(2021年8月)

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 8月29日
児童祝福親子礼拝メッセージ要約 主題:「苦しんでいる人への助け」

       士師記6章1節~35節   三浦真信牧師

 皆さんは最近誰かに「助けて!」って叫んだことがありますか?あるいは「神様助けてください!」ってお祈りしたことはありますか?
 今日はイスラエルの国の人たちが、「神さまに助けてください」って叫(さけ)んだ時に、神さまがどのように助けてくださったかをお話しします。

 イスラエルの人たちは、これまで何度も神さまに助けていただきました。神さまが力強い方で、神さまに頼る人たちに良くしてくださることを何度も経験していたのです。それなのに、調子が良くなると自分たちで偽物の神を造って拝んだり、自分の力で何でもできると思い上がって、神さまのことを忘れていました。

 そんな時に、ミディアン人という他の国の人たちが、イスラエルを襲(おそ)ってきました。イスラエル人のお父さん、お母さんたちは、子どもたちを連れて山の洞窟(どうくつ)に隠れました。畑を耕して種を蒔いても、乱暴なミディアン人たちがやってきて、麦や野菜を全部取っていってしまいます。大切な家畜も連れていかれます。


 ミディアン人に苦しめられたイスラエル人たちは、やっと神さまのことを思い出しました。そして「神さま、私たちを助けてください(神さまのことを忘れていてごめんなさい)」と叫びました(6節)。


 木の近くにあるぶどうの踏み場で、トントントンと音がします。本来なら収穫したぶどうを踏んでぶどう酒を造る場所で、ギデオンという青年が麦を打っていました。 「ミディアン人が来たらすぐに逃げなくちゃ」と、びくびくしながら、隠れるようにして麦をここで打っていまいた。


 そこに突然、神さまの使いが現れました。「力ある勇士よ。神さまがあなたと一緒におられます」(12節)。ギデオンはビックリしました。そして言いました。 「もし神さまが一緒にいてくださるなら、どうして私たちはミディアン人にこんなに苦しめられているのですか?私たちは神さまに見捨てられたのではないですか?」

 すると御使いは、「あなたがみんなをミディアン人から救うのですよ。神さまがあなたをそのために遣わしてくださいますよ」と言います(14節)。

 ますます驚いたギデオンは、ブルブルブルと首を振りました。「無理です。私はまだ若いし、そんな力はありません」。しかし御使いは、「大丈夫、神さまがあなたと一緒におられます」と言いました。


 それでも信じられないギデオンは、御使いにお願いしました。「では、神さまが私と一緒にいてくださるしるしを見せてください」と。

 ギデオンは、家から肉料理とパンを持ってきて、岩の上に置きました。御使いは手に持っていた杖の先で肉とパンに触れます。すると、ボッと岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くしてしまいました。それを見てギデオンは、「この人は本当に神さまの使いだ。そしてこの御使いが言うとおり、神さまがイスラエルを救うためにボクを選んでくださったんだ」と信じました。そう信じたギデオンの心に、勇気が湧いてきました。


 神さまに力を注がれたギデオンが、ブオーッと角笛を吹き鳴らします(34節)。戦いの始まりの時に、イスラエルでは角笛を吹いたのですね。その角笛の音を聞いて、大勢の味方が集まってきました。イスラル人たちの「助けてください」という叫びを聞いた神さまは、ギデオンを選んでイスラエルを救出することになさったのです。


 さて、今日の聖書の個所から、いくつかのことを覚えておきたいと思います。

① 苦しい時には神さまに叫びましょう。(本当は苦しい時だけでなくどんな時にも)

 イスラエルの人たちは、それまで神さまのことを忘れてしまっていたけど、ミディアン人の攻撃を受け、食べるものもなくなってどうしてよいか分からない時に、神さまのことを思い出しました。そして「神さま、助けてください!」って叫びました。

 神さまは、「私のことを忘れていたお前たちなんか知るもんか」なんて意地悪なことは言わないで、必死で祈り叫ぶイスラエルを助けるために、ギデオンに力と勇気を与えて、ミディアン人が悪いことをしないようにしてくださいます。

 聖書に「あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい」(ヤコブ5:13)とあります。また「苦難の日(苦しい時)に、わたし(神さま)を呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し、あなたはわたしを崇める」(詩篇50:15)とあります。苦しい時は、神さまに助けを求めましょう。

 また教会は、苦しいことや困ったことを正直にお話ししてお互いに祈りあうところです。ぜひお祈りしてほしいことがあったら、教会学校の先生や、誰かにお祈りしてもらってください。もちろん、神さまにはいつでもどこでもお祈りできるから、自分でもお祈りしてみてくださいね。


②神さまの助け方は、私たちが思っていた方法とは違うかもしれません。

 イスラエル人たちは、神さまが直接来て、意地悪なミディアン人をやっつけてくれたらいいのにと思っていたかもしれません。でも神さまは、あえてギデオンと言うリーダーをたてて、皆で協力してミディアン人を撃退するようにされました。しかも見るからに強そうなギデオンではなく、ミディアン人が怖くてびくびくしながら、ぶどうの踏み場で隠れて麦を打っていたようなギデオンです。そのようなギデオンを、あえて神さまは選んで、イスラエルを救い出してくださいます。ですからお祈りした時に、「こんなふうに神さま助けてくれたらいいのに」と理想があるかもしれないけど、神さまの助け方は私たちが想像している方法とは違うかもしれないことを覚えておきましょう。

 神さまはおっしゃいました、「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:9)。


③神さまは苦しんでいる人を救うためにあなたをお用いになります。

 神さまは、まだ若くて経験も少ない、そしてちょっと臆病で弱虫なギデオンを励まして、イスラエルをミディアン人から救い出すようにされました。神さまは、私たち一人ひとりにも、今苦しんでいる人たちを助け出すために、「あなたが行きなさい」と言って、私たちを苦しんでいる人のもとへ遣わしてくださいます。大人になったら行きなさいとか、もう少し立派になったら行きなさいとか、お祈りが上手にできるようになったら、聖書のことがもっとわかったら…とはおっしゃらないですね。今、子どもなら子どものまま、イエス様を信じてすぐでも、神さまは今のあなたのままで、私がいっしょにいるから、あなたのできることで、苦しんでいる人を助けてほしいと願っています。

 私たちのまわりのお友だちの多くは、天地を造られた神さまのことを知らないかもしれません。その神さまを伝えてあげるのが一番ですが、その人の代わりに、その神さまのことを知っている皆さんが、祈ってあげることも、皆さんができることです。神さまは、子どものようなお祈りを喜んで受け入れてくださる方です。子どもの祈りは最強です。ギデオンみたいに、国の危機を救うなんてことはできないかもしれないけど、身近で困っている人の力になってあげることは、きっとできますよね。お祈りしてあげることはいつでもできます。


 私は、4月に新型コロナ肺炎にかかって入院しました。その時に、多くの人から「お祈りしてますよ」って連絡をいただきました。38度以上の熱が10日間出て、頭も痛いし、息も苦しいし(苦しいと横になれない)、お腹も痛くて味もしなくなり、ご飯も食べられなくなり、一番ひどい時は自分では何もできませんでした。そんな時に、多くの方たちに祈っていただいていることはとても安心でした。そして弱っている時って不思議ですね。いつもよりも神さまが近くにいてくださることを感じました。とてもしんどかったので、もう2度とかかりたくないと思いますが、でも神さまが一緒にいて、「大丈夫だよ」って聖書の言葉を思い出させてくださって励ましてくださいました。そして教会の皆さんにもずっとお祈りしていただいたので安心でした。

 「苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい」。私たちが苦しい時にも、ミディアン人の攻撃で苦しんでいたイスラエルのように神さまにいつでも祈り叫ぶことができます。天の窓はいつでも開いています。そして思っていたのとは違うかもしれないけど、神さまは神さまのやり方で私たちを助けてくださいます。そして今苦しんでいる人たちのために、今度は私たちをも用いてくださるのですね。

 今は学校や幼稚園、保育園でも、新型コロナが流行ってきて、夏休みが延期になったり分散登校になったりするかもしれないけど、しんどい時には神さまにお祈りしましょう。また病気になったり、苦しんでいる人が周りにいたら、その人のためにも代わってお祈りしてあげましょう。
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 8月22日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「新しい皮袋 New wineskin」

       マタイの福音書9章16節~17節 倉持 守 兄

 今朝は“新しい皮袋”、英語では“New wineskin”というタイトルでメッセージいたします。少し前の14節から見てみます。「それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか』と言った。(マタイ9:14)  

 ここにはヨハネの弟子たちとあります。ヨハネは、イエス様が地上で生活されていたのと同じ時期に活躍していた預言者の一人です。バプテスマのヨハネと言われ、多くの人に水のバプテスマ、洗礼を授けていました。彼らがイエス様にした質問への回答が、今日の聖書箇所です。質問の内容は「なぜ、私たちとパリサイ人は断食しているのに、あなたの弟子たちは断食しないのですか?」ということでした。パリサイ人とは、律法の専門家たちを指します。聖書のことばを熟知し、それとは別に自分たちでさまざまな規定をつくって、厳格に守っていた人々です。それに対して、イエス様は答えられます。「イエスは彼らに言われた。『花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。』」 ((マタイ9:15))  



 聖書の中で、花婿はイエスキリスト、花嫁は私たちクリスチャンを表しています。花婿であるイエス様が取り去られるとは、この後に起こる十字架による死と復活後に天の昇られる昇天を意味することばです。私たちも、イエス様が天に昇られている現在、祈りと信仰によって天を待ち望む生活をしています。  

 続いて16節は、古い布切れと新しい布切れについて記されています。「だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。」(マタイ9:16)  

 2021年現在では、洋服などに穴が空いたら、ほとんどの方は廃棄するかリサイクルに出して、新しいものを購入すると思います。しかし、この当時はそのような多くのものに溢れてはいませんから、布を大切にしていました。ほつれや穴が空いたりした時、その布、衣服などを補修します。その時、使い古したものの場合、まったく新しいもので継いでしまうと、その時は補修することができても、すぐにだめになってしまう、衣を引き裂いてしまいます。イエス様はなぜこのようなことを言われているのでしょうか。それは、布切れをご自身の福音と照らし合わせて語っておられるのです。ヨハネの弟子たちが求めていたのは、実のところ彼らの教えであるユダヤ教の改革だったようです。しかし、イエス様がもたらされた福音はまったく新しいものでした。ですから、古いものを改革していくためではなく、新しいものとして新しい布切れで保つ必要があったのです。



 「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」(マタイ9:16〜17)



 新鮮(Fresh)なものは新しい梱包に入れます。スーパーで売っている野菜や肉など、みなさんがよく見かけるものも、パッキングされています。それらはすべて、新しいもので包まれています。イエス様はご自分のことを新しいぶどう酒に例えておられます。新鮮な活き活きとしているもの、その価値に弟子たちの目を向けさせているのです。



 発酵してこそ良いものもありますが、私たちクリスチャンの歩みは新しくされていく歩みです。それが、過去の様々な苦しみとの決別であったり、思い悩むことから離れることであるかもしれません。私たちの考え方や思いを恐れや不安で囲ったり、足止めさせようとするものがあるかもしれません。しかし、私たちは過去ではなく、今、そして未来に向かって前進していきます。

 哀歌3章21〜23節にこのようにあります。「私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。
『私は待ち望む。主の恵みを』 実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」(哀歌3:21〜23)

 エペソ人への手紙5章18節には、ぶどう酒についてとても面白い表現がされています。「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。」(エペソ人5:18)

 ぶどう酒に酔ってはいけないということばを、私たちは戒めとして受け止めます。その後に続く、“御霊に満たされなさい”というところから、聖霊なる神様を求めていくことを教えられます。ここではぶどう酒に酔うことと聖霊に満たされることを対比しています。ですから、聖霊に満たされることと酒に酔うことを、人の目から見るとまるで聖霊に満たされた人は酒に酔っているようにも見えると捉えることができることばだと、ある牧師は語っています。確かに、使徒の働き2章で人々に初めて聖霊が降ったとき、そこに居合わせた人が語ったことばを見ると理解できます。「だが、『彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、嘲る者たちもいた。」(使徒2:13)  



 聖霊のくだった顕著な証拠の一つとして、習ったことも聞いたこともないことばをもって神様を誉めたたえたことに対して、人々は彼らは酒に酔っているのだと揶揄(やゆ)しました。確かに、このことは特異なことではありますが、しかし、聖霊の現れを酒に酔っている、ぶどう酒に酔っていると言っていることは、エペソ人への手紙と通ずるところがあるように思います。私たちが聖霊に満たされる時、大きな喜びで満たして頂くことができます。聖霊が私たちに注がれる時、力を受け、本当の自由を得ることができるのです。聖霊による自由は秩序があり、喜びがあり、誠実さがあるのです。

 内なる人、私たちの内側、神様に対する信仰は日々新しく、新鮮なものとなるのです。私たちは日々新しくされています。それは、イエス様とともに、聖霊に導かれて歩む時に起こるのです。私たちの歩みには様々な困難や悩み、痛みが伴うことがあるかもしれませんが、それをありあまる喜びと感謝に変えてくださることを聖書は約束しています。新しいことを始めるのは、私たちの力ではありません。聖霊の力によってなされるのです。今週も、聖霊に満たされて、聖霊の励ましと導きを求めていこうではありませんか。
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 8月15日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「光は闇の中に輝いている」

       ヨハネの福音書1章1節~5節 松島修兄

 本日は、ヨハネの福音書のみことばから受けた恵みを皆さんと共に分かち合いたいと思います。ヨハネの福音書の冒頭のことばは、とても有名で、他の福音書とは全く違う書き出しで始まっています。また、マタイ、マルコ、ルカの福音書は、イエス様の生涯の内容がほぼ同じなので共観福音書と呼ばれますが、ヨハネの福音書には、他の福音書にない記事がたくさんあるので、第四福音書と言われています。ヨハネの福音書は、神の子としてのイエスを、父のもとから来て肉体のかたちをとられた神のひとり子としてイエスを示しました。ヨハネの福音書の目的は、20:31に書かれています。ここに、ヨハネの福音書の特徴があります。


<1、2節>

 ヨハネはイエス様をことばと呼んで、天地創造の時から神とともにおられると言いました。イエス様は、神様のみこころを現すことばでした。そしてこのことば、神様のみこころのかなったときに人となったことばでした。この神様のことばは、人間のことばと違って、語ったことばが、そのまま実現する言葉です。有言実行の神様のことばです。初めに神様が天地を創造されたのは、ことばによる創造でした(創世記1:3~4)。


<3、4節>

 この方、神の子イエス様には、いのちがあり、光があります。私たちは両親を通して、この世の中に誕生しました。両親から生まれ、いのちが与えられても、人生をイエス様と出会わずに生きていくいのちと、イエス様と出会いイエス様のいのちが与えられ、イエス様のいのちで歩んで行くいのち、主と共に歩むいのちです。ニコデモがイエス様と対話しています。ヨハネ3:3~5私たちは、イエス・キリストに出会って、肉体のいのちだけではなく、霊のいのちをいただいて、新しく生まれ変わることが必要です。そこには、キリストのいのちが宿ります。また、このいのちは人の光でもあります。


<5節>

 光が闇の中に輝く実例として一つお話しします。私がオリンピック開催前に、NHKのテレビを見ていたら、難病といわれるALS(筋委縮性側索硬化症)になってしまった千葉県八千代市の医師で太田さん(50歳)という方が、宮城県多賀市の聖火ランナーとして、奮闘するドキュメンタリー・ニュースを見ました。太田さんは、額と瞳を動かす訓練を積んで、その聖火ランナーの日(6月20日)に臨みました。全身の筋力が低下しているので、聖火は電動車椅子に固定し、太田さんは、電動車椅子に座り、唯一動く口と眉毛の上の筋肉にセンサーを付けて、筋肉の動きで、電動車椅子を自力で操作しました。200メートルの聖火リレーの中、1分近く動けなくなることもありましが、諦めず車椅子を操作し、12分かけて、次の走者に聖火を回すことができました。太田さんは、翌日のブログで、「生きることはすばらしい。苦しみの中に光あれ」とつづりました。太田さんは、いついのちが終わるかわからないけれど、ひとつの目標に向かって懸命に生きる親の姿を息子に見せたかったそうです。「苦しみの中に光あれ」は、太田さんの難病という苦難の中で生まれた言葉でした。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(5節)。世界は、コロナという大きな疫病の中で苦しんでいます、もがいています。果たして、アフターコロナは来るのだろうか?深い闇の中に落ち込み、先が見えない状態です。私たちは、神様に、早くこのコロナを収束して下さいと祈りますが、現実は悪化するばかりです。

 しかし、私たちは、この暗闇の中にあっても生きる術を知っています。今は恵みの時、救いの日として、イエス様の救いのみわざを伝える光の子として、生きることができます(Ⅱコリント6:2、マタイ5:14、16)。闇が暗いほど光の輝きは際立ちます。この世の中に、様々な災いや異変が起きるのは、聖書では必然な事です(ルカ21:10~11)。私たちは、天の御国に入るまで、不完全で、暗闇のあるこの世界で、すでに、世の光です。イエス・キリストの福音の光を、輝かせて行く存在なのです。イエス様は、あなたがたは世の光になれ、地の塩になれとは言っていません。私たちの存在そのものが、すでに世の光であり、地の塩なのです。

 キリストを信じる者の未来は明るい未来です。私たちの最終的な天の住まいには、なんと夜がない世界です(ヨハネの黙示録22:5)。私たちは、キリストの輝かしい栄光の光の中で、キリストと共に生きることができます。病も苦しみも、悲しみもない永遠の世界が待っています。私たちはこの天の御国に入るまで、不完全で、暗闇のあるこの世界で、世の光として、イエス・キリストの福音の光を、輝かせていきましょう。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(5節)。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」(マタイ5:16)。
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 8月8日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「分断を一つにするキリスト」

       ローマ人への手紙10章11節~13節    三浦 真信 牧師

<11節>

 パウロは、イザヤ書28:16を引用して、神が遣わしたキリストに信頼することの確かさを伝えます。キリストに信頼する者は、だれ一人失望させられることはありません。人や自分に信頼すると、いつかは失望します。人は不完全です。環境や情報は、時間と共に変化しますから、それらに信頼を置くと、変化した時に慌(あわ)てふためきます。  

 キリストに信頼する者は、どのような状況の時にも、安心して神の御前に立つことができます。肉の弱さゆえに失敗しても、十字架の赦しを信じて悔い改め、大胆に神に近づくことができます。それがキリストの恵みによって生きる人です。  

 神の御前だけでなく、人の前にも同じことが言えます。自分の調子が良い時しか交わりに出られないのなら、それは律法主義に立っているからです。交わりの中で、皆が良い報告や立派な自分しか見せられなくなったら、律法主義パリサイ人の集まりになってしまいます。聖書の知識が豊富でなくても、上手な祈りができなくても構わないのです。仕事も家庭も順調であれば、神の恵みとして感謝しましょう。でも次々に試練に会う時もあります。弱り果ててしまう時もあります。そのような時にも、そのままの姿で交わりに出られる人は、キリストの恵みを知っている人です。キリストの恵みに立つなら、悩み苦しみが大きくても、弱さの中にあっても、交わりを持つことができます。私たちが弱い時にこそ、キリストの力が現れます(Ⅱコリント12:9~10)。私の弱さこそ、キリストの力が大いに働く場所なのです。私たちは弱くても、キリストがそこに勝利を必ず見せてくださいます。そのキリストのみわざを共に見て主をほめたたえることができます。キリストに信頼する者は、だれも失望させられることはありません。


<12節>

 「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません」

 人はすぐに区別をつけたがります。民族が違えば、違う民族同士で区別して分断ができます。自分と考え方の違う人、フィーリングの違う人との間に、垣根を造り距離ができます。しかし「信仰による義」に立つなら、人間的な違いは大きな違いではありません。「同じ主がすべての人の主」です。キリストが主であるということは、民族の違い、考え方の違いをも超えることです。様々な国の、様々なタイプの人たちを、キリストの福音は一つにしました。ユダヤ人という枠を超えて、異邦人世界に、すべての民族に、福音は伝えられ、「キリストを呼び求めるすべての人に豊かに恵みを」与えました。  

 今地上で感じる違いは、一時的なものです。今だけの違いです。私たちはそこに注目しません。「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」(Ⅱコリント4:18)。「キリストが私たちの主である」という事実は、永遠に続きます。人種の違い、立場の違い、所属の違いなどは、地上にいる間だけのことです。むしろ見える違いがあっても、同じ主が、キリストを呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるのですから、違いすらも神の豊かさとして味わうことができます。


<13節>

 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」は、ヨエル書2:32の引用です。どの民族であっても、どのような性格であっても、どのような背景を持つ人でも、「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。逆に律法の行いによっては、どれほど努力しても、神の義に到達することはできません。神に義と認められるような良い行い、きよさは、人間にはありません。神の義にふさわしいものは何もないことを認めて、主イエスの名を呼び求めるだけで良いのです。  

 イエス様を通してでなければ、だれも父なる神のみもとに行くことはできません(ヨハネ福音書14:6)。キリストの御名の他に、私たちが救われるべき名は人間には与えられていません(使徒4:12)。  

 自分の力で義を得ることをあきらめて、キリストの名を呼びましょう。キリストを救い主として受け入れるなら救われます。すぐ近くにある単純な救いです。「すでにキリストが、私の罪に代わって十字架で死なれました。キリストは死からよみがえり、罪と死に勝利しました。このキリストを通して、私は罪から救われました。キリストが私の主です」と告白しましょう。  

 自分の罪に対して無力であることを認めてキリストに信頼したのですから、律法主義者たちのように、自分の立派さをいまさら誇る必要はありません。「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)、私たちの罪のいけにえとなって、完全に救いを成し遂げてくださったキリストを誇りましょう。人間的な違いは問題ではありません。「キリストを愛す」という一点で、一つになることができます。地上の一時的な違いに目を留めたら、すぐに分断ができます。同じキリストを主とすることで、ユダヤ人とギリシア人の区別はなくなります。キリストをたえず主と告白しましょう。
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 8月1日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「あなたの近くにある信仰のことば」

       ローマ人への手紙10章5節~10節    三浦 真信 牧師

<5節>

 「律法による義」と「信仰による義」の違いを、パウロはここで説明します。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。律法による義を得ようとするなら、とことん律法を行うことで生きることになります。律法の一つでも行えなかったら、律法のすべてを犯した者とされます(申命記27:26,ヤコブ2:10)。律法で生きる人は、律法のすべての規定を完全に守らないと、義と認められて神の祝福のうちを生きることができないのです。人間の行いによって、律法による義を手に入れることは不可能です。


<6~8節>

 一方「信仰による義」に立つなら、義とされる救いはすぐ近くにあります。申命記30:11~14を自由に引用して、信仰による義に立つ幸いをパウロは伝えています。  「だれが天に上るのか」(6節)と、自分の力によって頑張って天に上る必要は無いのです。人は自らの行いや努力によって神の国に入ることはできません。天にまで届こうとして人が建設したバベルの塔は、神の手によって壊されました(創世記11:1~9)。人間の行によっては決して天に上ることはできません。だから神はあわれんでくださり、御子イエス・キリストを遣わして十字架の贖いを完成してくださいました。キリストが、すでに救いの道を用意して天に上られたのに、自分の行いによって義を得ようとなおしているなら、「それはキリストを(天から)引き降ろすこと」(6節)になります。  


 永遠のいのちをどうしたら受けられるかと、イエスに質問に来た金持ちの青年は、少年の頃から律法の戒めを守ってきたとイエスに言いました(マルコ10:17~27)。でもイエスに「あなたに欠けていることが一つあります」と言われ、財産を貧しい人たちにささげるよう言われると、彼は悲しみながら立ち去ります。完璧に律法を守ってきたと自負していたけど、心の中には自分の持ち物への強い執着があり、それを人のためにささげる愛が無いことを知り、愕然(がくぜん)とします。「まだまだ修行が足りない…」と思って帰ったのかもしれません。表面的には良い行いができても、イエス様に「あなたのここはどうか?」と突っ込まれたら、罪の埃(ほこり)がいくらでも出てきます。むしろ「自分の力ではとても永遠のいのちを得ることはできません」と神の前に降参して、キリストに助けを求めるならすぐに永遠のいのちは得られるのです。神の前に「降参する」ことが、まず大事です。


 「だれが深みに下るのか」(7節)の「深み」は、申命記30:13では「海のかなた」となっています。パウロは「よみ」のこととして引用しています。キリストはよみにくだり、死からよみがえり、罪人の救いを成し遂げられました。もうすでにキリストは死の底から引き上げられ、罪に勝利したのです。にもかかわらず、自分の行いで救われようとしているなら、それは「キリストを死者の中から引き上げる」(7節)ことで、無意味なことです。


 そのような無用な努力をしなくても、「みことばは、あなたの近くにある」(8節)のです。「みことば」とは、「私たち(パウロたち)が宣べ伝えている信仰のことば」です。つまり福音です。この「信仰のことば」は、「あなたの口にあり、あなたの心にある」のです。救いはすぐ近くにあるのです。遠い手の届かない所にではなく、すぐ近くにあるのです。


<9節>

 その「信仰のことば」とは、「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」という事実です。この9節は、初代教会で定式化されつつあった信仰告白文とも言われています。正に「口」で告白し、「心」で復活のキリストを信じる救いです。手に届く、すぐ近くにある救いです。


 「口でイエスを主と告白」するとは、イエスが神であり、私の救い主、私の従うべき主と信じてついていくことを公に告白することです。  「心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じる」とは、キリストの十字架の死と復活により、信じる者たちの罪が完全にきよめられたと信じることです。この通りにすれば、今すぐにも救われるのです。

 「あなたは救われるからです」のギリシャ語原語は、「ソーセーセ」という一単語です。救いがこれほど単純であることを、一語で力強くストレートに表しています。


<10節>

 9節の言葉を端的に言い換えています。人が神に義と認められるのは、「信じる」だけです。

 自分の行いではどこまでいっても義に到達できないことを認めて、降参して、キリストを信じ受け入れるだけで良いのです。そして信じたら、信じたことを口で告白します。洗礼(バプテスマ)は、キリストを自分の主と信じたことを公に告白する信仰告白です。イエスが復活して天にのぼる直前に、弟子たちに「あらゆる国の人々をキリストの弟子とし、父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けなさい」と命じました(マタイ28:19)。心で信じ、口で告白してバプテスマを受けることが、神のみこころなのです。

 信仰のことば(福音)は、あなたの近くにあります。イエスを信じ、主と告白するなら、あなたは救われるのです。この信仰のことばに立って、礼拝し、たえず祈りましょう。「律法による義」(行いによる救い)に立つと、罪を犯したり失敗すると、途端に神を遠くに感じたり祈れなくなったりします。しかし「信仰による義」に立つなら、どのような状態でも、神を近くに感じながら礼拝し祈ることができます。キリストの恵みに立つなら、神を礼拝することほど楽しいことはありません。神を仰ぐ場所が、暑い夏に谷川の流れに浸るような場所となっていきます(詩篇42:1)。今日もキリストで生きましょう。「信仰のことば」を告白して生きましょう。どんなに渇いても、キリストはいのちの泉を「ただで」飲ませてくださいます(ヨハネ黙示録21:6b)。このキリストの恵みの信仰に立ち続けましょう。
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