(2021年1月)

 ・ 1月31日
 ・ 1月24日
 ・ 1月17日
 ・ 1月10日
 ・ 1月 3日
 




 1月31日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「必要なことは一つだけです」

           ルカの福音書10:38~42   三浦真信牧師

 今年「すべての必要を満たす神」とのテーマを与えられました。私たちの側では、様々なことを必要と感じますが、実は考えているほど今必要なことは多くは無いのです。神は私たちに本当に必要なものはご存じで備えてくださっています(ルカ12:30)。私たちが真に求めるべき必要なことに、心を向けましょう。


<38~39節>

 イエスと一行は、マルタの家に迎え入れられました。マルタの家は、べタニアというエルサレムから東に3キロほど離れた所にある村です(ヨハネ福音書11:1)。マルタはイエスを迎え入れることにかなり気合が入っていました。できる限りのもてなしをイエスと弟子たちにしたいと思っていました。  

 マルタには、マリアという姉妹がいました。マリアは、「主イエスの足もとに座って、主のことばに聞き入っていました」。イエスは、行く所行く所で、神の国についての福音を語りました。マルタとマリアの家でも、イエスはまずみことばを語られたのです。マリアは、全集中でイエスが語られるみことばを聞いていました。


<40節>

 マルタはイエスに最高のもてなしをするため、あくせくしながら働いていました。「忙しい、忙しい…」と動き回りながら、頭の中では「あれをして、次にこれをして…」と段取りを考え、心が落ち着かず分散していました。猫の手も借りたいほど忙しいそのような時に、じっとマリアがイエスの足もとに座っているのを見て、怒りが込み上げてきます。  

 「みもとに来て」の原語の意味は、「暴れこんできた」です。マルタはカッカとしながら暴れ狂うようにイエスのもとに来て、マリアが自分の手伝いをするように言ってほしいとイエスに言いました。自分ひとりでしたら、慌ただしくしながらも、このような不満をぶつけることはなかったかもしれません。しかしマリアの態度を見た途端に、怒りが込み上げてきました。もしかしたら日頃からマリアに対して持っていた不満が、一気に爆発したのかもしれません。本来でしたらマリア本人に直接伝えるべきことですが、マルタは来客であるイエスにマリアへの不満をぶつけました。でもそれが正解でした。人に直接不満をぶつけても、かえってこじれたり、後で怒りを発したことを後悔したり、あまり良いことはありません。  

 身近な人にほど、私たちは期待します。それだけに要求も出てきます。人は不完全なのでその期待には応えきれず、かえって期待された分だけ関係がギクシャクしてしまうことがあります。マルタは、姉妹であるマリアが自分の期待に応えないことに苛立ちましたが、それをイエスに伝えることで大切なことを学びます。


<41節>

 「マルタ、マルタ」と、優しく親しみを込めて、イエスはマルタの名前を二度呼びます。イエスを十分にもてなしたいというマルタの気持ちを感謝して受けとめておられます。同時に、マルタが今「いろいろなことを思い煩って、心を乱している」状態であることを伝えます。「思い煩う」は、このあとの12章22節「心配する」と同じ原語です。イエスは「何を食べようかといのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配するのはやめなさい」とおっしゃいます。この時のマルタは、思い煩いに支配されて、心がぐちゃぐちゃになっていました。


<42節>

 41節の「いろいろなこと」と、「必要なこと」が対比されています。イエスは、マルタがイエスたちを精一杯もてなしたいという気持ちを受けとめています。でもそのことであくせくして、心を乱してほしいとは願っておられません。むしろイエスとしては、マルタもまずイエスのそばに来て、みことばをじっくり聞いてほしかったでしょう。今このときに、もてなしのために心を乱すことは必要なことではありませんでした。食事の時間が少し遅くなってもいいから、まずマルタ自身がみことばで心を満たしてほしかったことと思います。今本当にしなくてはならないことは、そう多くはありません。先のことまで心配して、余計なことまで思い煩い、心も体も疲弊してしまうことがあります。  

 姉妹のマリアは、今みことばを聞くことを必要としているのだから、それを彼女から取り上げてはいけないのです。マリアには、みことばへの飢え渇きがありました。恐らくイエスたちをもてなす気持ちも十分あったでしょう。でもまず主の言葉を聞くことが彼女にとって必要でした。一番必要なことを後回しにして働いても、空回りしてしまいます。事実マルタは、あくせく働きながらも空回りしていました。何もしないでじっとしていることが良いわけではありません。本当に優先すべきことを優先していくことが、逆に良い働きにつながっていきます。マリアも主の言葉に満たされて、このあとしっかりイエスをもてなしたことでしょう。

 神は、空の鳥をも養い、野の草花をもきれいに着飾ってくださいます(ルカ12:22~32)。私たちが思い煩い、心配したからといって命を延ばせるわけではありません。むしろ極度の思い煩いは命を縮めることにもなりかねません。本当に必要なものは神がご存じで備えてくださるから、「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい」(12:31)とイエスは言われました。神の国は永遠に続きます。神の言葉は絶えることがありません。神が私たちに何よりも与えたいのは「御国」です。神は喜んで「御国」を私たちに与えてくださいます(12:32)。私たちにとって本当に必要なものは、「御国」です。そしてその御国を与えるために必要な「神のことば」です。だからマリアは、本当に必要な「主のことばを聞く」ことを求めたのです。  

 キリストを信じる者たちは、すでに御国の民とされています。その王なる神の声を聞かなければ、生き方もブレてしまうのです。地上の必要は神がご存じで、ちゃんと備えてくださっているのですから、むしろ御国を求めましょう。「必要なものは多くはありません、一つだけです」と言われる主の言葉をしっかり受けとめましょう。
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 1月24日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「空(から)の器を満たす神」

           Ⅱ列王記4:1~7   三浦真信牧師
<1節>

 預言者エリシャの同労者が死に、その妻がエリシャのもとに相談に来ました。彼女は、エリシャも知っている通り、夫が主を恐れ、預言者として主に仕える人生を歩んできたことを告げます。それなのに今、夫は借金を残して死に、債権者が自分の二人の子どもを奴隷にしようとしているため困っていました。


<2節>

 エリシャは、彼女の家の中に何があるかを聞きます。彼女は「ただ、油の壺一つしかありません」と答えます。

 彼女の視点では、「油の壺一つしかありません」ですが、神の視点では「油の壺一つもあります」であることがこの後わかります。神の御手によれば、たった一壺の油で十分なのです。イエスの時代にも、5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人が満腹になって余りが出ました(ルカ9:13~17)。イエスが祝福されるなら、「5つのパンと2匹の魚しかありません」が、「5つのパンと2匹の魚もあります」に変えられるのです。


<3節>

 エリシャは、近隣から空の器をいくつも借りてくるように彼女に命じます。近所の人も、彼女自身も、何のためにこのようなことをするのか理解できなかったでしょう。神が私たちに「しなさい」と言われることは、得てして理由がわからないことが多いです。でも神が導かれる時には、理由がわからなくても従ってみましょう。その時に、驚くべき神の奇跡を見ることができるのです。私たちには理由がわからなくても、神の側には理由があるのです。神を信頼して従いましょう。


<4~6節>

 これから起きる奇跡は、公の場ではなく、預言者の妻と二人の子どもたちだけが経験することになります。そのためあえて「背後の戸を閉めなさい」とエリシャは命じました。主のみわざが行われる厳粛な時をこの親子は経験するのです。しかも預言者エリシャもその場には立ち合いませんでした。ただ預言者エリシャを通して語られた神の言葉に従った時に、神が素晴らしい出来事を起こしてくださるのです。神の言葉に従って行動した時に、この家族は神の奇跡を体験したのです。

 エリシャに言われた通り、子どもたちは空の器を近所から集めて運び続け、預言者の妻は一壺の油をひたすら注ぎ続けました。空の器が運ばれてくる間は、どの器も油がいっぱいになりました。空の器に注ぎ続ける限り、油は途絶えることがありませんでした。そして器がなくなった時に、油はピタッと止まりました。ちょうど必要な分だけ与えられると、油は出なくなりました。


<7節>

 彼女は、この出来事を神の人エリシャに報告します。するとエリシャは、その油を売って負債を払い、残りで子どもたちと共に暮らしていくようにと命じます。借金も返すことができ、子どもたちも奴隷としてささげずに済みました。


 人間の視点では、「あれが足りない、少ない、弱い…」と、不足が気になります。でも神は全能で豊かな方です。神が御手に握られるなら、どれほど少なくても、必要は満たされていくのです。

 「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしがたって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4:19)  お金が足りない、人が足りない、自分の能力が足りない…無い無い尽くしの場所こそ、神が必要のすべてを満たしてくださることを体験するチャンスです。


 また私たちの空っぽな心にも、神は豊かに油を注いでくださいます。今コロナ禍にあって、これまでしてきたことができなくなり、人との距離をとらざるを得なくなり、多くの方が孤独や虚無感に襲われて苦しんでいます。神はそのような空しい心のままで、神に向かって大きな口を開けなさいと言われます。

 「あなたのうちに、異なる神があってはならない。異国の神を拝んではならない。わたしはあなたの神、主である。わたしがあなたをエジプトの地(罪の奴隷の地)から連れ上った。あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう」(詩篇81:9~10)。  

 余計な物が入っていない方が、油はいっぱい入ります。だから空の器がよいのです。からっぽでいい、空しくていい、何もない虚しい心のまま、神に向かって大きな口をあけて求めていくなら、神が聖霊の油で満たしてくださいます。そしてすべての必要も満たしてくださいます。預言者の妻と子どもたちが体験した神の奇跡を、私たちも今年見せていただきましょう。
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 1月17日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「あらゆる境遇に対処する秘訣」

           ピリピ人への手紙4:10~20   三浦真信牧師

 パウロは、一つの教会に留まって数年伝道牧会をすることもありましたが、巡回伝道者として諸教会を訪問したり、同労者を派遣したり、当時の連絡手段である手紙を書いたりしながら、福音宣教の働きをしました。迫害による中傷や妨害もありましたが、彼の宣教の働きを支援する人たちもいました。

 特にピリピの教会は、マケドニア地方にあり、パウロや使徒たちの働きを物資面で支援した教会でした。彼らは激しい迫害による試練の中にありました(使徒16~17章)。マケドニアは迫害下でできた教会なので、クリスチャンになることは死を覚悟することでした。キリストを信じて、すぐに迫害による苦難と極度の貧しさの中に置かれましたが、その中でもキリストにある喜びが溢れていました。その溢れた喜びが、伝道者たちの働きや諸教会を支える献金という形で現れていきました(Ⅱコリント8:1~5)。決して強いられてではなく自主的に、献金を通して福音宣教の恵みに自分たちも与りたいと自ら懇願(こんがん)して献げたのです。献げる恵みを体験していたのです。パウロは、彼らの信仰にあるその心を喜んでいました。その献金が何かの理由で一時途絶えていました。恐らく迫害の中で、献げ物を集めたり届けることができなかったのでしょう。しかしパウロの同労者エパフロディトを通して、再びパウロたちのもとに届けられました(18節)。

 今日の聖書個所から、パウロがピリピ人たちの何を喜んだのか、そして迫害のため投獄される苦難の中でパウロがどのような信仰に立っていたかを受け取りましょう。

(1) パウロはピリピ人たちの何を喜んでいたのか。

 しばらく途絶えていたピリピからの献げ物が再び届けられたことで、パウロは主にあって大いに喜びました(10節)。しかしそれは送られた物資を喜んでいるのではありません。パウロは、「乏しいからこう言うのではありません」(11節)「私は贈り物を求めているのではありません」(17節)と言っています。パウロは、ピリピ教会の人たちが激しい試練と極度の貧しさの中でも、キリストにある喜びを失っていないことを喜びました。彼らの信仰にある喜びを土台とした献げ物を喜んだのです。福音とは異なった異端の影響を受けて、キリストにある喜びを奪われたために献金も途絶えたのではないかと、パウロは心配していたのかもしれません。でもエパフロディトを通して彼らの献げ物が再び届いたことで、ピリピの人たちの主にある溢れる喜びが今もあることを知り、その彼らの信仰の心を喜びました。

 信仰と愛による献げ物を通して、「霊的な口座に実が加えられていく」という霊的祝福をピリピの人たちが受けていることを喜びました(17節)。また主への喜びが満ちあふれて献げられた物は、「芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物」です(18節)。旧約の時代にも、神にささげられた全焼のいけにえは、「芳ばしい香り」でした(創世記8:21,レビ1:9など)。そしてキリストも、「私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとして、芳ばしい香りを献げてくださいました」(エペソ5:2)。献金を通して、ささげるピリピの人たち自身が神の祝福を受け、霊的口座に実が加えられていく恵みを受けていることをパウロは喜んだのです。

(2) パウロは苦難の中でどのような信仰に立ったのか。

 パウロは自分が経済的に厳しい状況だからピリピ教会からの献金を喜んだのではないと断言します(11節)。なぜなら、パウロは貧しいとか豊かであるという境遇に左右されることは無かったからです。パウロは、迫害のために何度も牢に入れられむち打たれ、死にそうになりました。石を投げられたり、船が沈没して一昼夜海上を漂ったり、強盗に襲われたり、偽兄弟に騙(だま)されたり、人々からののしり暴力を受けたり、食べ物が無く寒さで凍えたり、様々な境遇に置かれました(Ⅱコリント11:23~28)。その中で、苦しみ弱くされました。でも弱くされる中で、キリストの力を体験したのです。「私が弱い時にこそ、キリストの力がおおうから、私は強い」ということを体験したのです(Ⅱコリント12:9~10)。 「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」(13節)という信仰が、どんな境遇でも満足できる秘訣でした。苦難によって弱くされても、むしろ自分の力ではどうにもできない時ほど、キリストが力強く働いてくださることがよくわかるのです。

 また貧しさの中に置かれた時にも、「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、必要をすべて満たしてくださる」(19節)ことを体験しました。キリストは十字架の死と復活を通して、神の栄光を現わしました。キリストを信じる者は、死と滅びに導くサタンから解放されます。この救いのために、神はひとり子キリストをささげてくださったのです。そのような神が、ご自身の民のために必要なものはすべて満たしてくださらないわけがありません(ローマ8:32)。本当に必要なものは、すべて与えてくださる神です。パウロは、苦難の中でとことん弱くされ貧しくされましたが、神はパウロに常に力を与え、必要をすべて与えて守られました。今牢獄にいても、神はパウロの必要を満たし、面会者を通して福音を伝え、諸教会を力づけました。

 どのような境遇にあっても、「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」「神がご自分の豊かさにしたがって、必要をすべて満たしてくださる」という信仰に立って乗り越えることができました。この神がおられるなら、環境には左右されないのです。

 コロナ禍で仕事を失ったり、経済的に厳しい状況にいる方がいます。あるいは転職したり、新しいステージに移行する方もいます。先行き不安な環境下に今すべての人が置かれていますが、神はご自分の御子を与えるほどに私たちを愛してくださった方です。その神が、私たちの必要をすべて満たすと約束してくださいます。苦難の中で弱くされても、キリストの力が私たちをおおいます。ですからどんな境遇にあっても、キリストにあってどんなことでもできるのです。みことばで示されているこのような神が、いつも共におられることを信じましょう。
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 1月10日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「いつも主にあって~祈ると神の平安がくる~」

           ピリピ人への手紙4:1~9   三浦真信牧師

<1節>

 「ですから、主にあって堅く立ってください」と、パウロはピリピの教会の人々に(そして私たちに)勧めます。「ですから」というのは、その前にある「私たちの国籍は天にある」(3:20)のだからということです。ピリピ教会の中で「多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる」という実情がありました(3:18)。口では神を崇めるけど、実生活では自分の欲望を神とし、恥ずべきものを栄光(神)として、地上のことだけを考える者たちです(3:19)。私たちはキリストを信じて、目に見える地上のものを神とする空しい生き方から解放され、天に国籍を持つ生き方にチェンジされたのだから、「主にあって堅く立ってください」と、パウロは愛するピリピの人たちに呼びかけます。  

 コロナ禍において、感染者数や対応策に関する情報が日々入ってきますが、地上のことがすべてであるかのように情報に飲み込まれないようにしましょう。私たちの肉体は必ずいつか朽ちるもので、神はやがてキリストと同じ栄光に輝く姿に変えてくださいます(3:21)。その約束を信じて生きましょう。


<2~3節>

 ここでユウオディアとシンティケという2人の婦人名が出てきます。本人たちにとっては不名誉なことで名指しされています。2人の関係があまり良くなかったことが、ピリピの教会でも知られていたようです。この2人はパウロたちと共に福音のために戦った人たちでした。それだけに影響力もありました。

 パウロはまず2人に「主にあって同じ思いになってください」と勧めます。人間的な違い、考え方の違いはあっても、今共に仕える主は同じ方なのだから、主にあっては同じ思いになるようそれぞれ祈り求めるように願っています。そしてそのために、ピリピ教会の人たちに「真の協力者よ」と呼びかけて、彼女たちが主にあって一つになれるように助けてほしいとパウロは求めています。

 他の同労者も含め、彼女たちも「いのちの書に名が記されている」兄弟姉妹です。天に国籍を持つ者同士です。やがて御国において共に永遠に生きる関係が、地においてもなるように、皆で助けてほしいとパウロは願っています。人間的な部分では同じ思いになれなくても、「主にあって」一つ思いになることを願っています。「主にあって」は、共にいのちの書に名が記されている関係です。主にある生き方、天に国籍を持つ生き方が、地上の人間関係にも影響をもたらしていきます。


<4節>

 パウロはここで「いつも主にあって喜びなさい」と命じます。この手紙は、迫害下で投獄された中で書かれています。パウロがこの先どのような刑に処されるかもわからない状況にありながら、「喜びの書簡」と呼ばれるほどに、喜びと感謝が溢れています。どのような状況にあっても、「主にあって」は喜ぶことができるのです。主との生きた人格的交わりを持つことで、主が私たちに喜びを与えてくださいます。

 目に見えるものに心奪われそうなときに「堅く立つ」(1節)ことも、難しい人間関係の中で「同じ思いになる」ことも、「苦難の中において喜びを持つ」ことも、すべて「主にあって」です。この後も出てきますが、環境の良し悪しに左右されないパウロの生き方の秘訣がここにありました。


<5節>

 「主は近いのです」とは、

(1)主は私のすぐ近くにおられる。
(2)主キリストが再び来られる再臨の日が近い

 の二通りの意味が考えられます。主の助けなしには、すべての人に寛容でいることなどできない私たちです。私たちを罪の滅びから救うために十字架で死なれたキリストは、よみがえって今も生きておられ、私たちの近くにおられます。そしてやがて地上のあらゆる苦しみ嘆きから解放するために再びキリストはこの地に来られます。そのことを思う時に、また寛容な心も与えられていきます。


<6~7節>

 生きていれば、たえず心の中に思い煩いが生じます。パウロ自身も、外から受ける苦しみや、諸教会への心づかいがありました(Ⅱコリント11:23~28)。パウロの手紙を読むと、いかに諸教会の様々な問題に心を痛め、気を配っていたかがわかります。でもその心にあることをいつも祈り、神のもとにその重荷を降ろしていきました。すると「理解を越えた神の平安」が与えられました。その神の平安が、パウロの心を守ったのです。そして同じように私たちも、あらゆる思い煩いを神に祈って平安を得るように勧められています。今年の目標①にもあるように、神がどのようなお方かをみことばから日々受け取りながら、その神を信頼して祈りましょう。主が私たちの心と思いを守ってくださいます。


<8~9節>

 8節には、当時流行していた哲学用語が使われています。救いに関しては十字架の福音以外にありませんが、その福音に支えられつつも、社会で良いとされていることには心を留めていくようにパウロは命じています。直接キリストの救いにつながることではなくても、社会の役に立つこと、尊ぶべきことには目を留め、必要があれば協力し支援していくことは大切なことです。またそのことが、やがて救いにつながっていくこともあるのです。今与えられている仕事やボランティアなども、信仰とは関係ないからどうでもよいのではなく、それが社会の役に立つことであるなら、軽んじることなく目を留めて大切にしましょう。  

 しかし「あなたがたが私(パウロ)から学んだこと」から逸れてはいけません。つまり地上のことがすべてであるような生き方ではなく、どこまでも「私たちの国籍は天にあります」という生き方です。その点ではブレることなく、社会で徳とされることには目を留めてできる形で協力しましょう。与えられた責任は忠実に果たしましょう。

 コロナ禍において、社会全体が重苦しく不安に包まれる中で、自分自身も思い煩いが増えたり、ストレスを感じることがあるかもしれません。でもどのような苦しい環境にあっても、「主にあって」は乗り越えることができるというのが聖書の約束です。「主にあって」(主との生きた人格的な交わりによって)、いつも神は私たちに喜び、平安を与えてくださいます。神を信頼して祈ると、神の平安がきます。 今年のテーマのように、神は「すべての必要を満たす神」です。今年のみことばピリピ4:19を信じて、あらゆる必要のために祈りましょう。何か不足を感じて不安になった時にも、思い煩わないですぐに祈りましょう。本当に私たちに必要なものは神がすべて与えてくださいます。
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 1月3日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「すべての必要を満たす神」

           ピリピ人への手紙4:19   三浦真信牧師

 「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4:19)が、2021年のみことばとして与えられました。このみことばと今年の目標に関して今主から迫られていることをお分かちします。

(1)神がどのようなお方かを、みことばから日々受け取ろう。

 神に向かって、私たちのどのような思い煩いも祈ることができます(ピリピ4:6~7)。しかしただ漠然(ばくぜん)と祈るのではなく、神がどのようなお方かを知って祈ることが力となります。聖書には、「今私が祈っている神はこのようなお方だ」とわかるように、神のご性質が書かれています。みことばにある通りの神と信じて祈りましょう。

 サタンは、私たちが神に祈る時にも、神の言葉を打ち消すような火矢を心に投げかけてきます(エペソ6:16)。「どうせ祈っても無駄だよ、いくら祈っても聞かれないじゃないか…」と、みことばと反対のことを囁(ささや)いてきます。その火矢を消すために、神の言葉を信頼する「信仰の盾」を取りましょう。

 最初に造られた人が罪を犯し、人類に死が入ってきたのも、神の言葉よりもサタンの声を信じて従ったためでした(創世記3:1~6)。サタンは、いつも神の言葉と反対のことを囁いてきます。その囁きに対しては、イエス様が荒野の試みでされたように、みことばで退けましょう。サタンの声を退けるためにも、神がどのようなお方かを、みことばから日々受け取りましょう。

 神は、「キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」と今年のみことばにあります。キリストの十字架の贖(あがな)いこそ、神の栄光の現れです。罪人の救いが、キリストの十字架の死と復活によって成し遂げられ、罪と死の滅びに導くサタンに完全勝利したのです。神は、ひとり子イエス・キリストをさえ惜しむことなく死に渡され、私たちの救いを成就してくださいました。その方が、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないはずはないのです(ローマ8:32)。キリスト・イエスの栄光により、神はご自分の豊かさの中から、贖われた私たちに、必要なものはすべて与えてくださいます。このようにみことばで約束されているのですから、たとえサタンが心に火矢を投げてきても、このみことばによってサタンの声を退けましょう。経済的な必要、労力の必要、体力の必要…様々な必要のために祈りましょう。本当に必要なものは、すべて満たしてくださいます。


(2)神の約束を信じて必要が満たされるように祈ろう。

 サタンの声ではなく、「あなたがたの必要をすべて満たす」と言われる神のことばを真実としましょう。ただし私たちが必要と感じていることと、神が私たちに必要だとしておられることが違うこともあります。本当に必要なものはすべて満たされます。いくら祈っても満たされない時は、

①それが自分の欲から出ていて悪い動機で求めているからかもしれません(ヤコブ4:3)。

②私たちが必要と思っているよりもはるかに良いものを神が備えておられることもあります(イザヤ55:9)。

③私たちが神を信頼して祈り続けるように訓練しておられる期間であるかもしれません(へブル12:6~7)。

 神は、私たちを子として扱っておられます。「神の子として必要な訓練を神は与える」とみことばを通して私たちは知っているのです。なかなか必要が満たされなくても、必要なものはすべて神の時に与えられますので、訓練として(愛するわが子としてくださっていることを信じて)、祈って待ちましょう。神が私に必要とみなされるものは、すべて満たすことが主の約束ですから安心です。

(3)神が必要としておられることのために自分自身を主に献げよう。

 神ご自身が、私たちの必要をすべて満たしてくださるのに、なぜ私たちが神の必要のために自分自身を献げなければならないのでしょうか?それは、神のご計画が前進する働きに、私たちも参加して、神のみわざを見る喜びを与えるためです。神は人に頼らなくても、すべてを満たすことがおできになります。それでも、あえて足りない私たちを用いて、神の働きに参与させてくださるのです。その働きを通してでなければ味わうことができない喜び、恵みを経験させてくださるのです。

 そのために、神は神の子とされた一人ひとりに、賜物を与えておられます。それは必ずしも特別な能力や特技だけではありません。「今自分にできること」(マルコ14:3~8)こそ、賜物です。自分にできることですから、それをしたからと言って、何かすごいことをしたと働きを誇る思いは残らないのです(ルカ17:10)。その時その時に、神が必要としておられることのために自分ができることをしていきましょう。そのようにして、主の必要のために自分自身を献げていきましょう。

 教会に必要な賜物は、神が与えてくださいます。一人ひとりが、今自分にできることをしていけば、教会はキリストのからだ(キリストが主)ですから、主が一人ひとりの働きを用いてご自身の計画を前進させてくださいます。そして神のご計画に参与する真の喜びを、かつて空しさと暗やみの中にいた私たちに味わわせてくださるのです。自分自身を主に献げることは、恵みなのです。主に献身することは、私たちの喜びなのです。神が必要としておられることのために、喜んで自分自身を献げましょう。
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