(2021年6月)

 ・ 6月13日
 ・ 6月 6日
 




 6月13日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「選びによる神のご計画」

           ローマ人への手紙9:6~13    三浦真信牧師

<6~9節>

 神の民として、特別な恩寵を受けてきたイスラエルですが(4~5節)、彼らは神が遣わしたキリストを受け入れずに殺してしまいました。そしてパウロがこの手紙を書いている時も、キリストを拒否していました。しかしだからといって、神の言葉が無効になったわけではありません。神の約束は変わらないのです。    


 ここから、「イスラエル」の定義が新しい局面を迎えます。イスラエルは、神から多くの賜物と特権を与えられていますが、「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではない」のです。また「アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません」。ユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫であることを誇りとしていました。神に選ばれた特別な民族であると自負していました。しかしバプテスマのヨハネも言っているように、「神は石ころからでもアブラハムの子らを起こすことができる」のです(ヨハネ福音書3:7~10)。血筋がアブラハムの子孫であっても、悔い改めにふさわしい実を結ぶのでなければ、切り倒されてしまいます。血筋がアブラハムの子孫であること、イスラエル人という民族であることよりも、霊的イスラエルとなることが大切です。  

 民族としてのイスラエルも、すべてのアブラハムの子孫がそうではありませんでした。神の約束により生まれたイサクの家系が、イスラエルとして続いていきました。アブラハムの肉の思いによって女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルの子孫は、アラブ人となっていきます。ただ神の約束により超自然的に与えられたイサクの子らが、イスラエルとして続いていきます(8~9節)


<10~13節>

 イサクとイシュマエルの場合は、正妻の子と奴隷の子という違いがありますが、イサクとリベカの子であるエサウとヤコブの場合は、どちらもリベカ一人から生まれた双子の兄弟です。出生における条件は2人とも同じです。彼らは、まだ「善も悪も行わない」生まれる前に、「神のご計画」により、弟ヤコブがイスラエルとして選ばれていました。「兄が弟に仕える」と、2人がまだリベカの胎内にいる時に神は言われたのです(創世記25:23~24)。その通りに、兄エサウは長子の権を失って、弟ヤコブが長子の権を得るようになります。そしてヤコブの子孫がイスラエルとして続き、やがてキリストがその家系から生まれます。人間ヤコブは、とてもずる賢く、癖がありました。決して立派な人格者でも、行いが特別良かったわけでもありません。預言者イザヤは、「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける~主のことば~あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」(イザヤ41:14)と、「虫けらヤコブ」と、ヤコブとイスラエルを重ねて呼んでいます。ヤコブとエサウの出生やその人生を通して、「選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められる」ことがわかります。  


 神の子どもとして選ばれるのは、それにふさわしい行いや性質を備えていたからではありません。虫けらのヤコブと表現されるような存在でも、神がヤコブを選ばれたのです。そして今血筋によらず、行いによらず、神の約束を信じて生きる者たちが、霊的イスラエル・神の子孫として、霊的祝福を受け継いでいます。神が遣わしたキリストを信じる者たちが、行いや人間的良さによらず、ヤコブのように弱さやどうしようもない性質を抱えながらも、霊的イスラエルとして、神の恵みとあわれみを受けているのです。民族としてのイスラエルではなく、神の約束を信じ、神が遣わしたキリストを受け入れた者たちこそ、真のイスラエルです。  

 「この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(ヨハネ福音書1:12)。人間的な性質、血筋、環境は一切関係なく、キリストを受け入れた人々こそ、真の霊的イスラエルであり、神の子どもとしての特権と祝福を受け継ぐ者なのです。「召してくださる方」が、あえて足りない私たちに目を留めてくださり、神の子どもとしてくださったのです。私たちが救われたのは、神が私たちを召し、呼び出してくださった、神の主権によるのです。今なお、自分の行いによって救いを達成しようとしていないでしょうか?神が遣わしてくださったキリストの恵みで生きましょう。そしてその神の無条件のご愛に応答して生きましょう。
 ページの先頭に戻る

 6月6日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「いのちの道を知った喜び」

           詩篇16篇    三浦 真信 牧師

 毎年6月の第1聖日に、召天者記念礼拝をしています。召天者の皆様の上に神が与えてくださった恵みを感謝しつつ、神に礼拝をささげましょう。    

 詩篇16篇だけでなく、詩篇の多くはイスラエルの王であったダビデの讃美と祈りです。ダビデは、王として国を守る責任がありました。近隣諸国からの攻撃があり、難しい国政の課題もあり、眠れない日も多くあったことでしょう。「私は身を横たえて眠り、また目を覚ます。主が私を支えてくださるから」(詩篇3:5)とあるように、主を叫び求める中で、主が支えてくださるから、また不安や恐れの中でもダビデは眠ることができました。


<1~5節>

 「私はあなたに身を避けています」(1節)とあるように、ダビデにはいつも帰る場所がありました。ダビデが身を避ける場所は、いつも神のもとでした。その経験を通して、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにありません」(2節)という確信に至ったのです。

 「ほかの神に走った者の痛みは、増し加わります」(4節)。召天者の方々の中には、様々な宗教を渡り歩いて来られた方もいます。自分の心の拠り所とする何かにのめり込んで、依存的になり危険な状態を経験した方もいます。やるだけやって、追いかけるだけ追いかけて、空しさと痛みを味わいながら、「主なる神よ、私の幸いはあなたのほかにありません」と告白するようになりました。


<6~8節>

 ダビデは、様々な苦難と戦いの中で、「助言を下さる主」をほめたたえました。「夜ごとに内なる思いが私を教えます」(7節)と、主なる神がみことばを内から語りかけてくださるのです。「夜ごとに」とありますから、心にある悩みで夜ごとに悶々としながらも、その悩みに神が内からみことばで助言を与えてくださって、また安心して眠りについたのでしょう。神は今も私たちに、このようにみことばで助言を与え、語りかけてくださいます。「主が私の右におられる」ということをたえず経験するので、「私は揺るがされることがありません」と宣言することができるのです。


<9~11節>

 主なる神が共におられる人生は、悩みや困難がありながらも、喜び平安があります。それは、何かで成功したから喜ぶとか、願っていた通りになったから喜ぶという喜びではありません(それもありますが)。困難な状況は変わらないのに、神が共におられて的確にみことばを通して助言を与えてくださるという喜びです。そのことを通して、神が私のことをこんなにも知っていてくださるのだとはっきりわかるので、嬉しく安心なのです。  

 苦しみの中で経験した、神からくる喜びは、死んだ後に対しても希望を与えます。 「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に、滅びをお見せにならないからです。あなたはいのちの道を知らせてくださいます」(10~11節)。 「よみ」とか「滅び」というのは、死んだ人が行く場所です。「燃え尽きることのない火」という表現でも聖書の中で出てきます。死後にそのような絶望的な所に行くとしたら、死後に対して希望を持つことができません。  

 しかし神は、「いのちの道」を知らせてくださいます。ダビデが経験したように、神に身を避け、神の助言を受け取りながら生きるなら、神から与えられる喜びで生きることができます。そしてその喜びは、そのまま死の後にも続いていくのです。死は通過点に過ぎないのです。  

 神と共に生きるなら、生きている時も死んだ後も、「満ち足りた喜びが、あなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります」となるのです。神は「とこしえに(永遠に)」続く喜び、楽しみを与えてくださるのです。  


 召天者の多くの皆様も、人生の中で大変な苦難の時期を通っています。その中で、どのような状況になっても消えることのない、神からくる喜びを経験されました。キリストが与えてくださる喜びは、環境に左右されないものです(ピリピ4:11~13)。そして死もその喜びを奪うことはできません(Ⅰコリント15:54~55)。

 キリストは、「わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われました(ヨハネ福音書11:25)。キリストが十字架の死からよみがえられたように、キリストを信じる者は死んでも復活のからだが与えられます。

 「キリストは、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」(ピリピ3:21)。いつかは衰え朽ちていく私たちのこのからだを、キリストはご自身と同じ 栄光に輝くからだに変えてくださいます。  

 今のからだも、神が一人ひとりに与えてくださったものとして大切にしつつ、それでもいつかは脱ぎ捨て手放すからだとして心がとらわれ過ぎないようにしましょう。キリストにある復活のからだで、また召天者の皆様とお会いできることを信じつつ、とこしえに続くいのちの道を知って生きる喜びが、召天者のご家族・知人の皆様の上にありますようにお祈りいたします。
 ページの先頭に戻る