(2020年6月)

 ・ 6月28日
 ・ 6月21日
 ・ 6月14日
 ・ 6月 7日
 







 6月28日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「空しさから探求する永遠の価値」

           伝道者の書1:1~11   三浦真信牧師

 伝道者の書は、多くの文学者や芸術家にも影響を与えている書です(ヘミングウェイ「日はまた昇る」、ブラームス「四つの厳粛な歌」など)。

<1節>

 タイトルの「伝道者」は、原語のヘブル語では「コーへレス」で、「集会を召集する者」という意味もあります。著者はこの「伝道者」ですが、あえて名前は伏せています。著者に関しては諸説ありますが、伝統的にはソロモンとされてきました。「エルサレムの王、ダビデの子」であり、「エルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えられた」(1:16)と自ら言える王は、ソロモン王と考えるのが自然です(Ⅰ列王記3:7~13、10:23~24)。また2:4~10に記されている各種事業なども、ソロモン王のしたことと合致しています。恐らく王として、名声も富・知恵も手に入れたソロモンが、それなりに人生を歩んできた時に書いたのでしょう。


<2節>

 その伝道者が開口一番語ったのは、「空の空。すべては空」という言葉です。そしてそれはこの伝道者の書全篇に流れている基調です。「空」の原語は「へベル」です。本書中34回出てきます。「息」(詩篇144:4)、「水蒸気」とも訳せて、そこから比喩的に「すぐ消えてしまうもの」「信頼するに足りないもの」という意味にもなります。また「何の結果も生み出さない空しさ」をも意味しています。「空の空」は、比較の最上級で、「全く空しい」という最高の空しさを表しています。


<3節>

 「日の下」は、「地上(人間の活動場所)」のことで、本書では29回使われています。「天の下」(13節など)という言葉も同じ意味です。「この地上でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか」という命題を、伝道者は投げかけています。ここの「益(イスローン)」は、商業用語で「剰余金」を意味します。「いかに労苦して働いても、その投資に対して何の見返りも利益もないのではないか」と繰り返し(3:9)問いかけます。そうであるなら「空の空、すべては空」となるのです。

 この「益(イスローン)」は、本書で10回出てきますが、これこそ著者が追及しているものです。すべてが「空(へベル)」である地上において、永続的な益(イスローン)はあるのだろうか?日の下でどれほど労苦しても、みな一時的で消え去る息のようではないか?と読者に問いかけます。この「空の空」から始まる「益」の探求が、真の価値を見出すことにつながっていくのです。

 哲学者であり科学者でもあるパスカルは、著書「パンセ」の中で「この世の空しさが分からない人は、まさにその人が空しいのである。人間が偉大なのは、自分のみじめさを知っているという点においてである。木は自分のみじめさを知らない」と言っています。地上の空しさを知ること、自分のみじめさを知ることが、真に価値あること、益となるものを見出すことにつながるのです。多くの人が心のどこかで今も呻(うめ)きながら、この永続的な「益」を求めていることでしょう。


<4節>

 「一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない(とどまる)」の、「去り」「来る」「とどまる」という動詞はみな分詞形で、動作の継続を表しています。人の一生は限りがあるので、「去り」「来る」を繰り返します。今いる人はやがて去り、次の世代が来ます。そしてその世代もまた去り、そのまた次の世代が来ます。人はたえず入れ替わります。しかし大地は、多少形は変貌(へんぼう)しても、とどまり続けます。人間は、大地よりもはかない存在なのです。


<5~8節>

 「日」「風」「川」という自然界を取り上げています。これらは、動いていて変化しているように見えますが、結局は巡り巡って元に戻り、何の変化もありません。人生も同じことの繰り返しで、いかに労苦しても何の変化もないと伝道者は感じています。ですから。「すべてのことは物憂(ものう)く」、心から満足することができません。


<9~10節>

 歴史も同じことの繰り返しに過ぎず、努力して新しいものを生み出したと思っても、 それは昔あったものを変形したに過ぎません。さらに源泉をたどれば、神が造られた法則を利用しただけです。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、はるか前の時代にすでにあったものです。

 真に新しいものというなら、神の力が歴史の中に働く時にのみ生じます(イザヤ43:19)。新型コロナウイルスもウイルス自体は新型ですが、今のようなパンデミックは歴史の中で繰り返されています。しかしこの出来事を通して、神は世界を新しくなさるでしょう。究極的新しいものは、新天新地においてしか見ることができません(ヨハネ黙示録21章)。


<11節>

 いかなる偉大な人の働きも、一時的なもので、人々は忘れてしまいます。いつまでも記憶されるような価値のあるものは日の下には存在しません。そのような地上において、どんなに人が労苦しても、それが人の何の益になるだろうか…と伝道者は問いかけます。


 エルサレムの王であったソロモンは、自然を見ながら(あるいは心に描きながら)、人生と同じ空しさを重ね合わせています。王として数々の偉業を成し遂げてきたソロモンも、ふと振り返った時に、いずれ自分の役割を終え次の世代に代わり、また次の人たちも去ってその次がやってくる、そのうちに誰の記憶にも残らない時がきます。いつかは、地上で生きた証さえも人の記憶から消えていくのです。私たちの見る目が、「日の下(地上)」のみに向けられている限りは、すべてが空の空でしかありません。この地上に名を残そうと躍起になっても空しいことです。

 イエスは言われました。「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と。イエスの弟子たちが遣わされた場所で、悪霊を追い出したり力あるわざを行ったことを、イエスに自慢げに報告した時のことです。イエスは、そのような偉業を成し遂げたことを喜ぶのではなく、「あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」と言われたのです。「こんなすごいことができた、このような成功を収めた」ということを喜びの基盤にしていると、それができなくなった時や人から評価されなくなった時に、一気に突き落とされた気持ちになってしまいます。たえず移り変わる空しいもので心を満たしていると、いつか空しさだけに覆われる時が来ます。

 しかし神の恵みに心を向け、神の御翼(みつばさ)の陰に身を避けるなら、神の恵みが私たちの心を満たし続けてくださいます。地上の空しさが大きいほど、神の家の豊かさに満たされます。神の恵みによる楽しみの流れで、神は私たちを潤してくださいます(詩篇36:7~9)。

 パスカルが言ったように、この地上の空しさ、自分のみじめさ、人間の儚(はかな)さを知って、この世に幻滅し、自分に絶望していく中で、心の目を「日の下」から「天」に向けていくなら、恵みの窓が開かれています。そこに光があり、いのちがあります。地上では「四方八方から苦しめられ」ていても、神の永遠の光がそこにも照らされているので、行きづまることはありません(Ⅱコリント4:8)。

 空の空という人生の中で、私たちがどのように生きるべきか、何を大切にしていくべきかという大切なメッセージを、伝道者はこの書で語っています。空の空(へベル)から、真に益(イスローン)になるものを、共に見出しましょう。
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 6月21日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「自由を与えられた者の生き方」

           ローマ人への手紙6:15~18  三浦真信牧師

<15節>

 「恵みの下にある(14節)のだから、罪を犯そう」と考える人たちに対して、「決してそんなことはありません」とパウロは強く否定します。  

 パウロは、律法主義だけでなく、このような放縦主義(恵みによって救われたのだから罪を犯しても何をしても良いとする考え方)とも戦っていました。律法主義と放縦主義は正反対に見えますが、その出所は同じサタンです。キリストの福音からどちらも引き離すものです。  

 キリストは、確かに私たちに驚くべき自由を与えてくださいました(ガラテヤ5:1)。しかしこの「キリストにある自由」は、「肉の自由」とは違います。パウロは、自由をはき違えている人々に、「兄弟たち。あなたがたは自由を与えるために召されたのです。ただその自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)と言っています。放縦は、「肉の働く機会として」与えられた自由を使います。パウロは、キリストの恵みによって与えられた自由を、自分の欲望を満たすためではなく、「愛をもって互いに仕え合う」ために用いなさいと命じます。  

 実際、与えられた自由を「肉の働く機会として」用いていたガラテヤ地方のある人たちは、「互いにかみつき合ったり、食い合ったり」していました(ガラテヤ5:15)。それぞれが自分の欲を満たそうとしたため、欲と欲がぶつかりあってしまったのです。でもそれを続けていたら「互いの間で滅ぼされてしまいます」と忠告しています。そのような「肉の欲望を満たす」方向ではなく、「御霊によって歩みなさい」とパウロは命じます(ガラテヤ5:16)。御霊が示しておられる「愛をもって互いに仕え合う」方向を求めて歩みましょう。御霊が導き、御霊が喜ばれることを求めましょう。  

 生きている限り罪の残骸があり、古い肉の性質が出てきます。罪を犯してしまうこともあります。でもキリストと一つになり、恵みの下にあるなら、そこに留まり続けることはできません。間違ったと気づいたら、また立ち返っていきます。罪とわかっていて、もう自由だからその罪を犯し続けようとはなりません。御霊が違和感を与え、罪の場所が居心地悪くなります。


<16節>

 「あなたがたは知らないのですか」とは、「いえ、当然知っていますよね」という意味です。当時のローマ社会の人々なら誰もが知っている法則で、パウロは語りかけます。ローマ帝国下において、奴隷制度は身近な出来事でした。奴隷は、一人の主人に服従します。二人の主人に仕えることはできません(マタイ6:24)。二人以上の主人がいたら、奴隷は誰に服従してよいかわからなくなり、どの主人にも服従できなくなります。命令する主人は一人です。命令系統が一つでないと、良い仕事をすることができません。  

 ただ仕える主人が誰であるかが問題です。良い主人の下で働く奴隷はまだ幸せですが、乱暴で残酷な主人の下で働く奴隷は不幸です。同じように、罪を主人とするか、キリストの神を主人とするかは、永遠の死と永遠のいのちの違いをもたらすのです。聖書は、人は罪の奴隷であるか、神の奴隷であるかのどちらかだと語ります。その両方の主人に仕えることはできないのです。


<17~18節>

 「神に感謝します」と、パウロは手紙を書きながら突然叫びます。かつて罪の奴隷であったのに、罪から解放されて今は義の奴隷となったと書いていて、思わず感謝が溢れてきたのでしょう。  

 「義の奴隷となった」とは、「神の義、神の聖さの支配下に置かれた」ということです。かつては罪の支配下にあり、欲望のままに生きていました。行きつくところは死と滅びである生き方をしていたのです。しかしその罪からキリストの恵みで解放され、今は神の聖さの傘下に入れられたのです。今は神の義に覆われているのです。  

 「伝えられた教えの規範に心から服従して」私たちは罪から解放されたのです。ここの「規範(テュポス)」は、「型」(5:14「ひな型」と同語)とも訳せます。初代教会において、福音を定型化した信仰基準のようなものがすでにありました。今もプロテスタントの多くの教会は、使徒信条を信仰基準としています。もともとは洗礼を受ける人たちのために用いられ、やがてキリスト教異端との戦いの中で確立されていきました。そのような、伝えられ教えられてきた大切な福音の規範に、「心から服従し」、罪から解放されたのです。そして今度は、愛と恵みに満ち真理そのものである、キリストの神の奴隷となったのです。罪の奴隷で霊的に死んだ状態であったのに、死者の中からキリストは私たちを生かしてくださったのです。ですから、その神に自分の手足をささげていく(13節)のは自然なことです。  

 律法主義でも放縦主義でもなく、キリストの恵みによって与えられた自由を、愛をもって互いに仕えるために用いましょう。「互いに重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります」(ガラテヤ6:2)。私たちは、「キリストの律法」で生きるのです。それはキリストの恵み、キリストにある自由が土台となっています。キリストの恵みを受けるほどに、神にささげ、人々に仕えるようになり、それがまた喜びとなっていきます。「私たちの罪のためにいのちを捨ててくださったキリストならどのように生きるだろうか?」「What Would Jesus Do?(WWJD)」と祈りつつ生きましょう。助け主なる御霊がそのように導いてくださいます。間違ったら、御霊が示してくださいます。その時には立ち返りましょう。御霊が、キリストと結合した私たちをみことばの方向に導いてくださいます。
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 6月14日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「恵みの原理で生きる~死者の中から生かされた者として~」

           ローマ人への手紙6:12~14  三浦真信牧師

<12節>

 「ですから」とは、前節までを受けています。キリストと一つになり、罪の奴隷から解放され、神に対して(神のために)生きる者と私たちはされているのですから…という意味です。だから「あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従って」はいけないのです。ここは「罪よ。からだの欲望に従い、(キリストにあって)死んだからだをもう支配してはいけない」とも訳せます。罪に呼びかけて、「もうキリストにあって死んだからだなのだから、二度と支配するな」と言っているのです。主人が代わったのに、前の主人の下(もと)に生きていた時の習慣や癖が出てきてしまうことがあります。でも私たちはキリストによって古い自分に死んだのです。もう罪の奴隷ではありません。「だからもう支配するな…あるいは前の主人である罪に支配させるな」と。  

 食欲、性欲など、生きるため、いのちを生み出すために必要な欲があります。ただ欲の奴隷になってしまい、欲望を神としてしまわないようにしましょう。私たちの主人はキリストの神なのです。特にここの「欲望」は、「肉欲、情欲」を指しています。人を破滅に向かわせていくような欲望です。


<13節>

 では、このからだを欲望に従って罪に支配させないために、どうしたらよいのでしょうか?それは「あなたがた自身を神に献(ささ)げる」ことです。「罪に」ではなく「神に」献げるのです。  

 「あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけない」のです。ここの「手足(メレー)」は、「からだの部分すべて」です。手と足だけでなく、頭も顔もからだの部分すべてです。また「道具」は「武器(ホプラ)」という意味もあります(Ⅱコリント10:4)。私たちのからだのすべてを、罪の武器としてではなく、義の武器として神に献げていくなら、決して罪に支配させてしまうことはありません。  

 「死者の中から生かされた者として」神に私たち自身を献(ささ)げることは、キリストと一つになった者(5節)にとって、自然なことです。罪の奴隷であり、罪の中に死んでいた私たち(エペソ2:1)を、神はキリストとともにいかしてくださいました(エペソ2:5)。ですから、私たちを罪の死から生かし救ってくださった方に自分自身を献げることは、自然なことです。パウロは、この命令が決して難しいことではなく、自然な生き方であることがわかるように、ここまで福音について語ってきました。  

 死者の中から生かされたこのからだ、新しいいのちを与えられたこのからだ(メレー)を、私たちを生かしてくださったキリストの神のために、また神の壮大なご計画のために、用いていただく武器として、神に献げましょう。  

 「罪に献(ささ)げる」も「神に献げる」も、「パリステーミ」という同じギリシャ語原語が使われています。しかし「罪に献げる」は文法的には継続を表し、何度も罪に献げる誘惑がある中で、継続して繰り返し「罪に献げない」ことを意味しています。一方「神に献げる」は、「今ためらわず完全に献げ切ってしまいなさい」という思いっきりのよさを表しています。自分を神に献げていないと気づいたら、その場所で今、神に献げきりましょう。中途半端が一番ストレスになります。もう神が主人なのだから、その事実は変わらないのだから、献げ切りましょう。


<14節>

 「罪があなたがたを支配することはないからです」は、直訳では「罪はもはやあなたがたの主人となることはないからです」となります。あなたの主人は罪ではない、情欲によって罪に引き戻そうとするサタンでもない、神があなたの主人です。だから、前の主人である罪にではなく、罪に代わって新しい主人となってくださった神の武器として、自分自身を神にささげましょう。  

 罪が支配することがない理由は、「あなたがたは律法の下(もと)にではなく、恵みの下(もと)にある」からです。キリストの恵みの下(もと)にあるのだから、罪が支配することがないのです。キリストと一つになった私たちは、律法の原理ではなく、恵みの原理で生きます。律法はどこまでも完全な行いを要求します。そして完全な行いはできないので、罪と違反が増し加わります(5:20)。古いアダムの罪が露(あら)わになります。また神の刑罰を恐れて、嫌々行動しようとします。しかしキリストは、恵みによって私たちを罪から解放してくださいました。十字架の恵みが、罪の中に死んでいた私たちを生かしてくださったのです。その恵みが感謝で、嬉しくて、神に献げて生きたいと願うようになります。これが恵みの原理です。キリストの恵みによって、自主的に心から神に献げたいと思うようになります。キリストと一つになった者は、この原理によって生きるのです。  

 律法の原理で生きている時は、何をしても不満が残ります。どこかで自分の行いに対する見返り(報酬、人の評価)を求めます。そして自分で思うほどの見返りがないと感じて不満になるのです。でも恵みによってさせていただく時には、神の武器として用いていただくことが喜びとなります。同じことをしていても、律法の下(もと)にあるのと恵みの下(もと)にあるのとで、全然違ってきます。

 私たちはすでに恵みに下(もと)にあるのですから、恵みの原理で生きましょう。キリストの驚くべき恵みを受けた者として神にささげて生きることは、重荷とはなりません。恵みに突き動かされて献げるなら、むしろ献げるほどに楽にされていきます。  

 また恵みは、弱い者を強めます。「私の子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」(Ⅱテモテ2:1)と、パウロは若くしてエペソの牧会を託されたテモテに命じました。テモテは、エペソ教会に忍び込んできた偽教師たちに翻弄(ほんろう)され、苦悩します。それは大きなストレスであったでしょう。ストレスからか胃腸を弱くしたテモテに、胃のために少量のぶどう酒を勧めるほどでした(Ⅰテモテ5:23)。偽教師たちの誤った聖書の教えによって教会が混乱し、テモテは自分の弱さ足りなさを思い、胃がキリキリしていたのでしょう。そのテモテにパウロは「恵みによって強くなりなさい」と言って、キリストの恵みこそ弱り果てているテモテを強める力であることを示しました。神の御前にある本当の自分の姿を知らないときは、自分の行いで立派に生きられると思えてしまいます。しかし神の御前に立つなら、必ず自分の罪深さ、弱さを知らされます。そのように自分に破れ果てた者にとっては、恵みがご飯です。恵みがいつも力を与えます。そしてキリストの恵みで生きる者を、決して罪が支配することはありません。恵みによってたえず強められ、恵みによって自分の手足、からだすべてを、神に献(ささ)げていく生き方へと聖霊に導いていただきましょう。  

 「神に献げます」と宣言して、すっきり献げてしまいましょう。そう言った途端に、また前の主人である罪(情欲)を求めているかもしれません。宣言しても、私たちは完全にそのようには生き切れないのです。だから神のあわれみ、神の恵みによる救いであることがいよいよはっきりしていきます。もう私の主人はかつての欲望ではなく、神に代わったのです。美味しい話をもってきて、どん底に突き落とす残酷な主人ではなく、恵みと憐れみに満ちた神があなたの主人です。この方に、義の道具(武器)として、すっきり自分を献げてしまいましょう。明け渡してしまいましょう。もう罪が支配することは決してありません。
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 6月7日
聖日召天者記念礼拝メッセージ要約 主題:「いのちのパン」

           ヨハネの福音書6:27~40  三浦真信牧師

 新型コロナウイルス感染が世界中に広がり、これまで当然であったことが当然ではなくなり、新しい価値観が生まれてくることでしょう。キリストが世に来られた時も、人々は社会不安を抱え、閉塞感の中で救い主を待望していました。その中でキリストが語られる神の国の福音は、人々の価値観をひっくり返すようなことばかりでした。


<27節>

 「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」というイエスの言葉も、これまで人々が聞いたことも考えたこともないことでした。

 人が働くのは、食べ物を得て生活していくためです。食べ物は確かにいつかはなくなります。また人は永遠に食べ続けるわけではありません。地上で生きている間だけです。食べ物はやがてはなくなる一時的な物です。しかし「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物」があると、イエスは言われます。そしてそのためにこそ「働きなさい」と。これが神の国の価値観なのです。


<28~29節>

 「働きなさい」と言われたので、人々は「何をすべきでしょうか」とイエスに問いかけます。するとイエスは、「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです」と答えます。「信じること」とは心の中のことなのに、それが「神のわざ、神の働き」であると言われたのです。


<30~31節>

 「キリストを信じることが神のわざである」と聞いて、人々は少し混乱しながらも、「それではあなたを信じられるために、どんなしるし(奇跡)をしてくださいますか」と尋ねます。

 そしてイスラエルでは誰もが知っている、モーセの時代にあった出来事を例に挙げます。奴隷として苦しんだエジプトから、モーセの指導のもと解放されたイスラエルの民たちは、帰還するまで荒野の旅を続けました。食物がなく、飢え苦しむ民たちのためにモーセがとりなし祈ると、神は天からのパン「マナ」を与えて、民たちを養ってくださいました(出エジプト16章)。

 人々は、あのモーセの時のように、私たちがあなたを信じられるように、しるしを行ってくださいと要求しています。


<32~33節>

 それに対してイエスは、確かにモーセは民たちのためにとりなし祈りましたが、天からのまことのパンを与えてくださったのは、父なる神であることを伝えます。神が与えるパンだからこそ、何もない荒野の中でも人々にいのちを与え続けることができたのです。「神のパン」だからこそ、「世にいのちを与える」ことができるのです。


<34~40節>

 人々はイエスの言葉を聞いて、「そのパンをいつも私たちにお与えください」と言いました。そこから、イエスはご自身のことと神のみこころについて、大切なことを人々に語ります。

① 「わたしがいのちのパンです」(35節)。

  荒野で民たちを養い続けたマナのように、キリストこそ「いのちのパン」です。地上の荒野の旅を続ける中でも、キリストは私たちにいのちを与えて生かしてくださる、神が地上に与えた「いのちのパン」なのです。

② 「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(35節)。

 キリストのもとに来るなら、荒野の民たちのように、飢え渇きを感じる時があっても、キリストが満たしてくださるので大丈夫です。

③ 「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません」(37節)。

 キリストのもとに来る者を、キリストは拒まず、見捨てず、死んだ後まで永遠に責任をもってくださる身元引受人です。

④ 「わたしが来たのは、自分の思いを行うためではなく、神のみこころを行うためです」(38節)。

 キリストは、神のみこころを行うためだけに、天から下ってきたのです。

⑤ 「神のみこころは、キリストに与えられたすべての者を、終わりの日によみがえらせることです」(39節)。

 神のみこころは、キリストのもとに来るすべての人を、終わりの日によみがえらせることで す。「子(キリスト)を見て信じる者」(40節)がみな、永遠のいのちを持ち、終わりの日に神はその人をよみがえらせてくださいます。

 27節で言われた、「永遠のいのちに至る食べ物」とは、イエス・キリストのことです。地上の今のいのちだけでなく、永遠のいのちに価値を置き、それを与えてくださる「いのちのパン」であるキリストを信じて生きるようにと、イエスは27節で言われたのです。 

 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)のです。地上で生きる上で、食べ物が十分あっても、孤独・不安・ストレスなどで生き辛さを感じたり、実際になくなる方もいます。現実の生活においても、食べ物だけでは生きられません。神の言葉というパンによって、神は日々私たちに力を与えて生かしてくださいます。そして死の後にまでいのちを与えるため、神はキリストを送ってくださいました。

 宇宙を造り、今も治めておられる神と人との間を隔てている罪を打ち砕くため、キリストはすべての人の罪に代わり十字架で死にました。そして3日目によみがえり、罪の結果である死に完全勝利したのです。キリストを信じる者は、キリストが死からよみがえられたように、終わりの日に復活のからだが与えられ、よみがえります。このイエス・キリストを信じることが、唯一の「神のわざ」(27節)です。

 何をどのように信じるかは、その人の生き方や行動に影響を及ぼします。無神論者の方でも、無意識のうちに神以外の何かを信じて生きていることでしょう。常識、過去の経験、自分自身…など。常識や過去の経験は、それを越える出来事が起きたら太刀打ちできません。自分自身を信じていても、想定外の苦難により自分自身が折れてしまったら、立ち上がれなくなります。神を、天地の造り主、何にも揺り動かされることのない方として信じるなら、「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣」を心得ることができます(ピリピ4:12~13)。人は信じたように生きます。信じることと生き方は一つです。ですから、キリストを信じることがすべてなのです。  

 すでに神の許に帰られた方々も、キリストを信じて生きました。性格やタイプは皆さん異なりましたが、キリストはどのような人であっても、ご自身のもとに来る者を拒まず、見捨てず、生かして続けてくださいます。そして終わりの日にその人をよみがえらせることが、神のみこころなのです。

 生きている限り、私たちは不完全でどうしようもないところだらけです。だからこそ、神の救いは一方的な恵みであり、あわれみだとわかります。「いのちのパン」であるキリストのもとに来るなら、「わたしがあなたを天の御国に至るまで責任を持って引き受ける」と約束してくださいます。「あなたの負いきれない人生の重荷、責任、痛み悲しみを、わたしが一緒に担うから、そのままでわたしのもとに来なさい」と主イエスは招いておられます。このキリストの招きを受け入れ、シンプルにキリストを信じて、召天者の皆様は、御国に帰っていきました。

 そして終わりの日に、私たちは共によみがえらされ、復活の喜びを分かち合うことができるのです。その時を待ち望みつつ、死からよみがえり今も生きて働かれるキリストに感謝しつつ、神に礼拝をささげる人生を続けましょう。
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