(2021年9月)

 ・ 9月26日
 ・ 9月19日
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 ・ 9月 5日
 




 9月26日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「Jesus Is the Answer ~不条理なこの世界において~」

       伝道者の書3章16節~22節  三浦真信牧師

<16節>

 「さばきの場」「正義の場」というのは、直接は裁判をする法廷をさしています。正しいさばきを下すべき場所で、不正があるのを伝道者(コーへレス)は見ました。真実とは違う判決が下されたり、偽りの証言が通ったりすることが実際にあったのでしょう。

 人間が人間を正しくさばくことには限界があります。判断する人間自身が不完全です。不完全な人間が、人を正しく判断してさばくことはできません。冤罪というものもいつの時代にも起きています。

 身近な所でも、人が人の判断をすることの難しさがあります。信頼していた人のことでも、少し嫌な面を見てしまうと、途端に悪い人間に思えてきてしまったり、それまでは何とも思っていなかったのに悪い噂を聞いたら、本当にそのような人に見えてきてしまうことがあります。人の判断や評価が必ず正しいとは言えません。自分の見方や判断を絶対と思い込んで、かえって人との関係を悪くしてしまうこともあります。

 今コロナ禍で、特に有名人へのネットでの誹謗中傷がエスカレートしていて問題になっています。匿名だからと安心して、面と向かっては言えないことも書き込めますが、過去に遡って発信者を特定できることもあり、人格攻撃や事実に反することに対しては法的措置をとる人も増えてきました。自分の考えこそ正しく、相手の間違いを正そうという正義感から書き込みをする人もいるかもしれませんが、他の人から見てれば偏っている場合も多くあります。

 不完全な人間が、人を正しく評価したり、人のしたことを正しくさばくことには限界があります。その人に対して悪い感情を抱けば、することすべてが悪意に感じられてしまうことも残念ながらあります。一国の王の経験もあるこの伝道者(コーへレス)も、人が人をさばくことの難しさを経験したことでしょう。


<17節>

 何が正しいか分からない、また悪が繫栄を誇っていて真実がなおざりにされているような不条理なことが多々あるこの「日の下」(16節)で、神が正しいさばきを最終的になさるということに伝道者は委ねます。神が正しいものも悪しき者もさばく時があります。すべての人は神の御前に立つ時がやがてきます。その時も神が定めておられます。「すべての営みと、すべてのわざに、時がある」のです。ですから、私たちは軽はずみに人のことを判断せず、また社会や身近なところで起きる納得のいかないことも、神が明らかにしてくださる時があることを信じて委ねましょう。


<18節>

 神は人をご自身のかたちに創造されました。(創世記1:27)。もともと人は神に似た者として、他の動物とは違う存在として造られました。人間だけが、神と交わり、神の心を知ることができ、神の栄光を現わす存在であり、他の被造物を治める役割が与えられています。にもかかわらず、人は罪によって本来の神のかたちを失ってしまいました。罪のために、神との正しい関係がもてなくなり、神の御心を知ろうともしなくなり、神の栄光を現わすどころか不正を行い悪に染まり、被造物を正しく治めることができずに自然を破壊していく存在になったのです。他の動物とは違う存在として、神のかたちに造られたのに、「神を試みるようなことを行い、獣と変わらない存在であること」に気づくようにされたのです。今も「まるで獣のようだ」と比喩されるような人間のおぞましい実態が、世界の隅々に見られるのです。この罪の社会を客観的に見ることによって「自分たちが獣に過ぎない」ことを、人間自らが気づくように神はされたのです。


<19~21節>

 神のかたちを失って、神が造られた目的から外れてしまった人間は、獣と何が違うのでしょうか。どちらも最後は死んでいく空しい存在です。「すべてのものは土のちりから出て、すべてのものは土のちりに帰る」のです。人はちりで形造られました。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」(創世記2:7)。大地のちりから形造られた人間は、神にいのちの息(霊)を吹き込まれて生きるものとなりました。神の霊を吹き込まれなければ、いのちがなく、ちりに過ぎないのです。そして土のちりから造られた人間は、また土のちりに帰ります。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」(創世記3:19)。人間も動物も、すべてのものは土のちりに帰るという点で同じです。


<22節>

 ここで伝道者(コーへレス)は、このように人間が空しい存在であるのなら、「人が自分のわざを楽しむことにまさる幸いはない」と言います。しかし、人間の空しさ、また獣以下の罪の現実、そして獣と同じ結末を迎える人間に、「だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか」と言いながら、「人間には希望がなく絶望的だが、人間以外に、それを見せてくれる方がいるのだ」という予感を示します。このあと、「だれが」という表現が度々出てきます。罪によって神のかたちを失い、尊厳を失った人間を、人間の力ではどうすることもできません。でも神ご自身が造られ、いのちの息を吹き込まれ、神のかたちに造られた人間を、神はそのままにはなさいません。助け舟を出されます。それが、「イエス・キリスト」です。「だれが、後に起こることを人に見せてくれるだろうか」の「だれが」は、イエス・キリストです。イエス・キリストが、後に起こることを人に見せてくださいます。いや、今は「見せてくださいました」と言うことができます。

 これから後にどのようなことが起きるのか、そしてすべてのものが土のちりに帰るが、その後どうなるのか。旧約の時代も、人が死んだ後に魂が行く所として、よみ(シェオール)があると信じられていました。しかしそれがどのようなものか漠然としていました。罪によって神のかたちを失った人間は、神の律法を完璧に守ることもできず、罪に染まった社会にはいつの時代も、不正や残虐悲惨が満ちていて、そこに目を留めたら絶望するしかありません。「せめて絶望しないように、今を楽しもう」として生きるしかありません。しかし神は天からキリストを遣わして、神がこの後どのようにこの世界を、そして私たち人間をしようとしておられるのか、失われた神のかたちをどのように回復し、ちりに帰ったあとの人の魂をどう扱ってくださるのか、キリストを通して伝えてくださいました。神のみこころは、神が遣わした方しかわかりません。地上の人間には、地上のことしかわかりません(ヨハネ福音書3:31~36)。ですから、不正と罪がはびこる世にあって、空しい世にあって、「結局自分のわざを楽しむことしか幸せはない」という結論しか見出せません。しかしもともと神のかたちに人を造られた創造主は、別の楽しみ喜びをキリストを通してもたらしてくださいました。地上のことしかわからない人間には本来理解できなかった神の真理を、神の子キリストが語ってくださいました。キリストが、罪によって失われた神のかたちを回復し、神との正しい関係を持つことができるようにし、神の栄光をもう一度現す者として、人を生かし、神が造られた被造物との正しい関係に導いてくださいます。そして、漠然としていた死んだ後のことに関しても、以前よりも明らかにしてくださいました。キリストを信じる者には永遠のいのちが与えられ、御子キリストに従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまることが、神の子キリストを通して明確に知らされたのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ福音書14:6)と言われたイエス・キリストを通して、私たちは神との関係が修復され、神のかたちへの回復がなされていきます。罪の世にありながら、そこに埋没することなく、神の国の民として神と共に歩むことができます。

 不正がはびこり、悪者が栄誉を誇っている世界であっても、やがて神が正しくさばかれる時がきます。ウイルスとの戦い、自然災害との戦い、人間同士の争いが続く世にあっても、キリストは先にある希望を見せてくださいます。「だれがこの不条理の世で、後に起きることを見せてくれるのだろう、だれがこの空しい世から救い出してくれるのだろう」との問いに、キリストが答えてくださいます。「Jesus is the answer」(有名なゴスペル讃美)です。人生には、その場では答えが出ないことがたくさんあります。割り切れないことだらけです。でもキリストはすべての答えを持っておられます。だから答えが出なくても、今はわからなくても大丈夫です。

 「『大丈夫!大丈夫だよ!』と万人に言へる福音、言へるキリスト」です。どのようなこともイエス様に聞いていきましょう。今わからなくても、イエス様が答えを持っておられますから、安心して委ねましょう。
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 9月19日
敬老の日・聖日礼拝メッセージ要約 主題:「悲しむ者は幸いです」

       マタイの福音書5章4節他    三浦真信牧師

 マタイ5:4の言葉は、イエス・キリストが語った山上の説教として有名な言葉です。

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」で始まり、続いて「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」と、普通なら不幸と思われることが幸いであるという表現が続きます。しかし多くの人たちがこの聖書の言葉を体験して「その通りだ」と告白しています。

 悲しいことなど極力無い方がいいと誰もが思います。でも生きている限り悲しいことがたえず起きます。親しい人との別れ、年齢と共に今までできたことができなくなる悲しみ、願っていた道が閉ざされる悲しみ、そして自分自身の死というものに直面することなど様々にあります。その悲しみを神さまにそのまま叫んでいくなら、悲しみが悲しみで終わることはありません。確かにそこに神の慰めがあります。そして神のことばである聖書の言葉が、悲しみの中でも大きな励まし、慰めとなります。

 コリント人への手紙第二1:4

 「神は、どのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます」。

 悲しみ苦しみの中で、確かに神に向かって祈り叫ぶときに、また聖書を開く時に、神の慰めがあることを経験します。そして神から受けた慰めで、今度は他の苦しみの中にある人たちに、神の慰めを身をもって伝えることができるのです。

 人の慰めには限界があります。同じような苦しみを経験した人でも、環境によって苦しみの度合いや感じ方は違いますから、「私も同じ経験をしたからよくわかります」と言われても、必ずしも慰められないかもしれません。ずっと苦しんでいる人の側につきっきりになって慰め続けることも、人にはできません。しかし神はいつでもどこでも、私たちが呼ぶ時にその現場にいてくださいます。聖書を開けば神の言葉が満ちています。ある時は聖書を開かなくても、萱場さんのようにご友人の夢の報告を用いてでも、神さまはみことばを語りかけてくださいます。


 特に身近な人の死に接する時に、自分もいつか死を迎えるのだということを人は思い出します(いつもそのことを考えて生きておられる方もいらっしゃるかもしれません)。

 現在88歳の作家森村誠一さんが今年出された「老いる意味」という本の中で、ご自身が老人性のうつ病を経験して克服したことや、人生100年時代に突入した今を高齢者がどのように生きたらよいかなど書いておられます。その中で、親しい人の葬儀に出席するたびに思い出す聖書の言葉として、「私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません」(Ⅰテモテ6:7)を紹介しています。

 裸で生まれてきた人間は、また死ぬ時には何も持たないで死んでいきます。すべての持ち物はいずれ手放していくのだから、金銭を愛する生き方ではなく、持ち物に執着せず、今あるもので満足し感謝しながら、むしろ死をも平安に迎えられるようにキリストを求めていくようにとこの手紙を書いたパウロは勧めています。一つひとつ手放しながら、先にあるものに希望を置いていく生き方が、聖書の勧める生き方と言えるでしょう。自分が執着しているもののことで、かえって心が囚われて悩むことが多くあります。執着していることから解放されることは、自由になることでもあります。

 イエス・キリストは、人間の罪の身代わりとなって十字架で死なれました。私たちを造られ、宇宙のすべてのものを造られた神と和解するために、罪なきキリストがすべての人の罪を負って死なれたのです。キリストは十字架の死から3日目によみがえり、ご自身が神の子であり、私たちの罪を完全にきよめて罪の結果である死からも解放してくださることを明らかにしてくださいました。キリストを信じるなら、悲しみの尽きないこの地でも神と共に歩む安心、喜びがあり、また人間の究極の問題である死に対しても、希望をもって迎えることができます。

 「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」(マタイ5:4)。悲しみは生きている限りありますが、神は悲しみの中でも私たちを慰めてくださいます。そして完全に悲しみから解放され、涙も苦しみもない神の国を神は私たちに用意してくださっています。その安心をもって、今のコロナ禍も神さまを見上げながら歩んでまいりましょう。
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 9月12日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「終日手を差し伸べる神」

       ローマ人への手紙10章14節~21節    三浦真信牧師

<14~15節>

 救いは、キリストを信じる信仰と、キリストを主と告白すること(9~10節)によることが示されてきました。

  「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか」

 ここの「信じたことのない方」とは、キリストのことです。まだ自分が信じていないキリストのことを呼び求めることはできません。そして信じるためには、その信じる対象(キリスト)のことを聞かなければ、信じることができません。そして聞くためには、「宣べ伝える人」がいなければ、聞くことはできないのです。

 キリストの福音に関しては、宣べ伝えるために神から「遣わされること」がなければ、宣べ伝えることもできません。「遣わされる」とは、神によって派遣されることです。

 このように、神から遣わされた人を通して宣べ伝えられ、その宣べ伝えられたキリストの福音を聞いた人が信じることで、人が救われ実を結んでいきます。


 カギ括弧(かっこ)の言葉は、イザヤ52:7の引用です。

 「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王である」とシオンに言う人の足は」

 預言者イザヤは、バビロン捕囚からユダヤ人が解放されることを「良い知らせ」と言っていますが、パウロはここで、イエス・キリストの福音のことを「良い知らせ」と言っています。「キリストの福音を伝える人の足は、なんと美しいことか」と。

 キリストを信じて救われるために、まず福音であるキリストを伝える人が必要です。キリストについて聞かなければ信仰は始まりません。このキリストの素晴らしい救い、良い知らせ(Good News)を伝える人の足はなんと美しいことか…人々を罪の束縛から解放するキリストの十字架の恵みを伝えることは素晴らしいことです。麗しいことです。私たちも、キリストを伝えてくれる人がいたから、今このキリストの恵みにあずかっています。でもその宣べ伝えた人も、神が遣わしてくださらなければ、宣べ伝えることはできませんでした。

 キリストの驚くべき光の中に招かれた私たちは、皆このように遣わされています。 「あなたがたは(選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民)、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」(Ⅰペテロ2:9)

 今住んでいる場所、家庭、仕事場、ボランティアやサークル活動…様々な場所に私たちは身を置きますが、偶然そこにいるわけではなく、その場所で「地の塩・世の光」(マタイ5:13~14)として生きるように、キリストのすばらしさを存在をもって伝えるように神が遣わしてくださっています。神が遣わしてくださっているのですから、そこでキリストを伝えていくときに、またそれを聞いて信じる人が起きてきます。神が住んでいる地域に、職場学校に、家庭に遣わしてくださっているという派遣意識を持つことは、生き方、生活そのものに影響を与えます。「神が今日もここにキリストの者とされた私を遣わしてくださっている」ことをたえず思い起こしましょう。


<16節>

 「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません」

 カギかっこは、イザヤ53:1の引用。

 「従う」(ヒュパクーオー)、「聞く」(アクーオー)、「聞いたこと」(アコエー)と、ギリシャ語原語の語源が同じ言葉です。神の言葉は、聞いて従うことです。

 「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません」(ヤコブ1:22)。聞くだけで終わってはいけないのです。聞いたことは、生活の場で実践していきましょう。聞いて従わなければ、本当に聞いたことにはなりません。

 宣べ伝える人がいて、福音を聞いたけど、「すべての人が福音に従ったのではありません」。今も福音は世界中で宣べ伝えられています。いろいろな形で、福音を聞いた人、神のことばに触れた人はたくさんいます。だからといって、すべての人が信じてキリストに従ったわけではありません。

 特にパウロの同胞ユダヤ人も、パウロや使徒たちを通してキリストの福音を聞きました。神が使徒たちを遣わして、福音を宣べ伝えさせたのです。異邦人もユダヤ人も、福音を聞いたのです。それでも、すべての人が福音に従ったわけではありません。


<17節>

 「ですから信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」

 「聞くこと(アコエー)」が2回繰り返されています。

 信仰は、まずよく聞くことから始まります。聞かないことには始まりません。ですから、みことばをよく聞くことが大事です。他人事ではなく、自分に神が今語っておられるみことばとして、命を与える言葉として、よく聞くことが大事です。神は語っておられる神です。常に私たちに語りかけておられます。どれだけその神の語りかけを日頃聞いているでしょうか?よく聞くことで、またキリストへの信頼が深められていきます。

 そして「聞くことは、キリストについてのことばを通して実現します」。ここの「聞くことは」は、「聞いて従うことは」のニュアンスです。 「キリストについてのことば」とは、「キリストについて語られている福音のメッセージ」です。キリストについての福音をよく聞くことで、キリストに信じ従うということが実現します。


<18~21節>

 ここで、では「彼ら」「イスラエル」はどうだったのか?どうして、アブラハムの子孫であり、神の民として守られ導かれてきた民族でありながら、キリストの福音をなお信じないのかという疑問に戻ります。

 まず「彼らはキリストについての福音を聞かなかったのでしょうか?」という問いかけをパウロはきっぱりと否定します。詩篇19:4を引用しながら、神の言葉が世界の果てまで響き渡っているように、彼らは福音を聞いています(18節)。パウロたち使徒たちを通して、またすでに地中海世界に伝えられた福音を耳にしています。

 それでは、「知らなかったのでしょうか?」(19節)。これは、「聞いたことが理解できなかったのでしょうか?」という意味です。しかしそれに対しては、申命記32:21を引用しています。イスラエルは、天地を造られた神を知りながらも、真の神でない人間の造った偶像に身を寄せ、神のねたみを引き起こしました。神はねたむほどに、ご自身の民を愛しておられるのに、民の方は神ではないものに頼ったのです。ですから、神は本来神の民とは考えられていなかった異邦人を救うことによって、神の民であると誇っていたイスラエル民族にねたみと怒りを引き起こしたのです。


 「愚かな国民」というのは、真の神に対して無知な国民という意味で、異邦人のことです。イスラエル民族が神への不信仰を悔い改め、キリストの福音に対して熱く求めるようになることを願って、福音は異邦人に伝えられ、彼らが救わる喜びを経験していきました。決してイスラエル人たちはキリストの福音を理解できないわけではありませんでした。理解しても、その頑(かたく)なな心は、神が遣わしたキリストを受け入れることより、自分たちの欲望の神を優先し続けたのです。


 事実、神のご計画は、預言された通りに、異邦人において実現しつつあります(20~21節)。イザヤ65:1~2節の引用です。「わたしを探さなかった者たち」とは、神を忘れて偶像に走った背信のイスラエルをイザヤは指していますが、パウロはこれを異邦人のこととして用いています。キリストの福音は、皮肉なことに、神を知らないと思われていた異邦人に受けいれられていきました。イスラエル民族の不信仰により、異邦人が救われていきました。そしてこれも、すでに預言されてきた神のご計画だったのです。

 しかしだからと言って神はイスラエルを見捨てたわけではありません。「わたしは終日、(イスラエルに)手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して」(21節)。神はいっときも休むことなく、ご自身の民であるイスラエルに手を差し伸べてこられたのです。彼らが神に不従順であるからといって、イスラエル民族を見捨てられたわけではありません。


※まとめ

①信仰は聞くことから始まります。

 福音をよく聞くことが大事です。天地を造られた神が、私に今語りかけておられる言葉として聞きましょう。そして聞くことは従うことです。聞きっぱなしではなく、聞いたことを実行し従うことが大事です。1000聞いて感動するよりも、1つ聞いたことを実行することの方が大事です。


②神から遣わされた場所で、キリストを宣べ伝える人が必要です。

 誰かが宣べ伝えてくれなければ、聞くことができないので、信じることもできません。私たちは、キリストの素晴らしさを告げ知らせるために、闇から驚くべき光の中に招かれました。あなたでなければ伝えられない人がいます。「キリストが今ここに私を遣わしてくださっている」という派遣意識を持ちましょう。そうすれば、遣わされた場所でどのように歩むべきかがわかります。遣わされているのは、牧師や伝道者だけではありません。罪の暗やみから神の光の中に招かれた人は、みな遣わされています。今いる場所が、神から派遣された場所です。遣われた場所で、神の愛で人々に仕えましょう。


③不従順な者にも終日手を差し伸べてくださる神の愛

  神は、ご自身の民をねたむほどに愛しておられます。人間のねたみとは少し違うかもしれませんが、人間の言葉であえて表現するなら、「ねたむほどに」です。私たちが神からそっぽを向いている時に、神は悲しまれます。だからといって、神は見放すことなく、「不従順で反抗する民に対して」さえも、「終日手を差し伸べて」くださっています。「帰れ、帰れ、私のもとに帰れ、私に向かって叫べ…」と、神の方で24時間手を差し伸べてくださっています。私たちがその手を払いのけても、なお差し伸べてくださっています。その神の忍耐強い愛により、今キリストに立ち返るユダヤ人たちもたくさん起きています。ユダヤ人だけでなく、世界中の人々が、キリストの福音によっていのちを吹き返しています。

 不従順な民に対しても決してあきらめず、終日手を差し伸べてくださるご愛によって、私たちは神に立ち返ることができました。ですから、私たちも福音を宣べ伝えることにおいて、あきらめてはいけません。最終的に人間の力や説得によって人を救うことはできません。救いはどこまでも聖霊の働きによりますが、神が強引に私たちの心に踏み込まず、それでも終日私たちに手を差し伸べ続けてくださって私たちが立ち返るのを待ってくださったように、私たちも祈りつつ、聖霊の働きに委ねつつ、福音を伝えましょう。


 今コロナ禍で人々との距離ができて、他の人の心を知る機会も減っていますが、多くの人が今まで以上に心に重荷を負っています。神を知っている者でも、やはりこれまでとは違う重たさを感じています。それでも私たちは、信じた方を呼び求めることができるので、落ち込んだり不安になったりしても、また神を見上げていくことができます。あきらめない神の呼びかけ、差し伸べた手があったからこそ、私たちはどのような時にも神に叫び、神が共におられる安心を持つことができます。イエス・キリストが、私たちの罪を十字架で処分してくださり、キリストを通して、神との和解が与えられている平安があります。

 不従順な民に対して、あきらめずに終日手を差し伸べてくださった神のご愛、忍耐を感謝しつつ、私たちも生涯キリストの福音の言葉をよく聞きながら、あきらめずに身近な方々の救いのため祈りとりなしてまいりましょう。
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 9月5日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「生きる勇気、死にl際の確信」

       ローマ人への手紙8章38節~39節    朝岡勝師(東京キリスト教学園理事長)

<①ただ一つの慰め>

 牧師の大切な仕事に、死にゆく方々を看取るというものがあり、臨終の床で永遠のいのちの希望と約束をしっかりと握ってもらい天国に送り出します。その時自分が普段信じていること、語っていることが本当に問われるものです。借り物の言葉では歯が立たず、いい加減な信じ方では跳ね返されてしまいます。厳粛な死の現実を前にして、それでもなお生ける神がおられ、天の御国と永遠のいのちの約束があることをきっぱりと言い切ります。まことに重く、そしてまた大変尊い務めです。

 私が最期を看取ったある老姉妹は、臨終が近づいているとの自覚があり、私がベッドの傍らで「最後の準備をしましょう。何か不安や心配なことがありませんか」と尋ねると、「先生、私にはイエス様がついていてくれるので何も心配なことはありません」ときっぱりと言い切られ、それから間もなく天に召されて行きました。「主がついてればこわくはないと、聖書のうちに書いてあります」と子どもの賛美がありますが、まさにその通りに、主が共にいてくださるので死の陰の谷をも彼女は越えていったのです。 

 このような人生の態度を作ったものは何でしょうか。それが、ローマ書8章の最後に書いてあります。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:38、39)。ここでパウロが語っているのは、イエス・キリストを賜るほどに私たちを愛して下さる神の愛から、私たちを引き離すものは何一つないということです。

 今から450年前の16世紀のドイツで作られた「ハイデルベルク信仰問答」という信仰の手引き書があります。信仰問答は聖書の教えを凝縮したものであり、大切な問答から先に書かれています。第1問は「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と、大きく、かつ究極のことを問う問いです。「慰め」とあるのは、一時の気休めや憐憫ではなく、むしろ私を支える確かな拠り所であり、今日のメッセージ題の通り「生きる勇 気、死に際の確信」です。生きること、死ぬこと、これは誰一人例外なく向き合わなければならない人生のテーマです。

 実際に私たちにとって、生きることには悩みが多くつきまといます。若いときには自分の将来のこと、結婚のこと、仕事のこと、家庭を持てば子育てのこと、経済のこと、病のこと、親の世話のこと、年を重ねれば健康のこと、老後の生活のこと、そして死のこと。特にコロナ禍の時代を生きる私たちは、苦難の問題を突きつけられていると言ってもよいでしょう。コロナ禍の中で自分の信仰を振り返るとき、それまでの信仰生活、教会生活がどういうものだったのだろう、本当にいのちの言葉である聖書のみ言葉に立っていたのだろうか、などと問われます。 このような地上の日々を生きる勇気はいったいどこから来るのでしょうか。やがて地上の生涯を閉じる時に、すべてのものが取り去られて、手放さなければならなくなる死に際の時に、私の心の確信、その拠り所となるものはいったい何なのでしょうか。


<② キリストのものとされる>

 この人生最大の問い、究極の問いに対して、ハイデルベルク信仰問答は「私が私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と答えます。

 信仰の一番の核は、私がイエス・キリストのものとされていることだ、というのです。それでどのような境遇にあっても生きる勇気を与えられ、またキリストのものとされているので、死に際にあっても確かな確信が与えられるというのが唯一の慰めだと教えられるのです。

 この答えを支えているのが、パウロが語っている御言葉です。「では、これらのことについて、どのように言えるのでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」(ローマ8:31、32)。ここでパウロが「神が私たちの味方であるなら」というとき、本当かどうかが明確でない仮定のことではなく、もう疑いようのない確かなことなのです。つまり「神が私の味方であるので、だれも私たちに敵対できません」ということです。これほど心強い語りかけがあるでしょうか。神は私たちの味方で、その神が私を愛して、御自身の愛する御子イエス・キリストのものとしていてくださいます。だからこのキリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すものは何一つありません。これが私たちにとっての究極の拠り所、私を支え、生かすものなのです。

 これが既に私たちに与えられている、信仰者の現実です。神様は私たちにキリスト・イエスにある神の愛という一番良いものを既に与えています。死に際の確信ということにおいて、私はこの確かさを疑うことができません。聖書の約束は、ただ言葉だけの観念的なものではなく、まさに信仰者の一人一人の生涯の中に具体的にかたちをとってあらわれる生きた証しに他ならないのです。神は私たちの味方で、その神が私を愛して、御自身の愛する御子イエス・キリストのものとしていてくださいます。だからこのキリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すものは何一つありません。これが私たちにとっての究極の拠り所、私を支え、生かすものなのです。私たちの生と死を貫くただ一つの慰めは、私たちのために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた主イエス・キリストご自身です。キリストは今も生きて私たちを支え、今日も私たちをその御手の中にしっかりと握り締めてキリストのものとしていてくださいます。


<③ 神がともにおられる>

 大切なことは、神を信じるということは地上の生涯で苦難に遭わないということではなく、苦難の中でなお神を信じて、絶望せずに、諦めずに、投げ槍にならずに生きることのできる人生が与えられるということです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れない」(詩篇23:4)と言うことのできる生き方があるのです。恐れたり、惑ったり、疑ったり、不安になる時に、それでもなお確かに信頼に足りる方が私の羊飼いなのです。

 キリスト教の信仰の真髄とは何か、あるいは聖書は要するに何を語っているのかを一言で言って下さい、と問われることが多くあります。私は、神が私たちと共におられることがキリスト教の真髄であり、聖書が中心に語っていることですと答えます。イエス・キリストは「インマヌエル」と呼ばれ、神はあなたと共にいるという意味を持ちます。どんなときにも私を見離さず、見捨てることなく、私と共にいてくださる羊飼いである方です。私たちが真実でなくても彼は常に真実であり、私たちをご自分のものとして握り、地上の生涯を全うさせ、天の御国に導いてくださいます。


<④ 生きる勇気、死に際の確信>

 私たちの生と死を貫くただ一つの慰め、生きる勇気、死に際の確信は、私たちのために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた主イエス・キリストご自身です。キリストは私たちに助け主聖霊を送り、イエス様の言葉を思い出させてくださり、私たちが祈れない時には天でとりなしてくださいます。三位一体の神様の御手の中にしっかりと握り締 めていてくださるのです。

 私たちが主イエスを信じて洗礼を受けるというのは、証印を押された、神の子どもとされたということです。その効力は失われません。洗礼を受けた者たちが繰り返し聖餐にあずかって、キリストの者とされた確かさを確認していきます。

 コロナ禍の困難な中で、私たちが支えられるのはキリストの恵みであり、キリストのいのちです。それがある限り、神の愛から引き離すものは何もないことを確認して、この1週間の歩みを続けていきましょう。
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