(2020年3月)

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 ・ 3月 1日
 




 3月29日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「微笑(ほほえ)みながら後の日を待つ」

           ルツ記3:14~4:6  三浦真信牧師

<14~18節>

 姑ナオミの提案通りにルツは、収穫作業が終わって休んでいるボアズのもとに行きました。そこでボアズが買い戻しの権利を持つ親類であることを告げ、暗にプロポーズを求めます。その役目を果たすのにさらに近い親類がいるので、ボアズはまだ結婚することになるかどうかわからないルツを気遣い、朝早く暗いうちに家に帰らせます。その時に、姑ナオミのことも気遣い、大麦6杯をお土産に持たせました。  

 帰ってきたルツにナオミは、ボアズがルツを妻として受け入れたかを早速尋ねます。そして一部始終を聞いたナオミは、「娘ルツよ、このことがどう収まるか分かるまで待っていなさい」と告げます。ここの「待っていなさい」の直訳は、「座っていなさい」です。為すべきことをしたのだから、あとは座って神とボアズに任せるようにということです。  

 箴言31:25に、「ほほえみながら後の日を待つ」という言葉があります。ここは「しっかりした妻」(箴言31:10~31)という文脈で語られています。ナオミがルツに「座って待ちなさい」と言った言葉と似ています。最善を尽くしたら、あとは神が導いて下さいます。そのことを信じて、あたふたせずに「ほほえみながら後の日を待つ」のです。  

 結婚やこれからの進路においても、ルツのように神の言葉(神のみこころ)を大切にしてできる最善を行い、あとは神を信頼して神の導きを待ちましょう。  

 今の新型ウイルスとの戦いも、人間の力では太刀打ちできません。為すべき最善の予防や対策をとり、あとは神に信頼してお任せしましょう。必要以上に大騒ぎせず、情報に踊らされず、極端に落ち込んだり八つ当たりせず、「あとは神さまがしてくださる」と信じて後の日を待ちましょう。ぜひ状況を見て気が滅入ったら、「ほほえみながら後の日を待つ」と告白してみましょう。


<4:1節>

 畑は町の門の外にあり、やや低い位置に広がっていました。ですから町から畑や打ち場には「下って行く」(3:3,6)という表現になり、町へはここにあるように「上って行く」になります。  

 イスラエルの町は城壁に囲まれた町が多く、城壁の門を通らなければ町に入ることができませんでした。町の門の前は、人が集まり情報提供の場所になっていました。またそこでは裁判も行われることがありました(申命記21:19、22:15,24など)。

 ボアズは町の門のところにいれば、例の買い戻しの権利のある親類が通るだろうと思って、そこに座りました。そして案の定その親類が通ったので、彼を呼び寄せます。


<2節>

 町の長老は、日常の民事上・宗教上の問題を処理しました。彼らは人々の苦情処理を、神への信仰と人生経験からくる知恵によって解決していました。ここでも、買い戻しの権利に関する親類同士の話し合いを、10人の長老が証人の役目を果たしながら見守ります。


<3~4節>

 買い戻しの権利のあるこの親戚について名前はわかりませんが、彼はボアズよりもナオミの夫エリメレクに近い親戚でした。ボアズは、ナオミがエリメレクの畑を売るために、土地の使用権を律法で決められている通り彼が買い戻すかどうか尋ねます。まず買い戻しの権利は彼にあるので、だれも彼を差し置いて買い戻すことはできず、彼の次にその権利が自分ボアズにあることを伝えます。するとその一番近い親類は、「私が買い戻しましょう」と答えます。


<5~6節>

 それを聞いてボアズは、「死んだ人の名を相続地に存続させるために、死んだ人の妻であったルツも引き受けなければなりません」と伝えます。すると彼は、ルツと結婚する場合は自分自身の相続地を損なう可能性もあり、自分は買い戻すことができないので、ボアズが買い戻してほしいと要請しました。ナオミの土地を買うつもりはあっても、ルツを妻とする気は彼にはありませんでした。もしルツと結婚すると、ルツとの間に生まれた子どもにその土地を与え、ルツの亡くなった夫マフロンの名を残すことになるので、彼自身の相続地を損なうことになります。しかもルツの姑ナオミの世話もしなければなりません。よほど彼がルツに好意を持ち、経済的にもゆとりがないと、この権利を用いることはできませんでした。それでも誰もいなければ、律法に従って彼が買い戻すことになります。しかし幸いボアズが買い戻すことのできる親類としています。ボアズが町の有力者で(2:1)、経済的にも買い戻すことができるということも知って、彼はボアズに自分の代わりに買い戻すよう依頼したのです。  


 ルツが姑ナオミから言われたように、座って神の御手がどのように働くか待っている時に、神 (裏面に続く) はボアズを動かし、また近い親類の心にも働きかけ、着々とご計画を進めていかれます。ルツが自分のできることをし、また神の言葉を大切にして、あとは神がどのように導かれるかを、ほほえみながら座って待っている時に、神が働いて事を前進させてくださったのです。  

 ルツ記を通して、嫁姑(よめしゅうとめ)問題や結婚についても学ばされます。しかしそれ以上にテーマとなっていることは、このボアズとルツの家系からやがてダビデが生まれ、そのダビデの子孫から救い主イエス・キリストが生まれるという神の救いのご計画です。神のなさることは、人間の考えや常識を越えています。この時ナオミ、ボアズやルツも、この先にどのような神のご計画があるかは知らされていません。知らないままやがて死んでいます。でも私たちは今聖書を通して、その先に神の壮大なご計画があることを知らされているのです。  

 何のためにナオミ夫婦はモアブという外国の地に、幼い2人の子を連れて行かなければならなかったのか、ナオミは慣れない土地でなぜ夫と2人の子に先立たれる悲しみを経験しなければならなかったのか、なぜ夫に先立たれたルツは姑ナオミについて初めての土地ベツレヘムまで来たのか…想像を絶する痛み悲しみ、理不尽な思いがそれぞれにあったでしょう。でもそれらすべてが神のご計画の中にあり、人類の救いになっていきました。またナオミとルツも、たくさんの涙を流しましたが、後に大きな喜びも経験することになります。神のなさることは計り知れません。私たちの思いを遥かに超えています。  

 神は、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なる。天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8~9)と言われます。  

 「なぜこのような辛い思いをしなければならないのか…」と思うような出来事が人生の中ではしばしば起きます。今の新型コロナウイルスの感染拡大も、多くの人にとってそうでしょう。多くの方が亡くなりその家族に悲しみが広がり、また経済的な打撃を受けたり職を失う人も出ています。多くの人が不自由な生活を強いられ、ストレスや不安を抱えています。  

 でも神はマイナスに思える出来事も、すべて益に変えられる方です。「神を愛する人たちのためには、すべてのことが益となることを私たちは知っています」(ローマ8:28)。マイナスに思えることでも、それによって見失っていた大切なことに気づかせてくださることがあります。また神のご計画は、負の出来事によって妨げられることはなく、変わらずに継続していきます。ですから今はわからなくても、今できる最善のことをしながら、あとは座して待ちましょう。主が収めてくださる後の日を待ちましょう。  

 この状況だからこそできることがあるかもしれません。これまで以上に小さな2人、3人の交 わりがこれから大切になってくるでしょう。仮に直接会わなくても祈りの交わりはできます。「あなたがたのうちの二人がどんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:19~20)。これまで当然あると思っていた形で礼拝できなくなってしまっても、神はまたその時にふさわしい形で礼拝をさせてくださいます。また今だからできる方法で、キリストにある交わりを与えてくださいます。決して道は閉ざされてはいません。天の窓はいつも開かれ、神のご計画は変わらずに進んでいます。  

 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている」(イザヤ43:19)という今年与えられたみことばの約束も、前進しています。主のなさることはいつも新しいのです。神はまどろむこともなく眠ることもなく働き、神の民を守られます(詩篇121篇)。なすべきことを続けながら、あとは「ほほえみながら後の日を待つ」、これでいきましょう。
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 3月22日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「死の支配から解放する恵み」

           ローマ5:15~17  三浦真信牧師

<15節>

 前節で「アダムは来たるべき方のひな型です」とパウロは言っています。アダムは、古い人類の代表者で、来たるべき方(キリスト)は、新しく造り出される人類の代表者です。どちらも「一人の人」によって大きな影響を後に与えたことは共通しています。ただしその内容は異なっています。

 「一人(アダム)の違反」によってもたらされたものは、罪と死です。「一人の人イエス・キリスト」によってもたらされたものは、満ちあふれる恵みです。ここの「満ちあふれる」(原語ペリッセウオー)は、イエスが「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」(マタイ5:20)と言われた「まさる」と同じ原語です。私たちの義が、律法学者パリサイ人の義よりも満ちあふれていなければ、天の御国には入れないのです。律法学者パリサイ人も、天の御国に入れるような義をもってはいません。行いによって神の国に入れる人はいません。人間の行いは不完全で、神の義を全うする者ではありません。キリストの恵みを受け取る者だけが、天の御国に入ることができるのです。律法学者パリサイ人にまさる義、天の御国に入れていただける義は、人間の行いによっては得られません。キリストの恵みを受け取る者だけが、この義を持つことができます。「キリストの恵みの賜物(十字架による恵みのわざ)だけが、私の義です」と告白して、キリストの義で生きましょう。キリストの義の衣を着た者だけが、天の御国に入ることができます。一人の人キリストによって、多くの人に恵みは満ちあふれるのです。


<16節>

 「さばき(神の審判)」という視点からは、アダムの違反によりすべての人が有罪判決を受けました。でも「恵み」の場合は、キリストの犠牲により多くの違反が無罪とされたのです。第一の人アダムは罪に定められ、死がもたらされました。しかしキリストは恵みによって違反行為を無罪とし、永遠のいのちをもたらしたのです。

 「違反(パラプトーマ)」は、アダムの罪(ハマルティア)と違って、個々の具体的な罪のことです。キリストの恵みは、私たちの心の中にある「あの時の罪」「この時の罪」をも神の御前で無 罪とするのです。法を犯して有罪判決となれば、法に従って刑罰を受けます。しかし神ご自身は、その具体的な罪さえも赦してくださるのです。


<17節>

 アダム一人の違反によって、死が人類を支配するようになりました。しかし一人の人、神から遣わされたキリストによって、「恵みと義の賜物」があふれたのです。そのあふれるばかりの恵みを受け取った人たちは、キリストから受けた「いのちにあって支配するようになる」のです。罪と死の支配から解放されただけでなく、今度は神の国の王として、キリストと共に支配するようになるのです。キリストに贖(あがな)われた者たちは、神の国の王としてキリストと共に王となります(Ⅱテモテ2:12)。「王となる」「支配する」というのは、力で誰かを奴隷のように扱うとか、自分の思い通りになるように権力を振るうことではありません。王として仕えながら治めていくことです。すでに永遠のいのちを受けた者として、神の国がこの地に広がるために仕えていくのです。神の国のすばらしさ、神の国の生き方を、人々に現すために仕えるのです。

 またキリストの恵みによって復活のからだを与えられ、新天新地においても王として治めるようになります(ヨハネ黙示録22:5)。エデンの園で神が人に「地を従え、すべての生き物を支配せよ」(創世記1:28)と命じて、地を治める役割を与えられました。そして今もこの命令は、継続して神の民に与えられています。また新天新地においても、治める役割が与えられているのでしょう。


 死をもたらす新型コロナウイルスの感染者が世界で広がり、改めて人類は「死」に向き合わされています。死は本人だけではなく周囲にも、悲しみ痛みをもたらします。死は悲惨であり残酷です。でもキリストの恵みは、その悲惨さをも打ち消して余りあるほどに、満ちあふれているのです。

 アダムの罪をもって生まれ、本来は死と滅びを待つだけだった私たちに、あわれみ豊かな神はキリストによって新しいいのちを与えてくださいました。これは驚くべき神の恵みです。キリストはあふれるばかりの恵みを、人類にもたらしてくださったのです。この神のあわれみを受け取り、感謝して生きていくように主はしてくださいました。

 「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかしあわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは、恵みによるのです」(エペソ2:1~5)。

 あふれるばかりの恵みが、キリストによってもたらされたのです。アダムの罪によって世界をわがもの顔で支配してきた死も、キリストの内にある者を支配することはできません。キリストの恵みがあふれて、恵みが死に打ち勝ってしまいました。人間の罪より、神の恵みの方が大きいのです。神の大きな愛ゆえに、私たちは「あの罪、この罪、アダムの時から受け継ぐ罪」から救われたのです。背きの罪の中で死んでいた私たちを、キリストは生かしてくださいました。すべて神の恵みです。キリストの恵みは、神の御前で罪人に無罪を宣告し、死の支配から解放して永遠のいのちを与え、キリストのいのちで今も生かしてくださいます。この恵みは満ちあふれています。恵みによりいのちに移された者として、神の国のために仕えましょう。自粛ムードの中でこれまでと同じことができなくなったとしても、神から託されたミニストリーをやめることはできません。「私はありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリピ4:12)とパウロは言いました。今の環境でもできることはたくさんあります。どれほど不自由に感じても、その環境だからこそできることがあります。どのような時にも、キリストの恵みでいのちをいただいた者として、喜んで神の国のために仕えましょう。今も主の恵みは満ちあふれています。
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 3月15日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「来たるべき方のひな型」

           ローマ5:12~14  三浦真信牧師

<12節>

 「一人の人によって罪が入り」の「入り」という言葉の原語は、強盗が家財を略奪するために家に「入る」と同じ言葉です(マルコ3:27)。泥棒が強引に押し入るように、アダムが神の命令に背いた時に、罪がこの世界に入ってきました。

 また「罪によって死が入り」の「入り」の原語は、シメオンがイエスの母マリヤに「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります」(ルカ2:35)と言った、「刺し貫く」と同じ言葉です。アダムによって罪が世界に押し入るように入ってきた結果、死が人々を刺し貫くように世界に入ってきたのです。


 「こうして、すべての人が罪を犯した」のです。アダムの罪を、すべての人が持って生まれてきます。「私は咎(とが)ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました」(詩篇51:5)と、ダビデも言っています。法律違反をしたり具体的な悪いことをしたから、罪ある者となったのではありません。このアダムの罪(原罪)をすべての人が持つからこそ、「死がすべての人に広がった」のです。きよく正しく歩んでいるように見える人でも、必ず死にます。それはすべての人がアダムの罪を持つからです。


<13節>

 「実に律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのです」

 これまでパウロは、神に義と認められるのは、律法の行いによるのではなく信仰によることを繰り返し伝えてきました(3:21~22、28、5:1)。律法が与えられてから罪が生じたのではなく、律法が与えられる以前にも罪は世にあったのです。律法を破ったから罪人になったのではなく、律法が与えられる以前から、人はアダムの罪を持つ存在でした。

 「律法がなければ罪は罪として認められないのです」

 律法そのものは聖なる良いものです(7:12)。エジプトを脱出したイスラエルの民たちに、神のみ心を示すものとして律法が与えられました。神の基準が律法を通して明確に示された ことで、具体的に罪を罪として知ることができるのです。律法を通して、自分が確かに罪人であることがよくわかるのです。

 神のみ心は永遠に変わることはありません。神の基準は変わりません。新型コロナウイルスの広がりにより、今教会のあり方、礼拝の持ち方が問われています。神がモーセに与えた十戒では、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」と命じています(出エジプト20:8~11)。安息日は神を礼拝し、神の御前に休んで新しい力を得る日です。主の約束に変わりはありません。また「ある人たちの習慣に倣(なら)って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう」(へブル10:25)というみことばもあります。聖日が主の日であり、聖なる祝福された日として大切にし、また集まれる限り集まって神を礼拝し共に交わることを大切にしつつも、今のように集まることが困難な時もあります。その時に、私たちの心が問われます。「これまでも心から神を礼拝していたのか、からだは教会に来ても形だけの礼拝をしていたのではないか」、「神よりも人を求めて礼拝に出席したのではないか」「奉仕があるから来ていたのではないか」、これまでどのような心で礼拝をしていたかが問われます。

 時代や環境が変わっても、神の言葉は変わりません。神のみ心は変わりません。変わることのない神の基準があることで、私たちはいかに神のみ心から外れた者であるかを知らされます。そしてアダムの罪を持つ者であることを具体的に知るのです。そこから救われるには、自分の力ではお手上げであることをいよいよ知らされるのです。


<14節>

 「けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じように罪を犯さなかった人々さえも、支配しました」

 律法が与えられる前も、アダムの罪の結果である死は人々を支配しました。アダムの場合は、「善悪の知識の木からだけは食べてはいけない」という明確な命令がありました。アダムはその命令に背いたのです。しかしアダムからモーセの間の人々には、そのような基準がなかったため、アダムのような違反もありませんでした。それでもその時代の人々も皆、死にました。その期間も「死」は人々をずっと支配したのです。アダムの罪が、ずっと罪として引き継がれていきました。

 「アダムは来たるべき方のひな型です」

 ここの「来たるべき方」とは、神の子イエス・キリストです。「ひな型(原語は“テュポス”)」は、 「予型」とも訳します。旧約時代の事象が、新約におけるイエス・キリスト(教会)の予兆として記述されているという意味です。「実例」(Ⅰコリント10:6)、「教訓」(Ⅰコリント10:11)、「模型」(へブル9:24)とも訳されています。

 アダムを最初の人(第一の人)、キリストを最後のアダム(第二の人)とも表現しています(Ⅰコリント15:45~49)。最初の人アダムを通して罪が世界に入り、罪と死が世界を支配しました。第二のアダム(キリスト)は、死んだ者の初穂として死者の中からよみがえり、信じる者たちに復活のからだを与えてくださいます(Ⅰコリント15:20~22)。最初の人アダムの中にとどまったままでは、死と滅びを免れることができません。アダムの罪を持たない天に属するアダム、即ちキリストこそ、ご自身も死からよみがえり、キリストの内にとどまるすべての人を生かす方です。


 アダムの罪は、人類に死をもたらしたほど深刻です。しかし最後のアダムであるキリストにより、恐ろしい罪の力は萎えてしまいます。キリストの十字架の恵みにより、すべての罪は飲み込まれてしまいます。人間の知恵や力では解決できない原罪と死に、キリストは打ち勝ちました。キリストの十字架の死と復活は、アダムから延々と続く罪の力を断ち切ることができるのです。キリストは、罪という病の完璧なワクチンとなってくださいました。

 アダムによってすべての人に死がもたらされましたが、キリストによって永遠のいのちがもたらされました。「御子を持つ者はいのちを持っている」(Ⅰヨハネ5:12)のです。生まれた時から全身アダムの罪で覆われ、死と滅びがふさわしい者であったのに、神はキリストにとどまる者たちを罪と死から救い出してくださったのです。永遠のいのちの希望を持つ者としてくださったのです。キリストを持つ者は、アダムの罪から解放されて永遠のいのちを持っているのです。
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 3月8日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「いのちの木への道」

           ローマ5:12、創世記3:20~24  三浦真信牧師

 一人の人アダムによって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうしてすべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がりました(ローマ5:12)。罪がどこからどのように始まり、罪のもたらす結果がいかに悲惨であるかを、創世記3章から4回に分けて学んでいます。その最後3:20~24です。


<20節>

 人(アダム)は、妻の名を「エバ」と名付けました。エバとは、「生きる」「いのちを与える者」という意味があります。人が罪を犯し、死ぬべき存在となったにも関わらず、このような名前をアダムは付けました。「死」があることで、逆にいのちの尊さを感じたことでしょう。またエバを通して、産みの苦しみがありながらも(16節)、いのちが生み出されていきます。いのちの誕生への期待も込められています。

 人が死ぬべき存在となったことは、人間の罪に対する神のさばきですが、キリストがサタンの頭を打ち砕くとの宣言(15節)により、いのちの救いへの希望を抱くことができたのです。様々ないのちの希望を込めて、アダムは妻の名を「エバ」と呼びました。


<21節>

 罪を犯した結果、人は裸のままで生きていくことができなくなりました(7節)。体も心も恥に満ちたものとなってしまったからです。肉体の恥部はいちじくの葉で覆(おお)い、心の汚れは言葉(言の葉)で隠すようになりました。人の手で作った物は一時的であり、神の前にはいくら隠しても露(あら)わにされたままです。神の側で、この哀れな状態であるアダムとその妻のために、皮の衣を着せてくださいました。恐らく腰だけではなく、全身を覆う衣でしょう。人の恥を覆うものは、人間のお手製ではなく、神が備えた覆いが必要なのです。裸の恥を隠すいちじくの葉はすぐに破れてしまいます。心の恥は人間が偽りやきれいな言葉で飾っても、いつかボロが出ます。

 神は皮の衣で人を覆われました。「皮」が取られるために、動物のいのちが犠牲になっています。人の罪が覆われるためには、他のもののいのちが犠牲にならなければなりません。

 旧約の時代には、動物のいのちが人間の罪のためにささげられました。そしてやがて神の小羊イエス・キリストが十字架で罪の完全ないけにえとして屠(ほふ)られたのです。私たち人間の罪の恥は、この義の衣であるイエス・キリストにより完全に覆われるのです。イエス・キリストを着ることで、罪からきよめられるのです。完全な罪の贖いとなって十字架で死んで三日目によみがえられ、今も生きておられ、罪をきよめ続けてくださるキリストをこの身に着ましょう(ガラテヤ3:27)。私たちの内側からは、古い肉の性質がたえず出てきますが、そちらに餌(えさ)を与えるのではなく、キリストを身にまといましょう。私たちの義の衣となってくださったキリストにいよいよ心を向けていきましょう(ローマ13:14)。律法学者パリサイ人のように、自分で自分を義としていく方向ではなく、自分の罪を認めてキリストのあわれみで罪をきよめていただきましょう(ルカ18:9~14)。キリストに罪を覆われていく人こそ、神に義と認めていただく人です。自分の義を言い立てるのをやめて、キリストの義の衣をすっぽり着せていただきましょう。「神様。罪人の私をあわれんでください」とひざまずいて祈る取税人の祈りこそ、キリストを着ていく方向です。

 神が与えてくださった皮の衣、罪なきキリストが犠牲となって罪を覆ってくださる義の衣を着ましょう。神自ら、人間に皮の衣を与えてくださり、裸の恥を覆ってくださいました。罪を犯した人に対して、すでに神のあわれみがここにも示されているのです。


<22節>

 「人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった」とは、神のようになったということではありません。善悪を知るようになったという意味では、あたかも神のようになってしまったと、皮肉を込めた表現ととれます。あるいは、天使から堕落したという説のあるサタンのことを「われわれのうちのひとり」と表現している可能性もあります。その場合サタンは、正に「神のようになりたい」(5節)と思い上がり、高ぶって善悪を知るようになりました。同じように人も、神のようになろうとして善悪の知識の木の実を食べてしまったのです。

 いずれにしても、罪を犯した人は、神に敵対する存在となってしまいました。善悪に対して、神の基準ではなく、人間の自立的な知識を持つようになってしまいました。その結果善を憎み、悪を愛するようになってしまったのです。

 「今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう」。園の中央にあった「いのちの木」(2:9)は、永遠のいのちを与えるものです。人が罪を犯した存在でありながら、永遠に生きることがないように、神はいのちの木に人が近づかないようにされました。いのちの木に関しては、キリスト再臨後に来る新天新地にもその存在が記されています(ヨハネ黙示録22:2、14)。


<23節>

  神である主は、人をエデン(「喜び」の意味)の園から追放します。いのちの木を食べさせないことで、人は一時的な肉体の死を経験するようになります。それによって自分の限界を知り、死の原因である罪を知ります。人は今の肉体を持ったままで永遠には生きません。必ず終わりがあります。死があることで、人間が限界のある弱い存在であることを認めさせ、謙虚にします。

 罪を持ったままで永遠に生きるなら、それは苦しいことです。また歳をとり続けて永遠に生きることも辛いことです。罪の重荷を背負いながら、また衰え続ける肉体で永遠に生き、労苦して働き続けるとしたら、それは苦しみを増すことになります。死の先に救いがあるなら、死は休息であり神の恵みとなるのです(ヨハネ黙示録14:13)。

 エデンの園を追い出された人は、自分が取り出された大地を耕しながら生きるようになります。罪ゆえにのろわれた大地で、茨とあざみと戦いながら、苦しみ顔に汗を流して糧を得るようになりました(17~19節)。


<24節>

 神はエデンの園から人を追放し、いのちの木に近づかないように、いのちの木への道を守りました。具体的には、「ケルビム」という天的存在と、神の怒りの象徴である「輪を描いて回る炎の剣」をエデンの東に置いて、人がいのちの木に近づかないようにされたのです。

 いのちの木への道は閉ざされましたが、いのちの木そのものは消滅しませんでした。ケルビムと回る炎の剣が置かれて、いのちの木は大切に守られたのです。やがて鋭く輪を描いて回る恐ろしい炎の剣の中に、イエス・キリストが生身で突入してくださいます。その身を十字架で切り裂かれながら、永遠のいのちの木への道を私たち人間のために開いてくださるのです。イエスご自身が、このいのちの木への道となり、永遠のいのちを与える方です(ヨハネ福音書14:6)。いのちの道として、私たちを救いの喜びで満たしてくださいます(使徒2:28)。イエスが十字架で流された血によって、いつでも神に近づくことができる新しい生ける道なってくださいました(へブル10:19~20)。  

 目に見えないウイルスとの戦い、自然の脅威の中に人類が置かれても、いのちの木への道となられたキリストを着ていくなら、ことさらに恐れる必要はありません。恐れの根源である死の問題が解決しているからです。キリストを通して、神のあわれみが示されています。人が罪を犯したその時から、すでに神のあわれみが示されていました。神は試練と罪の苦しみの中にも、ご自身のあわれみを同時に示し続けておられます。キリストの贖いを感謝して受けとりましょう。永遠のいのちへの道であり、義の衣となられた主イエス・キリストを着ましょう。
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 3月1日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「罪の苦しみと神のあわれみ」

           ローマ5:12、創世記3:16~19  三浦真信牧師

 ローマ書5:12でパウロは、「一人の人アダムによって罪が世界に入り、罪によって死が入り、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」と、罪の始まりとその広がりについて述べています。その罪が世界に侵入してきた時がどのようであったか、またいかに罪が悲惨な結果を人間社会にもたらしているかを、創世記3章から4回に分けて学んでいます。今日はその3回目です。


<16節(創世記3章)>

 15節で、神の言葉に従わないように女を誘惑した蛇(サタン)に対して、神からの宣告がありました。そして女に対して、ここで二つのことが宣告されています。

① 産みの苦しみ

 子を産むことは、もともと祝福の出来事でした(1:28)。それが、罪を犯した堕落後は、出産が苦しみとなります。「わたしは、あなたの苦しみと うめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む」とあるように、おめでたい出来事でありながら、苦痛が伴うのです。肉体的苦しみだけでなく、やがて死ぬべき子を産むという精神的苦痛が伴います(特にエバは、自分たちの罪の結果で死が入ったことをリアルに感じながら、人類初の出産を経験します)。 産みの苦しみはあっても、子を得る喜びは残されています。生みの苦しみさえも忘れさせる喜びは、神が残してくださいました。それでも、子を育てていく過程で、成長する喜びと同時に、肉体的精神的苦痛も伴います。

② 男に支配される苦しみ

 「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる」。神の創造の意図は、女性は男性の「ふさわしい助け手」(2:18)でした。そして男と女は、互いに補い合ってまるで一つの存在であるかのようでした(2:23~24)。しかし罪によって男女の間の調和が失われ、支配と隷属の関係になってしまい、男が力で支配する社会になりました。現在女性が社会進出するようになっても、女性(妻)の願いが男性(夫)によって止められてしまうジレンマは変わりなくあります。また情において男性を慕う時に、相手に支配されてしまうこともあります。


<17~19節>

 次に男への神からの宣告です。ここから「人(アーダーム)」という言葉の冠詞がなくなり、固有の人名として「アダム」となります。神は男に、「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる」と言われました。そもそも男が堕落したのは、神の言葉ではなく妻(女)の声に聞き従ったからでした。神から直接この命令を受けたのは、男でした(女が造られる前に、禁断の木の実を食べてはならないと命じられています。2:16~17)。神から直接受けた命令を、男が女に伝えていました。

 ここで妻の声に聞き従った結果罪に陥ったのだから、妻の声には耳を塞ぐべきということではありません。たとえどのような内容でも聞くことは大切です。しかしその上で、神の言葉と違う時には、神の言葉を優先しましょう。そうしなければ、どちらも(家族ごと)、神の言葉から外れた堕落の道を辿ることになってしまいます。男は、女の声を聞きつつも、最後は神と相談して決定するように造られています。男がいない時には、女にもその責任が求められています。

 妻の声に聞き従って罪を犯した男(アダム)に対して、神は「大地が、あなたのゆえにのろわれる」と言われました。大地がのろわれたため、男は苦労しながら食を得ることになります。もともと労働(耕作)は喜びであったのに、「苦しんで」「顔に汗を流して」労働することになりました。神は人に、「地を従え(1:28)」「人にそこを耕させ」(2:15)るようにと命じました。労働の結果として、「その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木」(2:9)が神から提供されていたのです。本来労働は、神から与えられた楽しい日課だったのです。しかし男が罪を犯し、大地がのろわれたため、人の手では大地をコントロールできなくなりました。「大地は茨とあざみを生えさせ」(18節)、良い実を結ぶ邪魔をするようになり、男はそれらと戦いながら労働するようになったのです。

 しかし「ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」と神は言われます。人は、「大地のちりで形造られ、神からいのちの息を吹き込まれて生きるものとなりました」(2:7)。神の息(霊)を吹き込まれなければ、人はちりに過ぎない存在です。

 人はのろわれた大地と限りなく戦うのではありません。その苦労が終わり、休息の時がやがて来ます。「ついにはその大地に帰る」とは、「死」を指します。元来「死」はなかったのに、人は死ぬべき者となりました。それは人間の罪の結果です。ですから、すべての人が死ぬということは、人間の罪に対する懲罰です(ローマ6:23)。同時に、「死」は休息でもあります。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる」(ヨハネ黙示録14:13)。主にあって死ぬものは、幸せなのです。「死」は、キリストの贖いのゆえに、「懲罰」ではなく「安息」となったのです。地上での茨とあざみの戦いという労働の苦しみから、死(キリストのうちにある)によって解き放たれ、安らぐことができるのです。


 蛇(サタン)、女、男への宣告の中に、神の人への大きなあわれみが示されています。サタンに対しては、神は人との間に敵意を置き、完全にその頭を打ち砕かれました(15節)サタンの宣告の中で、人類の救いが秘められています。

 人に対しては、出産の苦しみや労働の苦しみが語られながらも、懲罰であるはずの死が休息と変えられるというあわれみが示されています。人類の罪の始まりから、死と生きる苦しみがありつつも、恵みとあわれみが備えられていることを、神は暗示してくださっています。罪の刑罰が語られながら、神のあわれみである福音がそこに込められています。苦しみうめきがある人生の中に、神は安息と喜びも与えてくださいます。苦痛、不自由、悲しみの中にも、キリストにあって私たちは、常に主のあわれみを見出していくことができるのです。罪の始まりから、すでに救いのご計画を備え、あわれみを示してくださる神がおられることを感謝しましょう。
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