめていたのです。「召される」とか、「召命を受ける」というと、伝道者や牧師になる時に使うイメージがあるかもしれませんが、決してそうではありません。

 召命は、英語で“calling”です。そしてcallingには、「天職」とか「職業」の意味があります。神様は一人ひとりに、このcallingを与えてくださっています。現在している仕事がそうであるかもしれないし、教会の奉仕もそうですし、あるいは神が与えておられる社会での役目が何かしらあるのです。

 教会でも、いざという時には、教会のために時間も労力も物資面でも惜しまずにささげてくださる方がいてくださったから、こうして80年以上も久遠教会は続けられています。決してそれは当たり前ではありません。このコロナ禍で、閉鎖した教会は日本にも世界にもたくさんあります。教会はあるのが当たり前ではありません。牧師がいれば教会が成り立つわけでもありません。多くの閉鎖した教会は、理由は色々あるでしょうが、牧師自らが教会を閉じています。  

 これまで教会を献身的に支えてくださった方たちは、それぞれ仕事を持ち、ご家庭があり、様々な責任を持ちながらも、やはり教会のために祈り、ある時は何よりも優先して仕えてきてくださいました。そのような方たちの献身によって今の教会があります。これからまたそのような方たちが次の世代でも次々出てこなければ、教会は遅かれ早かれ衰退していきます。  

 神から託されている務めが一人ひとりにあります。神からどのように、また何をするように召されていますか?それをしっかり神から受け取っていくこと、パウロが表現するように重く(神さまからのこととして大切に優先的に)受けとめていくことは、神の召しに答えることです。その召命はそれぞれに与えられています。神から託されている務めをしっかり受け取り、そのことに忠実でありましょう。その召しに応答しましょう。神が召しておられることに応答する時には、大変なことが多々あっても喜びがあります。神が召しておられても、それに応答しなければ何も始まりません。一人ひとりに神が召しておられることは、神から託された大切なこととして、そういう意味では重く受けとめましょう。


<14節>

 「私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです」(14節)  

 パウロには、異邦人伝道への召しがあり、その召しを重く受け取っていました。そしてその働きは、同胞ユダヤ人イスラエルの救いにつながると確信していました。  

 パウロが異邦人たちに福音を伝えていくようになり、それによって異邦人が救われ喜ぶ姿を見、イスラエルがねたみを起こして、これまで拒否してきたキリストを求めるようになるから、自分の務めは最終的に同胞イスラエルの救いに繋がっていくことになると確信して、異邦人伝道に邁進(まいしん)していくことができたのです。

 「彼らのうちの何人かでも救いたいのです」、これがキリストの愛を知った者のうちに湧きあがってくる願いです。なぜならキリストの救いを受けないことが、どれほど悲惨なことであるかを知っているからです。遣わされた場所で、この願いをもってとりなし祈っていくなら、神が必ずこの願いに答えてくださいます。  

 救われてほしいという願いがあっても、福音を無理やり押し売りすることはできませんから、どのように伝えたらよいかは絶えず悩むでしょう。でもその願いがまずあれば、神さまに祈り求めます。そして祈っていると、神が具体的にその人その人にあった伝え方を教えてくださいます。「彼らのうちの何人かでも救いたいのです。救われてほしいのです」との思いがまずあるかという問いかけをしてみましょう。  


<15節>

 「彼ら」とはイスラエル人です。「イスラエル民族が、神に見捨てられることが」というのは、イスラエルの神への背信のことです。「不従順」(10:21)、「つまずき」(11:11)、「背き」「失敗」(11:12)とこれまで表現してきたことです。イスラエルは、決して神から捨てられたわけではありません。むしろ彼らの不信仰、心の頑なさ、鈍さゆえに、神が遣わした救い主イエスを彼ら自身が拒否したのです。その結果、異邦人たちに、そして世界に福音が広がることになりました。


 「世界の和解となる」とは、異邦人世界が神と和解するようになったことです。キリストの福音が異邦人世界に宣べ伝えられることによって、神から離れていた異邦人たちが神との和解を得るようになったことです。  

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました」(Ⅱコリント5:17~19)。異邦人たちがキリストを受け入れることで、罪が支配する世界から、神の国の民として生きる全く新しい生き方へと彼らを変えてくださいました。それは、キリストによって神と和解したことで実現します。私たちの神への背きの責任を、キリストが代わりに負って十字架で死なれました。そして神と和解した私たちに、和解の言葉を委ねられたのです。「私たちはキリストに代わる使節なのです」(Ⅱコリント5:20)。イスラエルが拒んだキリストの福音が、異邦人世界に神との和解をもたらしたのです。その神との和解を伝えるキリストの使者として、まず私たちがキリストによる神との和解を経験したのです。  


 そして「彼ら(イスラエル)の受け入れられること」は必ず起こります。それは「死者の中からのいのちでなくて何でしょうか」。つまりイスラエル民族がキリストの福音を拒んで、神の前に霊的死者となりました。そのイスラエルが、悔い改めて再び神によって生かされたものとなるということです。霊的に死んでいたイスラエルが、やがて罪の赦しを与えるキリストを受け入れ、神によって霊的いのちを与えられるのです。  

 パウロは、かつてキリストを迫害している時に、キリストの一方的救いを受けたことを、重く受けとめていました。それは異邦人たちにこのすばらしい福音を宣べ伝えるためであり、同時にイスラエルの人たちが、巡り巡っていのちを得るためでした。罪に束縛され暗闇の中にいたパウロが、驚くべきキリストの光の中に招かれました。この喜びをイスラエル人たちに経験してほしい、キリストを知ってほしい、その思いが「彼らのうちの何人かでも救いたい」という熱い思いとなっていったのです。  


 私たちが経験したこと、身に着けたこと、また苦しんだことなど、神はすべてを用いて、ご自身の栄光のため、宣教のために用いられます。今何に召されているのか、だれに寄り添うように導かれているのか、主に聞きましょう。主から受け取ったことは、簡単にはやめられません。自分の思いでしていることは、嫌になったらやめるかもしれません。でも主から受け取ったことは、困難があっても、主から「もうやめてもよい」と言われるまではやめられないでしょう。また嫌々でもやらないわけにはいかないことも多々あります。

 あらゆることを通して、また教会を通して、人々が神と和解できるように、和解の務めを先に救われた私たちに神は託しておられます。神お一人でもできることを、あえて欠けだらけの私たちに託しておられるのです。教会も、キリストのからだの器官としての役割が、一人ひとりに与えられています。一人で何もかもするのではなく、皆で協力して、相談したり一緒に祈ったりしながら、教会は成長していきます。

 「和解の務めを神から託された者として、神にどのように仕えるのか、また教会においてからだのどの機能を託されているのか、神にお聞きしましょう。そして示されたら実行しましょう。今だからこそできること、今でしかできないことがあります。「いつか、いつか…」と言っているうちに、キリスト再臨の時が来てしまいます。神から召されていることは、一人ひとり違います。神が私に託されたことに忠実でありましょう。神から召されたことは、重く受けとめて優先しましょう。人々が神と和解できるように、神から託された務めを大切にしましょう。
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 10月10日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「失敗が世界の富となる」

       ローマ人への手紙11章7節~12節    三浦真信牧師

<7節>

 イスラエルが追い求めていたものは、「神の義」でした。神に正しいと認められることでした。それを自分たちの行いによって得ようとしていたのです。しかし完全な行いを要求する律法を行うことによって神の義を得ることは人間にはできず、結局罪悪感に苛(さいな)まれ続けるか、表面的な正しい行い(偽善)によって自己満足するしかありませんでした。心から神に義と認められる安心を手に入れることはできなかったのです。そしてこの「神の義」は、選ばれた者たち(キリストの恵みによって神の義を得る者たち)が手に入れたのです。自分の行いによっては、どこまでも神の義を得ることはできないと認めて、キリストの十字架の贖いを信じる者たちが、イスラエルが追い求めていたはずの神の義を手に入れたのです。

 「ほかの者たちは頑(かたく)なにされたのです」。この「頑(かたく)な」という言葉は、マルコ6:52でも同じ言語が使われています。「鈍い」という意味もあります。イエス様が5000人を、五つのパンと二匹の魚で満腹にしてさらに12かご残すという奇跡を行われました(マルコ6:32~44)その後、ガリラヤ湖で船に乗っていた弟子たちが嵐のような向かい風で船を漕(こ)ぎあぐねて困っていた時に、イエス様は湖の上を歩いて近づかれました。弟子たちはその姿を見て、幽霊だと思い叫び声を上げます。イエス様は、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われ、イエス様が船に乗り込むと風はやみました(マルコ6:45~51)。すぐ直前に、5000人の給食の奇跡を彼らは見て、イエス様が神の子であることを目の当たりにしたにも関わらず、もうそのことを忘れて、イエス様が嵐の中湖を歩いているのを見て幽霊としか思えませんでした。嵐の中で、どんなことをしてでもイエス様が助けてくださるという信仰に立てなかったのです。神の子イエス様の力を理解する心が鈍くなっていたのです。霊的鈍感になっていました。

 パウロ時代のイスラエル人たちも、それまで歴史を通して働かれた神の偉大なみわざを見てきたのに、また預言者を通して繰り返しキリストが来られると語られてきたのに、いざキリストが来られると、キリストを拒否していきました。まさに心が鈍く、頑なになっていたのです。私たちも、霊的に鈍く頑なになると、神さまのみわざを理解できなくなり、必要以上に不安や怖れに取りつかれることがあります。だから霊的に鈍くならないように、たえずみことばを受け取り、神のみわざをしっかり心に留めて歩みましょう。


<8節>

 「鈍い心」「見ない目」「聞かない耳」は、どれも同じ状態です。霊的に鈍く頑なになっていると、見えるべき神の力や恵みが見えなくなり、聞くべき神の御声が聞こえなくなります。そして見なくてよいもの、聞かなくてもよいものばかりに向かってしまいます。

<9~10節>

 詩篇69:22~23の引用です。

 「彼らの食卓」。食卓は、本来楽しい平和な場所です。しかし神を無視し、鈍い心のままで、「安心だ、大丈夫だ」と飲み食いを楽しみ、生活を楽しんでいるなら、いつかそれが苦難に 陥(おちい)る罠(わな)となり、落とし穴となり、つまずき、神の審判となるという警告です。神は約束通り、救い主を遣わしてくださいました。でもその神の約束を無視し、霊的に鈍くなって神のみこころもご計画も理解しようとせず、「そのままでも楽しいからいい」と安心していたら、いずれとんでもないことになるのです。キリストを通して差し出された恵みを無視し続けるなら、いよいよ神の恵みに対して目の見えないもの、神の声が聞こえない者となってしまいます。

 「その腰をいつも曲げておいてください(詩篇では「その腰がいつもよろけますように」)」とは、「律法の重荷を背負い続けるがよい」という意味です。キリストの福音が今伝えられているのに、それを拒否して、自分の力、自分の立派さ、自分の義にどこまでも固執するなら、この先も重荷を負い続ける人生となります。詩篇のみことばを引用しながら、そうあってほしくないと願う、同胞イスラエルに対して嘆くようなパウロの祈りが込められています。


<11節>

 このように頑なで鈍い心により、福音に対して見ることも聞くこともできなくなってイスラエルがつまずいたのは「倒れるためでしょうか?」と問いかけます(「倒れる」は、再び起き上がれなくなる状態、滅亡してしまうことを意味する言葉です)。それに対して、パウロはまたも「決してそんなことはありません」と強く否定します。

 「彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました」 イスラエルがキリストを受け入れなかったことで、福音は異邦人世界に、そして世界中に広がっていきました。もちろん異邦人も皆が受け入れたわけではありませんが、偏見を持たない分、ストレートに福音を受け入れる人たちが起きていきました。そしてそのことは「イスラエルにねたみを起こさせた」のです。ここは、「ねたみを刺激する(パラゼーローサイ)」という意味です。「ねたみ」という、人間の生まれながらの肉の性質さえも用いて、神は益となさったのです。自分たちが軽蔑し、見下していた異邦人たちが、キリストの救いを受けて喜びに満たされ、神の言葉に喜んで従っている姿を見て、「本来なら自分たちが受けるべき祝福なのに…」と、ねたみによって発奮し、自分たちもその祝福に預かりたいと求めるようにされたのです。神は、そのような人間の肉の思いすらも用いて、ご自身の計画を進めていかれます。

 「ねたみ」とは少し違うかもしれませんが、たとえばキリストに出会って間もない方たちが、喜んで礼拝をしたり、キリストを証ししている姿を見て、長年信じてきた人たちが触発されるということがあります。キリストに出会って、嬉しくて、キリストのことを身近な人に伝えずにはいられないという姿を見て、最初のキリストの愛を思い起こしたり、貪るように聖書を読んでいた時を思い出して、もう一度聖書通読を再開しようと思うこともあるでしょう。そのように、他の人がキリストに出会って喜んでいる姿とか、聖書を読む中で恵まれている姿を見て刺激を受け、また信仰歴の長い人たちも熱くされ恵まれていくというこがあります。そういう意味でも、たえず新しく救われる人が起こされることが教会にとっては大切です。

 また「ねたみ」と言えば、パウロはピリピの人たちに獄中から書いた手紙の中で、「ねたみや争いからキリストを宣(の)べ伝える者もいるけど、それでもキリストが宣べ伝えられているのだから、私はそのことを喜んでいます」と言っています(ピリピ1:15~18)。「ねたみ」は、ガラテヤ5:21では、肉のわざのリストに入っていますが、神はそのような人間の肉の思いさえもご自身の計画のためにお用いになることができます。ねたみや競争心さえも、伝道のために用いられるのです。人間の古い肉の性質や欲望さえも、ある時はご自身の計画のために用いられます。それが肉であるなら、ずっと抱えたままでいると苦しくなるので、ご聖霊が悔い改め聖別される時があるでしょう。

 同じように、イスラエルから福音宣教が異邦人世界に移行して、異邦人が救われていくことで、イスラエルにねたみが刺激され、イスラエルもやがてキリストを求めるようになるのだから、決してイスラエルは神から見放されて滅びるわけではありません。


<12節>

 そう考えると、イスラエルが神に背き、不従順であったことさえも、それが「世界の富」となりました。福音が世界に広がり、世界中の人たちがこのキリストという宝を見つけて平安と喜びを得ることになったのです。そしてイスラエルが神の子キリストを受け入れなかったという、ある意味で失敗に見える状況が、逆に「異邦人の富」となりました。

 「彼ら(イスラエル)がみな救われることは」は、直訳は「彼らが満ちること」「彼らの完成」です。やがてイスラエル民族に対する神のご計画が完成する時が来ます。それがどれほどすばらしいことでしょうと、パウロは先に用意されている希望に目を留めます。

 イスラエル(ユダヤ人)は、紀元70年ローマ帝国の侵攻によるエルサレム崩壊後、散り散りになります。離散の民として、世界をさすらう民族となります。第二次世界大戦時には、ナチスドイツによって600万人のユダヤ人が殺されました。それでも世界中でユダヤ人の数は増え続け、ヒットラーの迫害でヨーロッパにいたユダヤ人の多くがパレスチナに移住するようになり、それ以前からパレスチナにいたユダヤ人とともに増えていきました。そして1948年にイスラエルは国家宣言をして、今のイスラエルという国が再建されています。国を追われ、虐殺や迫害を経験しながらも、ユダヤ人は増え続けています。またその中から、キリストを信じ救われる人たちも現在増えています。パウロが1世紀に語った通り、イスラエルが一度は拒否した福音が、異邦人世界に広がっていきましたが、神は決してイスラエルを見放されたわけではなく、彼らの背き、彼らが福音を受け取ることにおいて失敗したように見えることも、神さまの大きなご計画の中ではすべて益となり、祝福の出来事へとつながっています。ユダヤ人、ギリシャ人という区別なく、あらゆる民族がキリストにあって一つに集められるという、神のご計画は着々と進んでいます。

 「神は、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは…時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地になるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです…またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐものとなりました」(エペソ1:9~11)


 神のなさることは計り知れません。神は私たち人間が考えもしない方法で、ご自身の計画を進めます。人の目から見たら失敗と思えることさえも、巡り巡って成功になさるのです。私たちが神に背いてしまったと後悔したり、罪意識を持っていることさえも、実は長いスパンで見ると、世界のあるいは誰かの益となっているかもしれないのです。神は大きい方です。今の目に見える状況で結論を出す必要はありません。私たちが失敗したこと、思い出すだけでも恥ずかしくなるような失態も、神は全部益に変えてくださいます。「神を愛する人たちのためには、すべてのことが益となる」のです(ローマ8:28)。「どうして私だけこんな辛い思いをしなければならないのか」と思うような出来事も、過去の痛みも、神と共に歩む時にすべてが益として用いられます。神は、私たちが人生の中で一番辛かったこと、悩んだことを通して、今度は他の苦しんでいる人たちを助けます。神のためにお用いになります。

 私たちは皆失敗をしますが、神は失敗をなさいません。人の目には失敗のように見える出来事も、ご自身の計画が実現するためにすべて益とされます。十字架の出来事も、人の目には失敗に見えたでしょう。しかし神の子が十字架で死なれたことで、すべての人の罪の贖いの道が開かれていきました。そして十字架の死から三日目によみがえられたことで、人々を束縛していた罪と死から解放する救いが成就したのです。この喜びを阻止しようとしていたサタンに勝利しました。イスラエルと異邦人の救いの関係を通して、私たちは「すべてのことを益とする」神のご計画の真実を見ることができます。あらゆる行き詰まりや思い煩(わずら)う出来事も、すべてを益となさる神のご計画の中にあることと信じましょう。
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 10月3日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「大切な一人の救い」

       ローマ人への手紙11章1節~6節    三浦真信牧師

<1節>

 パウロがこの手紙を書いている今も、イスラエルは神が遣わされたキリストを受け入れず、自分たちの基準で、また自分たちの力や知恵で神の義を得ようとし続けていました。そのイスラエルの歩みを見て、パウロは「神はご自分の民を退けたのでしょうか」と問いかけます。しかしその問いに対して「決してそんなことはありません」と強く否定します。

 なぜそのように言い切れるのでしょうか?それは、今キリストの素晴らしい救いに与ってキリストを宣べ伝えているパウロ自身が、イスラエル人だからです。神は、イスラエル人の一人であるパウロに御声をかけてくださり、キリストの驚くべき光の中に招いてくださいました。罪に閉ざされていた暗闇から、神ご自身がイスラエル人であるパウロを招き寄せてくださったのです。


 イスラエル人は、自分たちこそ信仰の父アブラハムの子孫だと誇っていました。血筋で言うなら、パウロもイスラエル人です。しかも「ベニヤミン族」です。 なぜあえて「ベニヤミン民族」と言うのでしょうか?パウロは、ピリピ3:5でも自分のことを「私は生まれて8日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、へブル人の中のへブル人…」と言っています。


 「ベニヤミン族」は、イスラエル12部族の中でも、アブラハムの血を受け継いでいる民族です。イスラエルは、昔ソロモン王のあと、二つに分裂しました。ダビデ王朝に逆らって分裂し、北イスラエル王国が生まれたことで二つになりました。やがて北イスラエル王国は、アッシリヤに滅ぼされ、宗教的にも民族的にも、アブラハムの子孫としての純粋さを失ってしまいます。しかしダビデの属するユダ民族とベニヤミン族の二つからなる南ユダ国は、いくつもの危機を通りましたが、アブラハムの子孫としての純粋な血と、唯一の神を信じる信仰を持ち続けていきました。それがユダヤ人の祖先です。ですからイスラエルという時に、ユダ族とベニヤミン族出身者が、純粋なアブラハムの子孫イスラエルということができました。パウロは、正にその由緒正しいベニヤミン族出身です。

 その「イスラエル人、アブラハムの子孫、ベニヤミン族出身」のパウロが、キリストの救いを受けているということは、決して神はご自分の民であるイスラエルを退けておられない証拠だと、パウロは断言できました。生粋のイスラエル人であるパウロが、キリストの救いを受けているのだから、決して神はイスラエルを見捨てたのではありません。

 同じように、日本人である私が救われているということは、神は決して日本を見捨ててはおられないということです。多くの人が日本のリバイバルを願って祈ってきました。海外からも日本は祈られています。でも今も日本のクリスチャン人口はあまり増えていません。それでも潜在的クリスチャンや、一人で聖書を読んでいたり、教会には行っていないけど信じている人、何かきっかけがあれば、あるいは誰が背中を押してあげれば、クリスチャンになるであろう人は増えています。決して今まで積まれてきた祈りが無駄になってはいません。今私たち一人ひとりがキリストの救いを受けているということは、神が日本をも愛しておられ、目を留めておられる証拠です。私たち一人ひとりは、そのような存在です。ですから、「私が救われたのだから大丈夫」と、神がこの日本に目を留めておられ、私たちの身近な人たちにも恵みを注いでくださっていることを信じて、とりなし祈り伝えていきましょう。家族に、職場や学校に、キリストを信じる人がいないとしても、そこにキリストの愛を知った私がいるということは、神がそこにいる人々をも祝福の中に置いてくださっているということです。キリストの救いを受けた一人を通して、その恵みと祝福は周囲に流れていきます。

 私たちの教会ですでに召された方で、長年ご家族の救いのために祈ってこられた方々がいました。キリストの深いご愛を知れば知るほど、身近な人(特に家族)に、キリストを知ってほしい、この救いを受け取ってほしいと切に願うようになりますが、その救いを見ることなく召された方もいらっしゃいます。でも召された後に、ご家族が召天式に出られたことや、教会の兄弟姉妹の交わりに入られたりして、ご家族が救われていったケースをいくつも見せていただきました。周りにキリストを信じる人がいなくても、私が救われて神の恵みを受けているなら、私が今遣わされている家族、職場、学校、地域に神の祝福と愛がすでに注がれていると信じましょう。


<2~4節>

 そしてパウロは、預言者エリヤに神が言われたことを例に挙げます(Ⅰ列王記18章18節~40節)。イスラエルの民たちが、神と偶像崇拝(バアル)との間で揺れてどっちつかずの態度をとっていた時に、どちらを本当の神とするかはっきりさせるため、エリヤはバアルの預言者450人と対決します。ささげものに火をつける方が本物の神であるとしました。バアルの預言者は、大声で叫びながらバアルの神を呼ぶが、一向に火はつきませんでした。一方エリヤは、祭壇の周囲や祭壇の溝を水で満たした後に、アブラハム・イサク・ヤコブの神に叫びました。すると主の火が降って、全焼のささげものも薪や石も焼き尽くしました。それを見て、民たちは主なる神に立ち返りました。

 そのような大きな働きの後、エリヤはアハブ王の妻イゼベルから命を狙われて逃亡します。40日40夜歩いてホレブに着き、そこで主の御声を聞きます。その時のエリヤと神のやりとりが、ここの2~4節です。


 アハブ王の妻イゼベルは、主の預言者たちを殺しました(Ⅰ列王記18:4)。そして今エリヤのいのちも狙っています。エリヤは、自分の仲間たちも殺され、イスラエルの民たちもすぐにバアルの方によろけてしまいどっちつかずになり、しかも今は王妃にいのちを狙われ、とても孤独でした。大きな戦いの後で疲れていたこともあるかもしれませんが、あらゆることにネガティブになっていました。自分だけが必死で戦っているような孤独感、またいのちを狙われて逃亡する中で、自分の働きそのものも無意味に思えるような空虚感などで、エリヤは自己憐憫に陥っていました。でもそのままの思いを神に訴えた時に、神は「わたしは、わたしのために、男子7000人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである」と言われました(Ⅰ列王記19:18)。エリヤは、みんなバアル崇拝に向かってしまい、預言者仲間も殺され、一人で戦っているような孤独を感じていたけど、神はバアルを拝まず、主なる神を拝する者を男性だけで7000人(女性も入れればそれ以上)を残しておられました。

 家族の中で、職場や学校で、自分だけがキリストを信じているような時にも、神は仲間を残してくださっています。そして一人の救いはひとりのままで終わりません。ですから、イスラエル人であるパウロがキリストの救いをすでに受けていることは、パウロ一人で終わるのではなく、やがて他のイスラエル人たちも救われていくということです。神はエリヤの時と同じように、イスラエルの中にキリストを信じる者たちを起こしてくださいます。

 しかも「私(神)自身のために」です。そうでないと、神の栄光に傷がつきます。神の御名が汚されます。神ご自身の栄光のために、神は7000人以上のバアルに跪かない者たちを残し、神の民であるイスラエルを残しておられました。そして今もイスラエルに、日本に、そして全世界に、その民を残しておられるのです。


<5~6節>

 人々がバアル崇拝に向かい神に反逆したエリヤの時代にも、神がご自身の民を残しておかれたように、パウロの時代にも、また今のこの不信仰の時代の中でも、神は真の神の民を残しておられます。多くのイスラエル人が、神が遣わしたキリストを受け入れないでいても、パウロのようにキリストを信じて救いの喜びを経験する者たちが確かにいました。

 パウロ自身も、ただ神の恵みによって救われました。決して行いによりませんでした。行いというなら、むしろキリストを迫害していただけです。キリストの教会を迫害している最中に、神が一方的にパウロをとらえてくださったのです。ダマスコにいるクリスチャンたちを迫害し捕まえようとして向かっている途中で、復活のキリストがパウロに現れて、パウロを異邦人伝道に召されたのです。救われるに値するような行いをしていたのではなく、むしろ神に逆らうようなことを行っていたのです。そこで救われたのですから、一方的な恵みです。人間の良い行いによって救われるなら、もうそれは恵みではありません。キリストの救いは、どこまでも神の恵み、神の賜物、神からのプレゼントです。感謝して受け取るだけでよいのです。そして神は、イスラエルに対しても、ずっとご自身の民を残しておかれました。今も私たちが遣わされた場所に、神が選び残しておられる民がいるのです。またこの阿佐ヶ谷の地にも、皆さんの住んでいる地にも、神が恵みによって救われる民がいるのです。「この町には、わたしの民がたくさんいるのだから」(使徒18:10)という神の声が迫ってきます。

 「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません」(マルコ9:40~41)とあります。神さまは、クリスチャンだけでなく、このような人々をも用いてくださり、宣教のわざを進めてくださっています。もちろんその方々も、キリストの恵みに与ってほしいと願います。そう考えると、神の民が周囲にたくさんいます。神はこの日本にも、私たちの周りにも、神の民7000人、いやそれ以上を残してくださっています。私たちが出会う人で会う人、「この方にも神さまの恵みが及んでいく」と思うと嬉しいですね。


 イエス様は、私という一人の人間を追い求め続けてくださいました。イエス様は、一匹の迷える羊を見つけるために、99匹の他の羊を置いてでも探し続けてくださる羊飼いです。そして見つけたら喜んで肩に背負って連れて帰ります。罪の中を彷徨(さまよ)う一人の魂が神のもとに立ち返った時に、天の御国では喜びの拍手が湧きあがります。私たち一人ひとりは、そのような大切な一人です。一人の人が救われるということは、このような天地に喜びが湧きあがり、また周りにまでその祝福は及んでいきます。

 神は決してイスラエルをも日本をも見放しておられません。自分一人だと孤独を感じる場所にも、神の言葉に応答する人たち、神の民に一杯の水を飲ませてくれる人々を用意しておられます。今週も、その恵みを体験する場に遣わされていきましょう。
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