(2021年5月)

 ・ 5月30日
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 ・ 5月 2日
 




 5月30日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「永遠に続く喜び」

           伝道者の書2:18~26     三浦真信牧師

<18~23節>

 伝道者の書の著者は、事業で成功し、富を手に入れました(2:4~8)。そのために骨を折って労苦し働いてきました。そしてその労苦の実を、後継者に残すことを意識するようになります。彼が労苦して築いた地位、財産は、やがて誰かに譲ることになります(18節)。引き継ぐ者が知恵ある者で実を結ぶことを期待しますが、それも裏切られるかもしれません(19節)。ソロモン王の場合は、後継者レハブアムの愚かな判断により、国が分裂してやがて衰退していくことになります。  

 著者の伝道者は、「骨折った」「労苦した」ことを繰り返し伝えています。そしてそれを引き継ぐ者は、それほど労苦をしないでその実を譲られることになります(その後苦労をすることでしょう)(20~21節)。  

 事業拡張のために、彼は何もしなかったわけではありません。そのために「労苦」があり、たえず「思い煩い」、「その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない」という日々を送ってきました。それほど苦労し悩み、激しい戦いの中で得た物を、いつかはすべて手放す時が来ます(22~23節)。それが誰の物になるのかはわかりません(詩篇39:6、ルカ12:20)。伝道者は、晩年になって自分の働きを退く時になり、改めて人生の空しさ、不条理を感じています。


<24~26節>

 一生の間労苦を負いつつも、人は生きている限り、食べたり飲んだりしながら満足を見出すほかありません。神の御手の中で、食べたり飲んだりすることも、労苦に満ちた人生の中で神が人に与えてくださった喜びです。コロナ禍で、集まって食事ができなくなり、改めて食事を通して得られる交わりのすばらしさを感じます。イエス様も、食事による弟子たちとの交わりを大切にしていました。食事を通して神の恵みを覚え分かち合うことは、神が人に与えてくださった恵みです。神を畏れ敬う中で、私たちは大いに神が与えてくださった恵みを喜び楽しんで良いのです。  

 しかしそのような楽しみがありながらも、それで「空(くう)の空(くう)。すべては空」(1:2)、「これもまた空しく、風を追うようなものである」(2:26)の解決にはなりません。  


 伝道者は、「日の下」(「地上で」の意味)を繰り返し使っています。今私たちが生きている「日の下」(地上)のことだけで満足しようとするなら、結局何をしてもまた、「空(くう)の空(くう)」に行き着いてしまいます。「日の下」では決して解決しない「空の空」は、「神の国」において解決されるというのが聖書のメッセージです。  

 イエス様が、弟子たちを宣教に遣わし、彼らが帰ってきた時に「イエス様の名前を用いると、悪霊たちも私たちに服従しました。このようなすごいわざを行うことができました」と、意気揚々と報告しました。その時にイエス様は、「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と仰い(おっしゃい)ました(ルカ10:17~20)。得意なことや自分の能力を発揮するという喜びがあります。しかしそれも一時的なもので、いつかはできなくなったり、他の人がするようになります。人それぞれに楽しみ喜びの種類は違いますが、地上のことだけに喜びの基盤を置いていると、いつか「何の喜びもない」という日がやってきます。  

 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに。また「何の喜びもない」という年月が近づく前に」(伝道者の書12:1)。  私たちの造り主である神を覚え、天に私の名が記(しる)されていることを喜びとするなら、その喜びは永遠に続きます。    


 地上ですべてのことが完結するかのように毎日を送っていると、いつしか地上の事に心がとらわれていきます。まるで永遠にこの地上で生きるかのように思い違いをしてしまいます。そして「生」への執着が強くなります。しかし私たちは自分の命さえもコントロールできません(ルカ12:25)。むしろパウロのように「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」(ピリピ1:21)という生き方ができれば、地上の出来事に執着せず、一つひとつ手放しながら、神の御手に任せながら、軽やかに生きていくことができることでしょう。  

 今私たちは何を喜びとしているでしょうか?何に心がとらわれているでしょうか?永遠に続くものに目を留めて生きましょう。地上ですべてが完結するかのようにとらわれ、執着していることから解放されるように助け主聖霊に求めましょう。キリストが命を捨てて私たちに与えてくださった、永遠に続く喜びを奪われないようにしましょう。
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 5月23日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「キリストの遺言」

           ヨハネの福音書14章~17章     三浦真信牧師

 十字架の死を目前にして、イエス様は弟子たちに遺言のようなメッセージを語りました(ヨハネ福音書14章~17章)。その中で、やがて助け主聖霊が与えられると約束しておられます。ペンテコステ(聖霊降臨日)は、正にこのイエスさまの遺言通りのことが起きた日です。それは、過越しの祭りから50日目に行われる収穫の祝いの日(五旬節)に、弟子たちが集まっていた場所で突然起きました(使徒2:1~11節)。集まっていた弟子たちは、皆聖霊に満たされ、他国のいろいろなことばで、神の大きなみわざを語り始めました。祭りに集まっていたあらゆる国々の人たちにもはっきりわかるように、聖霊が主の約束通り与えられたのです。ここから、聖霊に導かれて宣教のわざが広がっていきます。

 十字架の死からよみがえられたイエス様は、エルサレムを離れないで聖霊が与えられるという約束を待つように弟子たちに命じました。その約束がいつ成就するかは伝えられませんでした。主の約束は、時が明示されません。父なる神が権威をもって時を定めておられます。ただ聖霊が臨むときに力を受けることが約束されています(使徒1:4~8)。 イエスさまの遺言で、聖霊について語られたことを心に留めて、いよいよ聖霊により頼みましょう。


① 聖霊は私たちの内に常におられます(ヨハネ福音書14:16~17)

 イエス様は弟子たちに、ご自分がもうすぐいなくなることを予告していました。しかしそれは弟子たちにとって、さらにすばらしい出来事を体験できることでした。肉体を持つイエス様は、弟子たちといつも一緒にいることはできません。しかし聖霊は、私たちの内に住み、四六時中離れることなく、共におられるのです。2000年以上前に、イエスの弟子たちがイエス様と生活していた時よりもすばらしいことを、キリストの贖いを受けた者は聖霊の内住によって体験できるのです。聖霊は私たちの内に住み、いつも共におられて助けてくださる方です。


② 聖霊はみことばを思い起こさせます(ヨハネ福音書14:26~27)

 助け主聖霊は、イエス様が語られたみことばを思い起こさせて、キリストの平安を与えます。私たちの記憶力や勉強量とは全く関係がありません。ですから、たえずみことばに浸っていましょう。必要な時に、聖霊は主の約束を思い起こさせてくださり、驚くべき平安を与えてくださいます。


③ 聖霊は世の誤りを明らかにします(ヨハネ福音書16:7~8)

 聖霊は私たち人間が、造り主なる神からいかに外れた存在であるかを明らかにします。そして外れたままでいることが、神の義・神のさばきの前に、どれほど恐ろしいことかを明示します。


④ 聖霊は真理に導く(ヨハネ福音書16:13)

 聖霊は、私たち人間が誤った方向に向かっていることを示した後に、真理に導きます。造り主なる神のもとに立ち返られるように、キリストは十字架で死んで三日目によみがえられました。キリストこそ、罪人が神と和解する唯一の道であり真理でありいのちなのです(ヨハネ福音書14:6)。聖霊は、その真理へと私たちを導いてくださいます。


⑤ 聖霊はキリストにある者たちを聖別します(ヨハネ福音書17:15~19)

 キリストの贖いを受けた者は、この世にいながらこの世のものではありません。地の塩、世の光として、この社会に溶け込んで生活しますが、キリストのものとして生きます(マタイ5:13~14)。私たちは、キリストから送り出された使節(大使)です(Ⅱコリント5:20)。キリストが遣わしたのですから、キリストの言葉で生きます。私たちの行動や思考パターンが、世の情報や考え方ではなく、キリスト・マインドが土台となるように、聖霊は私たちを聖別してくださいます。


 このような聖霊の豊かな働きによって、私たちは2000年以上前にイエスと生活していた弟子たち以上に、神の言葉、ご計画、み心を理解できるようにされているのです。聖霊が私たちの内に住まわれ、今もみことばを語りかけ、私たちを真理へと導いておられます。この主イエスの約束はすでに成就しています。イエスが約束通り、人類の罪の身代わりとなって十字架で死なれたことで、遺言は執行されているのです。内におられる聖霊の働きを信じ、いよいよ聖霊により頼みましょう。
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 5月16日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「身内の救いに対するうめき」

           ロ-マ人への手紙9:1~5    三浦真信牧師

<1~2節>

 8章の終わりで、「どんな被造物もキリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできません」(8:39)と、キリストにある勝利を宣言したパウロの語調が、ここで急に変わります。パウロは、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」と告白します。そしてその悲しみ痛みが決して偽りではないことを、キリストも聖霊も、また自分の良心も証ししているというのです。


<3節>

 そのパウロの悲しみ痛みとは、「自分の兄弟たち、肉による自分の同胞」たちがキリストの救いを拒否していることでした。パウロは、ユダヤ人(イスラエル人)でした。かつては教会を迫害していましたが、復活のキリストに出会って、特にユダヤ人以外の異邦人にキリストを伝える者として、神に選ばれました(使徒9:15)。迫害もありましたが、異邦人たちがキリストに出会って新しい人生を歩みだす姿を目の当たりにして、苦難に勝る喜びを経験していました。それでも自分の同胞であるユダヤ人が、キリストを受け入れずに罪の束縛の中にあることに心を痛めていたのです。

 パウロは、同胞のユダヤ人が救われるなら、「私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています」とまで言っています。この少し前に、「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と言ったばかりです。だれよりも、神の愛から引き離され、神にのろわれた者となることの恐ろしさを知っているパウロです。そのパウロが、あえて「同胞ユダヤ人が救われるなら、自分が代わりにのろわれた者となっても構わない」と思うほどに、彼らの救いを切実に願っているのです。パウロにとっては、何ものも引き離すことができない神の愛にとらえられていることも真実であり、同胞の救いのためなら自分がのろわれた者となっても良いとの思いも真実だったのです。イエス様が私たちを罪から救うために、十字架でのろわれた者となってくださった愛のようです。


<4~5節>

 パウロにとっては、自分と同じ民族であるということでユダヤ人の救いに対する願いが強くありましたが、それだけではありませんでした。

「彼らはイスラエル人です」
 この表現には、民族としてのイスラエル人ということだけでなく、本来神の祝福にあずかる神の民であるという霊的意味が込められています。

「子とされることも」
 神の子とされる特別な民族であるということです。「イスラエル」も「子とされる」も、やがてクリスチャンを意味する言葉として使われるようになります。

「栄光も」
 旧約聖書では、神の臨在を表すときに「栄光」が用いられています。神の民イスラエルの中に、栄光の神が臨在されます。霊的イスラエルである新約の教会も、栄光に満ちた神が臨在されます。

「契約も」
 原語は複数形です。神がこれまでイスラエルと結ばれた諸々の契約です。彼らは神の契約の民なのです。

「律法の授与も」
 神の律法はイスラエルに与えらました。神から律法が与えられたことが、イスラエルの特質です。

「礼拝も」
 律法を通して、真の神を礼拝する方法をイスラエルは教えられていたのです。

「約束も彼らのものです」
 救い主(メシヤ)がやがて与えられるという約束が、イスラエルに与えられていました。

「父祖たちも彼らのものです」
 ユダヤ人が特に尊敬している、アブラハム・イサク・ヤコブという族長たちのことです。

「キリストも肉によれば彼らから出ました」
 イエス・キリストも、人間の誕生としては、ユダヤ人として生まれました。しかし御霊によれば、「キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。」


 パウロにとっては、同じ血を分けたユダヤ人というだけでなく、このような特別の祝福にあずかっている彼らが、キリストによる罪の赦しと解放を受けていないことが痛みでした。

 神の愛の大きさを知れば知るほど、パウロは自分の同胞、身内の救いを切に願うようになりました。

  「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音をのべ伝えないなら、私はわざわいです」(Ⅰコリント9:16)と述べているように、パウロは身内の救いを切に求めながら、異邦人たちに福音を伝え続けました。そしてパウロが伝えた福音が、巡り巡って、異邦人を通してユダヤ人に届き、ユダヤ人が現在も救われつつあります。キリストを信じるユダヤ人が増えています。福音は、ブーメランのようにまた戻ってくるのです(宣教の神秘)。ですから、諦めずに福音を伝えましょう。

 自国の民の救いのため、日本人、身近な人々の救いのために、パウロのような思いをもってとりなしているでしょうか?特にパウロや使徒たちは、キリストの再臨が今日、明日起きるかもしれないという切迫感をもって日々過ごしていました。日本のリバイバルのため、世界のリバイバルのため、このコロナ禍にあって、さらに切実な思いをもって祈りましょう。また導かれた時には、恐れずにキリストを証ししましょう。
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 5月9日
聖日礼拝・証しおよびメッセージ要約 主題:「荒野で優しく語る主」

           ホセア2:14、詩篇103:1~5他    三浦真信牧師

<新型コロナウイルス肺炎に罹患(りかん)して>

 2021年4月初め、復活節の礼拝が終わった翌日から発熱があり、検査をしたところ新型コロナウイルス陽性でした。熱が下がらないため翌日入院となり、お迎えの車が来て保健所で指定された病院に搬送されました。かなり感染には気をつけていましたし、特にその2週間以上前までを振り返っても、感染源が全く思い当たりませんでした。その後、家族を含め濃厚接触者も検査しましたが、全員陰性でした。それだけに、今回の入院は神さまが私に対して(また家族、教会に対して)、大きなご計画を用意しておられるに違いないという確信となりました。

 病院に着くと防護服の看護師たちが来て、荷物を持ってコロナ病棟に案内してくださいました。そしてすぐにレントゲン検査があり、肺炎も見つかりました。部屋に案内されると、すぐにコロナ病棟での担当医師が来てくださいました。医師から、「肺炎が数か所に見られたので、重症化しないように薬をしっかり飲み続けてください」と言われました。


 病室に案内され、少し疲れてベッドで横になっていると、幼い頃からの自分の人生が次々に心に浮かんできました。しばらくの時間、まるで映画でも見るかのように自分の人生を振り返っていました。そして最近のことにまで及んだ時に、「何て良い人生だったのだろう」と感謝が溢(あふ)れてきました。何一つ辛かったことや悲しかったことを思い出すことができませんでした。「このまま死んだとしても十分だ」と思った途端に、「そうだろう。私は良いものしかあなたに与えていないのだよ」という神さまからの語りかけがありました。新型コロナ肺炎と聞いて少し感傷的になっているのかと思っていたけど、そうではなく神さまが自分の人生のダイジェストを見せてくださり、「あなたの一生を良いもので満ちたらせる」(詩篇103:5)という、みことばの真実を見せてくださったのだと気づきました。

 入院直前までの私は、どちらかというと不平を訴える祈りが多かったように思います。次々に祈っていたことと反対のことが起きて、心の奥に「全然神さまは、良いものを与えてくださらないではないですか」という、みことばを否定するような叫びがありました。しかしそのような思いが一気に感謝に飲み干されてしまうような不思議な時間でした。「あなたの一生を良いもので満ちたらせる」という聖書の言葉をどこかで否定していた自分を恥じました。新型コロナウイルス肺炎で入院するという出来事も、このみことばの真実を確認するためだと知り、その感謝が入院中ずっとありました。


 その日から食前食後、大量の薬が出されました。新型コロナウイルスのための特効薬はまだ無いため、重症化しないための予防薬が処方されました。38度以上の熱がずっと続き、薬の副作用かウイルスによるものかわからない吐き気が数日続きました。そのうちに味覚嗅覚(きゅうかく)障害が始まり、何を食べてもゴムのような臭いと変な味がして、食欲も無くなりました。段々血中酸素の値が低くなり、呼吸も荒くなり、酸素吸入を装着するようになりました。酸素マスクをしないと、息苦しくて溺れているような感覚でした。入院して三日目にはほとんど歩くこともできなくなり、ナースステーションに一番近い、レッドゾーンと書かれた部屋に移りました。コロナの場合、体内にカビの一種が繁殖することがあり、それが増え広がると重症化にも繋(つな)がると入院初日から聞いていました。それを予防する抗菌剤も飲んでいましたが、レントゲンと血液検査で、その兆候がある時に見られたため、ステロイド点滴もその日から毎日するようになりました。

 からだは辛かったのですが、初日からの神さまへの感謝な気持ちがずっと心を支配していたため、その辛さも緩和されていました。またコロナ病棟という、誰も立ち入ることのできない場所でしたが、たえずメールやlineなどで、多くの方が励まし続けてくださいました。  

 その後も、医師から「肺炎が悪化しています」「リンパ球の数値が普通の人の3分の1まで落ちています」「何とか重症化しないように重要人物として注視しています」など、厳しい状況を聞く日が続きましたが、不思議に平安でした。


 入院して9日目の朝、PCR検査も陰性になりましたが、まだステロイド剤の点滴、酸素吸入は続けていました。初日からの感謝の思いがその朝もありました。家族に対しても、「いろいろあったけど幸せだったな、良い家族に恵まれたな」と思った途端に、妻に対して自分がいかに酷(ひど)いことをしてきたかが思われました。今年5月で結婚32年になりますが、彼女は子どもの頃からの夢だった仕事を辞(や)めて、共に開拓教会に仕えてくれました。
 誰も知らない慣れない土地に来て、不安を感じている彼女に私は寄り添うことができず、むしろ彼女を責め続ける態度をとっていました。そして何かあると、これまでも同じ態度をとってきたことを思い、それでも愛想を尽かさずに一緒にずっといてくれたことに感謝が溢れてきました。そしてすぐに彼女にメールで、謝罪と感謝を伝えました。彼女からもメールの返信で、私が新型コロナ肺炎で入院したことで何日か眠れない日もあったけど、これまでの感謝とともに、「みことばを通して、主が必ず返してくださるとの確信を得た」ことなど、わかちあってくれました。私自身が病で弱くされ、主の取り扱いの中に置かれなければ、そのようなやりとりもできなかったことと思い、それだけでもこの入院は意味のあることだったと思い感謝しました。


 11日目の朝、医師から「PCR検査が3回陰性になったので、一般病棟に午後移動します」と言われました。まだ酸素吸入もしていましたので、車イスで1階上にある一般病棟に移りました。コロナ病棟でずっとお世話になった看護師さんたちが、初めて防護服を脱いで車イスを押し、荷物を運んで一般病棟まで見送ってくださいました。皆さん20歳代位の方たちでした。毎日体温、血圧、血中酸素、薬のチェックや採血、点滴に来てくださり、部屋の掃除や食事のことなど何もかもしてくださっていました。コロナ病棟では防護服は来ていますが、コロナ患者に普通に接してくださり、質問すれば丁寧に答えてくださり、感染リスクの高い最前線で働く彼らには頭が下がります。最後車椅子に座って、何度も「ありがとう、ありがとう」とお礼を言い、皆さんも「良かったですね」と言って手を振ってくださいました。医療関係者の方々のために、今まで以上に祈っていきたいと心から思いました。


 一般病棟は、まるで別世界のようでした。医師や看護師たちも、普通にマスクだけで接してくださいます。スタッフの方たちの元気な声が廊下からも聞こえてきて、活気がありました。同じフロアーのラウンジやトイレには、酸素マスクを外して歩いていくこともできるようになりました。その頃には、味覚障害もほぼ無くなっていて食欲も出て来たので、その日の夕食から、これまでのお粥(かゆ)から普通食に変更していただくことになりました。


 夕食前に主治医が来てくださり、私が入院してからの血液検査の数値と一日おきに撮ったレントゲンの写真を見せて、どのような状態であったかを詳しく説明してくださいました。入院してから肺炎が悪化し、血液検査でもリンパ球などほとんどが標準値をかなり下回り、改めて危険な状態であったことを知りました。神さまがいのちを守ってくださったのだと思い、感謝が溢れてきました。

 その後夕食が運ばれてきました。これまでのディスポーザブル(使い捨ての)ではなく、お盆に器で暖かい食事が運ばれてきました。食前の祈りを始めた途端に、神さまの愛が迫ってきて、しばらく泣き伏してしまいました。嗚咽(おえつ)が止まらず、恥ずかしくてタオルを口に入れて声をおさえていました。そしてようやく少し落ち着いて祈り始めました。「主よ、あのまま重症化して命を失ってもおかしくないような状況から、あなたは私を生かしてくださいました」。感謝が溢れてきました。

 私は、生まれた直後に医師から見放されるような病気から奇跡的に癒(いや)されました。小学校6年生の時に自殺未遂寸前で命拾いしました。学生時代罪の中で霊的死を経験しました。そして4度目、また死からいのちに移されたのだと思いました。

 その感謝と同時に、悔い改めの祈りが次々に出てきました。神さまの言葉を語りながらも本気で信じていなかったこと、感謝より不平が心を支配していたこと、神さまよりも自分の欲を優先していこと…など、様々な罪が示され悔い改めました。自分が神さまにささげられた生贄(いけにえ)として焼き尽くされていくような感覚でした。「あなたがたはこの山に十分長くとどまった。向きを変えて出発せよ」(申命記1:6~7)のみことばが迫ってきました。

 「主よ、あなたは罪の中に死んでいた者をこれまで何度も生かし、そしてまた、いのちを与えてくださいました。今生きているということは、私のために『死んでよみがえった方のために生きるためです』(Ⅱコリント5:15)。あなたに仕えます。再度あなたにこの存在をささげます」とひれ伏しました。

 食事が運ばれてきてから30分以上は経っていました。食前の祈りが、感謝、悔い改め、再献身を告白する祈りの時間となりました。このようなことは、大きな聖会などで体験するイメージがありましたが、一人の食前の祈りでも、聖霊の力強い働きが起きることを知 りました。このことは今のコロナ禍でなかなか集まれない中でも、一人ひとりの祈りの場が恵みの場に十分変えられるという確証となりました。

 夕食をようやく食べようと思ったら、コロナ病棟でお世話になった医師が初めて防護服を脱いで白衣で様子を見に来てくださいました。満面の笑みで、「三浦さん、一般病棟に移れてよかったね。結構辛かったでしょう。もう回復に向かっているから大丈夫ですよ」と言ってくださいました。そして目を真っ赤にしている私の顔を見て、「あれ、泣いてるの?本当に良かったね!」と、私が一般病棟に移ったことを喜んで泣いていると解釈してくださったようです。何とか重症化しないように、医師たち・看護師たちが必死で格闘してくださっていたことをひしひしと感じ、何度もお礼を伝えました。

 そしてようやく夕食のお椀(わん)の蓋を開けたら、その日はちらし寿司でした。普通メニューで、シンプルなちらし寿司でしたが、何となく神さまから「おめでとう。合格だよ!」と祝っていただいたような気がして嬉しくなりました。神さまは、大切なことは忘れないように、いつもその前後に印象的な出来事をいくつか用意してくださっています。


 神さまは、あえて私をコロナ病棟という誰も立ち入れない一人の場所に導いて、そこで優しくみことばを語りかけ続けてくださいました(ホセア2:14)。実は入院前までの3年間ほど、私は暗いトンネルの中にいるような時期を過ごしていました。真っ暗な気持ちで夜中に目が覚めて眠れなくなったり、少しのことでイライラしたり、心の中がいつも泣き叫んでいるけど涙は全く出なかったり、感謝の祈りをしていてもすぐに不平の祈りになっていたりしました。「もっと神さまと濃密な交わりをしたい」と魂は叫んでいました。実はそれこそ心の底で私が求めていたことなのです。神さまとの交わりのために毎日時間をささげていましたが、深いところで神さまとの関係が希薄であることを感じていました。それがここ最近のトンネルの中にいるような状態の原因でした。一人の場所に追いやられ、神さまと水入らずの交わりが与えられ、神さまはたえずみことばを語りかけてくださり、みことばが真実であることを味わわせてくださいました。神さまの優しいみことばの語りかけがたえずあり、神さまのご愛をいっぱい受けながら、神さまの懐の中で嬉しくて思いっきり泣かせていただきました。私が神さまと濃密な交わりをするためには、病で弱くされ、何もできなくなり、一人になる必要があったのです。神さまのなさることは深くて計り知れません。ただただ主の御名を崇(あが)めるばかりです。  


 入院生活の半ばで、数名の牧師たちが励ましの動画を送ってくれました。一人ひとりのコメント、祈り、讃美に「アーメン、アーメン」と応答しながら、感動して何度もベッドで見ました。その中で、一人の方が「知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」(詩篇4:3)を読んで、私が神さまの恵みに浸っていることが羨ましいとおっしゃった後に祈ってくださいました。私はふと、これまで神さまのあわれみを何度も受けていながら、いつしかそれよりも、他の人たちが神さまから特別扱いを受けているのが羨ましいような、妬(ねた)ましいような思いがあったように思います。しかしこのみことばが読まれた時に、「キリストの恵みによって聖徒とされた私を、神さまはこんなにも特別に扱ってくださっているではないか」と、また感動して涙が止まりませんでした。そしてご自分の聖徒として特別に扱ってくださる「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」というみことばの約束がとても力強く迫ってきました。「ここがブレていたから、祈りに力がなくなっていたのだ」と気づきました。かつて、神さまから離れて放蕩三昧して、再び立ち返った時に、「私ほど神さまから愛されている人はいるだろうか」と思うほどに、神さまのご愛が嬉しくて仕方がない時がありました。しかしいつしかその神さまの愛を忘れていたのかもしれません。


 退院する2日前、朝早く目が覚めて、ふと不安が出てきました。「主よ、再献身しましたが、これから私は何をすれば良いのでしょうか。自分の中からは何も出てきません」と祈っていると、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)との主の答えがありました。その時、「そうだ、この入院中もずっと主が寄り添ってくださり、共に荷を負ってくださっていたから、辛(つら)いはずの闘病が不思議に楽に通り過ごすことができた。同じことをこれからも経験させてくださるのだ」と気づきました。主が共に負ってくださるくびきは負いやすく荷は軽いことを、神はこの入院中に身をもってわからせてくださいました。「もう自分で負うのはやめよう。主が共に負ってくださるから、ただ主について行こう」と安心しました。  


 翌日退院が決まった日に、友人からインドで宣教していた方が新型コロナに感染して召されたというニュースが届きました。まだ成人していない3人のお子さんがいて、奥様も感染して集中治療室で療養中とのことでした(奥様はその後回復して退院しました)。インドでは、一日の感染者がその日33万人を超えていました。病院も医療崩壊を起こしていて、酸素吸入が必要なのにできない人もたくさんいました。私の場合も、そのような環境下でしたら命を失っていたかもしれません。とても心が痛み、そのご家族のために、また世界中で今も苦しんでいるコロナ患者のためにしばし祈りました。同時に改めて生かされたことの重みを感じました。  


 入院して16日目の退院する朝に、「こんなにも神さまと濃密な時間を過ごして、普通の生活に戻れるのだろうか」と不安になり、神さまに問いかけました。そして聖書を開くと、「わたし主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として国々の光とする。こうして見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す」(イザヤ42:6~7)とのみことばが心に迫ってきました。入院中と同様にこれからも、主が私の手を握り、主が私を見守ってくださる。そしてコロナ禍という闇の中に住むすべての人々に、生けるキリストを証しするように、国々の光として主は罪深い私をあえて召してくださいました。残された生涯、主がしてくださったことを証ししてゆきたいと願い、主の臨在満ちあふれた病室からまた遣わされてゆきました。


 入院中は教会を初め、多くの方々が祈り続け、励まし続けてくださいました。私の知らないところで、多くの方が祈っていてくださり、また退院後も肺の後遺症のために祈り続けてくださり感謝でいっぱいです。とりなしの祈りの力をからだで実感しました。キリストが2000年以上前にガリラヤ湖周辺で多くの病の方を癒(いや)されましたが、今教会の祈りを通して、神さまは癒しのみわざを行っておられます。もちろん病を通して受ける恵みも大きいですが、病の方たちの癒しのために、これからも祈り続けていきたいと思います。


 「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)。すべてのことを益としてくださる神(ローマ8:28)をほめたたえます!
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 5月2日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「主が成し遂げてくださる」

           詩篇37篇5~7  倉持 守 兄

 これは詩篇の作者のことばです。詩篇は文字通り、詩から成り立っている書簡です。

 詩篇37篇の最初には、「ダビデによる」とあります。ダビデは、あの有名なダビデ像にもある、勇者ダビデ、王様であったダビデのことです。詩篇は150篇ありますが、その大多数の作者です。彼は詩を書く人物でもありました。ですから、この詩篇が書かれた当時は、これにメロディーが付いていたであろうと言われます。私たちは、穏やかに、書籍を読むようにして読んでいますが、実際はこれが歌われていたものでもあるのです。

 ダビデは力ある王として、また勇ましい人物として描かれ知られていますが、聖書を見ると、数々の困難にぶつかっていたことがわかります。まだ若かった時は、兄たちからあまり可愛がられることがなかったり、王の近くで仕えるようになってからも、今度は王様から命を狙(ねら)われることもありました。自分が王になってからも、今度は息子に命を狙われたりと、争いごとが多かった人物です。そんな中でも、彼は神様の前に出ること、礼拝することを大切にしていました。自分の兄弟や、権力や力ではなく、神様に頼り、いろんな失敗を経験しても、信仰によって歩んだ人物です。

 そのような困難の中で神様に頼ることを学んでいきました。悪を行う者が自分の周りを取り巻いた時、彼は武力行使で対応したのではありませんでした。神様がそのことを収(治)めてくださるという信仰に立って、なすべきことをしていったのです。彼は眠れないような夜を幾度となく過ごし、側近からの裏切り、騙(だま)されるということも経験しました。そんな彼は、自分の手で物事にジャッジ(判定)を下すのではなく、神様がすべてのことを収(治)めておられることを認めていたのです。

 「彼らは草のようにたちまちしおれ 青草のように枯れるのだから。」(詩篇37篇2節)

 悪者や苦しみ、困難について、私たちはここから知ることができます。そのようなことは、永遠には続かないということです。必ず終わりがある、そこから開放してくださるのです。「彼ら”悪者たち(悪しき状況)は、たちまちしおれるんだ、青草のように枯れるのだと教えています。これはダビデ自身に自分で教えていること、反芻(はんすう)していることでもあります。おそらく、ダビデは腹を立てそうになっていたであろうと思いますし、ねたみを覚えそうな状況にいたのだと理解できます。しかし、そんな自分を諭(さと)すように、怒ってはならない、ねたんではならない。それは、長く続かないのだから、と語っています。「彼らは草のようにしおれ、・・・」、たちまちしおれ、「青草のように枯れる・・・」のです。

 今のシーズン、とても緑がきれいな時期を迎えていますが、この緑も、ずっとそのまま青々しい訳ではない、必ず枯れる時がくる、朽ちていく時があるということです。


-メインテーマ①<主が成し遂げてくださる>-

<5節>
 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」

 これが、ダビデが目標とすること、腹を立てるな、怒るな、妬(ねた)むな、そんな中でも誠実に歩みなさい、神様を喜びとしなさいと言っている理由だと私は受け止めています。
 それは、「主が成し遂げてくださる」ということです。そして

<6節>
 「主は あなたの義を光のように あなたの正しさを 真昼のように輝かされる。」

 神様にお任せしなさい。そうするなら、神様が成し遂げる、それを解決させてくださる、取り扱ってくださると記されています。主が成し遂げてくださる。私が成し遂げるのではなく、主なる神様が成し遂げられる。当然、そこには私たちも関わります。具体的に働き、解決に様々な人や物が関わる訳ですが、その関わる人々にも、思いにも、考えにも、神様ははたらきかけてくださいます。そして、善を行う者を、真昼のように光り輝かせてくださると記されています。

 私が困難な時に思い出すみことばの一つに、文語訳聖書のことばがあります。テレビでも活躍されている大学教授の斎藤孝先生は数年前、「声に出して読みたい旧約聖書(文語訳)」という本を出版されています。文語訳聖書は端切れの良い言い回しが魅力の一つですが、ルツ記3章には、このようにあります。

 「姑(しゅうとめ)いいけるはむすめよ座して待ち事の如何になりゆくかを見よ かのひと今日その事を成し終えずば安(やす)んぜざるべければなり」(文語訳・ルツ記3:18)

 「座して待ち事の如何になりゆくかを見よ」、「座して待ち」座って、つまり動かずに、「事の如何になりゆくかを見よ」、その問題としていること、課題となっていることがどのようになるか、成り行きを見なさい!という意味です。


-メインテーマ②<主の前に静まる>-

 二週間前のメッセージの際、「行く」ということをお伝えしましたが、これは神様が語られたタイミングでした。それは、イスラエルの民にとっては、特に象徴的な出来事によって示されていました。その日、招きのことばでもお読みした申命記1章33節です。

 「夜は火の中、昼は雲の中にあって、あなたがたが行くべき道を示されるのだ。」(申命記1:33)

 火の柱、雲の柱が彼らを導いた。これは、神様の臨在を表しています。臨在とは、まさにその場所に神様がおられる、共にいるということの意味です。現代でも、私たちの目の前に、このように雲や火が前にあったら、わかりやすいかもしれません。しかし、なかなかそういうことは起こりません。ですが、“神様の臨在”、「神様がここにおられる」ということを私たちがしっかりと受け取ることができる、大切なことがあります。それは聖霊です。聖霊によって神様の導きの中を進むことができると聖書のあらゆるところに書かれています。神様の導きを受け取り、火の柱・雲の柱が進む時、イスラエル民は進みました。柱が止まった時、民は止まりました。私たちはそのように歩む事、つまり、神様に従うということが不可欠です。


<7節>
 「主の前に静まり 耐え忍んで主を待て。その道が栄えている者や 悪意を遂げようとする者に腹を立てるな。」

 待つためには静まることが必要です。待つ以上に“静まる”ことを皆さんにお伝えするよう今朝は思わされています。時に神様は、強制的に私たちをストップ(停止)させられることがあります。それは、しっかりと神様の御声を受け取り、聖霊なる神様との親しい交わりのために、そのようにされることがあるのです。待つときは静かにするものです。(時に「騒がしく待つ」という方もいるかもしれませんが・・・)。

 主なる神様が臨んでくださる、はたらいてくださることを静まり待っていくことの大切さをこの詩篇の作者は知っていました。「静まる、待つ」ということは、単なる余暇や空白ではなく、祈りと言えるのではないでしょうか。私たちも、祈りをもって神様が成し遂げられることに期待し希望をもっていこうではありませんか。
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