(2020年8月)

 ・ 8月30日
 ・ 8月23日
 ・ 8月16日
 ・ 8月 9日
 ・ 8月 2日
 







 8月30日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「思い煩いを祈りに変える」

           ピリピ人への手紙4:4~7  三浦真信牧師

<4節>

 このピリピ人への手紙を書いているパウロは、迫害のため捕らえられて牢獄にいます。大変な苦しみと恐怖の中にいながら、この手紙を書いています。それにもかかわらず、この手紙は「喜びの書簡」と呼ばれるほど、喜びが溢れています。暗やみの状況にあっても、パウロは繰り返し「喜びなさい、喜ぼう」と伝えています。それは「いつも主にあって」です。決して悩みがなくなるわけではありません。状況は変わらないとしても、「主にあって」喜ぶのです。

 今のコロナ禍は、全地を暗やみが覆(おお)うような出来事です。私たちの生活そのものに、また心身に重くのしかかってきます。その状況は変わらなくても、光である主を見上げる時に、喜び・希望が与えられるのです。

 パウロ自身も、彼の書いた書簡全体を読むと、様々なことに苦悩しながら、「主にあって」喜べることを体験していたことがわかります。決して歯を食いしばって無理して喜んでいたのでも、喜ぶふりをしていたのでもありません。自分の苦しみ、悩みも、パウロはそのまま赤裸々に告白しています。それでも「主にあって」喜びが与えられたから、それを人々にも命じているのです。


<5節>

 パウロは、神の寛容をだれよりも味わい知った人です(Ⅰテモテ1:13~16)。かつてはキリストを迫害し、クリスチャンたちに暴力をふるっていたパウロを、神は捕らえてくださいました。そして驚くべき救いの中に招いてくださったのです。神の一方的なあわれみです。私たちも、キリストの十字架の真の意味を知り、神の寛容と愛を知りました。その神の寛容を受けた者として、人々にも寛容な心を持つようにと命じます。

 なぜなら「主は近い」からです。「主は近い」とは、二つの意味があります。一つは、主がいつも私たちの近くにおられるという意味です。もう一つは、キリストが再びこの地に来られて、ご自身の民たちを地上の苦悩から完全に救い出される主の日が近いという意味です。


<6節>

 私たちの思い煩いを、すべて祈りに変えるようにとパウロは命じています。神は私たちの心をご存知です。自分でも何を悩んでいるかさえわからないような、心の奥に詰まっているモヤモヤしたものさえも、神はご存知です。ですから「神が知らないから教えてあげなさい」ということではありません。そうではなく、私たちが自分で握りしめている悩みを神に明け渡すことを、神は望んでおられるのです。自分でその悩みを背負って、自分の力で解決しようとするのではなく、その重荷を神のもとに投げ出してほしいのです。そこでこそ、神との深い人格的な交わりが持てるのです。私たちと本音トークを神はしたいのです。人間同士でも、互いに悩みを分かち合うと親密になることがあります。しかし信頼関係がないと、あとで話したことを後悔することもあります。神は私たちのどのような悩みに対しても、100%守秘義務を守ります。祈りを遮(さえぎ)ったり、反論したり、退けたりなさいません。

 また「感謝をもってささげる祈り」が、神への信頼を強固にしていきます。神への感謝と信頼なしには、「祈ったことが叶えられた、叶えられなかった」という結果に縛られる祈りになってしまいます。祈りの焦点が、神ではなく自分になってしまうのです。


<7節>

 「思い煩い」を祈りに変えていく時に、何が起きるのでしょうか?「すべての理解を越えた神の平安」が与えられます。その「神の平安」が、私たちの心を守ってくれるのです。「守る」の原語の意味は、「監視する」です。神の平安が、私たちの心を監視し、またその後のことも見守り続けてくださいます。

 悩む時に、解決のためにできることは何でもします。それでも解決しないことがあります。なかなか解決しないから、思い煩います。その悩みを自分で握りしめていると、悩みに支配されてしまいます。ですからその思い煩いを、一つひとつ祈りに変えていきましょう。


 喜ぶことは「いつも」(4節)であり、寛容な心を知らせるのは「すべての人」(5節)に対してであり、思い煩わないのは「何も」(6節)です。どれも制限なしにするように命じられています。それは朝から晩まで、一瞬たりとも失ってはいけないということではありません。「そんな不信仰ではいけない」とパウロは言っているのではないのです。むしろ、パウロも含め私たちは、すぐに喜びを失うし、寛容な心を失うし、思い煩ってしまうのです。現実の生活は、いつもハッピーではありません。様々なことで落ち込んだり悶々としてしまうのです。人とぶつかったり、思うようにいかないことに苛立ったり、先のことが不安になったりしてしまいます。パウロも、日々様々なことが重荷となっていたと告白しています(Ⅱコリント11:28)。自分では担いきれない重荷、抱え込んだら重たくて倒れてしまいそうな自分であることを認めて、全部神に祈り明け渡していきましょう。そうすれば、「すべての理解を越えた神の平安」が与えられるのです。つまり状況は何も変わらないのに、なぜだかわからないけど心はとても平安であるという、神の奇跡が起きるのです。

 神は私たちのきれいな、立派な、整えられた祈りを求めてはおられません。心の中にある、ぐちゃぐちゃなままを、祈っていいのです。そのままの心を注ぎだすことを求めておられるのです。

 「民よ。どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」(詩篇62:8)。神に信頼して、私たちの心を注ぎ出しましょう。神に心のままを安心して注ぎ出していく中で、神との深い絆が生まれていきます。
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 8月23日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「今、行け」

           出エジプト記3:1~15 hi-b.a.(高校生聖書伝道協会)中村克哉牧師

 モーセは、①イスラエルの民をエジプトから導き出した指導者であり、②預言者であり、③律法を神様から受け取った者であり、④創世記から申命記まで記した者でした。神様に用いられた、旧約聖書を代表する人物と言えるでしょう。特殊な生い立ち、素晴らしい賜物が与えられていました。しかし、神様からの「召し」に従ったからこそ、用いられたのです。モーセの召しを通して、私たちの召しを考えてみましょう。


<1.モーセの生い立ち>

 レビ人の両親アムラムとヨケベデの間に生まれました。当時、イスラエルはエジプトで奴隷でした。しかも、イスラエルが力をつけてきていることに脅威を感じたエジプトの王パロは生まれてくる男の子を殺せという恐ろしい命令を出していました。モーセはそんな中生まれてきました。殺されなければならない存在でした。両親は3ヶ月間かくまっていましたが、もうかくまいきれなくなり、ナイル川の葦の茂みに置きました。それをパロの娘が見つけ、育てることになりました。エジプトの王家の中で、最高の教育を受けました。知的にも体力的にも、指導者としても、最高のものでした。

 しかし、モーセが40歳の時、転機が訪れました。同胞であるイスラエル人を顧みる心が与えられ、イスラエル人を虐待しているエジプト人を殺してしまいました。エジプトにいられなくなり、ミデヤンに逃れ羊を飼う生活をします。祭司イテロの娘チッポラと結婚し、ふたりの男の子が与えられます。


<2.モーセの召し>

 神の山ホレブにやってきました。羊を用いて、神様が呼び寄せたのです。柴が燃えているのに、燃え尽きないという不思議な光景を見せました。そして、モーセに「イスラエルをエジプトから救い出し、乳と蜜の流れる地へ上らせる」と語り、「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。」と命令を与えます(出エジプト3:7〜10)。モーセはこのことばを聞いて、どのように反応したでしょうか。


 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」(3:11)。モーセは、「はい、行きます」とは答えませんでした。なぜでしょうか。エジプトにいるイスラエル人を思う気持ちはあったでしょう。しかし、エジプトを離れて40年経っていました。「どうして、40年前にさせてくれなかったのですか。どうして今なのですか。」と思ったことでしょう。しかも彼は殺人という罪を犯していました。パロの心がどれだけ頑(かたく)なか、難しいことかということをよく知っていました。だから「はい」とは言えなかったのでしょう。しかし神様は素晴らしい約束を与えられます。

 「わたしはあなたとともにいる」「わたしがあなたを遣わすのだ」(12節)。神様はモーセにわたしが遣わす、わたしの力で行いなさいと言われます。モーセは神に申し上げた「今、私はイスラエル人のところに行きます」(13節)。  

 モーセはこのように告白し、召しに応えます。しかし、まだ不安でした。まずはイスラエル人が私を迎え入れてくれるか、ついて来てくれるかが。神様はモーセに答えます。「わたしは『わたしはある』という者である」と(14節)。これは存在の根源ということを表しています。神様は自ら存在される方です。私たち人間は様々な条件が整わなければ存在できません。空気が、食べ物が、着る物が、住む場所が必要です。また愛がなければ生きていけないでしょう。でも神様はいつまでも変わらず存在されるのです。


<3.私たちの召し>

 神様は私たちにも「今、行け」(10節)と言ってくださいます。「今」です。もうすぐとか、あと何年かしたら、ではありません。今、彼らが叫んでいるからです(2:23〜25)。私たちの周りにも救われていない魂がいるはずです。   「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Ⅱペテロ3:9)

 神様はあなたを遣わされます。私たちは弱くても、です。パウロも「私の力は弱さのうちに完全に現れる」(Ⅱコリント12:9)と言っています。弱さがむしろ、よいのです。神様に頼る時に用いられるのです。一度、行きますと言ったモーセも、「印(しるし)をください」と言います。神様は不思議なことを見せ、モーセを励まします。

 神様のことばに従いましょう。神様は私たちの経験を越え、考えを越えて素晴らしいみわざを成してくださいます。奇跡をなさいます。「五千人の給食」の奇跡もそうです。少年のささげた小さなお弁当が用いられました。イエス様の手に渡った時に、奇跡が起きたのです。何の変哲もないお弁当です。でもそれを少年はささげたのです。

 イエス様の弟子たちは福音書では最後までだれが一番偉いかと議論していました。イエス様が捕らえられる時にはみんな逃げてしまいました。でもその弟子たちが使徒の働きになると別人のように変えられています。迫害を恐れず、いのちを掛けて福音を伝える者になっています。何があったのでしょうか。イエス様の十字架の死と復活です。死んでしまったイエス様がよみがえり、自分たちの目の前で生きている姿を見、宣教の命令を与えられます。そして昇天し、聖霊が与えられます。彼らは変えられるのです。絶望から希望へと、福音を伝えることに、主のために生きることにいのちを掛ける者へと変えられるのです。

 今日、神様はあなたを召してくださいます。「今、行け」と。今日、あなたにできることは何ですか。何をおささげしますか。
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 8月16日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「主のキリストを見るまでは」

           ルカの福音書2:25~38 松島 修 兄

 本日の聖書箇所には、2人の敬虔な信仰者、シメオンとアンナが登場します。私は、特にシメオンが、待ち望んでいた幼子イエス様を腕に抱き、神様をほめたたえたことばに心を打たれました。イエス様はベツレヘムで生まれ、8日目に割礼を受けた後、神殿において幼子を神様に捧げる献児式ときよめがなされました。その宮にシメオンとアンナがいました。25節:シメオンはユダヤ人で信仰の篤い人でした。シメオンという名には、「彼は聞く」という意味があります。その名が表す通り、神様の言葉に対して従順に聞き従う敬虔な人でした。また、シメオンは、聖霊を受けていて、聖霊に導かれる人でした。26節:主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていました。そして、シメオンは宮に入り、幼子イエスと出会い、神をほめたたえました。29節~32節までは、29節の「主よ、今こそあなたは」の最初のラテン語の2文字を取って、(ヌンク・ディミティス)シメオンの賛歌と呼ばれています。ルカの福音書には、他にも有名な賛歌が2つあります。1:46~56節:マリアの賛歌(マグニフィカト)とバプテスマのヨハネの父ゼカリヤの賛歌(ベネディクトス)です。29節:老人シメオンは、待ち望んだ救い主イエスと出会い、この万民に備えられた救いを見たからこれで安心して死ぬことができる、いつ死んでも悔いはない、主が安らかに去らせてくださると確信していました。  

 Ⅰペテロ1:8~9節:私たちは、シメオンのようにイエス様と直接お会いしていませんが、信じることで、信仰の結果としてたましいの救いを得ています。このみどり子イエス様と出会うために今まで生きてきたシメオンは、なんと嬉しかったことでしょう。  「人生は出会いで決まる。」ということばがあります。私たちは人生の中で様々な人と出会います。生まれたときには、家族と出会い、大きくなって友人や恩師と出会い、そして、良きパートナーと出会い、自分の子どもと出会うこともあるでしょう。どの出会いもどれも大切ですが、人間にとって最大、最高の出会いは、生けるまことの神様との出会いです。「人生は、イエス・キリストに出会うことで決まる。」といえると思います。この方と出会わなかったら死んでも死にきれない。シメオンは、まことの神イエス・キリストと出会い、これで安らかに去ることができると確信しました。  

 生まれながらの人間は、神様との間に罪という深い溝があり、神様と断絶状態にあります。神様を見失ってる状態です。心にぽっかりと空洞があり、なにをしても満たされません。アウグスティヌスの「告白」の中に有名なことばがあります。「あなたがわれわれをあなたに向けて創られたからです。そのためわれわれの心は、あなたのうちに憩うまでは、安らぎを得ません。」神様との失われた関係を回復するためにイエス様が来てくださいました。ルカ19:10節:私たちは、神様に出会うまで魂に安らぎがありません。この心の空洞は、イエス・キリストの出会いなくして満たされません。  

 また、まことの神と出会うことで、人は生きる目的がはっきりします。神様はそれぞれに賜物を与え、与えられた賜物(タラント)を活用し、神様の栄光を現わす生き方を願っています。ヨハネ15:15節:また、イエス様は、もう私たちをしもべとは呼ばず、友と呼んで下さる近しい存在、ベスト・フレンドとなってくださいました。この世の中の友はいつか別れなければなりません。人間はいつか死を迎えます。出会いと別れはワンセットです。しかし、この友なるイエス様との出会いに別れはありません。イエス様は終生私たちの同伴者として、いつも共にいてくださるインマヌエルなる神様です。私たちが神様と別れても、神様は私たちを見捨てることができない。この素晴らしい神様と出会わずして、死んでしまったらなんと空しい事でしょう。主のキリストを見るまでは、このイエス・キリストと出会うまでは、人間は死ねません。死んではいけません。この神様からの最大のプレゼントであるイエス様の救いをいただいた私たちは、今たとえ死んだとしても、永遠のいのちが与えられています。イエス様と共に生きることができるから、シメオンのように、安らかに去ることができます。私たちは、イエス・キリストに出会っていない人々に、この福音を伝える使命があります。    


 36節から女預言者アンナの姿が書かれています。37節:アンナは、断食と祈りをして、宮から離れず、夜も昼も神に仕えていました。私はこの聖書箇所を読むたびに、私の祖母の姿を思い出します。私の祖母は、毎週の礼拝や祈祷会を休まず通いました。そして、私が中学1年のときに久遠教会に導いてくれました。祖母はとりなしの祈りの賜物があり、毎日日記をつけ、家族やひとりひとりの兄弟姉妹の祈りの課題を書き、熱心に祈る人でした。祖母は、無きに等しい者を神様が、選んで救って下さったことを心から主に感謝していました。Ⅰコリント1:28節:祖母には、様々な苦難がありましたが、教会から離れず、みことばを信じて祈り続け、祈ることで教会に、また兄弟姉妹に仕えました。私は、祖母の優しい笑顔と眉間にしわを寄せ、必死になって祈る姿が今も目に焼き付いています。そして、祖母の念願であった家族の救いが実現しました(使徒の働き16:31節)。    


 教会はコロナの影響で、大勢で集まることが出来なくなりインターネット礼拝になりました。インターネット礼拝の恵みは、みことばに集中できるようになったこと、また、兄弟姉妹に会えないから、逆に、慕わしく思え、親身になって祈れるようになりました。人との関係は、ソーシャル・ディスタンスが求められますが、神様との距離は、密室の祈りを通して、親密になっていきたいものです。詩篇46:10節:今、私たちに必要なことは、静まって、一切の働きをやめて、神様を知ること、求めることです。また、Ⅰテサロニケ5:16~18節:神様は、私たちが、喜びと感謝と祈りの生活をすることを願っています。  

 ヨハネ1:5節:コロナという先の見えない闇の中に、もう神様の光は輝いています。私たちは状況にとらわれ、状況に向かうのではなく、どんな逆境の中でも働く主の御業に期待しましょう。そして私たちが救い主イエス様に出会い、救われたことをシメオンのように主を賛美し、アンナのように、祈りをもって主に仕えましょう。そして、シメオンのように安らかな生涯を送るには、イエス・キリストとの出会いが必要であることを、イエス・キリストの救いを知らない人々に伝えていきましょう。
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 8月9日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「良いことを実行できない原因」

           ローマ7:15~20  三浦真信牧師

<15~16節>

 14節から、現在形で書かれています。そしてこの節から、「私」が主語になっています。キリストの救いを受け、伝道者となり、この手紙を書いている現在のパウロ自身の告白です。しかしこのパウロの告白は特別なことではなく、キリストと一つになった者はだれでも経験することです。  

 「私には、自分のしていることが分かりません」というパウロの葛藤は、「自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っている」ことから起きています。そしてそれは、「律法に同意し、それを良いものと認めている」ことなのです。律法に同意し、律法を良いものと認めているから、律法に反することをしたり思いを持つ時に、「自分が憎んでいることを行っている」と悩みます。  

 パウロはイエスに出会い、イエスが言われた心の中の罪についても知りました。表面的に罪を犯さなければ良いのではなく、心の中の殺人、心の中の姦淫について、イエスは言及しておられます(マタイ5:21~28)。その律法に対して、同意して良いものと認めているのに、その通りにできない自分を見出し、「自分のしていることが分かりません」と言わざるを得ないのです。


<17節>

 自分が憎んでいるのに、律法に反する憎むことを行っているのは、「もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪」だとパウロは気づきました。「住んでいる」の原語のニュアンスは、「内に入り込んで占領し、その力を存分に発揮するようになっている」です。罪が自分の内側に侵入して、自分の内側で暴れまわっているのです。内に住む「罪」が、自分の憎む悪を行わせているのです。そのため律法を良いものと認めながらも、実行できずにいるのです。


<18節>

 パウロは、罪に占領されている自分の現実を、「私は、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています」と、悲痛な言葉で告白しています。現実の自分の内に、「善が住んでいない」ことを「知っています」と言っています。「何となく善が住んでいない気がする」というのではありません。善が住んでいない事実を「知っている」と、言い切っています。キリストを信じたら、善の塊(かたまり)のようになるのではありません。いよいよ罪人であることを知るばかりです。生涯罪人でありながら、ただキリストの恵みによって赦され続けているに過ぎないことを知るので、自分には幻滅しながらも神への感謝の賛美が湧き上がってくるのです。今この手紙を書いている伝道者パウロも、「自分のうちに善が住んでいない」と生涯告白して、キリストに望みを置き続けたのです。  

 「私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できない」ことを、クリスチャンは知っているのです。だから十字架のキリストをいよいよ求めるのです。


<19~20節>

 19節の言葉は、15節よりも強い表現になっています。「ついついしたくない憎むことをしてしまうので、継続して良い行いができない」という15節の響きから、ここでは「したいと願う善は一度も行えないで、したくない悪をずっと続けて行っている」という表現になっています。だから善は自分の内には住んでいない。善というものが宿っているなら、もっと良いことを実行できるはずなのです。  

 パウロ自身は、神の律法を誰よりも忠実に守ってきました。そのことにおいては、誰からも非難されることがないと告白しています(ピリピ3:5~6)。またそうであるからこそ、初代教会でも信頼されていました。そういう意味では、決して悪党ではなく、行いにおいても優等生でした。そのパウロが、「自分のうちには善が住んでいない」「私のうちに罪が住んでいる」と言うのです。  


 特に7節では、「隣人のものを欲してはならない(貪ってはならない)」という律法(出エジプト20:17)があることで、自分の中にある欲望を知り、罪を知ったと言っています。今自分に与えられているものを感謝できず、もっと欲しいと思うどん欲から、敵意・ねたみ・盗み、殺人…へと発展していきます。人によって、自分の罪を感じる場所は違います。パウロの場合は、「隣人のものを欲してはならない」という戒めに対して、そうできない弱さを感じていたのでしょう。神の基準である律法があることで、私たちは自分がいかに神から外れているかを知ります。表面的なことなら取り繕うことができますが、人の心の中をご存知の神の前では、ごまかせません。律法は、一つ行えなければアウトです。一つ自分の手に負えない罪があれば、それは「善が住んでいない」のと同じなのです。したくない悪を行う私の中に、「善」ではなく、「罪」が住んでいるのです。  


 その現実を認めながら、キリストの十字架の血による贖いを日々受け取るのがクリスチャンです。したくない、憎むべき悪を行ってしまう(心に抱いてしまう)、この今の私のために、キリストは十字架で死なれたのです。私の過去の罪、現在の罪、これから犯すであろう罪の刑罰を、罪なきキリストが代わりに十字架で受けてくださいました。「罪の負債を返せ」と責めたてられても、もう返済しきれないのです。その罪の借用証書は、十字架に釘づけにされて無効になりました(コロサイ2:13b~14)。神はキリストにより、負いきれない私の罪の返済を肩代わりして、すべての背きの罪を赦してくださったのです。したくない悪を行ってしまう自分の実態、心の中で犯してしまう罪がありながらも、そこで十字架のキリストに日々出会えるので、赦しを受け取ることができます。キリストにあって、恵みから恵みへと進んでいくことができるのです。だから十字架のキリストが慕わしいのです。  


 キリストの十字架の贖いにより、罪がありながらも赦され続けています。きよい神との和解が与えられています。神が共にいて、私たちの人生の重荷を担ってくださいます。ですから、道に迷ったり、不安になったりしながらも、また安心して神のもとに荷を降ろしましょう。
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 8月2日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「罪深い者を救う方」

           ローマ7:13~14  三浦真信牧師

<13節>

 前節で「律法は聖なるものです」とパウロは言っています。「聖なる」の原語「ハギオス」の本来の意味は、「他のものから区別されている」です。罪や悪とは全く別なもの、無関係なものです。そのような聖なるもの、正しく良いものが、「私に死をもたらしたのでしょうか」という問いに対し、パウロは「決してそんなことはありません」と否定します。  

 「むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもの(律法)で私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました」。

 律法が悪いのではありません。聖なる良いものである律法を通して、罪が明らかにされたのです。罪が律法という良いものを巧みに利用して本性を現し、霊的死を私たちにもたらしたのです。

「罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました」。  

 罪は、律法という戒めによって、限りなく罪深いと感じるほどに人間に罪の意識を与え、霊的な死をもたらしたのです。


<14節>

「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています」。  

 律法の本質は、「霊的なもの」です。人間が造りだした宗教や道徳ではなく、神が人に与えたものです。神ご自身の性質、基準が示されているものです。  

 「しかし、私は肉的な者」であるとパウロは言っています。つまり霊的な律法とは反対に、今なお罪の残骸を持つ者だということです。これは過去の事としてではなく、現在形で書かれています。  

「売り渡されて罪の下にある者です」  

 キリストを信じた今も、罪の奴隷となりやすい性質を持っているのです。ですからたえず、古い主人である罪から解放されて、新しいキリストという主人の下にあることをしっかり宣言していきましょう。  

 「霊的」なものである律法を通して、私たちは今なお罪の残骸(ざんがい)を持つ「肉的」な者であることを知らされます。律法を通して、自分のどうしようもない様が明らかにされ、いよいよ罪深い者だと知らされていきます。キリストは、その罪深い者を救ってくださいます。  

 罪なき神の子キリストは、私たちのすべての罪を代わりに負って、十字架で死なれました。本来私たちが受けるべき罪の刑罰を、罪なきキリストが十字架上で受けてくださったのです。このキリストを信じるなら、すべての罪がきよめられます。罪の残骸(ざんがい)があることも、律法によって罪が明らかにされることも、キリストの十字架の恵みを知ることにつながっていきます。そしてキリストの内にあるなら、自分の罪深さを知りながらも、もう罪の結果である死を恐れなくて良いのです。その証拠に、キリストは十字架の死から三日目によみがえられました。死の素(もと)となっている罪に、キリストは完全勝利を収めたのです。キリストを信じる者は、肉体の死は皆通りますが、死後に復活のからだが与えられます。そのからだで、神と共に、涙も死も悲しみも苦しみもない、神が備えた新天新地を永遠に生きるのです(ヨハネ黙示録21:1~7)。  

 地上の肉体を持つ限り、私たちはどこまでも肉的な存在です。見えるものに心がとらわれたり、情が働いたり、古い肉がうずきます。その実態を認めつつも、そこから主に向かっていく時に、十字架のキリストの愛が迫ってきます。心のとらわれから、たえず主に向きを変えていきましょう。みことばを真実としていきましょう。信仰の先輩たちは、その訓練をたえず受けながら、いよいよ主だけにされていきました。
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