(2020年4月)

 ・ 4月26日
 ・ 4月19日
 ・ 4月12日
 ・ 4月 5日
 







 4月26日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「確執の中にも及ぶ神の祝福」

           ルツ記4:7~13  三浦真信牧師

<7~10節>

 「昔イスラエルでは、買い戻しの権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分の履き物を脱いで、それを相手に渡す習慣があった」

 ルツは、「さばきつかさ(士師)が治めていた」時代の人です(1:1)。そしてこのルツ記が書かれたのは、ダビデ以降です(4:22)。ですから、このルツ記が書かれた100年以上前には、取り引きのために履き物を脱いで渡す習慣があった(今はないけど)ということです。

 ボアズは、死んだ人(つまりルツの夫だったマフロン)の名前を相続地に存続させるために、ルツを妻としました。ボアズがルツと結婚して男の子が生まれたら、ボアズが買い戻したエリメレクの畑(3節)などはマフロンの名義になります。ボアズ自身の相続地とはなりません。それでもボアズはその土地を買い戻し、ルツと結婚することを決意し、10人の長老たちがその証人となりました。


<11節>

 民と長老たちは、ボアズとルツの結婚を祝福します。 「どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人(ルツ)を、イスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにされますように」と、ラケルとレアの家庭を祝福の模範としています。二人ともヤコブの妻であり、彼女たちとその女奴隷たちの子どもらが、イスラエル12部族の初めとなります(創世記35:22~26)。

 「また、あなたがエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名を打ち立てますように」 エフラテは、ベツレヘムの旧名と言われています(1:2)。「力ある働き」は、へブル語原語は「ハイル」です。これは、ボアズ(2:1「有力な」)とルツ(3:11「しっかりした」)に使われた言葉と同じです。


<12節>

 ボアズとルツの子孫が、「タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように」と人々 はエールを送ります。タマルは、ユダの息子たち(エルとオナン)によって子孫を残すことができなかったため、遊女に変装して舅(しゅうと)のユダによってペレツを産みました(創世記38章)。とても複雑な家族の確執の中で生まれたペレツをも、神は祝福してくださったのです。

 ここでタマルが産んだペレツを、祝福のモデルとした理由として、

①未亡人であったタマルが再婚によってペレツを産んだことがルツと共通している。
②タマルと舅ユダは、親子ほど歳が離れていたことが、ボアズとルツに共通している。
③ボアズがペレツの子孫なので、先祖の祝福を求めている。

ことなどが考えられます。  

 タマルもルツと同じように、女性としてとても辛い苦しみ悲しみを経験しました。それでも主は彼女をあわれんでくださいました。ルツの家もそのようになりますように、という祝福の言葉です。


<13節>

  ボアズはルツと結婚し、ルツは男の子を産みました。「主はルツを身ごもらせた」という表現は、旧約聖書中ここでしか使われていません。ルツが男の子を産んだことが、特別な主の恵みであり、また主の大きなご計画の一端であることを強調しています。

まとめ

① 損得勘定ではなく神のみこころを求めていきましょう。

 ボアズはルツとの結婚を願いましたが、まず買い戻しの権利があるルツに近い親類に確認を取りました。律法にある神のみこころを最優先したのです。その近い親類が、権利を放棄したうえで、ルツを妻として迎えています。

 またボアズにとって、買い戻しの権利を譲渡され、エリメレクやその子たちの持ち物を買いとっても、特にメリットはなく、むしろ損をすることになります。それでもボアズは、神のみことばに従い、ルツとその家族を支え幸せにすることを喜びとしました。

 人間の本質は、自分が損をしないこと、自分が有利になることを優先して求めがちです。新型ウイルス感染拡大に備えて、日用品の買い占めをする人たちによって、品薄になりました。危急の時に、人間の本性が現われます。それは他人事ではありません。だれの心にもあるものです。そのような自我の姿を見る時に、主イエスはそのような自己中心な私たちを救うために、ご自身を与え尽くして、いのちまで捧げてくださったことを思います。

 パウロがエペソの長老たちに、主イエスの言葉を思い出すように言っています。「労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また主イエスご自身が、“受けるより与えるほうが幸いである”と言われたみことばを覚えているように」と。人間の生まれながらの肉の性質は、人に与えるより自分が受けたいものです。しかし主イエスは、「受けるより与えるほうが幸いである」と言われました。得することを求めて生きるより、損をする生き方の方が幸せなのです。事実自分がいつも得をし、与えるより人から奪うことを考えて生きている人は不幸です。

 主イエスは、罪人であり敵であった私たちを救うために、不利で損な道を歩んでくださいました。自己中心な思いに支配されそうな時に、主イエスが私たちに与えてくださった恵みの大きさを思い起こしましょう。聖霊が具体的な生活の中で導いてくださいます。


② 複雑な家庭環境(人間関係)の中にも祝福をもたらす神です。  

 ボアズが買い戻しの権利を譲り受け、ルツを妻として迎えることの証人となった長老たちが、祝福の言葉として「ラケルとレアの二人のように」(11節)、「タマルがユダに産んだペレツの家のように」(12節)なるようにと言っています。どちらの家庭も、確執があり複雑な家庭でした。見えるところでは、祝福された家庭とは言い難くありました。

 ラケルとレアの姉妹は、夫のヤコブを巡って激しい嫉妬があり、互いに張り合い、大変でした。夫のヤコブは、兄エサウを騙(だま)して恨みを買いました。複雑な家庭環境の中で、親の葛藤(かっとう)を肌で感じながら育った子どもたちを、神はイスラエル12部族の基とし、そこから星の数ほどの子孫が生まれ、世界に広がっていきます。

 タマルも、ユダの長男エルと結婚しましたが、エルは若くして死にました。決まりでは、弟が彼女と結婚して子孫を残す立場にありましたが、弟オナンはそれを拒否します。そのためタマルは売春婦になりすまして、舅ユダを騙して肉体関係を持ち、子どもを宿します。それによってユダの息子であるペレツを子孫として残しました。とても複雑な家庭でペレツは生まれ育ちました。そのペレツは、ボアズの先祖にあたります。そしてその子孫は、ダビデ、やがてはイエス・キリストへと続いていくのです。

 家庭は、一人ひとり罪人が構成しているから、様々な痛みやひずみが生じます。しかし神はどのような家庭であっても、そこに置かれている神の民を通して、とりなしの祈りを与え、神 の祝福を与えてくださいます。キリストの救いを受けた者が、その家庭の祝福の基となるので す。その祝福とは、目に見る即効性のある祝福ではないかもしれません。ラケルとレアたちも、タマルやペレツ親子も、生きている時には波乱万丈でした。でも神の壮大なご計画と祝福の中にあることは、後の人たちによって証言されています。生きている間は、ずっと確執があり、不和があり、問題解決を見ないこともあります。それでもそのために祈りとりなす祭司の役割がクリスチャン一人ひとりに与えられています(Ⅰペテロ2:9)。

 この地上の歩みは、一時的であり神の民にとっては、仮の宿です。「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していました」(へブル11:13)。信仰の人たちは、生きている間に約束のものを手に入れることはなかったのです。でもそれがはるか遠くでなることを信じて喜び、地上では旅人として生きました。ラケルとレアの家も、タマルがユダに産んだペレツの家も、とてもドロドロとした家族関係でしたが、はるか後になって、ボアズとルツの結婚を祝福する時のモデルとされました。  


 神のご計画はとても大きいのです。今と自分の周辺の事しか見えない、近視眼的な私たち人間にはわからないほど、大きくて計り知れないものです。ですからどのような複雑な家庭や人間関係の中にあっても、すでに私たちが神の民として贖われたことで神の祝福がそこに及んでいることを信じ感謝しましょう。自分が生きている時に日の目を見なくても、神のご計画は続いていきます。生きている間に、神のご計画すべてを見ることはできません。でもその神の大きなご計画の過程の中に私たちはいるのです。

 マイナスに見える環境さえも、神はそこからご自身の祝福を、贖われた者たちを通して与えてくださいます。「このような状態だからもうだめだ、こんな環境では何の良いものも生じない」ではなく、そんな見えるところ望みのないような状況からも、ご自身の祝福の出来事を起こすことがおできになる神を信じましょう。

 神は荒野の中にも必ず道を設けてくださる方です(イザヤ43:19)。新型コロナウイルス感染のため、私たちは世界的な荒野に置かれています。でも神はその中から新しい祝福の出来事を起こしてくださいます。「今、それが芽生えている」と、今年のみことばで与えれ、私たちはその約束を先にいただいています。その主の約束を信じ、マイナスに見える環境からも祝福の出来事を生み出してくださる主を見上げて、一日一日を歩みましょう。



 4月19日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「満ちあふれる恵み」

           ローマ人への手紙5:18~21  三浦真信牧師

<18節>

 アダムが、神から与えられた唯一の命令に違反しました。「エデンの園のどの木からでも思いのまま食べてもよいが、善悪の知識の木からだけは食べてはいけない、食べるとき必ず死ぬ」(創世記2:16~17)と神から言われていた、その善悪の知識の木の実をアダムは食べてしまいます。最初に神が造られた人アダムの罪により、「すべての人が不義に定められた」のです。「不義に定められた」とは、「有罪宣告を受けた」という意味です。アダムの罪(原罪)をすべての人が受け継ぎ、神からすべての人が「罪あり」と宣告される者となったのです。

 この原罪を人は生まれながらにして持っているため、人から教わらなくても悪い思いを心に抱き、また具体的な罪を犯します。その結果、いつの時代にも争いと混乱がこの世界にあります。その根っこは、アダムの時から引き継がれている罪にあるのです。

 一人の人アダムの違反行為によってすべての人が有罪宣告を受けたのと同様に、「一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます」。「一人の義の行為」とは、「イエス・キリストの義の行為」です。

キリストの義の行為とは、以下のことです。

① 生涯律法を守り通し罪を犯さなかった。

 キリストは、私たちと同じ肉体を持ち、同じように痛み苦しみを経験しました。しかし罪は犯しませんでした。「私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において私たちと同じように試みにあわれたのです」(へブル4:15)。人間と同じ苦しみを経験し、痛みを同じように感じながらも、罪を犯すことはなく完全に神の律法を守り通しました。

② 父なる神のみこころを行い十字架の死にまで従い通した。

 キリストは罪を犯していないのに、神のみこころに従ってすべての人の罪の身代わりとなって十字架で贖いの死を成し遂げました。十字架の死にまで神のみこころに従い、義の行為を貫き通してくださったのです。

 そのキリストの義の行為によって、「すべての人が義と認められ」ました。ここの「すべての人」とは、「多くの人」(19節)と同じ意味です。福音書が書かれた当時、「多くの」「すべて」が、文 字通りには使われませんでした。「多くの」という意味で「すべて」が使われたり、「すべて」が「多くの」という意味で使われたりしています(マルコ1:5、ヨハネ福音書3:26など)。ここも、キリストの義の行為によって自動的にすべての人が義と認められたわけではありません。「多くの人」あるいは「キリストを受け入れたすべての人」という意味です。キリストの義の行為により、キリストを信じるすべての人が神に義と認められ、生き生きとしたいのちに溢れる生活をするようになり、永遠のいのちを与えられるのです。


<19節>

 18節では「すべての人」に統一し、19節では「多くの人」に統一しています。「一人の人アダムの不従順によって」、実際には「すべての人が罪人とされた」のです。

 「罪人とされた」「義人とされる」は、どちらも特別な範疇(はんちゅう)(グループ)に入れられて扱われることを表す単語が、原語では使われています。つまりアダムの不従順によって「罪人としてさばきを受ける」グループと、キリストの従順によって神に「義人とされてさばきである滅びから救われる」という二つのグループがあり、それ以外にはないのです。アダムの罪を負ったまま生きるか、キリストの従順によってもたらされた十字架の贖いを受け取るかで、人生も死後も全く違ってきます。とても厳粛な表現です。


<20節>

 「律法が入って来た」の「入って来た」の原語は、ガラテヤ2:4では偽兄弟が「忍び込む」という意味で使われています(「続発する、続いて生じる」という意味もあります)。律法は、神がご自身の民に与えられた聖なる良いものです(ローマ7:12)。でも律法によって罪を取り除いたり、人間を義とすることはできません。その意味では不完全なものです。一部のユダヤ人たちが、律法を行うことによって救われると主張して誤解を生じていました。そのことを憂いて、パウロは「律法が入って来た、忍び込んできた」という表現をあえて使ったのかもしれません。

 事実「律法が入って来たのは、違反が増し加わるため」でした。律法という神の基準が明確に示されたことで、いかに自分が神の基準から外れて、罪ある存在であるかを知るようになりました。神の基準を示す律法に対して、人はとことん違反する者だということが明らかになったのです。

  「しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」。ここの「罪」の原語は「ハマルティア」です。「的外れ(まとはずれ)」という意味を持ちます。神との正しい関係から外れてしまっている状態が、正にアダムの罪(原罪)です。律法を具体的に違反する自分を通して、的外れな存在であることが明らかになりなりました。そして救いは自分の内には無いことを認め、キリストに救いを求める時に、恵みが満ちあふれるのです。

 パウロがこのローマ人への手紙で、一貫して伝えようとしているのは「恵み」です。いかに私たちが創造主なる神から外れ、罪にまみれ、絶望的な状態であったかを知れば知るほど、キリストの恵み深さがわかってきます。神の御前に、いかに罪深く汚れ果てた存在であったかを知るほど、恵みが満ちあふれてくるのです。それが福音(Good News)です。

 「罪が増し加わるよりも、さらにもっと恵みが満ちあふれます」と原語ではなっています。恵みの方が大きいのです。私たちの罪よりも、恵みの方が勝っているのです。ですから大胆に自分の罪を認めましょう。恵みが遥かに勝って満ちあふれます。人の罪や悪をさばいていても恵まれません。的外れで違反だらけの自分を認めて、キリストの恵みを受け取りましょう。


<21節>

 「罪が死によって支配した」の「支配した」は、「君臨する」という言葉です。「王が一国を統治する」という時に使われます。肉体の死はもちろん、罪によって人は霊的に死んだ状態です(エペソ2:1)。罪と死はセットです。罪が支配するということは、死に支配されているのと同じです。しかし恵みが支配するなら、もう罪と死に支配されることはありません。神の一方的な恵みに自分を委ね、明け渡し、支配していただくなら、罪と死から解放されるのです。恵みは、神が遣わした主イエス・キリストによってもたらされました。

 最初の人アダムは、人類に罪と死をもたらしました。しかし第2のアダムであるキリストは、私たちに「義」と「いのち」をもたらしたのです。しかもキリストは、圧倒的な恵みと力によって、私たちを罪と死から解放し、新しいキリストにある義、そして永遠のいのちに導き入れたのです。「永遠のいのち」は、死後に与えられる復活のからだで永遠を生きるという意味と、永遠に生きておられる神との愛の交わりの中に生かされるという意味があります。ですからキリストの内にあるなら、地上でも永遠の神との交わりにすでに入れられており、永遠のいのちの中に置かれているのです。

 ユダヤ人たちは、自分たちに律法が与えられたことで、アダムの違反からは除外されていると考えました。その律法を表面的に守り行っていることで、罪とは関係がないとしていたの です。しかしむしろ律法があることで、いよいよ人は神の戒めに違反する者であり、アダムと同じ罪を持つ者であることが明らかにされました。その違反行為を一つひとつ取り上げて、「この罪引っ込め、あの罪引っ込め」と、もぐらたたきをするように打ちたたいても切りがありません。一つ打ちたたいても、また別のところから違反行為が顔を出します。自分の力で罪に勝利することはできないのです。だからイエス・キリストが、丸ごと十字架にかかって、私のこの存在そのものの罪に代わって死んでくださったのです。

 聖書のみことばを通して、私たちはいよいよ自分の罪深さを知らされます。それだけでしたら、とてもみじめです。でもそこに、私の罪を丸ごと引き受けて十字架で死なれ、三日目に死からよみがえられた生けるキリストがおられます。存在を十字架でささげて、私たちの罪のいけにえとなられたキリストを見上げる時に、私の罪よりはるかに大きい神の恵みが満ちあふれます。自分で自分の罪を処分しようとすることを止めて、差し出されているキリストの恵みをすっぽりと受け取りましょう。

 「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださった大きな愛のゆえに、背きの罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです」(エペソ2:4~5)。神のあわれみは豊かで、その大きな愛は私たちの罪をも飲み干します。キリストの内に、恵みは満ちあふれています。



 4月12日
イースター聖日礼拝メッセージ要約 主題:「必ず事実となる主の言葉」

           ルカの福音書24:1~12  三浦真信牧師

 新型コロナウィルスの感染が広がる中で、多くの人が不安を抱きながら生活しています。キリストは、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ福音書14:1)と言われました。私たちを救うために十字架の道を歩まれた方は、死からよみがえり、不安と恐れの中にある弟子たちに復活の姿を現わしました。復活のキリストは、絶望の中にいた弟子たちに希望をもたらしたのです。その死に打ち勝たれたキリストを見上げ、礼拝をささげましょう。

<1節>

 「週の初めの日」という言葉は、4福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)すべてで使われています。イエスの復活という、人類史上初めてのすごいことが、週の初めに起きたのです。神の子キリストは、私たちの罪を担って十字架で死なれました。キリストが死んで終わりでしたら、私たちの罪が本当に赦されたのか、罪のとげである死の恐怖から本当に解放されるのか、実感することができません。でもキリストが死からよみがえられたことで、罪の結果である死に勝利してくださったことが明らかにされたのです。

 キリストは週の初めの日、即ち日曜日に復活しました。ですからキリスト教会では、毎週日曜日を安息日として礼拝をささげます。礼拝ごとに、復活のキリストを崇めて礼拝するのです。

 イエスの遺体に塗る香料を持って、女性たちが墓に来ました。原語では「その墓」となっています。それは、議員アリマタヤのヨセフが自分のために用意しておいた新しい墓(マタイ27: 60)です。彼女たちは、その墓にイエスの遺体が納められる様子をしっかり見届けました(23:52~55)。確かにイエスの遺体はその墓の中に納められたのです。

 その墓は、岩に掘られた中に遺体が安置され、成人男性5~6人でようやく動かせるほどの大きな石で入り口を塞ぎました。墓に行く途中で、彼女たちは墓を塞いでいる大きな石を動かしてくれる人がいるかと話し合っています(マルコ16:3)。明け方早くですから、墓の管理人も助けてくれる男性たちもいなくて当然です。その不安要素がありながらも、彼女たちは引き返しませんでした。イエスの納められた墓に一刻も早く行きたいという思いが強かったのでしょう。またイエスと共にこれまで歩んできて、不安な時はいつもイエスが助けてくださいました。ですから「神が今回も何とかしてくださる」という信仰が身についていたのでしょう。


<2~3節>

 彼女たちの心配をよそに、イエスが納められた墓の大石はわきに転がされていました。墓を塞ぐ大きな石が転がされていたのは、イエスが墓を出るためではありません。復活のイエスは、弟子たちがユダヤ人を恐れてしっかり戸の鍵を閉めていた部屋にも入ってこられました(ヨハネ福音書20:19)。よみがえられたイエスは、どれほど大きな墓石にも妨げられることはありません。では何のために墓の石は取りのけられていたのでしょうか?それは香料を塗りに来た女性たちのためです。彼女たちが、イエスの復活の証人となるためです。彼女たちは、イエスの遺体が納められるところをしっかり見届けていました。その彼女たちが、自ら墓の中に入り、死んだはずのイエスのからだが墓にないことを目撃するために、石はわきに転がされていたのです。

 神は私たちが復活の主イエスと出会うために、ある時この墓の大石のような障害物を取り除いてくださいます。「主イエスのからだは死人を納める墓の中には無かった」という事実を見せるためです。「キリストの復活の事実を、これでもあなたは信じないのか」と言わんばかりに、キリストが生きておられる事実を見せて、主のもとに招いてくださいます。


<4~8節>

 この時点で、石が転がされてイエスのからだが墓の中に無いことは、彼女たちにとって「途方(とほう)に暮(く)れる」出来事でした。本当は希望の出来事なのに、途方に暮れていたのです。同じ出来事を経験しても、キリストの復活を信じるのと信じないのとで、受け留め方が違ってきます。「折角イエスのからだに香料を塗ろうとして来たのに、誰かが石を転がしてイエスの遺体を盗んでいった」と彼女たちは思ったのか、悲しくなり途方に暮れました。でも大丈夫です。キリストを慕い求める者は、「途方(とほう)に暮(く)れますが、行き詰まることはありません」(Ⅱコリント4:8)。

 途方に暮れている彼女たちのもとに、まばゆい衣を着た2人が来ました。この2人は、主の使いでした(マタイ28:2、4)。恐怖で地面に顔を伏せる彼女たちに御使いは、「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」と言いました。ここの「生きている方」は、「永遠に生きている方」という意味の、とても力強い言葉です。イエスのからだは、もうよみがえられました。ですから死人がいる墓の中にはおられません。キリストは、死とは関係なく、永遠に生きておられる方なのです。

 ずっとイエスに従ってきた彼女たちは、イエスの受難と復活についても聞いていました(ルカ9:22など)。それでもいざとなると、忘れてしまったのです。イエスと共に行動してきた彼女たちでさえ、主の言葉を肝心な時には忘れていたのです。ですから、私たちはなおさら繰り返し繰り返し、みことばを聞く必要があるのです。忘れてもいいのです。いえ、忘れるものです。ですから、たえずみことばに触れましょう。


<9~12節>

 御使いの言葉を聞いて、イエスが約束通りによみがえられたことを知った彼女たちは、他の弟子たちのもとに行き、一部始終を報告しました。もう途方に暮れてはいません。希望と喜びに満ちて走り寄ったことでしょう。彼女たちが見たこと、聞いたことをそのまま報告しました。見聞きした事実を報告することが、そのまま証しとなったのです。

 女性たちの筆頭に挙げられている、「マグダラのマリヤ」は、4福音書すべてに復活の証人として登場します。7つの悪い霊に取り憑(つ)かれて苦しい人生を歩んでいた彼女は、イエスに解放され自由にされました(ルカ8:2)。その彼女が、イエスの復活の証人として用いられたのです(ヨハネ福音書20:11~18)。

 イエスの復活の出来事を女性たちから聞いた他の弟子たちには、「この話はたわごとのように思えた」のです。「たわごと」の原語「レーロス」は、医学用語で「精神錯乱(さくらん)状態の者のうわ言」という意味です。やがて「使徒たち」となるイエスの弟子たちも、彼女たちの伝えるキリスト復活の事実を「たわごと」としか思えなかったのです。イエスから聞いていた言葉を、彼らも本気で信じていなかったのです。

 ペテロだけは女性たちの証言が気になったのか、走って墓に確認に行きました。墓をのぞき込むと、イエスの亜麻布だけが見えました。原語では「亜麻布だけを彼(ペテロ)は見る」が直訳です。空の墓が歴史的事実であったことを印象付ける表現です。

 11節の「話」は、8節の「(イエスの)ことば」と同じ原語(レーマ)です。また1章37節でマリヤが「神にとって不可能なことは何もありません」と言った「(不可能な)こと」も、「出来事」という意味に訳されていますが、同じレーマが使われています。イエスが語られた言葉は、そのまま出来事となっていきます。イエスが語られたら、それはそのまま事実となっていくのです。主イエスのみことばは、言葉だけでは終わりません。必ず事実となっていきます。聖書の言葉は、そのまま事実となります。みことばが、事実となることを日々経験しているのがクリスチャンです。

 皆さんの祈りの中で、毎年教会にその年のみことばが与えられます。不思議なほど、そのみことばが事実となっていくのを見てきました。みことばが与えられた新年には、想像もしなかった形で実現してきました。今年のみことば、「見よ、わたしは新しいことをする。今、それが芽生えている」(イザヤ43:19)も、新型コロナウイルス感染拡大という災いに見える出来事を通しても、主が必ず実現してくださると信じます。この状況下でも、主がなさる新しいことがすでに芽生えています。共にみことばが事実となっていくことを、見させていただきましょう。

 主イエスは確かに死からよみがえられました。そして永遠に生きておられる方です。この復活の主イエスを信じる者は、地上の肉体が滅びても、主と同じ復活のからだが与えられます。地上においても、生きておられるキリストの事実を、みことばの事実を、日々体験させてくださいます。やがて御国において復活のからだが与えられる時には、みことばがすべて事実となることを目の当たりにするのです。「このみことばが事実となって私の上に起きるのだ」と信じて、聖書を読みましょう。

 4月5日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「多くの御使いの助けを拒んで」

           マタイ26:47~56  三浦真信牧師

 イエスは、捕らえられる直前に「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚(さ)ましていなさい」と言われました。そして「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください」とひれ伏して祈られました(26:38~39)。イエスが死ぬほど苦しみ祈っている時に、弟子たちは目を覚(さ)ましていられず眠ってしまいます。イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」(41節)と言われます。祈りの中で「あなたのみこころがなりますように」(42節)と祈られたところに、イエスを捕らえる者たちがやって来ます。


<47節>

 12弟子の1人で、イエスを裏切るユダを先頭に、当時のユダヤ教指導者たちと大勢の群衆がイエスのもとに来ました。剣を持っていたのは、当時イスラエルを統治していたローマの兵士です(ヨハネ福音書18:3)。


<48~49節>

 ユダはあらかじめ、誰がイエス本人であるかを伝える合図として、イエスに口づけをすることに決めていました。夜、暗い中で弟子たちに囲まれているため、間違えることのないようにするためです。

 ユダは、決めていた通りにイエスに近づき、挨拶をしてイエスに口づけをします。48節では、「口づけをする」の原語が「フィレオー」ですが、49節では「カタフィレオー(何度も激しく口づけする)」が使われています。実際の時には、間違いなく確実にイエスを引き渡すために、何度もイエスに口づけしたのです。本来親しみを表す口づけという行為を、確実にイエスを売り渡すためにユダは用いたのです。


<50節>

 「先生」(49節)と「友よ」という呼びかけは、当時の師弟関係では一般的でした。イエスはこのような緊迫した状況で、しかも弟子に裏切られることを知りながらも、いつものように呼びか けておられます。

 またヨハネ福音書18:4~9では、イエス自らご自分がナザレ人イエスであると言っています。ユダの口づけの合図だけでなく、イエスご自身も他の弟子たちに危害が及ばないように名乗り出ておられます。そしてイエスは捕らえられました。


<51節>

 イエスと一緒にいた弟子の1人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、耳を切り落としました。切りかかった弟子はシモン・ペテロで、切られた大祭司のしもべの名前は、マルコスでした(ヨハネ福音書18:10)。すぐにカッとなってしまうペテロは、後先も考えずにまず手が出てしまうタイプのようです。また12弟子の中でもリーダー的役割を果たしてきたので、「自分がイエスを守らなければいけない」という強い思いが、過激な行動に走らせたのかもしれません。


<52節>

 イエスは、大祭司のしもべマルコスの耳に触って癒(いや)されました(ルカ22:51)。そして「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われます。「剣を取る者」の原語は複数形になっていますので、剣で向かっていったペテロだけでなく、剣をもってイエスを捕らえに来た人たち、そしてすべての人に言っておられます。剣を向けていくことで、自ら滅びを招いていくのです。

 イエスご自身、剣で向かってくる人に剣で迎えることはされませんでした。「やられたら、やり返せ」ではなく、むしろ「敵を愛し、敵のために祈りなさい」(マタイ5:44)とイエスはおっしゃっています。私たち人間にはなかなかそれができませんが、イエスはその通り実行してくださいました。敵対する私たちのためにいのちをささげ(ローマ5:10)、また十字架上でも「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と、ご自分を十字架につける人々のためにとりなし祈ってくださいました。


<53節>

 イエスがこの状況からご自分を守るためなら、父なる神にお願いして多くの御使いを配下に置いていただくことができるのです。「12軍団」とは、ローマの軍隊(レギオン)を指しています。

 1レギオンは6,000人です。12レギオン(軍団)は72,000人になります。当時世界最強のローマ兵72,000人の軍勢よりも強力な御使いを、神はすぐにイエスの配下に置くことがおできになります。

 「主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される」(詩篇34:7)と聖書にあります。新型コロナウイルス感染予防のために無会衆礼拝となった初日に、私も講壇で天の軍勢に取り囲まれているような不思議な感覚に包まれました。主は必要なら、ご自身の民の周りに陣を張って主の使いを送り、守ってくださいます。まして神が遣わしたひとり子イエスが願えば、すぐにでも神は助けてくださいます。ですから剣を用いる必要などないのです。 <54節> しかしイエスは12軍団よりも多くの御使いを父にお願いすることはなさいませんでした。それは、聖書の預言が成就するためです。


<55節>

 「強盗」(レーステース)という言葉は、ローマに対して反乱する暴徒に使われた言葉と同じです。まるで反乱軍の暴徒を捕らえるかのように武装して、イエスを捕らえる者たちはやって来ました。しかも「強盗」のように真っ暗な夜の時間を選んでやって来たのです。

 イエスは逃げも隠れもせず、毎日昼間に宮で座って教えていました。イエスに罪があるなら、いつでも堂々と捕まえることができたのです。しかし何の罪も見当たりませんでした。ですから、夜ローマ軍の助けまで得て、物々しくイエスを捕まえることで、人々にあたかもイエスが危険人物でることを印象付けたのです。


<56節>

 それでも彼らのそのような陰謀さえも、旧約の預言が成就するためなのです。イエスを捕らえに来た人たちは、神のご計画を実現するために奉仕しているようなものです。キリストが十字架の苦難を受けることは、神のご計画なのです。その実現のために、イエスを捕らえに来た者たちは用いられているのです。イエスは自分を助けることができない無力な犠牲者ではなく、むしろ主導権を握って捕らえられたのです。人類の救いという神の壮大なご計画が実現するために、ご自身が罪人のための贖(あがな)い主となって十字架の道を歩まれたのです。

 そしてイエスが捕らえられた途端に、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまいます。 数時間前にペテロも他の弟子たちも「たとえあなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(35節)と言ったばかりです。人間の決心がいかにいい加減なものかがわかります。でもそれが人間だれもが持つ弱さです。言ったその時には、本当にそうするつもりでいるのです。それでもいざその状況になるとできないのです。

 イエスは弟子たちがやがて、自分を見捨てていくことを予告しておられました。「見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません」(ヨハネ福音書16:32)。3年半寝食(しんしょく)を共にし、すべてを捨ててイエスに着いてきた弟子たちに、イエスは一斉に見捨てられたのです。ですから人から見捨てられる孤独を味わっている人にも、寄り添ってくださいます(へブル4:15)。

 イエスは、たとえ弟子たちに見捨てられても、父なる神が共におられるから大丈夫だと上記のみことばで言っておられます。しかしこのあと、その父からも見捨てられる経験をすることになるのです。すべての人の罪を担って十字架にかけられ、罪人の代表となり、罪とは関りのない神からも見捨てられるのです。弟子たちから見捨てられるよりもはるかに辛い孤独を、罪なき方が味わうことになります。イエスは最後の金曜日午後3時頃、十字架上から大声で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びます(マタイ27:46)。

 アダムの時から人が持つ癒(いや)しがたい罪から救うため、罪なき神の子が、むち打たれ、ののしられ、親しい者から見捨てられ、血を流し、十字架で痛み苦しみ、挙句(あげく)の果て父なる神からも見捨てられました。ご自分を助けようとしたら、12軍団に勝る御使いを呼ぶことも、十字架から降りることもできたのです。でもイエスは、神のみこころを成し遂げ、人々を罪と死から救うため、神の子が持つ特権も力も用いず、十字架の死にまで従い通されました。

 キリストが、ご自分を捨てて神のみこころに最後まで従ってくださったので、今キリストの贖(あがな)いを信じる者がいのちを得ることができるのです(ヨハネ福音書3:16)。完全に罪をきよめ、取り除くことができるキリストの十字架の贖いにより、今いつでもどこでも、父なる神を礼拝することができます(ヨハネ福音書4:21~23)。御霊の助けと、真理なるキリストのとりなしによって、たえず父なる神を礼拝しましょう。
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