(2021年7月)

 ・ 7月25日
 ・ 7月18日
 ・ 7月11日
 ・ 7月 4日
 




 7月25日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「永遠の神」

       伝道者の書3章10節~15節    三浦 真信 牧師

<10節>

  アダムが神に背いて罪を犯して以来、人は労苦して働くようになりました(創世記3:17~19)。「神が人(の子ら)に従事するようにと与えられた仕事」においても、「時」があります。同じ仕事でもストレスなく楽しく働ける時があれば、とても体力的精神的に大変で辛い時もあります。仕事がなくなって不安な時もあれば、転職する時もあります。長年の仕事を引退するために寂しさを感じる時があれば、新しい働きが与えられて張り合いができる時もあります。その「時」というものも、神の御手にあることを信じられなければ、9節のように「働く者は労苦して何の益を得るだろうか」ということになります。  

 この著者自身も、事業で成功を収め、富を手に入れました(2:4~11)が、人生を振り返った時に、決してそれで満足ではなく空しさを感じています。


<11節>

 1~8節にあるように、すべての営みには時があります。そして「神のなさることは、すべて時にかなって美しい(すばらしい)」のです。聖書を通しても、神の時があることを私たちは知ります。  

 この宇宙が造られた時には、人が生きるために必要なものすべてがまず造られてから、人が造られました。モーセの時代には、神の律法が与えられ、神の基準が示されました。その後時代ごとに預言者が立てられ、神の言葉が人々に語られました。やがて、預言された救い主キリストが来られ、恵みによって救われる時代が到来します。キリスト召天後に聖霊が与えられ、聖霊がキリストに出会った者たちを用いて全世界に福音を宣(の)べ伝え、神のご計画は今なお新天新地に向かって前進しています。神の働きは、その時代その時代に違った形で現れます。その時代の人々にふさわしい在り方で、同じ神が働いておられます。「あの時代のように」「あの地域のように」ではなく、2021年の日本にふさわしい方法で、神は今も変わらずに働いておられます。そして神の働きは過去に戻るのではなく、キリストの再臨、新天新地の完成に向けて、前進し続けているのです。  

 教会の歴史においても同じです。久遠基督教会創立の80年前と今では、礼拝形式も交わりの形態も変化しています。またコロナ禍という有事の時、またその後においても変わっていきます。その時代に生きている人たちの特徴や環境をも用いて、聖霊は自由に働かれ、神のご計画を変わりなく進めていかれます。変わることのない同じ神が、今も働いて今の時代に生きる私たちを用いて、宣教のわざを行われます。  

 「神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない」  

 人間だけが、「時」を意識し、「永遠」という概念を持っています。過去を問い直したり、未来について考えることができます。永遠を知りたいという願いも持ちます。しかし限界ある人間には、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができないのです。そういう意味でも、人は小さく儚(はかな)い存在です。すべてを見極められない中で、考え決断していくために、間違うこともあります。すべてが不完全です。  

 神のなさること、神のご計画、神の時に関して、私たちはほんの一部分しか知らないことを認めて、先走らずに神の時を待ち、神のなさることに一歩一歩ついて行きましょう。  


 また「永遠」は、死のかなたにあるものです。人が「永遠」を思う時に、必ず「死」に直面します。しかし人は「死」について考えることをあまり好みません。そのため、死から目をそらすために現実の生活だけに埋没し、地上の事柄だけに心を向けて、その日その日だけを楽しく生きることで満足しようとします。


<12~13節>

 地上の生活を楽しんではいけないわけではありません。「食べたり飲んだり」という日常生活の楽しみも、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、「神の賜物」です。神が私たちに与えてくださる幸せとして、日常の小さな喜びも神がプレゼントとして与えてくださっています。 それ以上に、永遠を思う時に直面する「死」をも安心して迎えられるように、神は死に勝利したキリストを私たちに与えてくださいました。キリストと共に歩む者にとっては、永遠を思うことは恐怖ではなく、むしろ希望です。死のかなたにある永遠に対して、安心して生きることができる上に、神が地上での労苦の中にも喜び楽しみを賜物として与えてくださっていることを感謝いたしましょう。キリストにあっては、「すべてのことおいて感謝」することができるのです(Ⅰテサロニケ5:18)。


<14節>

 「私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない」  

 人がすることは、すべて一時的であり、変わりやすいです。しかし神がなさることは、永遠に変わりません。そして神がなさることに、人が何かをつけ加えたり、勝手に取り去ることはできないのです。神は永遠に不変な方。ですから永遠に信頼することができます。永遠に変わらない、そして永遠に生きておられる神を畏れ敬って生きること、この方を礼拝して生きることこそ、人にとって幸せな生き方です(箴言1:7)。


<15節>

 歴史は繰り返されます。時代は新しくなっているように見えますが、根本的にはすでにあったことが形を変えているだけです(1:9~10)。世界が新しくなっているのではなく、神がすべてを新しくする新天新地(ヨハネ黙示録21章)を目ざして、世界は終末に向かっています。外なる世界も、外なる人も衰えていきますが、キリストを内にいただく者は、内なる人が日々新しくされます(Ⅱコリント4:16、5:17)。キリストにあって新しくされた日から、外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。キリストの恵みは、私たちの内なる人を新しくし、神の国の民として永遠に導き続けてくださいます。  

 この世界は、目に見えないウイルスとの戦い、自然災害、紛争の激化など、人間の力では解決できない事態が増していきます。事態だけを見れば失望してしまいますが、私たちには「永遠の神」が共におられます。すべての「時」さえも御手に治めておられる方が、私たちの神です。ですから私たちは落胆しません。地上の一時的なことに心が囚われて一喜一憂する生き方から、永遠に続く神の国を思い、永遠の神と共に生きる恵みに感謝しましょう。  


 「山々が生まれる前から、地と世界をあなたが生み出す前から、とこしえ(永遠)からとこしえまで、あなたは神です」(詩篇90:2)
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 7月18日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「律法が目指すものはキリストです」

       ローマ人への手紙10章1節~4節    三浦 真信 牧師

<1節>

 復活のキリストに出会ったパウロは、いかに自分が律法に束縛されて不自由であったかに気づきます。心の中は汚い思いでいっぱいなのに、そこには蓋をして、立派な自分を演じながら歩んできました。しかしキリストによる完全な罪の赦しを体験して、解放され喜びに満たされました。

 自分の同胞であるユダヤ人も、キリストの救いを受け入れ、罪から解放されてほしいと願うパウロは、彼らの救いのために祈り続けています。


<2節>

 パウロは、ユダヤ人が神に対して熱心であることを認めています。神の律法を守り行うことこそ、神に喜ばれ、神に義とされる道だと信じ、熱心に律法を守り行いました。しかし「その熱心は知識に基づくものではありません」でした。かつてのパウロがそうであったように、正しい「知識」に基づかない熱心だったのです。つまり、神のみこころを正しく理解する知識ではありませんでした。

 彼らはよく聖書を読み、研究していました。しかしその理解は一面的であり、自分たちの都合の良い解釈をするようになり、聖書が語っている本質からずれていきました。神のみこころから外れたことに、彼らは熱心になっていたのです。「神のため」と言って、自分たちは正しい良いことをしていると確信しながら、神のみこころとは正反対のことに熱心になり、結果的に神のみこころを損なう方向に行ってしまったのです。それはかつてのパウロ自身の姿でもありました(Ⅰテモテ1:13~15)。


<3節>

 ユダヤ人たちは、「自らの義を立てようとして、神の義に従わなかった」のです。完全義なる方は、神おひとりです。人間の側に義はありません。人間の行いや努力によって、神に義と認めていただくことは不可能です。しかしユダヤ人たちは、義を「行いによるかのように追い求めた」(9:32)のです。「自分の行いで義を達成できるから、キリストに贖っていただかなくても大丈夫です」と言って、自分で自分を義とする道を選びました。「自らの義を立てようとして」、神が遣わしてくださった義なるキリストに従わず拒んだのです。


<4節>

 「律法が目指すものはキリストです」。

 「目指す(テロス)」という言葉は、「目標、終わり、成就」の意味があります。ですから「キリストは律法を終わらせ(成就し)ました」とも訳せます。律法の終わりと言っても、無律法主義の時代になったわけではありません。今も律法は聖なるものであり、私たちが地上で幸せに生きるために大切です。ただ、神の義を得る手段(救われる手段)として、律法の行いが必要であるという時代は終わったのです。律法が目指していたキリストが来られたので、キリストを信じる、信仰による義が今恵みによって与えられるのです。今はキリストが私たちを神の義に導いてくださいます。律法を完全には行えない罪ある私たちを、キリストがきよめ、救ってくださるのです。

 「こうして律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは私たちが信仰によって義と認められるためです。しかし信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって、神の子どもです」(ガラテヤ3:24~26)。

 律法は、私たちをキリストへと導くための養育係(家庭教師)です。律法を通して私たちは、自分の力で神の義を得られる行いができないことをとことん知らされます。どれほど良い行いを積んでも、罪を取り除くことができないことを知ります。そして罪を持ったままでいることの重たさからキリストが解放してくださることを知り、キリストを求めるようになります。

 「それで、義は信じる者すべてに与えられるのです」

 律法が目指していたキリストがすでに来られたので、神の義はキリストを信じるすべての人に今与えられます。今は、ユダヤ人、ギリシャ人、日本人…どの民族でも、キリストを信じるなら救われる恵みの時代なのです。律法では成し遂げられなかった罪からの救いのため、キリストは私たちの罪の贖いとなって十字架で死なれました。人間の罪によって世に入ってきた死にも勝利して、キリストはよみがえられました。キリストを信じるだけで、私たちの罪はきよめられるのです。昨日の罪も、キリストにあって赦されるのです。死ぬまで犯す罪も、キリストの十字架の血はきよめる力があります。ですから、キリストを求めましょう。キリストを求めることに熱心になりましょう。キリストがすべてです。この恵みの時代に生かされているのですから、キリストを伝えましょう。

 神が折角差し出してくださった恵みから落ちて、苦い根が生え出て悩ませることがないように(へブル12:15)、キリストの恵みに留まりましょう。
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 7月11日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「つまずきの石に信頼する者」

       ローマ人への手紙9章30節~33節    三浦 真信 牧師

<30~31節>

  ここから主題が変わり、パウロの時代になぜ異邦人が救われ、イスラエル民族がつまずいたかをパウロは説明します。

 異邦人は、造り主なる神を知らず、神の律法も知りませんでした。ですから、「(神の)義を追い求めなかった」のです。それにもかかわらず、「(キリストを信じる)信仰による義を得ました」。一方イスラエルは、宇宙すべてのものを造られた神を知り、神の律法も神の義(正しさ)も知っていました。モーセに与えられた「義の律法を求めていたのに、その律法に到達しませんでした」。


<32節>

 なぜそのようなことになったのでしょうか。それは、イスラエルが神の義を求める方法を間違えていたからです。「信仰によって」ではなく、「行いによるかのように追い求めた」からでした。

 まじめに一生懸命すれば必ず手に入れられるものと、どんなに努力しても得られないものがあります。神に義と認められることは、人がどれほど努力しても得られるものではありません。人の努力で神に義と認められることは不可能です。それほど人間の罪は深いのです。


 イスラエルは、行いによって神の義を得られると思っていました。でもその行いは、表面的なものでした。儀式を守る、人の前では良いことをする、表面的には規律を守るなど、人には認められても完全義なる神には認められませんでした。もしイスラエルが律法の精神を理解し、とことん律法を守ろうと努力したなら、むしろ自分の行いによってはとても救われないことがわかったはずです。パウロのように、「私は自分のうちに善が住んでいないことを知っています。良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです」(ローマ7:18)「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24)という心境に至ったことでしょう。神の律法を通して、私たちは神の完全なきよさを知ります。そのきよさに到達しようと本気で求めたなら、いよいよそうできないみじめな自分を知り、打ち砕かれるしかありません。

 でも多くのイスラエル人たちは、表面的な行いで自分の汚れを覆い隠して満足していました。偽善という形で、人前で良い自分を演技することで、きよくなった気になっていたのです。「いい人ですね。立派ですね」という人の称賛を真に受けて、義人になったと思い込んでいたのです。それは自分で自分を義としていただけで、神に義とは認められていませんでした。律法の精神を理解するなら、「自分の内に罪があって、良いことを実行できない」自分の実態に気がつきます。罪ある人間が、いくら表面上の良い行いを重ねても、罪を消すことはできません。マイナスの状態では、いくら良い行いを足しても、いよいよマイナスになるだけです。

 では、どうすればよいのでしようか。それは、罪あるみじめな自分の姿を認めて、神のあわれみを受け取ることです。どれほど努力しても、自分の行いでは救われえないことを認めて、神に降参して、神のあわれみとして遣わされたキリストを感謝して受け入れることです。  


 「彼ら(イスラエルの人たち)は、つまずきの石につまずいたのです」

 「つまずきの石」とは、人々をつまずかせる原因となるものです。パウロは、イエス・キリストご自身と、キリストの十字架の出来事を、つまずきの石に例えています。


<33節>

 イザヤ28:16と8:14を結合して引用しています。人間の知恵と力に頼る者たちには、つまずきとなるような方法で、神は救い主を世に出現させました。多くのイスラエルは、そのキリストにつまずきました。自分の行いで神の義を得ようとする者には、キリストはつまずきでしかありません。しかし自分の罪は良い行いでは帳消しにできないことを認め、神のあわれみであるキリストに信頼する者は、失望させられることがないのです。恥を見ることはありません。

 神は、自分の力で神の義を得られると誇っている者たちにではなく、自分の愚かさ汚れを知っている者たちに、キリストによる恵みの救いを現わしてくださったのです。十字架につけられたキリストによる救いは、神の知恵です。力強いしるし(奇跡)を求めるユダヤ人には、十字架で死ぬみじめな弱々しいキリストはつまずきでした。また人間の知恵を追求するギリシャ人には、十字架で死んだキリストが救い主であるとは愚かなことでした。しかしキリストに信頼する者たちにとっては、十字架につけられたキリストこそ、神の力、神の知恵なのです(Ⅰコリント1:17~31)。

 このつまずきの石であるキリストを通して、知恵ある者には愚かと思われる方法で、罪人を救い、霊的イスラエル(神の子)とすることが、神のみこころです。自分の力で救いを達成できる、あるいは何でも成し遂げることができると思っている時は、この神の知恵はわかりません。とことん自分に尽き果て、失望するしかない場所でこそ、「キリストこそ私たちにとって神からの知恵、義と聖と贖い」(Ⅰコリント1:30)であると心から宣言できます。神の言葉を信頼し、神が遣わしたキリストに頼るなら、決して失望させられることはありません。

 救いはどこまでも、キリストの恵みによります。人間の側の行いには一切よりません。良い行いは、神の愛に押し出されて与えられていきます。その時には、自分が何かをしたことも忘れます。律法学者のように、「私はこんなにやりました、頑張りました」と神にも人にも報告する必要はありません(ルカ18:11~12)。恵みでさせられた行いは、神への感謝となって、自分の誇りとはなりません。キリストの恵みで生きましょう。霊的イスラエル、神の子たちの集まりである教会は、キリストがすべてです。人々からはつまずきの石であっても、キリストの恵みで生きる者たちにとっては、キリストこそ神の知恵、神の力です。
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 7月4日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「神が残された子孫~滅亡したソドムとゴモラ~」

       ローマ人への手紙9章24節~29節    三浦 真信 牧師

<24節>

 怒りの器として滅ぼされても当然の者を、神は「あわれみの器」としてユダヤ人だけでなく異邦人の中からも召してくださいました。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫に約束されていた祝福が、異邦人である私たちにまで及んだのです。そしてそれは神が旧約の時代から約束しておられたことでした。


<25~26節>

 ホセア書2:23、1:10を結合した形で引用しています。預言者ホセアの妻ゴメルは、夫ホセアの子ではない、不倫相手の子を産みます。神はそのような彼女をあえて妻として受け入れ、子どもたちをも引き取るように命じます。長女は「ロ・ルハマ(あわれまれない)」と名付け、長男は「ロ・アンミ(わたしの民ではない)」と名付けるように神はホセアに命じました(ホセア1:6~8)。ホセアの妻ゴメルは、造り主神ではなく偶像に頼るイスラエルの姿でもあります。真の神を知りながら、人間が造り出した神の許に身を寄せる霊的姦淫(不倫)罪をイスラエルは繰り返し犯してきました。そのイスラエルを、神はなおも見放さず追い求め続けてくださるのです。ホセアがゴメルと姦淫相手の子を引き取ったことは、正に神がイスラエルに対してしてくださったことです。  

 造り主なる神ではなく、人間の欲望を形にした偶像を拝むイスラエルも、そして異邦人も、 「ロ・ルハマ(あわれまない)」「ロ・アンミ(わたしの民ではない)」と呼ばれても当然ですが、神はそのような者を「あなたは生ける神の子である」と呼んでくださるのです。キリストの十字架の贖いにより、ユダヤ人の中からだけでなく異邦人の中からも、「あわれみの器」「霊的イスラエル」を召してくださいました。教会こそ「あわれみの器」の共同体です。


<27~28節>

 イザヤ10:22~23の引用です(70人訳聖書)。「残りの者」「残された者」という表現が聖書には度々出てきます。もともとは、バビロンやアッシリヤに捕囚として連行されずに祖国イスラエルに残された人たちのことです。しかし預言者イザヤは、最後まで神に信頼して救われる者たちのことを「残りの者」と呼んでいます。そしてパウロも、ユダヤ人がイスラエル民族であるという理由で全員救われるのではなく、最終的に救われるのは、神に信頼し神の言葉で生きる、異邦人を含むわずかな残された者たちであると言っています。


<29節>

 「私たちに子孫が残されなかったら」の「子孫」も、「残された者(あわれみの器)」を指しています。アブラハムからイザヤの時代まで、イスラエルの歴史は神への背信の歴史でした。その中にも、わずかながら神に忠実な人々が存在しました。そのような「残された者たち」がいたからこそ、イスラエル民族は神の最終的裁きを逃れることができました。その子孫を主が残されなかったら、私たちも「怒りの器」として、「ソドムとゴモラと同じように」滅ぼされていたでしょう。  

 ソドムとゴモラの人々は、神を神として崇めず、霊的・倫理的にも堕落して、町ごと神に滅ぼされました(創世記18:20)。アブラハムの甥のロト一家が、この地を選んで住んでいました。しかし御使いからソドムとゴモラが滅びることを聞かされてもロトは逃げることをためらっていました。すると御使いがロトをせき立て、彼と彼の妻、2人の娘の手をつかんで、滅ぼされる直前に町から連れ出しました。これは、主のあわれみによることでした。そして「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない」と御使いは命じます(創世記19:12~29)。ロトはソドムで生活している時には、町の人たちの不道徳と放縦なふるまいに悩まされていました(Ⅱペテロ2:6~10)。それでもいざ御使いから町を出るように言われると、ためらったのです。罪の世界は、慣れてしまうと居心地が良くなってしまいます。そのまま徐々に無感覚になってしまい、気づくと取り返しのつかないことになっているのです。そこから抜け出して正気に戻った時には、「あのまま留まっていたら大変なことになっていた」と気がつきますが、その中で慣れ親しんでしまうと、感覚が麻痺してしまいます。  

 ソドムとゴモラの破滅は、不敬虔な者たちに起こることの実例でした(Ⅱペテロ2:6)。それだけでなく、神を神として認めない罪のこの世界は、やがてソドムとゴモラのようになるという実例でもあるのです(ルカ17:28~33)。ロトの日に起こったソドムとゴモラの出来事は、過去のことではなく、「人の子(キリスト)が再び来られる日」にも同じことが起きるという実例なのです。

 「自分の命を救おうと努める」ことに必死になって、大切な「(永遠の)いのちを保つ」ことに心を配らないなら、どちらの「いのち」も失うことになります。地上のいのちは、皆いつかは失います。そのいのちのことに心が捕らわれ、またそのことを交わりでフォーカスしすぎると、恵みから落ちてしまい、苦い根が出てきて互いを悩ませることになります(へブル12:15)。私たちは、死んだ後の復活の希望をキリストから与えられています。その恵みで生かされ、その福音を伝える共同体として地上の教会があります。ソドムとゴモラのような滅びから免れる道を伝え、永遠のいのちのことを、互いに分かち合いましょう。

 キリストが再びこの地に来られる時に、罪の世界は滅び、新天新地が来ます。その時に、キリストにあるいのちを持っているかいないかは、永遠に関わる大問題です。本来なら罪のために神から「あなたをあわれまない」「あなたはわたしの民ではない」と言われても当然の私たちでした。ソドムとゴモラのように滅ぼされても造り主に対して何の文句も言う資格のない者を、神はあわれでくださり、キリストの恵みによって救ってくださったのです。罪なき神の子キリストが、私たちのすべての罪を担って代わりに十字架で死なれました。「キリストの恵みでいのちを得よ」と、神の国に招かれていのちを与えられました。キリストが十字架の死からよみがえられたように、キリストの恵みで生きる者は復活のからだが与えられます。神が備えてくださる復活のからだで、永遠に神と共に生きるのです。ですから地上のいのちも大切にしつつ、それ以上に永遠のいのちを与えるキリストを分かち合いましょう。神の恵みに留まり続けましょう。
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