(2021年6月)

 ・ 6月27日
 ・ 6月20日
 ・ 6月13日
 ・ 6月 6日
 




 6月27日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「すべての営(いとな)みには時がある」

           伝道者の書3章1節~9節  三浦真信牧師


<1節>

 すべてのことには定まった時期があり、天の下(地上)のすべての営みには時があります。神の存在を否定したなら宿命論となり、「どうせこうなる運命だ」と刹那(せつな)的に、ネガティブにとらえてしまうでしょう。しかし神を見上げるなら、神のみこころの時を知り、神の摂理を信じて希望をもって神の時を待ち望むことができるのです。


<2節>

 人の生死に関して、人間が完全にコントロールすることはできません。自ら希望した日時に生まれることはできないし、皆が一律に同じ年齢で死ぬわけではありません。人それぞれの生死の時があります。 また種を蒔き苗を植える時があり、刈り取る時があります。作物を育てるのに、季節という時が大切です。


<3節>

 病気やケガ、戦争などで死ぬ時があり、癒(いや)されて回復する時があります。また建物を老朽化したため崩(くず)したり、意図せず災害などで崩れる時があります。新しく建てる時もあります。建てた時には必要だったものが、時間の経過とともに必要ではなくなったり、別に必要が出てくることもあります。


<4節>

 人間の喜怒哀楽にも時があります。身近な者を失って泣き明かす時期があり、大きな喜びを経験して嬉しくて踊る時があります。


<5節>

 「石を投げ捨てる」とは、戦争で軍隊が敵の畑に石を投げ捨てて土地を荒れ果てさせ、作物が育たないようにすることを意味します(Ⅱ列王記3:19、25)。「石を集める」は、戦争で荒れ果てた土地の石を集めて、畑を再び耕すことを意味します(イザヤ5:2)。和解して互いに抱擁する時もあれば、和解を拒んで戦い続ける時もあります。


<6節>

 所有物に関して、捜し求め続けて見出す時があれば、見つからずにあきらめる時もあります。また長年大切に保管する時があれば、それを手放すときもあります。


<7節>

 旧約時代は、極度の悲しみや災いに会うと、着ている衣服を引き裂く習慣がありました。そのように、大きな悲しみや心の痛みのために衣服を引き裂く時があれば、悲しみが癒されて、引き裂いた衣服を縫い合わせる時もあります。

 悲しみのために黙っている時があれば、喜びが戻って来て饒舌(じょうぜつ)になる時があります。またすぐに誰かに伝えたり相談した方が良い時もあれば、しばらく黙っていた方が良い時もあります。


<8節>

 だれかと反目したり距離をとる時期があれば、和解して以前より親しくなる時もあります。離れている時間に、冷静に考えて反省したり、神さまがそれぞれに語りかけてくださり、誤解が解けたり互いに謝罪して和解する時もあります。  国と国が戦う時があれば、和睦して平和な関係に戻る時もあります。


<9節>

 このように、あらゆることに時があります。もしも神が、あらゆる「時」に関与しておられなかったら、「働く者は労苦して何の益を得るだろうか」ということになり、「すべては空しく風を追うようなものだ」(2:11)ということになってしまいます。一生懸命働いたり努力することも、この伝道者が言うように空しく無益に思えてしまいます。しかし神を見上げる者にとっては、「神の時」があるので安心です。時も神の御手にあると知るので、神の時を意識することができるため、希望を失いません。

 イエスも、神の時を意識しておられました。イエスの兄弟たちが、もっと公の場でイエスに力あるわざを行うよう勧めました。その時にイエスは、「わたしの時はまだ来ていません」と言われました(ヨハネ福音書7:6)。イエスが公の場に立つ時は、十字架にかけられる時です。人々から称賛を得ている時ではなく、人々から見捨てられ、罪人の代表として十字架にかけられる時こそ、公の場に身を置く時でした。

 またイエスが神から遣わされたキリストであることを語って、人々がイエスを捕らえようとした時にも、その時にはイエスに手をかける者はいませんでした。「イエスの時がまだ来ていなかったから」(ヨハネ福音書7:30)です。イエスが実際に捕らえられるのは、十字架にかけられる時です。その時までは、だれもイエスを捕らえることはできなかったのです。まだイエスには地上で人々に語るべきこと、為(な)すべきことがあったのです。  

 同じように、私たちも地上において神の時があることを知ります。死に直面していのちを失いそうになっても、神の時でなければ生かされます。いかに健康でも、いつ死が来るかもわかりません。なかなか解決しない問題も、神の時がくれば一気に解決していきます。その時までは、見えるところでは何も起きなくても、神の時を信じて待ち望みましょう。  


 何よりも私たちは今、死からいのちに移される恵みの時に生かされています(ヨハネ福音書5:24~25)。罪の中で死んでいた者を生かすために、キリストはこの地に来られました。造り主なる神の許を勝手に離れた人間は、さばきと滅びを受けて当然の存在でしたが、キリストを受け入れた者は死からいのちに移されます。キリストの声を今聞いて信じるなら、生かされるのです。今はだれもが、キリストの恵みによって罪きよめられ、霊的に生かされる時です。キリストが与えるいのちは、永遠に続きます。この恵みの時に生かされていることを感謝しつつ、また時を生かして、霊的に死んだ者をも生かすキリストの言葉を伝えましょう。


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 6月20日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「備えられたあわれみの器」

           ローマ人への手紙9章14節~23節  三浦真信牧師

<14節>

 神がイサクの子孫、そしてヤコブの子孫をイスラエルとして選ばれたことで、人から出てくるであろう疑問をパウロは投げかけます。それは「神に不正があるのでしょうか」という問いです。ここの「不正」は「不義」とも訳せます。「イシュマエルではなくイサクを選び、双子の兄弟である兄エサウではなく弟ヤコブを選んだ神は、不義なのか?」その問いかけに対して「決してそんなことはありません」と、パウロはその考えを一蹴(しゅう)します。このような考え方は人間中心であって、神の主権に真っ向から対立するものです。


<15節>

 「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」と神はモーセに言われました(出エジプト33:19)。この言葉を罪ある人間が言ったなら、不公平で正しくないと言えるかもしれません。しかし神は人間の正義や倫理を超えた方です。絶対義なる方です。義(正しさ)の基準は神にあります。主権は神にあります。


<16節>

 選びが、義なる神の主権によるのであれば、「人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」のです。「こんなにたくさん願って祈ったのにその通りにならなかった」とか「こんなに努力したのに、神はあわれんでくださらなかった」という不平はおかしいのです。人の願いや努力が、神のあわれみを受ける条件ではありません。


<17~18節>

 「あわれみ」だけでなく、「人を頑(かたく)なにする」ことも、神の主権によることです。神は、頑なにイスラエルを解放しないエジプト王ファラオに、「わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるために、わたしはあなたを立てておいた」(出エジプト9:16)と言われました。ファラオが、イスラエルをすぐには解放せず、心を頑なにするたびに、神が語られた通りの災いがエジプトに起きました(出エジプト7~12章)。災いが止むと、また心を翻して頑なになるエジプト王ファラオでしたが、ついにイスラエルを解放します。イスラエルを解放した後にも再び心が頑なになり、エジプト軍はイスラエルを追います。そして前に立ちはだかる海を神は真っ二つに分け、イスラエルの民は全員海の乾いた地を歩きます。全員渡り終えると、神は二つに分かれた海を戻され、後ろから追ってきたエジプト軍はその波に飲まれて全滅します。この一連の出来事を通して、神の力と偉大さが、エジプトの王と全地に知らされました。

 神は「みこころのままに人を頑なに」もされるのです。頑なな人さえも、神はご自身の栄光のために用いられるのです。


<19~21節>

 ここでパウロは、なおも人から出てくるであろう疑問を投げかけます。神が絶対的主権をもって自由に人を選ばれるのなら、「なぜ神は人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか」と。その問いに関してパウロは、「人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか」と答えます。神に造られた被造物である人間が、造り主である神に向かってこのような問いを発すること自体ありえないことです。この反論そのものが、神と造られた私たちとの関係では成り立たないのです。

 そして旧約の預言者たちがよく用いた陶器師と器の関係を語ります。陶器師は、同じ土のかたまりから、様々な形・用途の器を造ります。陶器師が自由に器を造る権利を持っています。土の器の一つに過ぎないのに、自分を形造った方に抗議することはできないのです(イザヤ45:9)。創造者と被造物の関係を、逆さに考えるからおかしくなります(イザヤ29:16)。造り主がイサク、ヤコブを選んだことも、エジプト王ファラオの心を頑なにしたことも、造られた側が抗議する立場にありません。またその理由を知る必要もありません。


<22~23節>

 そもそも義なる神の御前で罪ある人間は、神の御怒りを受けて当然でした。罪ゆえに滅ぼされても何の文句も言えない存在でした。人は神に造られたのに、造り主に逆らい、造り主を無視し、自分たちの欲望を満たすための偶像を造り、造り主に対してとてつもなく失礼なことをしてきたのです。神はそのような失礼な私たち人間を、「豊かな寛容をもって耐え忍ばれた」のです。そして「あらかじめ備えられたあわれみの器」に対して、「ご自分の豊かな栄光を知らせて」くださったのです。この「あわれみの器」こそ、真のイスラエル、霊的イスラエル、キリストによって新生した神の子たちのことです。  

 選ばれた一部の民族にしか届かない祝福、特権ではなく、今や民族の壁を越えてこの祝福は届いているのです。何人であろうとどこに住む人であろうと、神の約束を信じ神が遣わしたキリストを受け入れるなら、神の主権によって神の子となる特権が与えられるのです。人間中心の公平、不公平感とは違います。完全義なる神、そして愛なる神の主権による選びだから安心です。  


 神を信頼できれば、神のことがすべてわからなくても安心して任せることができます。人間の基準では不公平に見えても、神の計画は正しく完全です。私たちの側の行いによらず、神が選び目を留めてくださったことがわかると、失敗したり自分の状態が良くなくても安心です。人間的良さを評価して救われたのではありません。善も悪も知らない、世界が造られる前から、神はキリストにあって私たちを聖なる傷のない者にしようとして選んでくださったのです(エペソ1:3~4)。キリストにある霊的祝福をもって、祝福してくださったのです。私たちが救われ、霊的祝福を受け継ぐ霊的イスラエルとされたのは、神の言葉を信じ、神が遣わしたキリストを受け入れたからです。それは行いにはよらない、一方的な神の恵みによります。その神の恵みを感謝し、みことばに押し出されて、喜んで神と人に仕えましょう。
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 6月13日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「選びによる神のご計画」

           ローマ人への手紙9:6~13    三浦真信牧師

<6~9節>

 神の民として、特別な恩寵を受けてきたイスラエルですが(4~5節)、彼らは神が遣わしたキリストを受け入れずに殺してしまいました。そしてパウロがこの手紙を書いている時も、キリストを拒否していました。しかしだからといって、神の言葉が無効になったわけではありません。神の約束は変わらないのです。    


 ここから、「イスラエル」の定義が新しい局面を迎えます。イスラエルは、神から多くの賜物と特権を与えられていますが、「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではない」のです。また「アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません」。ユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫であることを誇りとしていました。神に選ばれた特別な民族であると自負していました。しかしバプテスマのヨハネも言っているように、「神は石ころからでもアブラハムの子らを起こすことができる」のです(ヨハネ福音書3:7~10)。血筋がアブラハムの子孫であっても、悔い改めにふさわしい実を結ぶのでなければ、切り倒されてしまいます。血筋がアブラハムの子孫であること、イスラエル人という民族であることよりも、霊的イスラエルとなることが大切です。  

 民族としてのイスラエルも、すべてのアブラハムの子孫がそうではありませんでした。神の約束により生まれたイサクの家系が、イスラエルとして続いていきました。アブラハムの肉の思いによって女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルの子孫は、アラブ人となっていきます。ただ神の約束により超自然的に与えられたイサクの子らが、イスラエルとして続いていきます(8~9節)


<10~13節>

 イサクとイシュマエルの場合は、正妻の子と奴隷の子という違いがありますが、イサクとリベカの子であるエサウとヤコブの場合は、どちらもリベカ一人から生まれた双子の兄弟です。出生における条件は2人とも同じです。彼らは、まだ「善も悪も行わない」生まれる前に、「神のご計画」により、弟ヤコブがイスラエルとして選ばれていました。「兄が弟に仕える」と、2人がまだリベカの胎内にいる時に神は言われたのです(創世記25:23~24)。その通りに、兄エサウは長子の権を失って、弟ヤコブが長子の権を得るようになります。そしてヤコブの子孫がイスラエルとして続き、やがてキリストがその家系から生まれます。人間ヤコブは、とてもずる賢く、癖がありました。決して立派な人格者でも、行いが特別良かったわけでもありません。預言者イザヤは、「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける~主のことば~あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」(イザヤ41:14)と、「虫けらヤコブ」と、ヤコブとイスラエルを重ねて呼んでいます。ヤコブとエサウの出生やその人生を通して、「選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められる」ことがわかります。  


 神の子どもとして選ばれるのは、それにふさわしい行いや性質を備えていたからではありません。虫けらのヤコブと表現されるような存在でも、神がヤコブを選ばれたのです。そして今血筋によらず、行いによらず、神の約束を信じて生きる者たちが、霊的イスラエル・神の子孫として、霊的祝福を受け継いでいます。神が遣わしたキリストを信じる者たちが、行いや人間的良さによらず、ヤコブのように弱さやどうしようもない性質を抱えながらも、霊的イスラエルとして、神の恵みとあわれみを受けているのです。民族としてのイスラエルではなく、神の約束を信じ、神が遣わしたキリストを受け入れた者たちこそ、真のイスラエルです。  

 「この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(ヨハネ福音書1:12)。人間的な性質、血筋、環境は一切関係なく、キリストを受け入れた人々こそ、真の霊的イスラエルであり、神の子どもとしての特権と祝福を受け継ぐ者なのです。「召してくださる方」が、あえて足りない私たちに目を留めてくださり、神の子どもとしてくださったのです。私たちが救われたのは、神が私たちを召し、呼び出してくださった、神の主権によるのです。今なお、自分の行いによって救いを達成しようとしていないでしょうか?神が遣わしてくださったキリストの恵みで生きましょう。そしてその神の無条件のご愛に応答して生きましょう。
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 6月6日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「いのちの道を知った喜び」

           詩篇16篇    三浦 真信 牧師

 毎年6月の第1聖日に、召天者記念礼拝をしています。召天者の皆様の上に神が与えてくださった恵みを感謝しつつ、神に礼拝をささげましょう。    

 詩篇16篇だけでなく、詩篇の多くはイスラエルの王であったダビデの讃美と祈りです。ダビデは、王として国を守る責任がありました。近隣諸国からの攻撃があり、難しい国政の課題もあり、眠れない日も多くあったことでしょう。「私は身を横たえて眠り、また目を覚ます。主が私を支えてくださるから」(詩篇3:5)とあるように、主を叫び求める中で、主が支えてくださるから、また不安や恐れの中でもダビデは眠ることができました。


<1~5節>

 「私はあなたに身を避けています」(1節)とあるように、ダビデにはいつも帰る場所がありました。ダビデが身を避ける場所は、いつも神のもとでした。その経験を通して、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにありません」(2節)という確信に至ったのです。

 「ほかの神に走った者の痛みは、増し加わります」(4節)。召天者の方々の中には、様々な宗教を渡り歩いて来られた方もいます。自分の心の拠り所とする何かにのめり込んで、依存的になり危険な状態を経験した方もいます。やるだけやって、追いかけるだけ追いかけて、空しさと痛みを味わいながら、「主なる神よ、私の幸いはあなたのほかにありません」と告白するようになりました。


<6~8節>

 ダビデは、様々な苦難と戦いの中で、「助言を下さる主」をほめたたえました。「夜ごとに内なる思いが私を教えます」(7節)と、主なる神がみことばを内から語りかけてくださるのです。「夜ごとに」とありますから、心にある悩みで夜ごとに悶々としながらも、その悩みに神が内からみことばで助言を与えてくださって、また安心して眠りについたのでしょう。神は今も私たちに、このようにみことばで助言を与え、語りかけてくださいます。「主が私の右におられる」ということをたえず経験するので、「私は揺るがされることがありません」と宣言することができるのです。


<9~11節>

 主なる神が共におられる人生は、悩みや困難がありながらも、喜び平安があります。それは、何かで成功したから喜ぶとか、願っていた通りになったから喜ぶという喜びではありません(それもありますが)。困難な状況は変わらないのに、神が共におられて的確にみことばを通して助言を与えてくださるという喜びです。そのことを通して、神が私のことをこんなにも知っていてくださるのだとはっきりわかるので、嬉しく安心なのです。  

 苦しみの中で経験した、神からくる喜びは、死んだ後に対しても希望を与えます。 「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に、滅びをお見せにならないからです。あなたはいのちの道を知らせてくださいます」(10~11節)。 「よみ」とか「滅び」というのは、死んだ人が行く場所です。「燃え尽きることのない火」という表現でも聖書の中で出てきます。死後にそのような絶望的な所に行くとしたら、死後に対して希望を持つことができません。  

 しかし神は、「いのちの道」を知らせてくださいます。ダビデが経験したように、神に身を避け、神の助言を受け取りながら生きるなら、神から与えられる喜びで生きることができます。そしてその喜びは、そのまま死の後にも続いていくのです。死は通過点に過ぎないのです。  

 神と共に生きるなら、生きている時も死んだ後も、「満ち足りた喜びが、あなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります」となるのです。神は「とこしえに(永遠に)」続く喜び、楽しみを与えてくださるのです。  


 召天者の多くの皆様も、人生の中で大変な苦難の時期を通っています。その中で、どのような状況になっても消えることのない、神からくる喜びを経験されました。キリストが与えてくださる喜びは、環境に左右されないものです(ピリピ4:11~13)。そして死もその喜びを奪うことはできません(Ⅰコリント15:54~55)。

 キリストは、「わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われました(ヨハネ福音書11:25)。キリストが十字架の死からよみがえられたように、キリストを信じる者は死んでも復活のからだが与えられます。

 「キリストは、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」(ピリピ3:21)。いつかは衰え朽ちていく私たちのこのからだを、キリストはご自身と同じ 栄光に輝くからだに変えてくださいます。  

 今のからだも、神が一人ひとりに与えてくださったものとして大切にしつつ、それでもいつかは脱ぎ捨て手放すからだとして心がとらわれ過ぎないようにしましょう。キリストにある復活のからだで、また召天者の皆様とお会いできることを信じつつ、とこしえに続くいのちの道を知って生きる喜びが、召天者のご家族・知人の皆様の上にありますようにお祈りいたします。
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