(2021年3月)

 ・ 3月28日
 ・ 3月21日
 ・ 3月14日
 ・ 3月 7日
 




 3月28日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「ひざまずく祈り」

           ルカの福音書22:39~46  三浦真信牧師

<39~40節>

 イエスは、「いつものように、いつもの場所で」祈られました。何にも妨げられることなく、神と親しく交わる場所を大切にしておられました。私たちにとっても、そのような神との交わりによって力を得る場所が必要です。ぶどうの木である主から樹液をいただかなくては、枝である私たちは霊的に枯れ果ててしまいます(ヨハネ福音書15:4)。

 この日は弟子たちとともに、いつもの祈りの場所にイエスは来られました。そこで2回、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」(40、46節)と命じます。誘惑の背後にサタンの働きがあります。弟子たちにとっては、イエスから離れる誘惑が迫っていました。サタンは、私たちをたえず神から引き離そうと誘惑してきます。神のもとに帰れないほどにサタンの誘惑にはまり込んでしまうことが一番怖いことです。どのようなことがあっても、たとえ失敗しても、ぶどうの木である主に繋がっていましょう。  


<41~44節>

 イエスにも、この時サタンの誘惑がありました。神のみこころである十字架の苦難を避けたい思いがありました。イエスは、ひざまずいて「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と祈ります。その祈りは、苦しみもだえ、汗が血のしずくのように地に落ちるような祈りでした。「悲しみのあまり死ぬほどです」(マルコ14:33~34)と弟子たちにも言っています。御使いたちが天から現れて、イエスを力づけるほど、憔悴しておられました。「大きな叫び声と涙をもって」の祈りであったことでしょう(へブル5:7)。とことん、自分の思いをひざまずいて祈り、苦しみもだえながら、イエスは神のみこころである十字架の道を受け取られました。

 私たちは、自分の思いに執着するものです。でもその思いをそのまま祈ってよいのです。イエスも、みこころではないとわかりながらも、「この杯を取り去ってください」と祈りました。とことん自分の思いを神に注ぎ出して、その中で自分の思いが変えられ、心から神のみこころを受け取る祈りの姿を教えられます。中途半端なところで祈りを止めると、あとで後悔することになります。神のみこころをはっきり受け取るまで、祈り続けましょう。


<45~46節>

 イエスの苦しみもだえて祈る姿を見て、弟子たちは悲しみの果てに眠り込んでしまいます。そのイエスの苦しみを、彼らはまだ理解できませんでした。イスラエルの国を再建する政治的な王としてイエスを見ていたこの時の彼らには、イエスの姿が情けなく思えたかもしれません。しかし、やがて彼らが世界伝道に遣わされ、迫害や苦難に直面する時に、このイエスの祈りの姿が慕わしく思い起こされたことでしょう。いよいよ主の前にペチャンコになって祈り叫ぶしかないリーダーの模範を、十字架の死を前にして主は弟子たちに見せてくださいました。


 人生の中で、私たちも主にひざまずいて祈らずにはいられない時があります。神のみこころがわかるまで、とことんひれ伏して苦しみもだえる祈りの時があります。あらゆる出来事を通して、主は私たちを祈りの園に招かれます。そこで私たちの執着する思いを打ち砕かれ、喜んで安心して神のみこころに明け渡せるように変えてくださいます。

 心行くまで祈れる「いつもの場所」を確保しましょう。主は私たちを祈りの園に招いておられます。どんな時にも、御霊の助けを受けて祈りましょう。祈りには忍耐が必要です(エペソ6:18)。祈り続ける忍耐も、御霊が与えてくださいます。途中で諦めることなく、神のみこころをしっかり受け取り切るまで、祈り続けましょう。
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 3月21日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「何ものも引き離せない神の愛」

           ローマ人への手紙8:35~39   三浦真信牧師

<35節>

 パウロは33節で「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか」と問いかけ、34節で「だれが、私たちを罪ありとするのですか」と問いかけます。そしていずれも「神が義と認めてくださる」「キリストが神の右の座で私たちのためにとりなしていてくだる」、だから決して訴えられ罪ありとされることは無いのです。

 次に「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか」と問いかけます。パウロは、その問いに対して、自分自身が経験してきた苦難を挙げます。「苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣」については、Ⅱコリント11:23~28に具体的に記されています。パウロは、キリストのためにそのような苦難を経験してきました。「これほど苦しいなら、キリストを信じることも伝えることもやめてしまおう」と思ってもおかしくない状況でした。しかしそれほどの苦難さえも、キリストの愛からパウロを引き離すことはできなかったのです。苦難は、パウロをキリストの愛から引き離す要因にはなりませんでした。


<36節>

 パウロはここで詩篇44:22のみことばを引用して、伝道者としての自分の生涯を表しています。神のために苦難に会っているイスラエル民族を、伝道者パウロやクリスチャンに適用しています。キリストのために終日死に渡され、屠殺される羊のように扱われている状態だというのです。食肉用として、また捧げものとして屠(ほふ)られ殺される羊のように、誰の助けも期待できず死を待つ状態に置かれている羊に自分たちを例えています。キリストのために、たえず死を意識しながら、危険と苦難の中を歩んでいました。それらの苦しみも、パウロをキリストの愛から引き離すことにはなりませんでした。


<37節>

 災いと思えるような出来事が次々に起きても、「私たちは圧倒的な勝利者です」と言えるのがクリスチャンです。「私たちは圧倒的な勝利者です」は、原語では「ヒュペルニコーメン」という単語一語です。迫害と悲惨の中でも、「ヒュペルニコーメン」と、大勝利を宣言できるのです。 パウロは、やせ我慢して言っているのではありません。「私たちを愛してくださった方によって」このように言えるのです。次々に起きる見える出来事によってではなく、神の愛によって、勝利を宣言することができました。見える現実だけでしたら、敗北の連続のようですが、不思議にそのような中でも神の愛に強く覆われて、「私たちは圧倒的な勝利者です」と言い切ることができるのです。


<38~39節>

 キリストにある神の愛から引き離さないのは、苦難だけではありません。

 「死もいのちも」

 人類最強の敵である死さえも、神の愛から引き離すことはできません(ヨハネ黙示録1:17~18)。生と死を支配し、よみの鍵を持っておられる方が私たちの味方です。

 「御使いたちも、支配者たちも」

 キリストは、御使いという霊的領域の主でもあります。また地上の支配者たちも、キリストの権威に打ち勝つことはできません。

 「今あるものも、後に来るものも」

 キリストは時間をも支配しておられます。現在と将来において存在するすべては、キリストものです(Ⅰコリント3:22~23)。

 「力あるものも」

 現実社会で力を持っている者たち。

 「高いところにあるものも、深いところにあるものも」

 どれほど高い天上を支配している勢力も、深いハデス(よみ)を支配している勢力も、キリスの愛から引き離すことはできません。

  「そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」

 目に見えるもの、見えないもの、すべての神が造られたものも、あらゆる苦難や出来事も、神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。それほど強力な愛で、私たちは神に繋(つな)げられているのです。

 この神の愛は、神から一方的に来たものです。神から始まっています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4:10)。神がまず、罪のために滅びに向かっていた私たちのなだめの供え物として、独り子イエス・キリストをささげてくださいました。罪なき神の子キリストが、私たちのすべての罪を負って十字架で死なれたのです。 この神の愛は、すべての人が対象です。この愛を受け取るだけで良いのです。イエスと共に十字架につけられた正真正銘の犯罪者の一人も、十字架上でイエスの愛を受け取って、パラダイスに行きました。

 信仰的にスランプに陥ることがあっても、神の愛がわからなくなる時期があっても、神の愛が一人ひとりを追いかけ続けます。一匹の羊がいなくなったら、99匹の羊を野に置いてでも失われた一匹を探し求める羊飼いのように、神の側で追いかけてくださいます。ですから私たちの側はどのような状態でも良いのです。こちらが不調だと、神の愛まで無くなってしまうわけではありません。神の愛は変わりません。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」(エレミヤ31:3)と言われたように、神の愛は永遠で真実です。

 今のコロナ禍で社会が一変しても、人や生活が変わっても、変わることのない神の愛に私たちは取り囲まれているのです。どのような苦難も、被造物も、キリスト・イエスのこの愛から引き離すことはできません。神がまず私たちを愛してくださいました。私たちの良い所を買ってくださって救われたのではありません。罪人であった私たちを、神は一方的に愛してくださいました。ですから、どのような状態であっても、そのままで神の御前に出ましょう。神の愛を受け続けましょう。
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 3月14日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「キリストのとりなし」

           ローマ人への手紙8:33~34   三浦真信牧師

<33節>

 「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです」  この手紙の読者も、またパウロ自身も、キリストを信じることで人々から誤解をされたり、非難をされることがありました。それでも神の御前に確信をもって立つことがでたのは「神が義と認めてくださる」からです。

 「神に選ばれた者たち」とは、「神を愛する人たち(28節)」のことです。「選ばれた」というと一部の人が対象のように聞こえますが、神ご自身は「すべての人が悔い改めて、神に立ち返ることを望んでおられます」(Ⅱペテロ3:9)。でもすべての人が、神の愛にすぐに応答するわけではありません。神の愛を受け取った者たちは、「救いから程遠い罪人の私を神があえて目を留めて選んでくださった」という感謝があります。「私が」ではなく「神が」一方的に罪に束縛された私を、神が与える実を結ぶために選んでくださったのです(ヨハネ福音書15:16)。私たちが立派なところで救われたのではありません。罪に悩み、弱さを抱え、自分ではどうしようもないところで、私たちは救われました(Ⅰコリント1:26~28)。私たちが成功し、絶好調の時にではなく、自分に絶望している時に神が救い出してくださったのですから、その救いは私たちの何かにはよらないのです。ですから安心です。神の前で立派さを装わなくても良いのです。救われるのに相応しい実など何も無い者を、神はあえて選んでくださいました。それは、神が実を結ばせるためです。神が与える実を結ぶために、キリストの名によって何でも神に祈り求めましょう。  


 「神に選ばれた者」、「神が味方でいてくださる私たち」(31節)だからこそ、だれも神に訴えることはできません。人から訴えられたり非難されても、「神が義と認めてくださる」のです。最後の審判において、天の法廷では「神に選ばれた者たち」を訴える者はだれもいません。


<34節>

 神が義と認めてくださった私たちを、だれが罪ありとするでしょうか。絶対にできません。「死んでくださった方、いやよみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです」。私たちの罪の代わりに十字架で死なれ、3日目によみがえり罪に勝利した方が、神の右の座に着いて、私たちのために今もとりなし続けておられます。

 キリストの贖いを受けた者たちのために、キリストは今もとりなしてくださっています。肉の弱さゆえに罪を犯してしまうことがあっても、キリストは神に弁護してとりなしてくださいます(Ⅰヨハネ2:1)。具体的な罪は、私たちも神に告白していきますが(Ⅰヨハネ1:9)、キリストが神の右の座でとりなし続け、きよめ続けてくださいます。

 サタンは、「そんな罪を犯して、それで本当に罪を赦されているのか?」「外も内側もまだ罪だらけで、全然きよくなっていないではないか」と私たちの古い肉を攻撃してきます。でもキリストのとりなしがあるので、「神が義と認めてくださるのです」という神の宣告を受け取ることができます。


 「主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます」(Ⅰコリント1:8)。主が最後まで、神を愛する人々を堅く保ってくださいます。そして終わりの日に神の御前に立つ時にも、責められることがないように、キリストが私たちのためにとりなし弁護してくださいます。

 キリストの内にある者は、誰が何と言おうと、神が義と認めてくださるのです。サタンが囁(ささや)いてきたら、「神が義と認めてくださるのです」と宣言しましょう。今もキリストが神の右の座に着いて、私たちのためにとりなし、神に弁護してくださっています。そのキリストのとりなしを信じ、今日も感謝をささげましょう。
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 3月7日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「神が私たちの味方」

           ローマ人への手紙8:31~32   三浦真信牧師

<31節>

 「これらのことについて」とは、パウロがここまで語ってきた、神の愛、キリストの十字架の贖い、御霊の助けなど、福音の豊かさすべてを指しています。


 「神が私たちの味方であるなら」とは、「もし~なら」という仮定ではなく、「このように神が私たちの味方であるのだから」という意味です。このローマ人への手紙の最初からパウロが語ってきたことを一言で表すなら、「神は私たちの味方である」ということなのです。キリストの内にある者は、神が味方なのです。神が私たちの側に立っていてくださるのです。これが福音です。なぜなら、罪のために神と断絶していた私たちは、かつては神に敵対していたからです(ローマ5:10)。神が私たちの味方であることは、当たり前ではないのです。このような関係になったことは奇跡です。自分では神に敵対していたつもりがなくても、罪を持っている限りは、神と敵対関係にあるのです。人の罪をきよめることができるのは、神が遣わしてくださったキリストだけです。このキリストを受け入れない限りは、神と敵対関係にあります。なぜなら、神は罪のない方だからです。罪とは全く相容れない方だからです。  


 神の敵であることが、いかにみじめなことかを知り、罪を悔い改め、キリストの十字架の死を自分の罪の死と信じ、キリストによる罪のきよめを受け取って、私たちは神と和解しました。神がキリストを遣わしてくださり、キリストが十字架の苦難の道を歩んでくださらなければ、私たちはずっと罪の中で神の敵として生き、やがて当然の報いとして滅びるべき絶望的な存在でした。あわれみ豊かな神は、私たちを滅びから救い、ご自身の義(きよさ)にあずからせるために、ひとり子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。キリストを受け入れた者は、すでに罪をきよめられた者として、いつも神が味方でいてくださいます。

 肉の弱さゆえに罪を犯してしまうこともありますが、具体的な罪はたえず神に告白し悔い改めていきましょう。悔い改めは大切です。きよい神と共に歩んでいるなら、毎日私たちは神の御前に悔い改めることがあるはずです。でもキリストの内にあるなら、この存在は丸ごと神のものとされているので、罪を認めて卑屈になることはありません。むしろ悔い改める時に、いよいよキリストの十字架の恵みを実感するので、赦されている喜びが満ちあふれるのです(ローマ5:20)。

 神が私たちの味方だから、だれ一人私たちに敵対するものはありません。当時のローマのクリスチャンの多くが、迫害を受けていました。彼らを嘲(あざけ)りののしる者たちに囲まれていました。その中で「神が私たちの味方である」ことは、どれほど心強かったことでしょう。迫害でなくても、私たちは生きている限り、人間関係で困難を経験します。見える人を恐れたり、人の言葉に傷つくこともあります。自分だけが集団の中で異質に感じたり、自分の苦しみが誰にも理解されず孤独を感じることがあります。不当な攻撃を受けることもあります。そのような時にも、神だけは永遠に変わることなく、私の味方でいてくださるのです。


 詩篇の作者も告白しています。

 「主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。主は私の味方。私を助ける方。私は私を憎む者をものともしない。主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い」 (詩篇118:6~8)

 神が私たちの味方であることがはっきりすることで、多くの恐れから解放され、難しい人間関係の中でも、力と励ましを得られます。私たちの真の敵は人ではなく、神との関係を引き裂こうと策略し脅してくるサタンだけです。そのサタンすらも、すでにキリストが十字架で勝利しているので、必要以上に恐れる必要はありません。サタンの脅しにはのらない、サタンのささやきに対しては、神のことばを宣言して対抗しましょう。

 パウロは、1章から福音について語ってきましたが、それは「神が私たちの味方である」ことがはっきりするためです。まだそこがはっきりしていないのなら、もう一度1章から御霊の助けを求めつつ読み直してみましょう。


<32節>

 「私たちすべてのために、ご自分の御子さえ惜しむことなく死に渡された神」  神は私たちを罪から救い出すために、大切なご自分の御子を死に渡されました。身を引き裂かれるような思いで、私たちを救うためにキリストをささげてくださったのです。

 アブラハムがイサクをささげる時に、ひとり子をささげる神の思いが込められています(創世記22章)。神からの約束を長年待ち望んでようやく与えられたイサクを、神はささげるようにアブラハムに命じました。アブラハムは神に従い、目に入れても痛くないほどかわいいイサクをささげるため、モリヤの地に連れて行きます。そしてアブラハムがイサクに手を掛けようとしたその時に、主の使いがそれを制します。ささげものとして一匹の雄羊がそこにすでに備えられていました。モリヤの地に行くまでのアブラハムの思いは記されていませんが、その苦悩は十分想像することができます。イサクのいのちは守られましたが、神の子キリストは、私たちの罪のための犠牲の小羊として十字架で屠(ほふ)られました。  

 アブラハムがイサクをささげたことは、神がキリストを死に渡されることの予表でもあります。神がキリストをささげることがどれほどの痛みであったか、そうまでしても私たちを罪から救い出そうとしてくださる神の愛と情熱が表れています。神と私たち人間を断絶する罪をきよめるためには、罪なき神の子が代わりに罪を負うしかありませんでした。罪とは相容れない神の義と、何としてもご自身の造られた人を救いたい神の愛が、キリストの十字架で示されています。


 「神がどうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」  

 御子さえも私たちのためにささげてくださった神ですから、御子だけでなくすべてのものを私たちに恵んでくださるのです。  

 今年与えられた「すべての必要を満たす神」(ピリピ4:19)という約束は、すでに神がキリストを与えてくださったことで証明されているのです。神は私たちを救うために、まずひとり子イエス・キリストをささげてくださいました。そうまでして私たちを罪から救い出そうとしてくださった方ですから、私たちに本当に必要なものはすべて恵んでくださいます。そのような神が私たちの味方です。 

 コロナ禍で、先行き不透明なことも多く、将来に不安を感じている方も多くいらっしゃることでしょう。今の生活でいっぱいいっぱいの方、病や痛みと闘っている方、孤独を感じている方、人間関係で苦しんでいる方、漠然とした不安や恐れでストレスを感じている方、様々な苦悩が社会を覆っています。しかし感謝なことに、御子とともにすべてを恵んでくださる神が今もこれからも私たちの味方です。「神が私たちの味方である」と宣言して、今週も歩みましょう。
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