(2020年9月)

 ・ 9月27日
 ・ 9月20日
 ・ 9月13日
 ・ 9月 6日
 







 9月27日
聖日礼拝メッセージ要約 

  主題:「たとえそうでなくても」  
ダニエル書3:1~30

    山口陽一師  東京基督教大学学長
    日本同盟基督教団市川福音キリスト教会協力牧師

 ダニエル書2章では、ダニエルが、ネブカドネツァル王の夢を解き明かし、ネブカドネツァル王に「あなたがたの神こそ、神々の中の神、王たちの主」と言わしめました。その結果、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、バビロン州の行政を司(つかさど)るようになり、ダニエルは宮廷で仕えることになりました。


<ネブカドネツァルの金の像>

 3章では、ネブカドネツァル王が高さ60キュビト(26.4m)、幅6キュビトの金の像を造り、これをバビロン州のドラの平野に建てたとあります。 「そして、ネブカドネツァル王は人を遣わして、太守、長官、総督、参議間、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官を召集し、ネブカドネツァル王が建てた像の奉献式に出席させることにした。」(2節) バビロンの王の支配を絶対的なものとして示す、国を挙げての金の像を拝む奉献式が行われました。「ひれ伏して、ネブカドネツァル王が建てた金の像を拝め。ひれ伏して拝まない者はだれでも、即刻、火の燃える炉に投げ込まれる。」(5、6節) 鳴り物に合わせて、彼らはひれ伏して金の像を拝み、忠誠を示しました。


<カルデア人の中傷、王の怒り>

 ところが、バビロン州の行政を司(つかさど)っているシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはそこにいませんでした。カルデア人は、この3人が王の神々に仕えず、金の像を拝まないことを、ネブカドネツァル王に訴えます。これを聞いたネブカドネツァル王は怒り狂い、3人を連れて来て、「ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよい。しかし、もし拝まないなら、お前たちは即刻、火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるだろうか。」(15節後半)と、恫喝(どうかつ)します。


<金の像を拝まない3人>

 3人は毅然(きぜん)として、王に答えます。「ネブカドネツァル王よ、このことについて、わたしたちはお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。」(16、17節) さらに、「しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」(18節)と続けました。

 内村鑑三の不敬事件 — 1891年1月9日、第一高等中学校の始業式での教育勅語奉読式において、内村鑑三が教育勅語に最敬礼をしなかったことを咎められ、言論界から袋叩きにあった事件です。内村鑑三のダニエル書3章の講解には、その経験が滲(し)み出ています。「現代のネブカドネザルの火は外より来たらずして内より来る。すなわち食料供給の断絶である。生活問題の圧迫である。その時、彼らクリスチャンに餓死の危険がある。(中略)しかしながら、それにもかかわらず、真正のクリスチャンは断じて偶像の前に頭を下ぐることができないのである。」

 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、若気の至りで、このような思い切った態度をとったのではありません。彼らは神ならぬものを神と並べ、神の前に罪を犯し続けて来た結果、バビロン捕囚という裁きを受けているのです。もう二度と神を否むようなことはしない。彼らの毅然(きぜん)とした態度は、そうした悔い改めの実なのでした。


<たといそうでなくても>

 日本が植民地の朝鮮で神社参拝を強制した頃のことです。ソウルのミッションスクールで音楽を教えていた安利淑は、市内のすべての学校の生徒・教職員が朝鮮神宮を参拝させられた時、一人だけ最敬礼をしませんでした。ダニエル書3章のこの箇所の「たといそうでなくても」を何度も頭の中で繰り返していたのです。安利淑の信仰の闘いが始まり、1939年には帝国議会の議場に、神社参拝反対の陳上書を投げ込み、日本の敗戦で解放されるまでの6年間、平壌の刑務所に投獄されました。彼女の手記『たといそうでなくとも』は、待晨堂(たいしんどう)から出版されています。

 ネブカドネツァル王は怒りに満ち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人を火の燃える炉に投げ込むように命じ、3人は、上着や下着やかぶり物の衣服を着たまま縛られ、火の燃える炉に投げ込まれました。


<炉の中に来て助けて下さる主>

 ネブカドネツァル王は、「火の中を縄を解かれて歩いている4人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない」(25節)と、驚きます。神は、遠くから手を伸ばして下さるのではなく、投げ込まれた炉の中に来て、共にいて助けて下さるのです。 ネブカドネツァル王は言います。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、このしもべたちを救い出された。王の命令に背いて、自分たちのからだを差し出しても神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこの者たちを。」(28節)

 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように、晴れやかに神に従いましょう。事情は違いますが、コロナ禍という困難の中で、あるいはそれぞれが抱える困難の只中にあっても、遠くから見ておられるのでなく、その困難の只中に来て下さって助けて下さるのが、十字架の主なのです。

 炉の中のような絶体絶命の困難のとき、そこに来て助けて下さる神に信頼しましょう。「たとえそうでなくとも」と信頼して従いましょう。それにより、私たちの主があがめられることをお祈りしましょう。                                          (要約まとめ:田内博)
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 9月20日
聖日礼拝メッセージ要約 -敬老の日礼拝- 
  主題:「主があなたを支える」

           詩篇55:16~23  三浦真信牧師

 歳を重ねていくことをどのように受け入れていくかは、生きていく上で誰もが直面する課題です。年齢と共に失うものが増えていくことで悲観的になる人もいれば、今まで身につけた経験を生かして社会貢献をしたり、趣味を楽しみながら第2の人生を謳歌(おうか)する人もいます。それでも生きている限りは悩みがあり、重たい出来事に直面する時があります。そのような時にも、神に祈り叫ぶことができることは幸せなことです。


<16~17節>

 ダビデは今苦しみの中で、一日中嘆(なげ)き、うめき、神に祈り叫んでいます。その祈りの根底には、「主は私の声を聞いてくださる」という確信がありました。苦しみの状況は変わらなくても、そのうめきを主なる神が聞いてくださっているという確信のもとで、安心してうめきを祈りにしています。

 ダビデは、親しい人から裏切られる経験をしています(13~14節)。王であるダビデの側近であり助言者でもあったアヒトフェルが、敵になってしまったことかもしれません(Ⅱサムエル15~17章)。その切なさ、孤独感、喪失感は、計り知れないものでしょう。


<18~21節>

 難しい人間関係があり、敵対する者が多い中でも、「(主は)平和のうちに(私を)贖(あがな)いだしてくださる」とダビデは信じています。神を恐れず自分の力に頼り、悔い改めない者たちを、神が打ち砕かれます。彼らは、心の中が戦いに満ちています。油より滑らかな言葉を使いながら、すでに剣を抜いた状態で牙(きば)を向けてきます。彼の敵となったかつての友の姿は、外面と内面が分裂していて、表面は穏やかな言葉を用いながら、その心は剣を抜いて戦闘態勢にありました。


<22節>

 ここからダビデの口調が変わります。一つの大きな苦難を突き抜けたダビデが、今度は人々を励ましています。

 「あなたの重荷」とは、思い煩い、心配事、課せられた試練や使命(働き)のことです。そして「ゆだねる」は「投げる」という意味があります。苦しみの中で、神に夕に朝に昼に祈り叫んだダビデは、その重荷を自分で握りしめていないで、神のもとに投げ出すように勧めています。なぜなら、「主があなたを支えてくださる」からです。神は、私たちが重荷によって倒れてしまわないように、共にその荷を背負い支えてくださいます。

 「主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない」

 ここの「正しい者」とは、行いが正しいという意味ではなく、神との関係が正しい者です。恵みの今を生きる私たちは、「キリスト・イエスにある」ことで、神と正しい関係にされています(ローマ8:1)。主は、キリスト・イエスにある者を、決して揺るがされるようにはなさいません。永遠に支えます。揺るぐことのない方が、主イエスにある者を守ってくださいます。キリストによって罪赦された者たちを、主が全責任をもって支えてくださいます。ですから自分の重荷を、安心して主にゆだねましょう。

 苦しみの中で、確かな主の支えを経験したダビデは、今度は民たちにその事実を証ししています。火のような試練を信仰にあって通り抜けた者たちは、今度は苦しんでいる者たちに寄り添い、確かな主の支えがあることを伝えることができるのです。また伝える使命があります。


<23節>

 どこまでも神を恐れず、人の血を流し、人を欺く者は、神がさばかれます。神により頼まず、自分の力・知恵を絶対として高ぶる者は、神が最終的にさばきます。だからへりくだり、悔い改めて神に拠(よ)り頼むように、ダビデは促しています。  他の人がどうであろうと、「私はあなたに拠り頼みます」と、ダビデは宣言します。


 生涯、私たちの重荷を担い、嘆きうめきを聞いてくださる主が共におられることは、安心であり幸いなことです。そして地上においてはうめきがあるからこそ、神が備えてくださっている復活のからだ、天の住まいを待ち望む復活信仰が与えられます(Ⅱコリント5:1~5)。地上の肉体はうめき続けています。そのうめきがあるからこそ、やがてこの肉体を脱ぎ捨て、神が用意しておられる御国を生きる復活のからだを待ち望むことができるのです。この復活のからだを受けられるように、神が私たちをキリストにより整えてくださったのです。地上のうめきは、御国の希望を強めるものでもあるのです。

 地上のうめきはやがて取り去られ、嘆きの日は終わり、主がご自身の民たちの涙をぬぐい取ってくださる永遠の住まいが用意されています。うめきさえも主が共にいて支えてくださる喜びに変え、御国の希望に変えてくださいます。その主と共に、永遠に生きましょう。                
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 9月13日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「キリスト・イエスにある者」

           ローマ人への手紙8:1~3  三浦真信牧師

<1節>

 この節は、原語では「決してありません(ウーデン)」で始まります。キリスト・イエスにある者が罪に定められることは、「決してない」ことを強調しています。

  「今や」は、キリストが十字架で罪の贖(あがな)いを成し遂げた「今」です。キリストは十字架上で息を引き取る時に、「完了した」と言われました(ヨハネ福音書19:30)。人類の救いのためのわざを成し遂げ、ここですべて完了したのです。このキリスト・イエスにある者は、今や決して罪に定められることはないのです。この「今」は、「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2)と言われる「今」です。十字架の贖いが完了した今、私たちは恵みの時、救いの日に生かされているのです。

 「キリスト・イエスにある者」とは、英語で「in Christ Jesus」です。あえて「キリスト・イエスを信じる者」ではなく、「キリスト・イエスにある(in)者」となっています。「信じる」というと、ふと疑いが出たり不信仰な思いになった時に、この約束も取り消されてしまうのではないかと不安を抱くかもしれません。私たちの信仰は、すぐに揺らいでしまう不安定なものです。でもどんなに自分自身が揺らいでいても、「キリスト・イエスにある者」は大丈夫です。

 嵐の中で恐れ叫ぶ弟子たちは、船で眠っておられるイエスを起こして助けを求めました。 不信仰な弟子たちの前で、イエスは嵐を黙らせしずめます(マタイ8:23~27)。イエスが乗っておられる船の中にいれば、恐怖でわめき叫んでも、不安で戸惑っても、大丈夫です。嵐はたえず起きますが、揺れ動くことのない神の子イエスがおられるから、その船は転覆することはありません。

 イエスと同船していることも安心ですが、ここの「キリスト・イエスにある者」は、「キリストご自身の中にいる」「キリストと一体です」という意味です。キリストと一つにされているのですから、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない」のです。


<2節>

 キリスト・イエスにある者が決して罪に定められない理由が、ここでも述べられています。それは、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したから」です。ここの「律法」の原語は、7章21節「原理」と同じ「ノモス」です。キリスト・イエスにあって今や、「いのちの御霊の原理」で私たちは生かされています。御霊は罪に死んでいた私たちにいのちを与え、生かす霊です。罪と死の原理から、いのちの御霊は私たちを解放したのです。

 「罪と死の原理(律法)」とは、罪の支配下にある性質のために、律法に対して無力であるという原理です。罪の影響により、神のみ心を行うことに関して、全く無力であるという原理です。その原理で生きる限り、永遠の死を待つしかないのです。いのちの御霊は、キリスト・イエスの十字架により、罪と罪の結果である死から解放されることがわかるようにしてくださいます。


<3節>

 「肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました」

 律法は、人を本来いのちに導くはずのものでした。しかし人は罪の奴隷であるために、 律法を完全に行うことができず、霊的な死をもたらしました。そのように罪の影響下で弱く、律法にできなくなったこと(人をいのちに導くこと)を、神がしてくださったのです。律法によってはかえって罪が示され、みじめな自分が浮き彫りになるばかりでした。でも神が主導権をとり、助け舟をだしてくださったのです。

 「ご自分の御子(キリスト)を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰」されたことによって、神はみじめな私たちを救ってくださったのです。キリストは、私たちと同じ肉体をとって世に来られました。(へブル2:14~15、17~18)。ただ一点違ったのは、「罪を犯さなかった」ことです(へブル4:15)。肉体は同じなので、人間としての感情も、感じる痛みも同じです。でも原罪を持たない点で、「罪深い肉と同じ形」ではなく、「罪深い肉と同じような形」と表現しています。

 イエスは、処女マリヤから生まれました。聖霊がマリヤを身ごもらせて、イエスは生まれたのです。ですから人間の原罪を引き継いでいません。罪のない方が、罪深い肉と同じような形で、罪を処罰されたのです。それが十字架の贖いです。


 神が、キリストの肉において罪を処罰されたのは、「罪のきよめのため」でした。旧約時代は、罪のきよめのために傷のない動物が、いけにえとしてささげられました(レビ4:3、16:3)。キリストは、罪のない(傷のない)犠牲の小羊として、民の罪のきよめのために、神に処罰されたのです。

 律法を行うことによっては、人の罪はきよめられませんでした。罪に汚れた人間がいくら努力しても、自力で罪をきよめることはできないのです。人間の罪によって律法にはできなかったことを、人となられたキリストの肉を罰することで、神はしてくださったのです。 ですから、「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。罪と死の原理によって、どれほどみじめな自分が露呈されても問題ありません。キリストにより罪から完全にきよめられたのですから、みじめな自分のままで神に感謝をささげましょう。キリストの十字架の贖いを思うだけで、神への感謝が湧き上がるように、いのちの御霊がしてくださいました。すべてがわからなくてもいいのです。キリストを通して、私たちは今大胆に神の御座にいくことができます。このままで神を礼拝することができます。神を礼拝する中で、御霊は自由に働き、私たちにしるしと不思議を行い、解放と喜びを与えてくださいます。ハレルヤ!


まとめ
①キリスト・イエスにある者が罪に定められることは、決して、決してありません。
②いのちの御霊の原理によって、私たちはこの死のからだから解放されました。良いことをしたいのにできない、みじめな自分でありながらも、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理によって、神に感謝を叫ぶことができます。
③神は、罪なきひとり子イエス・キリストを、罪深い肉と同じような形で遣わしてくださいました。そしてキリストが、私たちと同じ肉体で、代わりに罪の罰を受けてくださいました。それは私たちをきよめるためです。
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 9月6日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「みじめな人間を救い出す神」

           ローマ7:21~25  三浦真信牧師

<21節>

 「善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します」。  自分は善を行いたいと願っているのに、それとは反対に悪を行ってしまう自分がいることをパウロは知りました。悪をしたくないと思えば思うほど、悪を行ってしまうのです。善をしようとするところに、必ずこの悪が存在するという原理(ノモス)を、パウロは見出したのです。決してパウロが発見した原理は、喜ばしいものではありませんでした。でもその原理がわかったことで、福音のすばらしさがより深くわかったのです。ですから、この原理を見出すことができてよかったのです。


<22~23節>

 パウロは、「内なる人(キリストにあって新しく生まれ変わった人の心)としては、神の律法を喜んでいます」。神の律法を喜んで実行したいと望んでいました。パウロは、神のみこころを行うことを喜びとしていた人です。神を信じる者たちは、みなそれを望んでいます(詩篇40:8)。

 「私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法(原理)に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法(原理)のうちにとりこにしていることが分かるのです」。

 私という一人の人間の中で、二つの律法(原理)が戦っている状態です。「私の心の律法(原理)」は、神の律法を喜び、神のみこころで生きたいと願っています。しかしそれとは異なる「罪の律法(原理)」が戦いを挑み、私をとりこにしているのです。そのことがパウロにはよくわかりました。


<24節>

 神の律法を喜ぶ自分と、したくない悪を行う自分の戦いの中で、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」とパウロは叫びます。「死のからだ」とは、「罪の原理が働いているために死を免れることができないからだ」のことです。「罪の報酬は死です」(6:23)と言われたように、罪の値は死以外の何ものでもありません。

 私たちは、このからだを担って生きる限り、罪の原理が挑む戦いから逃れることができない「本当にみじめな人間」なのです。善を行いたいし、神のみこころを行いたいと心では思っていても、それを完璧に行うことができないのです。神の律法が聖なる良いものだとわかっているのに(12節)、それを実行しようとすればするほど、反対の悪を行ってしまうみじめな人間です。


<25節>

 前節の「だれが私を救い出してくれるのでしょうか」の切実な問いに対して、パウロは自ら答えます。その答えは、「私たちの主イエス・キリスト」にあります。「Jesus is the answer.」です。24節の悲痛な叫びに対する答えは、「私たちの主イエス・キリスト」にのみあります。

 「私たちの主イエス・キリストを通して」、これが重要な意味を持ちます。罪の原理が働く現実の中で、キリストによる神の恵みに目を移すときに、心から「神に感謝します」と叫ぶことができるのです。

 「こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」。
 ここの「律法」も原語は「ノモス(原理)」です。ですから「心では神の原理に仕えて生き、肉では罪の原理の働くこの世界で生きている」ということになります。それは決して矛盾していることではなく、クリスチャンはこのような緊張関係の中で生きているのです。神の原理で生きようと願って洗礼を受けました。でもこのからだは、罪の原理が支配するこの世界で生きているので、必ずしも心で願っている通りには生きられません。常にその緊張関係の中にいます。

 本来ならこの緊張関係の中で、みじめでどうしようもない私たちですが、「私たちの主イエス・キリストを通して」神に感謝が生じます。みじめな私に代わって、キリストはもっとみじめな十字架の道を歩まれました。神の子でありながら、だれよりもみじめになり切って、十字架で罪そのものとなって死なれたキリストがおられます。でもキリストはみじめなままでは終わりませんでした。十字架の死から三日目によみがえりました。私たちをみじめさのどん底に陥(おとしい)れる罪から救い出すために、キリストは十字架で死んで三日目によみがえられたのです。そして罪の報酬である死にも勝利されたのです。

 ですからキリストの内にあるなら私たちは、「本当にみじめな人間です」と知りつつも、「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します」と宣言できるのです。キリストなしにはみじめでしかない者であることを知るほど、キリストを通して無条件で救われることの感謝がいよいよ溢(あふれ)れてきます。そしてやがて主が復活のからだを与えてくださる時に、この緊張関係からも解放され、完全な者とされるのです(栄化)。

 特に災いと思えるような出来事が起きてきた時、また苦しみがなかなか解決しない時に、私たちはこの「みじめな人間」であることが原因ではないかと悩みます。「このような苦難が起きたのは、神の律法に十分従えず神のみ心を行わなかったからではないか」「この問題が解決しないのはあの罪のせいではないか、天罰ではないか」と自分を責めがちです。裏を返せば、「自分が罰を受ければ許されて苦難も解決する」とどこかで感じているのかもしれません。でも罪の罰は、もうすでにキリストが十字架で受けてくださいました。本来なら罪のために罰せられるべき私に代わって、キリストが人間の罪の刑罰を受けてくださったのです。そのキリストの贖(あがな)いを信じるだけでよいのです。キリストを受け入れるなら、私たちは刑罰を受けることはありません。

 「神は罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは私たちがこの方にあって神の義となるためです」(Ⅱコリント5:21)。キリストが、私たちのために罪そのものとなられて十 字架で死なれました。キリストにあって、私たちはもう「神の義」とされているのです。

 「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ43:25)。

 「たとえあなたがたの罪が緋(ひ)のように赤くても、雪のように白くなる」(イザヤ1:18)。

 神の律法を喜びながらも罪の原理が働く緊張関係の中で、すでにキリストが私たちの罪を贖ってくださったから安心して生きることができます。キリストを通して、神は私たちの罪を思い出さないほどにぬぐい去り、雪のように白くきよめてくださいます。私たちの主イエス・キリストを見上げるなら、もう自分で自分を責める必要はありません。「本当にみじめな私たちを、キリストを通して贖ってくださった神に感謝します!」と心から叫ぶことができるのです。

 キリストの赦しを受け取った者にとっては、災いのように見える出来事もみな、神のわざが現われるためにあるのです。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現われるためです」(ヨハネ福音書9:2~3)。キリストに贖われた者たちには、先祖の 罪も自分の過去の罪も、災いを及ぼしません。にもかかわらず苦難があるのは、「神のわざが現われるため」なのです。ですから自分で自分を罰する必要はもうありません。むしろ主イエスが言われたこの言葉を信じて待ち望みましょう。

 みじめな私も「キリストを通して」神にハレルヤ!今の苦難も「神のわざが現われる」というキリストの約束を信じ、先き取りしてハレルヤ!と神に感謝をささげましょう。
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