(2020年5月)

 ・ 5月31日
 ・ 5月24日
 ・ 5月17日
 ・ 5月10日
 ・ 5月 3日
 







 5月31日
聖日ペンテコステ礼拝メッセージ要約 主題:「福音宣教と教会形成を導く聖霊」

           使徒の働き1~2章、コリントへの手紙第一12章ほか  三浦真信牧師

 五旬節(ペンテコステ)のお祭りの日に、イエスがかねてから弟子たちに約束しておられた聖霊(使徒1:4~5)が弟子たちの上に降りました(使徒2:1~4)。弟子たちがエルサレムで心を一つにして祈っていた時に、天から突然激しい風が吹いてきたような響きが起こり、弟子たちは皆聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに他国の言葉で話し始めました。漠然としたものではなく、はっきりわかる形で聖霊が与えられました。この時から、弟子たちは大胆にキリストを宣べ伝え、またキリストを信じる群れ(共同体)としての教会が誕生します。  

 聖霊は助け主です。具体的に私たちを助けてくださる方です。その働きは多岐にわたりますが、今日はその中から「福音宣教」と「教会形成」という視点から語ります。

(1) 福音宣教を導く聖霊

  ① 信仰告白に導く聖霊(Ⅰコリント12:2~3)  

 「御霊」と「聖霊」は同じです。キリストに出会う前に、私たちは「誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました」。かつては熱心に偶像を拝んでいたり、何かに心を捕らえられ支配されていました。その「何か」を神のようにして従っていたのです。その私たちが、「イエスは主です、私の救い主です」と心から告白できるなら、それは聖霊の働きによるのです。聖霊は今も、偶像に縛られ様々な欲望の奴隷となっている人々を解放し、「イエスは私の主です」という信仰告白に導きます。聖霊の助けなしには、いくら福音を伝えても、人を説得しても、信じることはできません。確かにキリストに出会うまでに様々な人との関りがありますが、最終的には聖霊の促しによって、キリストを信じこの方に従っていこうという決心に導かれます。  すべてのことがわからなくても、小さな信仰でよいのです。キリストを主としてついていこうと思えるなら、それは聖霊の働きです。そしてキリストについていくなら、聖霊はさらに神の深みにまで導いてくださいます(Ⅰコリント2:9~10)。信仰告白した時にはまだぼんやりしていた真理が、聖霊によって少しづつ深められていきます。聖霊は「イエスは主です」との告白を与え、さらに私たちを神の深みに導き入れて福音宣教を進めてくださいます。

 ② キリストの証人となるための力を与える聖霊(使徒1:7~8)

 聖霊によるバプテスマが授けられる時は、父なる神が権威をもって定めておられるから、その時がいつであるかは知らなくて良いとイエスは言われました。何ごとにも、神が権威をもって定めた時があります。そして「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のです(伝道者の書3:11)。ただ「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして地の果てまで、キリストの証人となる」ことは確かなことです。エルサレムから見れば、日本は地の果てです。すでに日本にいる私たちは、キリストの証人として、地の果てに遣わされているのです。聖霊が与えてくださる「力」は、「キリストの証人となる」ための力です。救われた喜びや恵みへの感謝がその原動力です。聖霊が私たちに救いの喜びを与え、みことばの真実をたえず示しながら、私たちに力を与えてくださいます。それは自己実現や自分の欲望を成し遂げるための力ではありません。私たちの罪のために死んで三日目によみがえり、今も共に生きておられるキリストの証人となるための力です。いずれ地上を去る時が来る自分のために生きても空しいだけです。しかしキリストの証人として生きることは、永遠に続く働きに参与することです。  

 事実イエスが捕らえられた後の弟子たちは、ユダヤ人を恐れて鍵を締めて閉じこもっていました(ヨハネ福音書20:19~23)。しかしやがて聖霊を受けると、大胆に迫害の中でもキリストを証しし、「キリストの御名のために辱められるに値する者とされたことを喜ぶ」者と変えられました(使徒5:41)。彼ら自身が強くなったのではなく、ただ聖霊の力を受けただけです。人間性や性格、癖や弱さが変わったわけではありません。聖霊はその人らしさを生かしながら、その人らしくキリストを証しするように、一人ひとりに力を与え福音宣教を前進させます。使徒たちも用いられたに過ぎず、宣教を主導しておられるのは、昔も今も聖霊です。ですから人間の頑張りも、人間の誇りも不要です。私たちは聖霊が導かれ促されることを、喜んでさせていただくだけです。

(2) 教会形成を導く聖霊

  ① キリストにある共同体(教会)を生み出していく聖霊(使徒2:37~47)。

 キリストを信じて救われた者たちは、「毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き(聖餐、礼拝)、喜びと真心をもって食事をともにし(交わり)、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた」のです。生活と礼拝が一つになっていました。宮(今の教会)でも家々でも、礼拝と交わりがありました。礼拝の場が宮だけではありませんでした。  

 新型コロナウイルス感染拡大により、3月末から教会に集まって礼拝ができなくなりました。それぞれの家で礼拝をささげる日が続いています。でもそれによって、ご家族が礼拝に一緒に参加してくださったり、しばらく教会に来られなかった方たちも毎週参加してくださっています。教会に来ると、奉仕や人と話すことが主になってしまい、礼拝に集中できていなかった方が、今じっくり礼拝に集中できて感謝しておられます。皆が集まって共に礼拝することも大切であり恵みも大きいのですが、同時に少人数で神を礼拝し交わることも宣教と霊的成長のために必要です。初代教会も、宮と家々と両方で礼拝と交わりをしていたように、全体で集まる礼拝(コロナ収束後)と小グループ(3~5人位)で継続して集まる礼拝(交わり)ができることを願っています。今後今回のようなウイルス拡大や自然災害など、全体で集まって礼拝できないことが増えるかもしれません。そのためにも、いざという時にすぐに集まり連絡をとれる小さな共同体が必要です。お祈りください。

 ② 皆の益となるために与えられた御霊の賜物(Ⅰコリント12:4~11、27~28)。

 御霊は、キリストに贖われた一人ひとりに、賜物を与えます。それは自分のためのものではなく、「皆の益となるために」(7節)与えられています。この「皆」は、キリストのからだである教会、教会のからだの器官である兄弟姉妹、そしてやがてからだに連なるであろう人々のことです。御霊は一人ひとりに異なった賜物を与え、違う役割を与えて、キリストのからだである教会を形成していきます。  

 御霊の賜物には、奇跡や癒し、預言、異言などもありますが、「援助」「管理」という賜物もあります(28節)。「援助」は、弱っている人や困っている人を助ける賜物であり、「管理」は事務的な働きや建物管理、掃除、手入れなどです。これらも、御霊の賜物であり、霊的な働きです。その能力があっても、主のためにその力を用いようと普通は思いません。そう思えるのは、御霊の働きです。御霊が一人ひとりに与えておられる賜物、役割、領分を受け取り、そのことに忠実である時に、教会は前進していきます。そして御霊がさせてくださることは喜びとなっていきます。損をしたとか、自分だけが大変な思いをしていると不満になるなら、それは肉のがんばりでやっていたり、神ではなく人の目を気にしている時です。  

 どれほどのことができるかではなく、小さなことにも忠実であることを神は喜んでくださいます。タラント(お金の単位)のたとえ(マタイ25:14~30)でも、主人である神は、預けたタラントの量ではなく、忠実に用いることに注目しています(マタイ25:20~23)。しかも5タラントの人にも、2タラントの人にも、預けた物は「わずかな物」と言っています。神からご覧になれば、賜物の大きい小さいはありません。偉大な神からご覧になれば、私たちに預けた物はどれも同じく小さな物です。預けたわずかな物に、いかに忠実であるかだけが問われています。1タラント預かった人は、預かったものを過小評価して1タラントを地中に隠して活かしませんでした。主人を信頼していなかったのです。ですから預けた1タラントまで取り上げられてしまいます(24~28節)。  

 御霊が一人ひとりに与えておられる賜物を、皆の益となるために、キリストのからだのために忠実に用いていきましょう。他の人に与えられていることは他の人に任せ、自分に与えられていることに忠実でありましょう。御霊が促しておられることが一人ひとりにあります。それが賜物です。  


 神は素晴らしい助け主、聖霊を遣わしてくださいました。この方が、キリストを証しするための力を与え、賜物を与え、教会を形成し、福音宣教を前進させてくださいます。コロナ以後の教会には、また新しい神の方法、導きがあることでしょう。柔軟に御霊についてきましょう。今も聖霊が教会を導かれます。  

 福音宣教も、教会の成長も、からだの器官である一人ひとりを用いて聖霊が進めてくださいます。与えられている賜物を、過小評価することなく、誇ることもなく、「皆の益となるために」「忠実に」用いましょう。福音宣教と教会を導かれる聖霊をいよいよ求めましょう。
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 5月24日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「苦しみをも益とする神」

           ルツ記4:13~22  三浦真信牧師

<13節>

 「主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。」

 ボアズの妻となったルツは、男の子を産みました。「主はルツを身ごもらせ」という、旧約聖書中ここでしか使われない表現は、ルツがボアズの子を産むことが、特別な主のご計画であったことを強調しています。


<14節>

 「女たちはナオミに言った」 ルツ記は、ルツの姑ナオミで始まり、ナオミで終わります。そしてそのナオミを見守る「女たち」の存在がありました。

 ナオミがモアブの野で暮らした10年のうちに、夫と2人の息子を亡くします(1章)。その辛い10年を経て、故郷ベツレヘムにナオミがルツと共に帰って来た時、この「女たち」がナオミに声をかけます(1:19~21)。ナオミは、その時に「私をナオミ(楽しみ、心地よい)と呼ばないで、マラ(苦しい)と呼んでください」と彼女たちに言いました。モアブの野での苦しみは、全能者なる神の御手の中で起きたことであり、それによって主がナオミを卑しくへりくだるようにされたという信仰告白をしつつも、ナオミはその苦しい胸の内を吐露しています。「彼女たち」は、ナオミの苦しみを黙って受けとめて共感し、寄り添った女性たちです。その苦しむナオミの姿を見ていただけに、「女たち」は今、ナオミの身に起きことを心から喜び、祝福の言葉をかけています。

 これは交わりの中で、私たちが経験することです。長い間苦しんできた兄弟姉妹が、ある時その問題が解決したり、解決はしないけどその苦しみの中で神様の恵みを体験した時には、共に寄り添ってきた者たちの喜びも大きく、偉大な神をほめたたえずにはいられません。その人の苦しみを共に受けとめ祈ってきただけに、祝福せずにはいられないことでしょう。それぞれに与えられている祈りの課題やテーマは、大きくは変わりません。いつも交わりで同じようなことを差し出しながらも、共感し祈り続けることで、私たちは神がその人その人に最善のことをしてくださることを見ることができます。ナオミにも、そのような彼女の苦しみと喜びを共にする「女たち」がいたのです。

 「主がほめたたえられますように。主は、今日あなたに、買い戻しの権利のある者が途絶えないようにされました。その子の名がイスラエルで打ち立てられますように」

 苦しみやつれて故郷ベツレヘムに帰って来たナオミを見ていた「女たち」は、ナオミの上になされた神の素晴らしいみわざを見て、主をほめたたえました。ボアズが買い戻しの権利によってナオミの土地や財産を買い戻し、ボアズとルツの結婚によってナオミの生活も守られていきます。「その子の名がイスラエルで打ち立てられますように」とは、ボアズとルツに与えられた男の子の名前が、ベツレヘムを越えてイスラエル全土に伝えられますようにという祝福の言葉です。この子の名前は、イスラエルどころか、世界中で時代を越えて、聖書を通して伝えられることになりました。


<15節>

 その子は、ナオミを元気づけ、またルツが姑ナオミを大切にする姿を見て育つその子は、ナオミの老後も大切にしてくれるでしょうと、女たちはナオミを激励します。 「あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから」と、ナオミの家族を見守ってきた女たちは、姑ナオミから離れずに知らない土地ベツレヘムまで来てナオミを支えたルツのことを褒めます。同時に、「七人の息子にまさる嫁」という表現で、2人の息子を亡くした母親ナオミのことを慰めています。


<16節>

 「私をマラ(苦しみ)と呼んでください」と言ったナオミは、今ボアズとルツに生まれた子を抱き、「ナオミ(心地よい)」という名前とおりの心境を味わったことでしょう。


<17節>

 ナオミの苦しみを共にしてきた「近所の女たち」は、「ナオミに男の子が生まれた」と言っています。実際には、ボアズとルツの子どもですが、ナオミの苦しみ痛む姿を見てきた彼女たちは、この男の子の誕生を「あの悩み苦しんできたナオミを神があわれんでくださった」と受け留めていたのでしょう。そして彼女たちが男の子に「オベデ」という名をつけました。「オベデ」とは、「仕える者」という意味です。「この子はきっと神と人に仕える者になるでしょう」と女たちが口々に言ったことを受けて、その名前に決めたのでしょう。モアブの野から憔悴(しょうすい)しきって帰ってきたナオミにずっと寄り添ってきた人々にとって、ボアズとルツの結婚も、オベデの誕生も、神の大きなあわれみとご計画の中にあることと受け取れたのです。

 「オベデは、ダビデの父であるエッサイの父となった」

 このオベデこそ、ダビデの祖父であると記してルツ記は終わります。ルツはさばきつかさ(士師)がイスラエルを治めていた時代の人です(1:1)。そしてこのルツ記が編纂されたのが、ダビデ王以降ということになります。オベデの名が出てくるのは、ここ以外では系図の中だけです(21~22節、Ⅰ歴代誌2:12、マタイ1:5、ルカ3:32)。オベデは、ダビデの父エッサイの父であり、ダビデの子孫であるイエス・キリストの系図にあることで、歴史を越え地域を越えて聖書を読む人々に知られる者となりました。目立たなくても、主の大きな救いのご計画の一端に入れられ、存在を通して神に仕えるオベデとなりました。


<18~22節>

 オベデがダビデの祖父であることの具体的な説明として、その系図が最後に記されています。その系図は、「オベデの系図」でも「ボアズの系図」でもなく、「これはペレツの系図である」とあります。確かにボアズがペレツの家系から出ていて、ベツレヘムの住民の多くがペレツの子孫です。それに加えて、12節で長老や民たちがボアズとルツの結婚を祝福する時に、2人に与えられる子孫によって、「タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように」と言われていることとも関係があるかもしれません。

 ペレツの家は、決して褒められるような家庭ではありませんでした(創世記38章)。タマルは、夫エルが若くして亡くなり、子孫を残すために売春婦に変装して舅(しゅうと)を騙(だま)して関係を持ち、ペレツを産んでいます。しかもタマルの夫であったユダの長男エルは、主の目に悪しき者であったので、主がいのちをとられています(創世記38:7)。そのエルの父親ユダとタマルの間に、本来あるべきでない関係によって生まれたペレツが、ダビデとダビデの子孫であるイエス・キリストの系図の中にいるのです。神の子の系図ならきれいな素性の人だけを入れればよいと考える人間の常識を破って、ペレツの家が入っていることで、神のあわれみの大きさが示されています。またどのような家庭であっても、神の祝福が及ぶことが示されています。

 へブル語原語では、ルツ記の最後の言葉は「ダビデ」です。「オベデはイスラエルでは誰もが知っている、神から愛されたあのダビデ王の祖父である」という事実を記して、このことが何か大きな神のご計画の中にあるという余韻を残して、ルツ記は終わります。

 ナオミの家族がモアブの野に移住し、そこでの10年間でナオミが次々に家族を失うという苦しみから、ルツ記は始まります。本来でしたら、ナオミの故郷ベツレヘムに帰っても、生活に困って当然のナオミとルツでしたが、神はボアズを通して2人を助け、そしてボアズとルツの結婚により、ナオミの生活も守られ、ダビデの子孫として生まれるキリストの系図に入れられるという光栄を受けます。神は私たちを苦しみの中に置かれますが、その苦しみは神の祝福の始まりでもあります。

 新型コロナウイルスが今世界中で広がり、人類は大きな苦しみの中に置かれています。神の御前にへりくだるようにという警告でもあります。グローバル化によって世界が繋(つな)がり、人も世界を行き来し、また様々な物資も取り入れることができるようになりました。しかしウイルス感染拡大により、国々地域が次々に封鎖され、流通が止まり、人も経済の動きも鈍り世界がガタガタになりました。その昔、天にも届くバベルの塔を建てようとした企てと人間の傲慢(ごうまん)を、神が互いの言葉が通じないようにすることでバラバラにして打ち砕かれた時のようです(創世記11:1~9)。

 またここ数年の続く自然災害によって、多くの地域が自然の脅威に晒(さら)されてきましたが、今度は見えないウイルスによって世界中が被災し、今も収束の見通しが立たずにいます。天地を造られ、今も治めておられる神の御前にへりくだるように促(うなが)されているようです(Ⅰ列王記8:37~40)。苦しみを通して、自分の力で何でもできるかのように思い上がっていた傲慢を悔い改め、へりくだって神を求めるようにと神は人類に語っておられます。

 それと同時に、苦しみさえも神はすべて益に変えてくださいます(ローマ8:28)。ナオミが苦しんだ辛い経験さえも、神は祝福の出来事に変えてくださいました。自分の思い通りにならずにがっかりしたこと、悲しく辛い経験さえも、すべてを益としてくださる神です。神を愛する人たちにとっては、すべてが益となるのです。今の苦しみも、かつての苦しみも、大きな大きな神のご計画の中にある小さな部分であることを信じて、主なる神についていきましょう。


 神のご計画は計り知れません。「私の名をマラ(苦しみ)と呼んでください」と叫んだナオミを、神は「ナオミ」という名前の通りにしてくださいました。しかもさらに大きな神の救いのご計画の中にいることを、ナオミもルツも知らずに死にます。私たちには知らされないままの神の祝福があります。私たちが生きている間にはわからない祝福があるのです。「主よ。私の心はおごらず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに私は足を踏み入れません」(詩篇131:1)。及びもつかない大きなことには、足を踏み入れなくてよいのです。恐らくナオミも、周囲の女たちも、「何かもっと大きな神のご計画があるのだろう」と予感しながら、それが何かわからないまま、神をほめたたえていきました。目に見える形での祝福が無いと思えても、「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださいました(エペソ1:3)。そのキリストにある霊的祝福を、私たちはすでに受けたのです。この「霊的祝福」は永遠に続きます。「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほどの重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」(Ⅱコリント4:17)。今の一時の苦難も、神の大きな永遠のご計画の中にあります。すでに霊的祝福の中にある私たちであることを信じて、偉大な主を見上げてまいりましょう。
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 5月17日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「キリストに結合された者の生き方」

           ロ-マ6:6~11  三浦真信牧師

 「恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか」という問いかけに対して、「決してそんなことはありません」とパウロは強く否定しました(6:1~2)。その理由を続けて語っています。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちは、キリストと一つに結合されて(シュムフュトス)います(5節)。ですから、キリストの死とも、復活とも同じようになっているのです。

 この5節前半の「キリストの死と同じようになって」について、6~7節で説明し、5節後半の「キリストの復活とも同じようになる」について、8~10節で説明しています。


<6~7節>

 「私たちは知っています」は、9節にもあります。この「私たち」は、パウロとローマの人々だけでなく、バプテスマを受けてキリストに結合されたすべての人を指しています。今の「私たち」も知るべきことなのです。

 「私たちの古い人」とは、5章12節以降にある「アダムにある古い人」のことです。アダムの罪をもって生れてきた、原罪を引き継いだ私という存在です。その古い私たちは「キリストとともに十字架につけられた」のです。バプテスマを受けてキリストと結合された私たちの古い人は、キリストとともに十字架につけられました。

 それは「罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです」。「古い人」、「罪のからだ」、「罪の奴隷」は、どれも同じような意味のことばです。古いアダムの罪に奴隷のように支配されていたからだは、もう滅ぼされたのです。

 「滅ぼす」(カタルゲーセー)は、「無力にされている」という意味もあります。罪の力が無力になって、私たちが罪の奴隷でなくなるため、私たちの古い人はキリストとともに十字架につけられたのです。これまで、私の主人として私を支配し、権力を振りかざしていた罪の力が、無力になりました。なぜなら、もう私たちは「死んだ者」(7節)だからです。奴隷制度があった社会において、死んだ奴隷はもう奴隷ではありません。奴隷はそれまで主人の言いつけに従ってきま したが、死んだら主人と奴隷という関係から解放されます。キリストとともに十字架につけられて死んだ私たちは、これまでの罪という主人の束縛から解放されているのです。「キリストの死と同じようになった」(5節)ということは、罪の奴隷から解放されたということなのです。


<8~10節>

 「私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる」のです。これは私たちの信仰告白です。私たちは「キリストと一つになっている(5節)」のですから、キリストとともに死んだだけでなく、死からよみがえられた「キリストとともに生きる」ことになるのです。死んだだけでなく、「新しいいのち(4節)」でキリストとともに生きるのです。キリストの死にだけ結合されて、復活には結合されていないということはないのです。バプテスマを受けてキリストに結合された者は、キリストの死と復活をともにしているのです。

 「私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって。もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです」(9節)。

 アダムの罪により、世界に死が入ってきました(5:12)。そのためすべての人が死ぬようになりました。キリストご自身は、罪を持たない神の子ですから、罪の結果である死を経験する必要はありませんでした。しかしすべの人の罪をその身に負って十字架で死なれたのです。「神は罪を知らない方を私たちのために罪とされました」(Ⅱコリント5:21)。罪を知らない方が、すべての人の罪を負って、罪そのものとなって死なれたのです。そのキリストは、神の栄光の力によって死者の中からよみがえりました。罪の結果である死に勝利したのです。キリストが負われたアダムの罪とその結果である死は、もはやキリストを支配しないのです。

 「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです」(10節) キリストは「ただ一度(エファパクス)」罪に対して死なれました。一度で、完全な贖いを成し遂げたのです。完全なことは繰り返す必要がありません。キリストの十字架の贖いは、ただ一度で成し遂げられ、キリストに結合された私たちは、完全に聖なる者とされているのです(へブル7:27、9:12、10:10)。

 キリストは、すべての人の罪を負ってただ一度十字架で死なれました。そして死からよみがえられたキリストは、「神に対して生きておられる」のです。「神に対して生きておられる」とは、「神の栄光のために」「永遠に神とともに」生きておられるということです。キリストは罪に対して死んで、今は神に対して生きておられるのです。


<11節>

 「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい」。

 キリストと一つになっている私たちは、キリストと同じように「罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者」なのです。その事実を認めましょう。罪に対して死んだ私たちは、何に対して生きているかといえば、「神に対して生きている」のです。キリストが神に対して生きておられるように、キリストと結合された私たちも、神の栄光のために生き、永遠に神と共に生きる者とされたのです。その事実を認めましょう。

 「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)、これがバプテスマを受けてキリストと結合された者の生き方です。食べたり飲んだりという日常生活を、神の栄光のためにしていくのです。神の栄光を求めて生きることは、決して不自由になることではありません。私たちを不自由にするのは罪であって、キリストはその罪の束縛から解放して自由を与えてくださいました(ガラテヤ5:1)。古い肉の自分ががんばって、律法的に神の栄光を現わそうとすると不自由になってしまいます。そうではなくて、古い人はすでに死んで「神に対して生きている」私であることを、認めればよいのです。たえずそうされた事実を受け取りましょう。命じられているのは、「認めなさい」です。

 新型コロナウイルス感染のため自粛生活が続き、様々な不安やストレスを多くの人が抱えています。キリストに結合された私たちも、不安や焦りを感じたり、感情が不安定になることもあります。だからといってキリストとの関係が解消されたわけではありません。自分や世の状況がどのようであっても、キリストと結合された事実は変わらないのです。不安定な状況の中でも、キリストと一つにされている事実を認めましょう。そして私の弱さや社会不安があっても、私たちは神に対して生きている者、神の栄光のために神と共に生きる者とされている事実を認めましょう。すでにキリストと結合されているのですから、たえずその事実を受け取って、キリストがしてくださることに一歩一歩ついていきましょう。
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 5月10日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「新しいいのちに歩むため」

           ロ-マ6:3~5  三浦真信牧師

 (新型コロナウイルス感染が収束して、以前のように普通に教会に集まって礼拝をするまでには、まだ時間がかかりそうです。どこかの時点で段階的に集まれるようにしていくかどうかを祈りつつ検討していきますが、最善の時に最善の方法で導かれますようにどうぞお祈りください。)


<3節>

 「それとも、あなたがたは知らないのですか」という表現は、「あなたがたは知らないはずはないですね?」という意味です。当時のクリスチャンであれば、当然知って心に留めておいてほしい基本的、かつ大切なことだとパウロは言います。それは今の私たちにとっても知っておくべき大切なことです。

 それほど大切なこととして知っていてほしいのは、「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けた」という事実です。この前半を直訳すると、「キリスト・イエスへとバプテスマされた私たち」となります。「バプテスマ」のギリシャ語原語の動詞は「バプティゾー(浸す、沈める)」です。ですからここは、「キリスト・イエスの中に沈められた私たち」あるいは「キリスト・イエスの中に完全に投入された私たち」という意味になります。バプテスマ(洗礼)を受けるとは、キリスト・イエスの中に沈められ、投入されていくことです。それは、「その死にあずかるバプテスマを受けた(ここも「キリストの死にまでバプテスマされた」と原語はなっています)」ということです。「キリストの死」にまで、沈められ投入されていくのが、洗礼です。


<4節>

 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」。キリストの死にまで投入された私たちは、ただ死んだだけでなく、キリストとともに葬られたのです。キリストは、死んで確かに葬られ墓に納められました。葬られたということは、より確かな死を共にしているということです。

 葬るという行為は、死の現実を確認することです。新型コロナウイルスに罹患(りかん)して亡くなった 方は、ウイルスがしばらく遺体にとどまっているために、家族が手厚く葬ることもできません。死の事実を聞かされただけで、実際に葬ることもできず、死の現実を受けとめられないままで遺骨を受け取ることはとても辛いことでしょう。

 確かにキリストは死んで葬られました。同じように、キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた者も、古い罪の自分に死んで確かに葬られたのです。ですから、2節にあるように「決して罪にとどまることはできない」のです。キリストは、私たちの罪のために死なれたのですから、キリストの死にまで投入された私たちの罪も、ともに死んで葬り去られたのです。古いアダムに属する私は死んで、バプテスマというキリストとの合同葬儀を終えたのです。

 「それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです」。

 「御父の栄光」とは、「神の栄光の力」ということです。死んで確かに葬られたキリストは、父なる神様の栄光の力によって、死者の中からよみがえられたのです。それは、キリストの中に投入された私たちが、新しいいのちに歩むためなのです。バプテスマによって私たちがキリストと共に死んだのは、生きるためです。新しいいのちで生きるために、古いいのちに死んだのです(Ⅱコリント5:17)。

 「新しいいのち」の原語は「いのちの新しさ、いのちの新鮮さ」です。この新しさは、古いものが段々新しくなっていくことではなく、本質的に全く違う新しいものに取り換えられる(change)ことです。古い人の特質や秩序とは全く違う、いのちの新しさで生きる者にチェンジされたのです。「罪にあるいのち」という古い秩序は終わり、「キリストにあるいのち」という新しい秩序が取って代わったのです。


<5節>

 「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになっているからです」。 ここの「キリストと一つになっている」の原語「シュムヒュトス」は、新約聖書ではここでだけ使われています。「つぎ合わされる、結合する、くっついて一つになる」という意味の言葉です。バプテスマにおいてのみ、この単語が使われているのです。つまりバプテスマは、キリストとの結合なのです。キリストとくっついて一つになっているのです。洗礼は、キリストと一つになる、キリストとの結婚式でもあるのです。  

 キリストと結合したのですから、キリストと同じ経験をします。つまりバプテスマを受けてキリストにつぎ合わされたということは、キリストと共に古い自分に死んで葬られ、またキリストが死からよみがえられたように、キリストの復活の全く新しいいのちで歩む者とされたということです。キリストの死と復活を、同じように経験して、今新しいいのちで生かされているのです。 キリストに立ち返り、キリストに向きを変え、キリストを見続けていくなら、御霊が私たちを主に似た者へと変え続けてくださいます。「人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:16,18)。

 人はいつも見ているものの影響を強く受けます。今コロナ鬱の人が増えています。一日に何度も新型コロナウイルス関連のニュースを見聞きして体調を崩す方も多くいらっしゃいます。同じものを見続けていると、いつしかそれに支配されてしまいます。まるで世界がコロナウイルスに乗っ取られてしまったかのような感覚になってしまいます。しかし今も世界を治めているのは、主なる神様です。コロナウイルスではありません。主はこの世界を見放したのでも、コロナウイルスに明け渡したのでもありません。大きなご計画の中で、変わらずに今も世界を治め、また私たち一人ひとりをご自身の羊として養っておられます。聖書には、今の世界を神の視点でどのように見ていくかが語られています。今こそ、キリストと結合した私たちは、神の言葉に耳を傾け、キリストをたえず見上げましょう。

 キリストの死にあずかるバプテスマによって、私たちはキリストとともに葬られました。それは「新しいいのち」で歩むためです。世界も今、新型コロナウイルスによって、これまでの価値観、システム、生き方に死を宣告しています。これから新しいものが生まれていくことでしょう。そしてキリストと結合した私たちも、またキリストのからだである教会も、新しくされつつあります。新年に与えられた「見よ、私は新しいことを行う。今、それが芽生えている」(イザヤ43:19)のみことば通りです。 私たちの中で当たり前になっていたことや、固定観念が崩されていくことでしょう。

 今まではそれでよかったけど、変わっていかなければいけないことも出てくるでしょう。福音の中身と、久遠基督教会らしいこだわりは大切にしつつも、変えるべきことは主が変えざるを得ないように してくださいます。これまでもそうでした。古い自分の固定観念とか、しがみついているものを手放して、すでにキリストの死にあずかり葬られた者として、新しいいのちで、キリストが今与えてくださる恵みを、感謝して受けとりましょう。

 「私たちは、新しいいのちに歩むため、キリストと共に葬られました!」と、今週も宣言しながら歩みましょう。
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 5月3日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「罪に対して死んだ私たち」

           ロ-マ6:1~2  三浦真信牧師

<1節>

 5章20節で、「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」とパウロが言ったことで、当然生じるであろう疑問をパウロは想定しています。「罪が増し加わるところに恵みが満ちあふれるなら、恵みが増すためにもっと罪を犯そう」となるのか、という疑問です。


<2節>

 その考え方に対してパウロは「決してそんなことはありません」と強い言葉で退けます。この原語「メー・ゲノイト」は、3章4節、6節でもパウロは使っています。人間的な理屈をきっぱりと否定する時に、パウロが良く使う表現です。

 「罪に対して死んだ私たち」が、罪にとどまり、罪のうちに生きることはできないのです。ここの「罪に対して死んだ私たち」の「死んだ」は、不定過去形が使われています。これは過去に一度起きたことを示しています。つまり、私たちは過去に一度死んで、その後はキリストの恵みがずっと支配しているということです。また罪が支配したり、恵みが支配したりするのではなく、罪に対して一度死んだ私たちは、ずっと罪に対しては死んでいるのです。だから罪にとどまることはできません。

 それでは、罪を全く犯さなくなるのでしょうか?キリストを信じた途端に、完全な人間になって罪を全く犯さなくなったでしょうか?心に大きな平安を得たとしても、いつもきよらなか心で、神の御心にかなったことしか考えず、神の御心に沿った行動しかせず、そこから一度も外れたことはないと言えるでしょうか?そうではないでしょう。表面的には悪いことをしないでいても、律法学者のように「自分は他の人と違って正しい」と、自分で自分を義とする傲慢の罪を犯しているかもしれません。

 私たちはどちらに転んでも、生きている限り全く罪を犯さないわけにはいきません。でもキリストの恵みを受けた者は、罪の中にとどまり続けることはできなくなります。何度失敗しても、同じ罪を繰り返し犯してしまう期間があったとしても、そこに留まることは居心地が悪く、後味も悪くなっていきます。肉の弱さが出てきても、また悔い改めて恵みに戻されます。死ぬまで完全に はなれません。それでも罪にとどまることを喜びとはできなくなっていきます。なぜなら、キリストを受け入れた者は、神の国に属する者となったからです。もはや罪の領域にはいないのです。

 「御父は、私たちを暗やみの力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(コロサイ1:13)。かつては罪と死という暗やみの力に支配されていた私たちは、キリストを信じて愛する御子のご支配の中に移されたのです。私たちを支配し治める王が、御子キリストに代わったのです。

 「神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを私たちは知っています」(Ⅰヨハネ5:18~19)。神から生まれた者は、キリストが王としてその人を守っておられるので、サタンは触れることができません。罪にとどまり続けることはできません。私たちは、すでに神に属する者、神の国の民とされているのです。

 「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20)
  罪に対して死んだ私たちの真の国籍は、天にあります。神の国に籍を置いているのです。ですから私たちを支配しているのは、罪と死ではなく、サタンでもなく、キリストです。キリストの恵みが支配しているのです。神の国民にとって、罪の領域は違和感を感じ、自分の本来いるべき所ではないとわかるので、そこにはとどまり続けることができません。むしろ 恵みから恵みへと生涯導かれていきます。

 罪に対して死んだのなら、なぜ罪をなお犯してしまうのでしょうか?キリストを信じる者は罪がきよめられるというのに、なぜ実際の歩みは、神の御心に反することをしてしまったり、心の中から神の喜ばれない思いが出てくるのでしょうか?

 それは、自分の罪を知る現場で、十字架のキリストを見上げるためです。私たちの中から肉の弱さがなくなり、完全な人間になったとしたら、キリストの恵みを忘れてしまうでしょう。かつて救われた時にはキリストの十字架がありがたかったけど、段々その感謝も薄れてくるでしょう。罪の残骸がうずき、肉の弱さに悩み、罪の痛みを感じることで、主イエスがこの私の罪のために歩まれた十字架がいよいよ慕わしくなります。今日も、キリストの十字架の死と復活により罪が赦されているのだと、何度も何度も十字架の恵みが思い出されます。正に、罪の増し加わるところに、恵みが満ちあふれるのです(5:20)。罪の残骸を自分の中に見ながらも、「私は罪に対してすでに死んだ者」であることを宣言できるのです。ただキリストにあって神に属する者とされていることを、手放しで喜ぶことができるのです。  

 罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれるのですから、自分の罪や弱さも大胆に認めましょう。いよいよ十字架のキリストがありがたい、キリストの恵みで生かされたいと、キリストへの感謝があふれてきます。

 律法によって、またみことばによって、罪が示されます。心を刺されます。それによって、私たちはキリストへ、キリストへと導かれていきます。「律法は、私たちをキリストに導く養育係となりました」(ガラテヤ3:24)。罪を示されるたびに、「自分の中からは良いものは出てこない、罪ばかり出てくる、だからいよいよキリストだけだ」と、キリストを見上げなければ一歩も歩めないほど、キリストに追いやられていくのです。そこに恵みが満ちあふれています。今日も明日も、罪を赦しきよめてくださるキリストが慕わしい、多く赦された人ほど、キリストへの愛が深くなっていきます。

 キリストは、私たちの罪のために十字架で血を流し、死なれました。キリストを受け入れた私たちは、もうすでに罪に対して死んだ者です。御子イエス・キリストのご支配の中に移されたのです。私たちの王であり、救い主であり、きよめ主であるキリストを信頼しましょう。「罪に対して死んだ私たち」(2節)と宣言して、日々歩みましょう。
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