(2021年2月)

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 2月28日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「すべての者が行き着く結末」

           伝道者の書2:12~17  三浦真信牧師

<12節>

 エルサレムにいただれよりも、多くの知恵と知識を得た著者(伝道者)は、知恵があることと愚かさを比較して、最終的にどのような違いがあるかを分析しました。彼がもしソロモン王であったとしたら、周辺諸国からもその知恵を見聞きしに来るほどの評判でしたので、その分析には説得力があります。

 伝道者は、その知恵によって事業を拡張し、富みや快楽も手に入れましたが、それらも風を追うように空しいことでした(2:4~11)。そして人間の本質は同じなので、「王の後を継ぐ者も、すでになされたことをするにすぎない」ということを実感しています。彼も偉業を成し遂げてきたと思ってきたけど、振り返ってみるとこれまでの王がしてきたことを繰り返しただけでした。


<13~14節>

 光が闇の中に入れば、そこは光となります。光が闇に勝ちます。同じように、知恵は愚かさに勝っていると伝道者は確信してきました。人は愚かであるよりも、知恵を求めます。わからないことがあれば、知りたいと求めます。知恵があることで、「頭に目がある」ように、予想して先を見ることができ、ある程度リスクを回避することができます。愚かさゆえに、闇の中をさ迷ったり危険な目に会うことがあります。

 しかし最終的に、知恵ある者の方が愚かな者より良い所に行き着くかというと、そうではありませんでした。「すべての者が同じ結末(死)に行き着くこと」を知ったのです。


<15節>

 伝道者は、知恵を得ることで幸せになれると思って、とことん知恵を求めてきました。「並外れて知恵ある者」と、自他ともに認める者となりました。それを心の拠り所とし、誇りとした時もあったかもしれません。しかし結局すべての者が行き着くところは同じであると知った時に、「これもまた空しい」となったのです。頭ではすでにわかっていたことかもしれませんが、身近な人の死に接したり、自分自身が死を意識する歳になって、すべての人が行き着く結末は同じ「死」であることを実感したのでしょう。

 確かに、知識があることで、あまり迷わずに最短コースを進めることがあるかもしれません。しかし行き着く頂上はみな同じなのです。愚かさによって遠回りしたり紆余(うよ)曲折したとしても、行き着くところが同じであるなら、それも味わい深い人生と言えるかもしれません。


<16節>

 死んでしまえば、「いつまでも記憶されること」はありません。いずれ人々の記憶から消えていきます。知恵ある人生であっても、偉業を成し遂げても、一時的に記録に残されるかもしれませんが、それすらもいつかは消えてなくなり、忘れ去られていくのです。それもすべての人が行き着く結末です。


<17節>

 知恵があっても、愚かであっても、結局人の行き着く結末が同じ死であることを知った時に、伝道者は「生きることを憎んだ」のです。人生というものが嫌になりました。拠り所としてきたものが、一時的なものであることを知り、虚無感に襲われたのです。

 どれほど知恵、知識を得ても、それらは生きている間にしか通用しないものだったのです(9:4)。すべての者が行き着く「死」に対して、その知恵では太刀打ちできませんでした。


 新約聖書の伝道者パウロも、キリストに出会うまでは、自分の知恵や教養、家柄や学歴などを誇りとし、拠り所としてきました(ピリピ3:4~9)。しかしそれらは、生きている間にしか通用しない拠り所でした。誰もが最後に必ず直面する死に対して、全く頼りにならないものでした。生きている今だけ通用する空しいプライドに自分がしがみついていたことを、キリストに出会ってパウロは知ったのです。そしてキリストの十字架の死と復活によって信じる者たちに与えられる救いの望みのすばらしさを知った時に、これまで得と思ってきたこと、拠り所とし誇りとしてしがみついてきたことが、「ちりあくたのように」思えたのです。ごみのような物を、まるで宝物のように追いかけていた、風を追うような空しい生き方であったことに気づいたのです。そこから、「キリストの復活の力をもっと知りたい」と、キリストを追い求めるようになりました。死に対しても、望みを持つ人生に変えられたのです。

 伝道者の書の著者コヘレト(伝道者)も、知恵、富、名声、快楽、すべてを手に入れても、空しさから解放されませんでした。でもその空しさから、すべての人が行き着く死に対して望みを持てる真の拠り所を求めるようになります。  


 神は、私たちが真の拠り所とすべき方を見出すために、様々な嘆き、悲しみによって主の御前にへりくだるようにされます(ヤコブ4:6~10)。高ぶりはサタンの格好の餌です。
 地上の成功や何かを得たことで、高ぶり、自分の力や知恵に頼り誇りとするくらいなら、嘆き悲しみによって主の御前にへりくだる方が、はるかに良いのです。それによって、「主があなたがたを高く上げてくださいます」。主の御前にへりくだる時に、主が私たちの頭を上げてくださって、神の視点で物事を見る目を与えてくださいます。事態が変わらなくても、神の視点で見られるなら、嘆きが喜びに、悲しみが笑いに変えられていきます。主の御前にへりくだる時に、「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」(コロサイ2:3)という事実が明らかになります。すべての人が行き着く死にまで通用する知恵・知識は、キリストのうちにしかありません。地上においても、キリストの知恵で歩むことができます(コロサイ2:6)。この宝であるキリストに出会って、かつてはキリストを迫害していたパウロは、生涯キリストを追い求めるようになりました。

 「すべての人が行き着く結末」である死に対して、キリストは希望を与えてくださいました。キリストは、死に完全に勝利されたのです。死は人間の罪から始まりましたが、すべての人の罪の身代わりとなって、キリストは十字架で死なれました。そして3日目に死からよみがえられ、罪と死に打ち勝ったのです。キリストを信じる者は、死んでも復活のからだが与えられます。生きている間も、キリストは復活の事実を私たちに見せてくださり、死んだ神ではなく今も生きておられる神であることを体験させてくださいます。生と死すべてに通用するキリストの知恵を、追い求めましょう。知恵と知識の宝がすべて隠されているキリストで生きましょう。
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 2月21日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「すべてのことが益となる」

           ローマ人への手紙8:28~30   三浦真信牧師

<28節>

 「神を愛する人たち」「神のご計画にしたがって召された人たち」とは、キリストを通して明らかにされた神の愛を受け取り、その愛に応答した人たちです。神の壮大な救いのご計画の中で、神の召し(呼びかけ)に応答した人たちです。神は、だれも滅びることなく、すべての人が悔い改めて救われることを望んでおられます(Ⅱペテロ3:9)。すべての人を招いておられ、その招きに応じることを神は望んでおられるのです。その招きに応じることからすべてが始まります。

 神の愛に応答した、神を愛する人たちのためには、「すべてのことがともに働いて益となる」のです。17節以降で、苦難・うめきについて語っていることからも、「すべてのこと」は、「すべての苦難」とも言い換えることができます。  苦難は辛い(つらい)けど、神が私たちを呼び出し引き寄せてくださった目的が実現するために、この苦しみも益となると知っているなら、希望があります。


<29節>

 神が私たちを召してくださった目的とは、「御子のかたちと同じ姿」に変えることです。そのようにあらかじめ神は定められたのです。私たちはみな、御霊なる主の働きによって、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていきます(Ⅱコリント3:18)。そのために、すべての苦難は益となります。「義という平安の実を結ばせる」ために、神は苦難を通して訓練してくださいます(へブル12:11)。キリストと同じ姿に変えられていくことで、神は平安の実を結ばせてくださるのです。そして最終的には、私たちのこのからだを、キリストの栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます(ピリピ3:21)。

 「多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです」  ここの「長子」の原語「プロートトコス」は、「最初に生まれた者」「他のすべてよりすぐれたもの」という意味があります。地上においては、御子キリストは教会のかしらです(エペソ1:22~23)。神を愛する「多くの兄弟たち」の中で、一番すぐれた方です。そして神の国においては王なる方です。神を愛する者たちを、栄光から栄光へとキリストと同じ姿に変えて、御子キリストがその長子となることが、神のご計画です。


<30節>

 私たちは、救われたら終わりではなく、なお栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます(聖化)。神が私たちを「義と認める」のは、キリストを信じる信仰によります。あらゆる苦難を通して、神はその信仰を鍛えてくださいます。見えるもの、見える状況ではなく、主を信頼していく信仰を与えようと、神は私たちを訓練します。そして最終的には、御国において栄光のからだを与えてくださいます(栄化)。

 「義と認めた人たちには、さらに栄光をお与えになりました」

 死を目前にしたパウロが、「あとは義の栄冠が私のために用意されているだけです」(Ⅱテモテ4:7~8)と言いました。神に義と認められた人たちは、最終的に御国で「義の栄冠」を受け取るのです。パウロは、「さらに栄光をお与えになりました」と、その栄冠がすでに与えられたものとして、ここでは信仰で先取りしています。その約束されている実体を受け取るまで、地上のすべてのことを通して神は信仰を鍛え、キリストに似るものへと変え続けてくださいます。信仰の成長とともに、「義という平安の実」を結ばせてくださいます。

 神を愛する人たちにとっては、経験するすべてのことが、キリストと同じ姿に変えられるために益となります。神のご計画の中ですべては起きているのですから、安心して苦しみうめきつつ歩むことができます。

 いくら信仰の訓練と言われても、私たちは弱いですから、それだけでは疲れ果て倒れてしまいます。ですから神は御霊を送ってくださいました。御霊がたえず、義の栄冠への希望を指し示し、御霊が弱い私たちに常に寄り添って共にうめき、とりなしてくださいます(26節)。苦しみの最中で、「すべてのことが益となる」と宣言していきましょう。
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 2月14日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「うめき祈る時の助け」

           ローマ人への手紙8:26~27   三浦真信牧師

<26節>

 パウロは、この8章で御霊の働きについて語っています。

① 御霊は私たちの肉を制する(5~13節)
② 御霊は私たちが神の子であることを証しする(14~17節)
③ 御霊は私たちが御国を受け継ぐことを保証してくださる(23節)

 そして「同じように」御霊の働きとして、祈りにおいて「弱い私たちを助けてくださる」働きがあるのです。私たちは生きる限り、肉体的精神的弱さを抱えています。ですから、神は助け主として御霊(聖霊)を送ってくださいました(ヨハネ福音書14:16)。すぐに主の言葉を忘れて不安になり、心騒がせてしまう私たちに、みことばを思い起こさせ神の平安を与える助け主です(ヨハネ福音書14:26~27)。御霊は、私たちが生きる上でのあらゆる弱さを具体的に助けてくださいますが、特にここでは祈りにおける私たちの弱さ、足りなさの助けについてパウロは強調しています。  

 ここの「助ける」の原語「シュナンティラムバネタイ」は、「シュン(いっしょに)」+「アンティ(代わって)」+「ラムバノマイ(取り上げる)」の複合語です。ルカ10:40の「手伝いをする」が同じ単語です。御霊は、私たちの「何をどう祈ったらよいか分からない」祈りを、一緒に手伝ってくださるのです。  

 弱い私たちの「ことばにもならないうめき」を、御霊が一緒になってうめきとりなしてくださるのです。ですから、御霊によって(御霊の助けを信じて)祈るなら、どんな時でも祈ることができます(エペソ6:18)。あまりにも苦しくてうめくしかない時にも、御霊は共にうめいて寄り添って、祈りを助けてくださいます。


<27節>

 「人間の心を探る方」とは、すべてをご存知(全知)の神のことです。神は人間の心の中までもご存知です。その神が、「御霊の思いが何であるかを知っておられます」。「人間の心を知る方」ですから、「人間(私たち)の思いが何であるかを知っておられます」と本来は言うところでしょう。しかしあえてパウロは、「御霊の思いが何であるか」と言っています。つまり、私の思いと御霊の思いを、一つとしているのです。私の心が、どれほど混乱したりうめいていようとも、内におられる御霊はいつもまっすぐ神を仰ぎ見ています。御霊が内におられるということは、私の心の状態に関係が無いのです。神は、私たちが苦しみうめいている時にも、心の中がぐちゃぐちゃになっている時でも、私の内におられる御霊を見ておられます。御霊はしっかり神に向かっているので、私の心がどうであっても安心です。御霊は、私の不安定な思いに左右されることはありません。


 「なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです」  「聖徒たち」は、立派な祈りをする人たちのことではありません。むしろ「何をどう祈ったらよいか分からないでうめいている人たち」です。だから、聖徒たちには御霊のとりなしが必要です。「神のみこころがわからないので知りたい」と常にうめいているのが聖徒です。神は、私たちがみこころにかなった祈りなどできないことをご存知です。体調が優れなかったり、心に重荷がある時に、祈ることもできないと思うことがあります。だからこそ、祈り続けるための助け主、御霊を与えてくださいました。御霊が私たちの言葉にならないうめきを、そばに寄り添ってうめきとりなしてくださるから、祈れなくても祈れるのです。「祈れない」と思っても、なお御霊によって祈ることができるのです。    


 神が私たちに求めておられるみこころは一つです。主の愛にとどまることです(ヨハネ福音書15:9)。主イエスの愛にとどまり、主のことばにとどまっているなら、安心して何でも祈ることができます。間違った祈りをしてもよいのです。御霊がその間違いにも気づかせてくださいます。形にこだわらなくて良いのです。ある時は叫び、ある時はうめき、ある時は泣いたり笑ったり、ある時は霊の祈りによって、ある時は言葉を発せずに…御霊がとりなしてくださっていることを信じて、祈り続けましょう。「祈れないから祈らない」ではなく、祈れなくても御霊が一緒にうめいて祈りを助けてくださると信じて、祈り続けましょう。
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 2月7日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「希望のあるうめき」

           ローマ人への手紙8:19~25   三浦真信牧師

 パウロは、神が用意しておられる新天新地(ヨハネ黙示録21~22章)が来るまでのうめきについて語ります(19節~22節では人間以外の被造物のうめきについて、23~25節では神の子たちのうめきについて)。


<19~22節>

 人間以外の被造物(神が造られたすべてのもの)も、今はうめきの中にあります。「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現われるのを待ち望んでいます」。「神の子どもたちが現われる」のは、キリストを信じる者たちの神の子としての身分が完全に現れる時です。つまりキリストが再びこの地に来られる再臨の日です。キリストを信じるなら、すでに罪赦され神の子とされていますが、それが完全な形で現わされるのは再臨の日です。その時を、被造物も切実に待ち望んでいるのです。  

 なぜなら、最初の人アダムが罪を犯して人類に罪が入ってきた時に、「被造物が虚無に服した」からです。「虚無」とは、本来の効力を失って実を結ばない虚しい状態です。神が最初すべてのものを造られた時には、「神の目にそれは非常に良かった」(創世記1:31)のです。神は最高の、完全なこの世界を創られました。決して不完全な中途半端なものをお造りにはなりませんでした。しかしアダムが神の唯一の戒めを破り、神のことばを退けたために、大地は呪われたものとなり、人は茨とあざみと戦いながら、顔に汗して糧を得るようになりました(創世記3:17~19)。つまり「自分(被造物)の意志からではなく」大地は呪われたのです。人間の罪の結果、「服従させた方(神)」によって、自然界は虚無に服し、神が造られた本来の目的を果たせなくなったのです。人間の罪が、他の被造物全体に罪の影響を及ぼしたのです。自然破壊、地球温暖化も、人間の罪による歪み(ゆがみ)から来ているのです。    


 罪によって虚無に服した被造物を回復するために、神はひとり子イエス・キリストを遣わしてくださいました。キリストの贖いによって、人々が神に立ち返る時に、被造物も回復していきます。国や地域に信仰復興(リバイバル)が起きると、周辺の自然が生き生きとよみがえり、その地域の治安も良くなるという報告があります。  

 今被造物は、神が新天新地において本来の宇宙をエデンの園のように回復する途上にあってうめいているのです。「滅びの束縛(そくばく)(腐敗と破壊の呪縛(じゅばく)に閉じ込められている状態)」から解放され、神の栄光の自由にあずかる時を待ち望みながら、「被造物すべては、今に至るまで共にうめき、共に産みの苦しみをしています」。それでもキリストを通して神と和解した者たちによって、すでに回復が始まっているのです。


<23~25節>

 次にキリストの贖いによって神の子とされた者たちのうめきです。「御霊の初穂をいただいている私たち」とあります。「初穂(アパルケー)」とは、手付金という意味があります。私たちは、御霊という手付金をすでにいただいています。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」(エペソ1:14)とあるように、やがて御国を受け継ぐ保証として、御霊が与えられています。「私たちのからだが贖われることを待ち望みながら」その完成を見る時を、うめきつつ希望をもって待ち望んでいるのがクリスチャンです。  

 「私たちは、この望みとともに(望みによって)救われたのです」は、過去の事実としてすでに救われたことを強調しています。御霊によって、からだが贖われる望みを与えられた私たちは、すでに救われたのです。でも「望み」は目に見えるものではありません。まだ手にしていないものを、必ず与えられると信じて望んでいるのです。「目に見えないものを確信させるものが信仰です」(へブル11:1)。この信仰を御霊が与えてくださって、私たちは救われたのです。そしてうめきつつ、忍耐して完全にからだの贖われる日を待ち望んでいます。    

 まだ完全に贖いの事実を見ていないこの肉のからだは、罪との戦いがあります。日々罪を犯し、悔い改めが必要です。生涯罪を犯してしまううめきがあります。自分の罪の現実を知らされ、悔い改め悔い改め、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられ続けていく過程にあります。でもやがて完全に主と同じ姿に変えられる希望があります。再臨の日には、このからだが完全に贖われて罪を全く犯さなくなるからだに変えられるのです。その間も、御霊が初穂として与えられているので、御霊が「大丈夫だよ、すでにあなたは神の子だよ」と、失敗だらけの私たちを励まし続けてくださいます。  

 コロナ禍で世界中が苦しむ今、この世界のうめきはただウイルスによるものではなく、もっと根源的な理由があるかもしれないと人々が気づき始めています。また私たちの中に、もともとありながら燻(くすぶ)っていたうめきが、露(あら)わになったかもしれません。心にあるうめきを思いっきり主に向かって祈りましょう。うめいている被造物全体のために祈りましょう。このうめきは、果てしないうめきではありません。やがて終わるのです。嘆きの日は終わりを告げます(イザヤ60:20)。このからだが完全に贖われ、被造物すべてが神をたたえる栄光の日が来ます。今は回復の時です。うめきつつも、しっかり内にある希望を仰ぎ見ましょう。

 そして私たちの内にある希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるように用意しておきましょう。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」(Ⅰペテロ3:15)。日ごろから、この希望で生きていなければ、とっさに説明することができません。コロナ禍で、人々が気落ちし心が荒(すさ)んでいる時に、「私の内にある希望」について、人々に説明する説明責任がクリスチャンにはあるのです。地上で生かされている限り、先に救われた者たちには、この説明責任が与えられています。今この時に、少し時間をとって「私の内にある希望」について、言葉化してみましょう。書いてまとめてみましょう。きっと大きな力になることでしょう。その希望で、今週も生きましょう。また説明を求められたら、その希望を人々に伝えましょう。
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