(2020年7月)

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 7月26日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「人間の知恵の限界」

           伝道者の書1:12~18  三浦真信牧師

<12節>

 伝道者の書の著者はイスラエルの王でした。あえて名前を伏せていますが、ダビデの子ソロモンであろうと言われています(そうではないという説もあります)。確かなことは、著者は王として富、名声、知識を得て、多くの事を経験してきた人生の晩年を今歩んでいるということです。


<13節>

 「天の下」は「日の下」(14節)と同じ「地上」の意味です。伝道者は、地上で行われる一切のことについて知恵を用いて尋ね、探り出そうとしました。しかしその努力も辛い作業に過ぎず、徒労に終わります。知恵と知識を得て人生を見れば見るほど、空しいものでしかありませんでした。


<14節>

 伝道者は、王として国で行われる様々な出来事を見聞きし、人々の生活苦を知り、諸外国との関わりも多くありました。その中で、あらゆる知恵と知識を駆使して、地上で行われる一切のことを解明しようとしましたが、「すべては空しく(へベル)、風を追うようなもの」でした。  

 「風を追うようなもの」という表現は、この書で9回使われています。「風のように、いくら追いかけてもつかむことができない」という意味です。人間の知恵や知識では、人が生きる目的も、地上で起きる様々な事象も、何の意味があるのかわからず、残るのは空しさだけです。今新型コロナウイルスの感染拡大により、私たちの生活の多くが制限されています。どうしてこのようなことが起きるのか、またこれからどのように生きて行けばよいのか、そしていずれどのように自分は死んでいけばよいのか、その先に何があるのか…、人間の知恵では答えが出ず、風を追うような徒労でしかありません。


<15節>

 同じような表現が、7章13節にも出てきます。恐らく当時の格言のようなものでしょう。もともと神が曲げて造られたものを、人間の知恵でまっすぐにすることはできません。最初から欠けているもの、存在しないものを、あるものとして数に数えることはできません。いくら知恵を探求しても、無から有を起こすことはできません。できるのは神だけです。もともと曲げられて造られたものを、まっすぐに新しく造りかえることができるのは、神だけです。人間の知恵、知識の限界を知り、「自分は知るべきことのわずかも知らないのだ」と気づくなら、まだ少しは知るべきことを知っていると言えるのです(Ⅰコリント8:1~2)。


<16節>

 著者がソロモンであるとしたら、彼は神から民を治めるための知恵を与えられていました。シェバの女王がその知恵と繁栄を見て感動し(Ⅰ列王記10:7~8)、ソロモンの知恵はどの王よりもまさっていて、その知恵を聞こうとして世界中の人が彼に謁見(えっけん)を求めたほどです(Ⅰ列王記10:23~24)。そのような人が、知恵を用いて必死で探求したけれど、地上のすべてのわざは空しく風を追うようなものでした。


<17節>

 伝道者は、知恵と知識で解決しなかったので、今度は「狂気と愚かさ」を知ろうとしました。これは恐らく2章にある「快楽」のことでしょう。知恵と知識を追い求めても空しく風を追うようなものだったので、今度はとことん快楽を追求しようとしました。そしてそれも「風を追うようなもの」であることを知りました。「知恵と知識」も「狂気と愚かさ」も、どちらを追及しても、「空の空」(2節)であることに変わりありませんでした。


<18節>

 伝道者が知恵を追及する中で、人生の問題や矛盾が一層よくわかるようになり、悩み、苛立ち、悲しみがいよいよ増すばかりでした。決して地上の知恵が、人生の課題、空しさに答えを与えてはくれなかったのです。

恐らくソロモンであろう伝道者は、とことんやるだけやって、空しさを知りました。しかし人間の知恵の限界を知って、神の知恵、神の知識の深さをいよいよ知ることになったのです。この伝道者の書を読み進めていく中で、そのことが明らかになっていきます。

 新約聖書で登場する伝道者パウロも、「ああ、神の知恵と知識の富はなんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう」(ローマ11:33)と言っています。神を知ることで人生の問題が解決していくことを、人間の知恵の限界を知ったソロモンも、エリートコースを歩んできたパウロも知ったのです。

 「主を恐れることは知識の初めです」(箴言1:7)とあります。天地宇宙を造られた神の存在を認め、この方をいい意味で恐れて生きることこそ、知識の初めです。その時に、空しさ(へベル)以外のものが見えてきます。

 神の知恵と知識の宝はすべて、神が遣わしたイエス・キリストの内に隠されています(コロサイ2:3)。真理はイエスにあります(エペソ4:21)。へりくだってキリストに聞くなら、人間の知恵では解決しなかったあらゆる課題に光が当てられていきます。キリストは言われました、「あなたがたもわたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」(マタイ11:29)。キリストから学ぶなら、空しさだけで終わることはありません。これまで風を追うようで手ごたえのなかった問いに、気づきが与えられて安らぎが与えられます。

 そしてキリストを通して神の知恵を知った時に、これまで学んできたことや身につけてきた知識、経験も神のために用いられていきます。ですから学んだことも、経験してきたことも、それがたとえ負の経験であったり徒労のように思えたとしても、すべてが神にあってつながってきます。風を追うような探求から、空しさを知って神に出会い、神の知恵を知ることができるなら、決してこれまで探求してきたことも無駄にはなりません。人間の知恵の限界を認めて、神の知恵を求めましょう。終わりの時代、世界は人間の知恵では太刀打ちできない問題に次々遭遇します。天地を造られ、今もご自身の計画を導いておられる神の声を聞きましょう。
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 7月19日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「自分の実体が分かる清々しさ」

           ローマ7:7~12  三浦真信牧師

<7節>

 パウロは、前節までで「律法に死んだ」という表現を使ってきたので、「それでは律法は罪なのでしょうか、決してそんなことはありません」と、律法が悪いものでは決してないことを断言します。

「律法が『隣人のものを欲してはならない』と言われなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。」

 この『隣人のものを欲しがってはならない』(別訳『むさぼってはならない』)は、十戒の中にあります(出エジプト20:17)。これは他人のものを欲しがらずに、今自分に与えられているもので満足しなさいという命令です。他の人の持ち物や才能などが目に入らなければ、与えられているもので満足していたのに、見えた途端に欲しくなったり、妬ましくなったりします。「隣の芝生は青く見える」という諺にもある通り、人のものは良く見えるものです。この「隣人のものを欲しがる」というどん欲が高じると、盗みや殺人にまで発展することがあります。

 隣人のものを欲しがるという欲望について律法で指摘されなければ、それを罪とも何とも思わなかったでしょう。このような欲が自分の内側にあることが、律法で命じられることで強く意識するようになります。


<8節>

「罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました」

 「戒め」とは、具体的な律法の命令規定のことです。「機会をとらえ」は、原語では「拠点を確保する」という軍事用語が使われています。罪は、律法の命令規定を通して私のうちに攻撃をしかけてきて軍事拠点を確保し、私の内に収拾できないほどの欲望を引き起こしたのです。罪は律法を通して、私を攻撃する拠点を確保したのです。隣人のものを欲しがるという欲望が、どん欲な実体が、律法を通して露わにされたのです。

 律法がなければ、そのような欲望が自分の内にあることに気づかず、「罪は死んだもの」だったのです。律法によって心の中で暴れまわることなく、大人しくしていたので、気づかずにいたのです。しかし気づかないままでいたら、大変なことになるところでした。


<9~10節>

「私はかつて律法なしに生きていました」

 パウロは幼い時から律法教育を受けていました。ですから、律法について全く知らずにいたことはありません。ここは、律法について聞いていたけれど、それによって良心の痛みを感じることなく生きていたということです。律法を学んではいたけれど、罪の自覚がないまま過ごしていた時があったのです。

「戒めが来たとき」

 これは、戒めが戒めとして理解されるようになった時のことです。律法によって、自分の内側にある欲望が暴れまわっている事実に気づき、罪の意識が生じた時です。それによって、「罪は生き、私は死にました」。

 律法を行おうとすればするほど、できない自分の実体を知ります。むしろ心の中には、欲望、自己中心、傲慢などが住んでいて、私に罪を示し攻撃してきます。律法によって、もともとあった罪が生き生きと示され、霊的に死んだのです。


<11節>

 また罪は、死をもたらすものではないかのように、私たちを欺きます。エデンの園で、「神が人に命じた唯一の戒めを破っても構わない」と蛇が言って人を欺いたのと同じです。罪は人を欺き惑わし、死に追いやります。


<12節>

「律法は聖なるもの、また戒めも聖なるものであり、正しく良いものです」

 律法が罪なのではありません。問題は、私の内に働く罪なのです。律法によって罪の意識が生じたとしても、また律法が罪に利用されたとしても、律法そのものは聖なるもの、正しく良いものです。律法が悪いのではなく、律法によって明らかにされる、もともと私たち人間の中にある罪が問題なのです。


 パウロは、律法によって自分の罪を知りました。隣人のものを欲しがってはならない、貪(むさぼ)ってはならないと命じられた時に、そうできないどん欲が自分の心に煮えたぎっている姿に愕然としました。そして律法によっては平安を得ることができない、むしろいよいよ幻滅するしかなく、「死に導くものであると分かった」(10節)のです。

 10節の「分かりました」の原語は、「はっきり示されました」という意味で、はっきりしたことに清々しさを感じている面があります。体調が優れなかったり、痛みを感じる部分がある時に、検査をしても原因がわからずモヤモヤすることがあります。「異常がありません」と言われるよりも、かえって不調の原因が分かると次の治療にも進めるので、スッキリすることがあります。同じように、パウロは「いのちに導くはずの戒め」をしっかり行っているのに、心の中は満たされず、どっかりと思い何かがあることを感じていました。それは律法を通して自分の罪が明らかにされ、一度罪に対して死ぬためであったことが、キリストに出会ってわかったのです。律法が死に導くものであり、それはキリストに結ばれて最終的にいのちを得るためだったとわかって清々しい思いになったのです。

「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは私たちが信仰によって義と認められるためです。しかし、信仰が現われたので、私たちはもはや養育係の下にはいません」(ガラテヤ3:24~25)。

 律法によって、罪が私たちの心に拠点をつくって攻撃してきました。その攻撃を受けるだけでは死ぬしかありませんでした。でもその攻撃を避けてキリストのもとにいった結果、キリストと結ばれていのちを得たのです。生かされたのです。律法は、私たちをキリストに導くための養育係となったのです。律法が本体ではなく、本体であるキリストに導くための戒めだったのです。キリストに結ばれることで、人は神に義と認められ、罪の死から救われます。キリストの内にいるかどうか、キリストという服を着ているかどうかだけが今は問われるのです。もう完璧な行いを要求する律法の下にはいません。養育係であった律法は、「もう私の役目は終わったから、キリストにバトンタッチします」と言って、キリストにバトンを渡したのです。  


 では、今はもう律法はいらないのでしょうか?そうではありません。いよいよ律法が必要です。でもキリストに結ばれた者にとって律法は、死の恐怖を与えるものではなく、自分の内にある罪の残骸を知り、清々しく罪を認め、キリストの恵みを知らせるものなのです。またキリストの恵みを知れば知るほど、感謝と喜びが溢れますから、神のために実を結ばせてほしい(7:4)と願うようになります。その時に、神の基準である律法があることで、求める方向がわかります。具体的な罪を示されたら、それを生かしていくことが苦しくなります。御霊に処分していただくように祈り求めます。自分の実体を認め、主に告白していく時に、時間はかかっても、主がそこからまた解放してくださいます。ですから律法を通して、自分の実体を知り、心の中にあるものを知ることは恵みなのです。キリストがおられなかったら、自分の心の中などおぞましくて直視できません。でもキリストと結ばれているなら、安心して自分の実体を認め、そこでキリストの赦し、恵みを受け取ることができます。


 律法を通して、自分の真実の姿を示されたら、蓋をしないで認めましょう。そして主に告白しましょう。神は他人行儀なよそよそしい態度ではなく、私たちの真実な心をささげてほしいと願っておられます。人であるなら、あまりにも汚いものを見せられたら嫌がられてしまうかもしれません。でも神は大丈夫です。神の御前に偽善は通用しません。立派に装ってもすべてお見通しです。「いつになったらあなたの本当の心をささげてくれるのか」と主は待っておられます。神の愛に触れる場所は、きれいで立派な場所ではありません。自分では処理しきれない汚いものを抱えていて、途方に暮れている場所に、キリストは厳然と立ってくださいます。私たちの実体をそのまま知って受けとめてくださる神の愛を知った時に、初めて安心して神に自分自身を明け渡すことができます。

 自分の実体を知ることは、キリストの無条件の愛を知り、重たい自分から解放されていくことです。キリストの愛を深く体験していくことです。今自分では認めたくなくて蓋をしている真実の心を、聖霊とみことばによって明らかにしていただきましょう。そしてそれを差し出しても見捨てない、むしろ放蕩息子の父親のように抱きかかえてくださる神の愛を受けとりましょう。
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 7月12日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「実を結ぶために」

           ローマ7:1~6  三浦真信牧師

<1節>

「それとも、兄弟たち、あなたがたは知らないのですかー私は律法を知っている人たちに話していますー」

 ここの「律法」は、モーセの律法を含め、一般的な法をも指しています。パウロは、法の下に生きている人なら誰もが知っているはずのことを、今話そうとしているのです。

「律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです」 律法も法律も、生きている人に対して有効です。死んだ人に効力は及びません。


<2~3節>

 結婚している夫婦の場合も、同じです。夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。夫が生きている間に、妻が他の男のものとなれば、律法で言えば「姦淫の女」となり、一般的には不倫、浮気と呼ばれます。でも夫が死ぬと、2人は夫婦であるという法(契約)から解かれます。夫が死んだ後に、他の男と再婚しても、それは姦淫にはなりません。


<4節>

「あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです」

 「キリストのからだを通して」とは、私たちの罪のために十字架で死んで葬られ、3日目に死からよみがえられたキリストのからだを通してです。そのキリストのからだを通して、私たちは律法(ここの原語は定冠詞がついているので「モーセの律法」です)に対して死んでいるのです。律法(また律法が明らかにする罪)に対して死んだ私たちは、今度は「死者の中からよみがえった方(キリスト)」のものとなりました。キリストが新しい夫となり、キリストと結ばれたのです。

「こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです」

 私たちがキリストと結ばれたのは、「神のために実を結ぶ」ためなのです。罪からの救いには、神の側の目的があるのです。ただ「救われてよかった、平安になった」で終わりではありません。「神のために実を結ぶ」という目的のために、救われたのです。そこまでが福音なのです。その手前で終わったら、福音の豊かさは半減してしまいます。神がキリストと結ばれた者たちに、神のために実を結ばせてくださるのです。そのことを通して、私たちはさらに福音のすばらしさを体験していくことができるのです。


<5節>

 「私たちが肉にあったとき」とは、罪の奴隷として本能のままに生きていた時のことです。キリストにあって新生する前の、古い自分の時です。

 その時には、「律法によって目覚めた罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました」。神のために実を結ぶのではなく、「死のために」実を結んでいたのです。律法によって、かえって罪の欲情が目覚めてしまったのです。「~してはいけません」と言われることで、かえってそれをしてしまうことがあります。「これは悪いことだ、神が喜ばれないことだ、だからやめよう」すればするほど、かえってやめられなくなることがあります。「このようにしなさい」と言われると、そうしたくない思いが出てきてしまうこともあります。人間は厄介な存在です。かつて「肉にあったときは」罪の欲情がからだの中に働き、罪の奴隷として霊的に死んだ状態だったのです。滅びに向かっていくしかない実(実とも言えないおぞましいもの)を結んでいたのです。でも本来私たちを造られた神の目的は、「神のために実を結ぶようになること」なのです。


<6節>

「しかし今は」

 肉にあったときとは全く違う「今」なのです。かつては律法によって罪の欲情がからだを支配し、「自分を縛っていた律法」に、今は死んだのです。そして「律法から解かれました」。律法は「キリストのからだを通して」、私たちを苦しめ束縛するものではなく、むしろ神の恵みを知らせるものとなったのです。今は、律法を通して露わにされる私たちの罪に対して、キリストにあっていつでも死を宣言できるのです。

「その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです」

 「古い文字」によって仕えるとは、律法に捕らえられた生き方をすることです。律法の行いを基盤として生きることです。私たちは、その生き方からキリストのからだを通して、解放されたのです。そして今は、「新しい御霊によって」仕えているのです。律法に縛られた生き方ではなく、 御霊が与える新しい生き方に変えられたのです。御霊が結んでくださる実によって神に仕えます。キリストの愛の律法で生きるように、御霊は導いてくださいます。「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです」(Ⅱコリント3:6)。御霊は、罪に死んでいた私たちを生かしてくださいます。そして神のために実を結ぶようにしてくださいます。

 自分で実を結ぶことはできません。農夫が水や肥料を与え、嵐や危険から守って、木はようやく実を結びます(ヨハネ福音書15:1~5)。農夫である神は、私たちが実を結ぶために、「刈り込み」をなさいます(ヨハネ福音書15:2)。農夫は、木が実を結ぶために、不要な枝を剪定(せんてい)したり、周囲の雑草を取り除きます。自分でするのではなく、農夫である神がしてくださるのです。  

 コロナ禍(か)にあって、これまでしてきたことが強制的に止められ、「何かをすること(doing)」より「神の前に自分はどうあるべきか(being)」が問われています。何かを忙しくすることで放置してきた、自分の中にある古い肉や苦々しい根と向き合い、神の愛を確認する時でもあります。そこに向きあわずに来たために、空回りしていることがあるかもしれません。律法は、doingを要求し、何かをしていることで満足させようとします。悪いことではないので、気がつかずに過ぎてしまいますが、サタンはそれ以上に大切な「神の愛に浸る」ことを邪魔します。キリストの愛を深く体験していくことが、信仰生活の土台であり、交わりがキリストの愛で満ちあふれていくための鍵でもあります。

 「大切なきみ」(マックス・ルケード作)に出てくる彫刻家エリが木の小人パンチネロに言ったように、人がどう思うかよりも、神の思いの方がもっと大事だと決めましょう。星印シールやダメ印シールを張り付けているのは、人ではなく自分自身です。それよりも、毎日神に会いに行き、神の愛にどっぷりと浸りましょう。コロナ禍は、私たちが今までの働きを一度止めて、神の愛を受け、神の恵みを受け取り直し、御霊が神のために実を結んでくださって、コロナ後に備える時かもしれません。「神のために実を結ぶようになるため」に、私たちはキリストに結ばれました。実を結ぶために、余計なものは農夫である神に手入れをしていただきましょう。そして神さまの愛にどっぷりと浸りましょう。

 「わたしの愛を信じたら、シール(人の評価)なんてどうでもよくなるんだ。とにかくこれからは毎日わたしのところへおいで。わたしがおまえのことをどれくらい大好きか忘れないようにね」と木の小人を作ったエリは、パンチネロに言いました。神も、今私たちにそのように言葉をかけてくださっています。神の愛に留まっていれば、農夫である神が実を結んでくださいます。
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 7月5日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「永遠のいのちという贈り物」

           ローマ6:19~23  三浦真信牧師

<19節>

 「あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」 パウロがこの手紙を宛てたローマにある共同体でも、「恵みの下にあるのだから罪を犯そう」と主張する放縦主義者がいたのでしょう。それは決して福音ではありません。霊的真理に対して理解できない人たちのために、あえてパウロは当時の社会にあった奴隷制度を例にして、人間的な言い方で説明しようとしています。

 そしてバプテスマを受けてキリストと一つになった者(4~5節)の、「以前」と「今」を比較しています。「以前」つまり「罪の奴隷であったとき」は、「自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて」いました。心の欲望のままに「汚れ」に引き渡された状態でした(1:24~32)。汚れの奴隷でした。また神の律法に逆らい、造り主なる神に従わず「不法の奴隷」で、そのまま「不法に進み」ました。「不法」ですから、刑罰が必要な状態だったのです。神からさばかれるべき者でした。

 「今は」全く違います。確かに「献げて進む」ことは「同じよう」ですが、献げる相手が違います。キリストに贖われて、今は神に自分の手足を献げます。私たちを造られ、一時は罪の奴隷となっていた私たちを罪から奪回してくださった神に自分を献げ、神の聖さを受けていく方向に進んでいきなさいとパウロは命じます。いつまでも罪の奴隷であった時の生き方を続けるのではなく、今は神が主人になったのだから、神の奴隷として生きましょう。奴隷は主人が代われば、新しい主人に従います。生き方も、以前の主人の下にいた時とは変わっていきます。まず主人が代わったという事実を、はっきり認めましょう。


<20~21節>

 再び「以前」の「罪の奴隷であったとき」について語ります。その時は、「義について自由にふるまって」いました。つまり神の義に対しては無関心でした。

 「ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか」

 ふつう「実」というのは良いもので人の益になります。農家の人は、作物の実を待ち望みながら、大切に育てます。その実は人々を養います。しかし罪の奴隷であった時に私たちが結んだ実は、「今では恥ずかしく思っているもの」です。罪の実とは、恥ずかしいものなのです。以前の汚れと不法に献げていた時のことは、穴があったら入りたいと思うようなことです。

 パウロ自身も、以前の自分を恥じています。「私は以前には、神を冒涜(ぼうとく)する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました」(Ⅰテモテ1:13)と告白しています。「神のため」と言いながら、逆に神を悲しませることをしていた自分を恥じています。それにもかかわらず、神はパウロをキリストに忠実な者と認めて、福音を伝える務めに任命してくださったと、パウロは感謝しています。

 罪の奴隷であった時に得た実は、今では恥ずかしいことです。しかし恥ずかしいだけで済むなら、まだ何とかなります。むしろ問題は、「それらの行き着くところは死です」という厳粛な事実です。この「死」とは、永遠の滅びであり、「第2の死」とも言われています(ヨハネ黙示録20:14~15)。恥ずかしいだけならやり直せますが、「死」という行き着くところまで行ったら、もう取り返しがつきません。


<22節>

 「しかし今は」と、「以前」とは全く異なる生き方を表す画期的な言葉をパウロは使います。驚くべき大転換が起きたのです。「今」は、「罪から解放されて神の奴隷となった」のです。そして以前のような「恥ずかしい実、死に至る実」ではなく、「聖潔に至る実」を得ているのです。神は、キリストの十字架によって罪がきよめられた者に、「御霊の実」を結ばせてくださいます(ガラテヤ5:22~23)。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実を私たちが結んでいくように導いてくださいます。その実を結ぶことを求めていく生き方に変えられたのです。そして「その行き着くところは永遠のいのち」です。死んだ後に、復活のからだで永遠に生きるいのちが与えられます。それだけでなく今この地上にあっても、永遠の神と共に生きる喜び・安心が与えられるのです。永遠に神と共に生きるいのちが、「神の奴隷」となった者に与えられるのです。


<23節>

 「罪の報酬は死です」。

 「報酬」とは、主人が奴隷に支払う賃金です。罪の奴隷であった時は、罪という主人は「死」という賃金しか支払いません。罪という主人は、「今月私に従ってたくさん罪を犯してくれた給与として、死を支払います」と、「死」を報酬として支払っていたのです。そして私たちはその報酬を当然のように受け取っていました。

 「死」とは造り主なる神との関係が切れている恐ろしい状態です。罪の奴隷として肉欲のまま生きることは、霊的に死んだ状態であり、やがて第2の死と滅びを報酬として受け取ります。聖書はその事実を曖昧にしません。

 「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」。

 「賜物」は、「恩恵、贈り物、プレゼント」の意味があります。罪が支払うものは報酬であり労働賃金ですが、神が与えてくださるものはプレゼントです。一生懸命働いて努力して得るものではありません。ただ「主キリスト・イエスにある」だけで良いのです。キリストを信じ、キリストの内にあるなら、永遠のいのちが贈り物としていただけるのです。このような素晴らしい方が主人になってくださったのだから、この方に自分自身をささげ、明け渡していくのは自然なことです(13節)。「今度の主人は優しくあわれみ深い方で、永遠のいのちまで恵んでくださる主人だから、罪を犯そう」とは本来ならないはずなのです。もしそうなるなら、それは主人を侮ること、馬鹿にすることです。主人が優しいからと言って、なめてはいけません。確かに求める者をどこまでもあわれんでくださる神ですが、同時に人が死んだ後に対しても権威を持っておられる方です。

 イエスは言われました。「わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。この方を恐れなさい」(ルカ12:4~5)。愛に満ちた神は、人の死後に対して権威を持っておられます。私たちが真に恐れるべきは、人ではなく、死んだ後でゲヘナ(死体の焼却場であった場所。そこから火の池・地獄の同意語になった)に投げ込む権威を持っておられる神です。肉体の死よりも私たちが恐れるべきは、死後のゲヘナであり、そこに投げ込む権威も、永遠のいのちを与える権威も持っておられる方を恐れるべきなのです。

 そのような恐るべき権威を持つ方が、キリストにある者に永遠のいのちを贈呈してくださるのです。賃金としてではなく、プレゼントです。感謝して受けとれば良いのです。受け取ると平安が来ます。喜びが溢れます。地上においては「ただほど怖いものはない」と言われることがあります。その場合は受け取った後になってから、とんでもない物であったと気がつき後悔します。しかしキリストについていくと、いよいよ安心にあり、このプレゼントを受け取って良かったとさらに思うようになっていきます。それは神が真実な方だからです。

 神が遣わしたキリストを信じる者には、永遠のいのちが恵みで(ただで)与えられます。キリストにあるなら、もうさばきにあうことがなく、死からいのちに移っています(ヨハネ福音書5:24)。永遠に神と共に生きることができます。神はキリストにあって、永遠のいのちを与えてくださいます。これは神の恵み、贈り物です。今この方を受け入れましょう。そして永遠に神と共に生きる安心な道を歩みましょう。
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