(2021年4月)

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 4月25日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「わたしのために、良いことをしてくれたのです」

           マルコの福音書14:3~9  松島 修 兄

 本日私は、マルコの福音書のみことばで受けた恵みを皆さんと分かち合いたいと思います。マルコの福音書は、福音書の中で一番短く16章の中に、イエス・キリストの福音が簡潔に凝縮されています。そして、しもべとして来てくださったイエス様を強調しています。その鍵となる聖句は、マルコ10:45です。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)。  

 また、私はマルコの福音書を何度も読んで、イエス様の迅速な癒しの行動力に惹(ひ)かれました。「夕方になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。」(マルコ1:32)。「イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。」(マルコ1:34)。  

 久遠教会は、多くの兄弟姉妹が、様々な病いの中で、日々戦っておられます。イエス様はある特定の病気しか癒せない方ではありません。様々な病気を癒す方です。私は、このことばに励まされました。イエス様はどんな病気も癒すことのできる御方です。このみことばを信じ、様々な病気の癒しを教会員一丸となって願い、祈り求めていきましょう。  


 それでは、本題のみことばから受けた恵みを分かち合いたいと思います。本日の聖書箇所は、とても有名なナルドの香油のみことばです。4つの福音書に書かれていますが。マタイとマルコは、イエス様の生涯のうち、最後の週、受難週の出来事として書かれています。場所はベタニアのシモンの家で彼はツァラアトにおかされていました。そしておそらくツァラアトに冒されていたシモンが癒された感謝の食事中にある女の人が、純粋で高価なナルド油の入った壺(つぼ)を持って来て、その壺を割り、イエス様の頭に注ぎました。  

 並行記事のヨハネ12:1~8によるとこの女はマリアだと書かれています。マリアは、イエス様の受難の近いことを感じて、思い切った行動に出ました。純粋で高価なナルド油の入った壺を割り、イエス様の頭に惜(お)しげもなく注ぎました。今のお金に換算すると300万円くらいの価値がある香油でした。これを見て、イスカリオテのユダを含む弟子たち何人かは、なんのために香油をこんなに無駄にしたのかと憤慨(ふんがい)し、この香油なら300デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたと言いました。弟子たちには、このマリアの行動が、イエス様の埋葬の準備としての香油注ぎであることが理解できませんでした。「彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。」(マルコ14:8)  


 弟子たちの願う救い主は、ローマの圧政から解放してくれる現世的な救い主でした。だから、イエス様が3度もご自身が受ける十字架の苦しみと復活の予告をされても何のことかピンときませんでした。12弟子のリーダー格、ぺテロでさえ、イエス様の十字架の苦難を理解できず、あろうことかイエス様をわきに連れ出し、諫(いさ)め、イエス様から叱責(しっせき)されました。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マルコ8:33)。  

 私たちも、ペテロのように神のことを思わないで、人のことを思っている。日々悩んだり、迷ったりするものです。私たちは人が気になります。神様を見つめないと、物事の本質がわかりません。  

 「・・・マリアはその良い方を選びました。・・・」(ルカ10:38~42)のように、マリアは、弟子と違って物事の本質を知っていました。なぜ本質を知ることができたかと言うと、マリアは、いつもイエス様の足もとに座ってみことばに聞き入っていたからです。  

 みことばに聞き入ることこれが彼女のただ一つ必要なことでした。また、それは取り上げてはいけないことでした。イエス様の埋葬の準備として、自分にできることは何か、マリアは深く考え、自分の持っている最上のもの、純粋なナルドの香油を惜しみなくイエス様に捧げようと決心し、行動に出ました。  

 はたから見ると、食事中に突然、ナルドの香油に入った壺を割り、イエス様の頭に注ぐというマリアの行動に、周りの人はびっくりしたと思います。でもイエス様は、「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。」(マルコ14:6)と、マリアの行動を喜び、「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられるところでは、 この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(マルコ14:9)。と称賛しました。  

 マリアは十字架の受難週というベストなタイミングで、ナルドの香油をイエス様に注ぎ、埋葬の準備と言う最適なことをしました。それはイエス様にとって良いことでした。  

 私は、6節と8節のイエス様のことばに心が射(さ)されました。私は、イエス様に良いことをしているのかということです。私たちは神様にお願いばかりして、神様に喜ばれることは何一つしていないとしたら、それは、偶像信仰、ご利益信仰とかわりはありません。これは、一方通行の信仰です。生けるまことの信仰は、一方通行ではなく、お互いに応答する関係にあります。主の愛に応え、主に応答し、主の手足となって用いられていくのです。神様の十字架の愛と復活により永遠のいのちをいただいた私たちは、この愛に応えて生きるよう、私たちのうちに住む聖霊が私たちを神様の喜ばれる生き方へと自然と導いてくださいます。  

 私たちもこのマリアのように、主に喜ばれる生き方を求め歩んで行きましょう。それは、死んでよみがえった方のために生きる(Ⅱコリント5:15)生き方です。私たちは自分にできないことではなく、できることをしていくのです。私たちはキリストのからだであり、一人ひとりはキリストの器官です。キリストのメンバーです。それぞれが、イエス様の十字架と復活を心から感謝し、その神の愛に応え、それぞれ自分にできることをして、教会に仕え、福音を伝え、キリストのからだである教会を建て上げていきましょう。

 「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」(Ⅰコリント12:27)。

 「すべての人々に何もかもはできなくとも、誰かに何かはきっとできる。」(ワールドビジョン創設者・宣教師・ボブ・ピアスのことば)
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 4月18日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「向きを変えて出発せよ」

           申命記 1:5~8   倉持 守 兄

 申命記全体はモーセが書いた書物と言われています。(ヨシュアが追記)
 申命とは、重ねて命じるという意味があります。エジプトから脱出した時の様々な奇跡や神様の憐れみを忘れないために、これまでのことを改めて記しているのです。また、申命記全体は、モーセのお別れの説教から構成されていると言われます。ついにカナンの地に入る、次の世代、ヨシュア以降の世代にこれまでの恵みを伝えている、そのようなとても重要な書です。 「ヨルダンの川向こう、モアブの地で、モーセは次のように、みおしえの確認を行うことにした。」(5節)  

 私たちはみことばを読む、聞くという風に言いますが、ここでは“みことば(みおしえ)の確認をすることにした。”とあります。つまり振り返ったといえるのではないでしょうか。それまでの出来事で、どんなことを神様はしてくださってきたのか!まさに「確認」した、これが申命記のはじまりです。  


 3つのポイントに分けてお話しします。

<ポイント① 「十分長くとどまった」(6節)>

 ホレブは、あの、芝が燃えて燃え尽きないという奇跡を通して、モーセが神様と最初に出会った場所です。彼が、偉大なリーダとして働きをする、その原点は彼自身の強い思いや生まれ持った才能ではありませんでした。彼がエジプト脱出という、大きな計画に進み始めた動機、きっかけはこのホレブの山で起きた、神様との“出会い”からでした。  

 約束の地に入るまで、本来11日ほどで到達できる距離を、彼らは39年間かかってしまいました。それを見る時、“十分長くとどまった”ということば、何とも考えさせられることばです。神様の計画とみことばに従わないなら、本来の日数よりももっと長くかかってしまう、長引いてしまうことがあります。しかし、神様がしなさいと言われるちょうどその時、イスラエルの民のように、自分の判断で「だめだ!」と言わず、お互いに言い合わず、信じて信仰によって歩む時、神様は必ず約束を守って導いてくださるのです。


<ポイント② 「向きを変えて出発せよ」(7節)>

 今日のメッセージタイトルです。十分長くとどまった地から、神様は次の場所へ行くように民に語っています。そして、これは命令です。「しても良いし、しなくても良い」というものではなく、「出発せよ」という命令です。この出来事は、私たちに関係ないものではありません。新約聖書でパウロはこのことについて語っています。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(Ⅰコリント10:11)  

 神様は向きを変えて新しい場所を示しておれます。昨年、久遠キリスト教会のテーマ聖句はイザヤ書のことばでした。「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。」(イザヤ書43:19)  


 ここに、「あなたがたは、それを知らないのか?」とあります。神様が新しいことをされていても、案外私たちの方ではそれに気づかないことがあるのではないでしょうか。私たちは神様のみわざを知り、教えていただくためにも、祈りとみことばをもって、聖霊の御声に耳を向けていこうではありませんか。


<ポイント③ 「見よ、行け」(8節)>

 「見よ!行け!」と神様はイスラエルの民に語られました。

 最近読んだ、玉川聖学院学院長の安藤理恵子さんの著書にこのようなことばが書かれていました。「私たちも、自分で決断しなければならないことに向き合うことがあります。そして、未来に何の保証もないまま、選ばなければならない時があります。」 (いまを生きるあなたへ:安藤理恵子)  

 私たちも、自分で決断しなければならないことに向き合うことがあります。そして、未来に保証がないまま、選ばなければならない時がある。その時、私たちは何を見るのか? どこを見て決断するのかが重要ですが、申命記の冒頭、確認・振り返っているのは、神様が語られたこと、神様の約束です。この約束に目を向けること、目を向け直すことを申命記は語っています。  

 そして、見るだけではありません。“行け”と神様は言われました。実際に私たちが“行く”という行動をも神様は求めておられます。なぜなら、これから行くその地は、すでに与えると誓った地であり、もうすでに用意しておられるからです。    


 イスラエルの民の行動から教えられます。私たちは、どのような時も神様を見上げましょう。そして、確認するのは、神様の計画・聖書のみことばにしたいと思います。神様に示されたことを行っていく者となろうではありませんか。現状を見て落胆し、他のことを見て恐れるのではなく、難しい時、「無理だ!」と思ってしまう時こそ、自分のアイディアや経験、洞察力ではなく、今一度、聖書から確認するのです。神様がなされる新しいこと、そのことに目を向けようではありませんか。
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 4月11日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「死んでよみがえった方のために生きる」

           コリント人への手紙第二 5:15   松島修兄

 先週はイースター礼拝でした。罪なき神の子イエス様は、私たちの罪の贖いとしてむごたらしい十字架刑を受け入れ死なれました。そしてかねて弟子たちに何度も予告したように、三日目の日曜日に、主は墓石を取り除き、復活されました。「あの方はよみがえりました。ここにはおられません。」 (マルコ16:6) 「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」 (ルカ24:5~6)。「なぜ生きておられる方を、墓の中でさがしているのですか。」 (リビングバイブル・ルカ24:5)。イエス様の復活を信じることができず恐れおののく女たちにみ使いは、どうして生きている方を死人の中に捜すような愚かでナンセンスなことをするのか、主イエスはお約束通り、よみがえり、もうこんな薄暗い墓の中にはいないと言いました。

 私たちはどうでしょうか?今も生きておられ、私たちに寄り添い歩んで下さる復活の主を身近に感じていますか?生きて働くイエス様がおられるのに、まだ、よみがえっていないかのように、墓の中をのぞきこんで捜し回っていないでしょうか? 「そして、もしキリストがよみがえられなかったとしたら、あなた方の信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。」 (Ⅰコリント15:17)。このイエス様の復活がなければ、私たちの信仰は実体のない空しい信仰です。そして、私の罪は解決しておらず、罪の中にいて、永遠の滅びに行くしかない存在のままです。確かに、イエス様はよみがえりました。そして私たちは罪の奴隷ではなく、義の奴隷となりました。「~あなたがたは、かつては、罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。」(ロ-マ6:17~18)

 「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちのキリスト・イエスにある永遠のいのちです。」 (ロ-マ6:22~23) 罪の縄目から抜け出せず、がんじがらめになっていた私たちをイエス様の十字架の贖いと復活のみわざを信じるだけで、一方的に救い出し、人間にとって恐怖でしかない死の恐れからも解放し、永遠のいのちまでいただきました。

 そして、この恵みによって救われた私たちの生きる目的、存在意義が本日のみことば、Ⅱコリント5:15で語られています。「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」 私たちは何のためにいのちを使いますか?使命とはいのちを使うと書きます。イエス様のためにいのちを使う人生は最高の人生です。

 また、「和解のことばを私たちに委ねられました。~私たちはキリストに代わる使節なのです。」(Ⅱコリント5:19~20)とあるように、私たちは、和解のことばを神様から委ねられたキリストに代わる使節、大使です。このキリストの大使としての意識をもって、和解の言葉である福音を伝えて行きましょう。また、ことばで伝えることが難しいなら、生き方で伝えて行きましょう。また、Ⅱコリント5:15をリビングバイブルで読むと同じ個所が、もっとわかりやすく書かれています。「キリストは全人類のために死んでくださいました。それは、キリストから永遠のいのちをいただいて生きる人がみな、もはや自分を喜ばせるためではなく、自分のために死んで復活されたキリストに喜ばれるように生きるためです。」

 自分が喜ぶ自己満足的な生き方ではなく、イエス様が喜んで下さる生き方とは何か?このことを常に頭に入れ、意識しながら歩んで行くことが大切だと思います。私の尊敬するスーパーボランティアの尾畠春男さんは、ボランティアは恩返しだと言っていました。尾畠さんのモットーは、「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」だそうです。尾畠さんは、無私の方で、全く報酬を求めず、今日もどこかで、困っている方を助けています。私も困っている人を見て見ぬふりをするのではなく、半死半生の人を至れり尽くせり助けたサマリア人のように、少しでも人を助けるような生き方をしていきたいと思います。それがきっと私にとって、死んでよみがえった方のために生きる生き方であり、イエス様に喜ばれる生き方ではないかと思っています。

 みなさんも、神様から与えられたそれぞれの賜物を活かして、イエス様に喜ばれるような生き方をしていけたら、それは素晴らしい最高の人生です。死んでよみがえった方のために生きることができるよう祈り求めて行きましょう。「人が死んで残るのは、集めたものではなく、散らしたものである。」(ジェラル・シャンドリー)
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 4月4日
イースター聖日礼拝メッセージ要約 主題:「復活の主が共におられる宣教」

           マタイの福音書28:1~20   三浦真信牧師

① あらゆる恐れを取り除いてくださる復活の主(1~10節)

 マリアたちは、墓に納められたイエスのもとに向かいました。ユダヤの墓は、ほら穴のようなところに遺体を安置し、男性5~6人でようやく動かせる大きな石で穴を塞(ふさ)いでいます。彼女たちは、その墓石をどのようにして動かしたらよいか案じながらも、墓に向かっていきました(マルコ16:3)。主を慕い求めていく時には、不安要素がありながらも進んでみると、主が大丈夫なようにしてくださいます。彼女たちが墓につくと、主の使いによって大きな墓石はわきに転がされていました。  

 墓の側にいた番兵たちは、主の使いを見て恐ろしさで震え上がり、死人のようになりました。女性たちも恐怖を感じましたが、番兵たちのようにはなりませんでした。なぜなら、主の使いが「あなたがたは、恐れることはありません」と言って、主イエスが言っておられた通り、イエスがよみがえられたことを聞いたからです。  

 復活の事実を知った女性たちは、急いで弟子たちに知らせに行きます。するとそこに、よみがえられたイエスご自身が現れました。イエスも彼女たちに、「恐れることはありません」と語ります。すぐに恐れる私たちに、死と言う恐怖に勝利して今も生きておられる主イエスは、「恐れることはありません」と繰り返し語ってくださいます。その復活の主の言葉によって、私たちはまた恐れの中でも平安と喜びが与えられます。  


 イエスは、女性たちに「わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい」と命じます。イエスが十字架の死に渡された時に、イエスを見捨てた弟子たちのことを、「私の兄弟たち」と呼んでおられます。イエスを裏切って、肝心な時にイエスを見捨てた弟子たちを、普通でしたら弟子とさえ呼びたくないところでしょう。しかしイエスは、「弟子」どころか、「わたしの兄弟たち」と呼んでくださるのです。イエスがもし、「目には目を、歯には歯を…」という方なら、失敗は許されず、私たちはいつも刑罰や復讐を恐れてビクビクしていなければならないでしょう。でもイエスは、ご自身を裏切った弟子たちの弱さをあわれんでくださいます。失敗するしかない、人を恐れるしかない、そんな弟子たちのためにも、そして罪深い私たちのためにも、イエスは十字架で死なれたのです。イエスが私たちの代わりに、罪の罰を十字架で受けてくださったので、もう刑罰を恐れる必要はありません。復活の主イエスは、死と滅びから私たちを解放してくださいました。神の刑罰を恐れる必要がないように、十字架の贖いを成し遂げてくださったのです。


② 人間のいかなる悪だくみをも打ち砕かれる復活の主(11~15節)

 当時のユダヤでは、女性の証言は法的に認められていませんでした。しかしあえて女性たちを、イエスは最初の復活の証言者として選ばれました。イエスを証しする人は、必ずしも社会的に影響力のある人とは限りません。むしろ社会的に影響力のある人たちが、イエスの復活がなかったことにしようと、その事実をもみ消そうとします。そのために、多額のお金が支払われて闇取引がなされました。イエスの遺体は、弟子たちが盗んだことにされ、その噂(うわさ)はこのマタイの福音書が書かれた紀元60年頃もユダヤ人の間に広まっていました。それにもかかわらず、イエスに従った女性たちや使徒たちによってキリスト復活の事実は世界中に広がり、今も復活のキリストに出会った者たちの証言を通して、広がり続けているのです。当時の社会的権威を持つ人たちの悪だくみをも、復活の主は打ち砕かれました。ですから人を恐れる必要はありません。


③ 主が共にいて導く宣教(18~20節)

 復活の主イエスには、すべての権威が与えられています。その方が、復活のキリストに出会った一人ひとりを遣わして宣教のわざを行われます。三位一体(さんみいったい)の神の交わりの中に招き入れるバプテスマによって人々をキリストの弟子とし、人々がキリストの言葉を守るように、私たちを派遣してくださいます。私たちは、交わりを通して、復活して今も生きておられるキリストを互いに証しし、みことばを分かち合いながら、主の言葉を思い起こし、みことばに従っていくのです。  

 最初のキリスト復活の証言者は、マグダラのマリアでした(1節)。イエスに出会う前は、7つの悪霊に縛られ、荒(すさ)んだ人生を歩んでいた彼女(ルカ8:2)が、復活の主の最初の証し人だったのです。イエスに出会った者は、どのような過去を持っていても、今も弱さを抱えていても、主の証し人です。死からよみがえられたキリストが、弱く小さな者をも用いて、宣教のわざを進めてくださいます。  


 「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

 「わたしは」という言葉が、原語では強調されています。また、ここは現在形が使われています。イエスは過去にいた方ではなく、今もこれからも、ずっと私たちと共にいて、福音宣教のわざを行ってくださいます。その方が、私たちを遣わしてくださるのです。私たちは、今復活の主が生きておられることの証人として生かされています(使徒2:32)。福音を宣(の)べ伝える時に、主が生きておられる具体的な事実を体験できるのです。キリストが共にいて助けてくださることを信じて、すべての造られた者に福音を宣べ伝えましょう(マルコ16:15~16)
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