(2020年2月)

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 ・ 2月 2日
 




 2月23日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「神のみ心を求める思いやり」

           ルツ記3:1~13  三浦真信牧師

<1~6節>

 ルツの姑ナオミは、ルツが若いのに夫に先立たれて独り身であることを心配して、「買い戻しの権利のある親類」(2:20)であるボアズとの結婚を勧めます。そして、そのための具体的な知恵をルツに与えます。

 ボアズは、収穫作業を終えて慣例通りに今夜食事を楽しみ、収穫した穀物とともに一夜眠ります。大仕事を終えていい気分になっているボアズのいる打ち場に、入浴して油(香水)を塗り、最良の衣服を着ていくように提案します。そしてボアズが寝た後に彼の足もとをまくり、そこで寝るなら、ボアズがすべきことを教えてくれるとルツに伝授します。ルツは、姑ナオミから言われた通りに実行しました。


<7~9節>

 その夜、ボアズは収穫作業を終えてから食事をし、良い気分で収穫したばかりの積み重ねた麦の傍(かたわ)らで寝ました。ルツは姑ナオミに言われた通り、ボアズの足もとに寝ます。夜中になって人の気配を感じたボアズは、ルツがいることに驚きました。ルツは、「あなたの覆(おお)い(「翼」(2:12)と同語)を、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しの権利のある親類です」とボアズに言いました。「覆い」は「衣のすそ」のことです。衣のすそを女性にかけることは、プロポーズのしるしでした(エゼキエル16:8)。ルツは、ボアズの方から自分に対して求婚することを求めていることになります。ボアズがルツに「娘さん」と呼びかけていることからも(10節)、ボアズとルツは親子ほど歳が離れていたことが考えられます。ですからボアズからルツにプロポーズをすることは憚(はばか)られたことでしょう。ですからルツの方からこのような大胆な行動をとったことが考えられます。

 でもルツは前後の見境もなく一人の男性に身を任せる女性ではありませんでした。ボアズに「あなたは買い戻しの権利のある親類です」と言っていることからも、神の律法(レビ25:25)に従ってナオミの一族を保護しようとしていることがわかります。「買い戻しの権利」については、姑ナオミからそのような律法があることをルツは聞いて学んでいたのでしょう(2:20)。ナオミの夫エリメレクは、飢饉(ききん)のために土地を売り、そのお金をモアブの野での生活資金にした と考えられます(1:1)。しかし今エリメレクは死に、土地の所有権は妻のナオミにあります。ただその所有権を再び買い戻さなければ、自分の土地として使用することができません。そのために律法では、最も近い親戚がそれを買い戻す権利を持つことになっています。この買戻しの権利を持つ人を、「ゴーエール」と呼びました。ゴーエールは責任の重さの割りには、自分にとって得することがありません。買い戻した土地から収穫できるものは、自分の所有物とはなりません。土地の権利も自分のものとはなりません。ですから兄弟や親戚への愛と、神に従うという信仰なしには、とてもできることではありませんでした。


<10節>

 ルツの大胆な行動にボアズは驚きましたが、ルツが同年代の若い魅力的な男性と十分結婚できるにもかかわらず、自分個人のことより家族のことを思って姑ナオミの勧めを受け入れ、神の言葉に従うことを優先してボアズのもとに来たことに感動しています。それは「先の誠実さ(ルツが夫の死後姑ナオミにしたことや故郷を離れて慣れない土地までナオミについてきたこと)」にもまさることとして、祝福しています。


<11節>

 ボアズは、この状況でも一時的な情欲に従わず、まだ夫婦になっていないことを踏まえて誠実にルツに対応しています。そして彼女が望んでいることを、ボアズの方で進めていくことを伝えます。ルツは「しっかりした(ハイル)女である」と、すでにベツレヘムの町の人々も認めていました(「ハイル」は、2:1でボアズに使われている「有力な」と同語です)。


<12~13節>

 ボアズは、買い戻しの権利に関して自分よりも近い親類がいるから、まずその人に「親類の役目を果たす(ルツと結婚して買い戻しの権利を持つこと)」か、確認すると提案します。そしてその人が望まなければ、自分がルツを買い戻すと約束しました。ボアズは事の成否を神の御手に任せ、神の言葉に従うために少し時間をかけることにルツの同意を得ました。

 ボアズとルツとの間には、このように思慮深く思いやりに満ちた会話が、神のみ心を求める中で交わされていきました。

 今日の聖書個所から、ボアズの三つの見習うべき態度を心に留めましょう。

① ボアズはルツとナオミ家族の幸せを第一に考えました。

 買い戻しの権利を持つことは、自分が持っている財産を犠牲にする覚悟が必要です。たとえそうなったとしても、ボアズはナオミの夫エリメレクの土地を買い戻し、ルツと結婚する覚悟をしました。自分の幸せよりも、相手を幸せにすることを第一に考えました。

② ボアズはルツとの関係が明らかにあるまで情欲を自制しました。

 ルツの大胆な行動にもかかわらず、一時的な情欲に負けず、夫婦となるかはっきりするまで自制しました。夫婦とならなかった時に、傷つけたり痛みを負わせることのないように配慮ある行動をとりました。

③ボアズは神のみ心を最優先しました。

 ボアズは、ルツとの結婚が神のみ心なら必ず結ばれるし、み心でなければ結婚には至らないと確信していました。人間的な知恵で画策せず、一切を神に委ねました。神を信頼していたからです。ボアズよりも買い戻しの権利のある近い親戚が、その役目を果たす気持ちがあるなら、律法に基づいてその人がルツと結婚すべきと受け取っていました。それによって、神のみ心がはっきりするまで待つことにしました。またルツもボアズと同じ信仰に立ち待つことにしました。

 お互いが神のみ心を優先しようという思いに立たなければ、2人の関係は決裂していたでしょう。神のみ心を大切にしたいという共通の思いが、お互いを労(いたわ)り思いやることにつながっていったのです。性急に結論を出さず、一時の感情で動かず、神のみ心を求めて待つことが、あとで振り返った時に最善だったと言える時が来るのです。

 「ですから愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい」(エペソ5:17)。今迷っていることがあるなら、焦(あせ)らず一時的な感情で突っ走らず、主のみ心をじっくり祈り求めましょう。
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 2月16日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「あなたはどこにいるのか」

           ローマ人への手紙5:12  創世記3:9~15   三 浦 真 信 牧師

<9節>

 罪を犯し、「主の御顔(みかお)を避けて身を隠した」(8節)人間に対して、神は「あなたはどこにいるのか」と呼びかけます。人がどこにいるのか、何をしたのか、神はすべてのことをご存知です。その上でなお、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけてくださるのです。人間の側がいくら主の御顔(みかお)を避けて身を隠しても、見放したり諦めたりせず呼びかけ続けてくださるのです。人が最初に罪を犯したこの時から、神の人への追求が始まります。この神の呼びかけは、人類救済へと繋がっていくのです。

 「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしと食事をする」(ヨハネ黙示録3:20)。人が罪を犯し主の御顔(みかお)を避けて隠れた時から、主は「あなたはどこにいるのか」と呼びかけ、わたしたちの心の戸をノックしておられます。決して無理矢理(むりやり)、戸をこじ開けようとはせず、私たちの方から戸を開けて「お入りください」と言うのを待っておられます。心の戸を開けさえすれば、一緒に親しく食事の交わりをしてくださいます。エデンの園で罪が入る前の時のように、親しく交わりたいと神の方から呼びかけておられるのです。


<10節>

  男(アダム)は、何が起きて今どうしているのか、事実をそのまま答えています。しかし事実を話したから心が軽くなったわけではありません。自分の罪として認めていないからです。神の言葉に背いた結果、神から身を隠すことになったとは伝えていません。


<11節>

 神は男に対して、何が問題でこのようになったかをハッキリ認めて告白するように「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか」と追及します。「裸であることを恐れている原因は何か?だれの言葉を聞いてこうなったのか…」。罪を犯したアダムにとって、神の問いかけは厳しく感じたことでしょう。神との親しい関係が壊れて、神への恐怖が彼を支配していました。


<12~13節>

 男はそばにいた女と、女を与えた神の責任にしました。そして女は蛇のせいにしました。自分の罪を認めなければ、罪を責任転嫁するしかありません。そして自分の罪を人のせいにしている間は、神との平安な関係を持つことができません。

 人間の罪の性質は、常に責任転嫁していきます。自分が悪いことさえも、人のせい、神のせいにしていきます。そしてその先に確かな赦(ゆる)しが無い限り、人は真に自分の罪を認めることができません。認めてしまったら、どうなってしまうかわからず恐怖だからです。この罪の世界は、どこを見ても罪のなすり合いばかりです。そこでは何も解決していきません。造り主との関係が回復しないからです。

 イスラエルの王であったダビデが神の御前に罪を犯したときに、その罪を認めず黙っていたときの苦しみを「私が黙っていたとき、私の骨は疲れきり、私は一日中うめきました」(詩篇32:3~4)と語っています。そのうめき苦しみから、やがて罪を認め、神に告白して、ダビデは神の赦(ゆる)しを体験しました(詩篇32:5)。その神の赦しを受け取ったダビデは、神に罪赦されることが何と幸せなことかと叫んでいます(詩篇32:1~2)。責任転嫁する方向ではなく、自分の罪を認めて主に告白していくときに、主の限りない赦しがあり、神との関係回復に導かれていきます。

 しかし人類最初に罪を犯した男と女は、罪のなすり合いをし、神との関係も人同士の関係も壊していくことになります。


<14節>

 男と女に対しては、何があったかを問いただし、それに答えるチャンスを神は与えましたが、蛇に対しては判決が一方的に語られています。自らを高い所に置こうとした蛇は、地を這(は)う最も卑しめられた状態に落とされます。


<15節>

 神は、蛇を用いて人を堕落させたサタンと女の間に敵意を置かれました。人は罪の中をさまよいながらも、どこかで善を求め、神を求めます。サタンになりきることはできず、またサタンに完全に支配されることはありません。

 そして彼(イエス・キリスト)が、サタンの頭を完全に打ち砕きます。キリストはユダヤ教指導者たちの陰謀により十字架にかけられ死にますが、3日目によみがえり罪と死に勝利しました。完全にサタンの頭を打ち砕いたのです(ここは「原福音」、また「聖書で最初のメシヤ預言」とも言われています)。サタンがしたことは、キリストのかかとにかみついた程度のことです。サタンは今もしぶとく神に敵対し、神の民を惑わそうと誘惑しますが、それもかかとにかみつく程度のことなのです。サタンは終わりの日に、完全に投げ落とされます。「こうして、その大きな 竜、すなわち古い蛇、悪魔とかサタンと呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。」(ヨハネの黙示録12:9)。


 神の言葉よりもサタンの声に従って罪を犯した最初の人アダムですが、すでにこの時から「あなたはどこにいるのか」との神の追求が始まっています。罪が世界に入り、世界に広がり、その罪(原罪)が代々引き継がれていますが、神はサタンと人との間に敵意を置き、十字架の贖いによりサタンの頭を打ち砕き、終わりの日に完全にサタンを投げ落とされます。

 罪のなすり合いをし、神のせいにまでしていく愚かな人間に対して、神はなおも「あなたは今どこにいるのか、どこからはずれてしまったのか、なぜ私の顔を避けて暗やみに行くのか…」と呼びかけ続けておられます。その呼びかけに私たちが応答し、自分の真の姿を認めてキリストを心に迎えるなら、限りない十字架の赦しがそこにあります。サタンの頭を打ち砕き、勝利した復活のキリストがおられます。キリストの赦しを信じて、そのままの心で戸を開きましょう。エデンの園の時のような、神との親しい関係を回復してくださるキリストを歓迎しましょう。
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 2月9日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「私たちが求める信仰」

           ピリピ人への手紙2:5~11  新一教会 主任牧師 ぺ・ヨハン師
 久遠教会で礼拝ができること、またメッセージをすることを許してくださった神様に感謝します。今日、この礼拝に来てくださった皆様に、主の平安がありますように、主の御名(みな)で祝福します。1993年、初めて新一教会が久遠教会を訪問してから今まで良い関係が維持されています。2018年5月13日の主日礼拝で、私は皆様と共に礼拝をしてメッセージをしました。今日再びメッセージをする機会を与えられて、心より感謝申し上げます。

 私たちは普段、教会で熱心に聖書を読み、熱心に祈り、礼拝や集会にも熱心に参加する信徒たちを見て、あの人の信仰は素晴らしい、あの人は聖霊に満たされていると思うかもしれません。しかし、教会の中で熱心に仕えるだけで、それが本当に信仰が良いと言えるでしょうか。神様が願っておられる信仰の姿は、教会の中だけで頑張る信仰でしょうか。  今日、私たちが求めるべき信仰ある人の姿はどのようなものであるか、「十字軍の霊性」と「十字架の霊性」、この二つの言葉を通して、聖書が語るクリスチャンの姿を考えてみたいと思います。


1.十字軍の霊性

 「十字軍の霊性」とは、言葉通り、好戦的で相手を征服するような態度を取ることです。 11世紀から13世紀まで行われた十字軍の遠征を皆様ご存知かと思います。十字軍の遠征とは、イスラム教諸国が聖地エルサレムを征服していたので、そのエルサレムを奪還(だっかん)するために8回に渡って行われた戦争です。

 戦いの際、当時の教会が掲げた言葉は、「神様の栄光のために、聖地の都エルサレムの回復のために!異教徒たちを亡ぼすために!聖なる教会を守るために!」でした。しかし、この掲げた言葉は、兵士たちを徴兵するための大義名分であって、実際には8回にわたる遠征で商業的な貿易の利益と政治的な支配権を確保するために起こした、とても世俗的な戦いでもありました。当時その遠征に参加した十字軍たちは十字架の旗を持ち、鉄の兜(かぶと)に十字架を刻んでいましたが、世俗的な目的を達成するために信仰を利用したにすぎませんでした。  

 教会で熱心に信仰生活を送ることはいいことです。しかし、日常生活の中で全くその実が実らなければ、それはただの頑張る信仰かもしれません。イエス様は私たちに、「世の光、塩である」と言いました。教会の光、塩とは言わなかったのです。  

 では、こうした十字軍の霊性ではなく、私たちが本当に求める霊性の方向は何でしょうか。十字架の霊性です。


2.十字架の霊性

 「十字架の霊性」という用語をもう少し正確に表現すると、十字架につけられた霊性とも言えます。これは攻撃と征服を全面に出した世俗的な欲ではありません。かえって自分を無にして低くする、自己犠牲を通した赦し、謙遜、それらを捧げるような霊性です。これは私たちが求めていかなければならない信仰の姿です。

 こうした霊性の一番代表的なたとえを今日のメッセージの中で探すことができます。ピリピ書の著者はパウロです。当時パウロは自分がもうじき死ぬことをわかっていました。しかしここでパウロは、自分が生きている時間があまり残されていないからと言って、「十字軍の霊性で周りを征服せよ、福音の旗をたてるために手段と方法を選ばず攻撃的に伝道せよ」とは言いませんでした。

 パウロが提示した信仰の人、クリスチャンの姿はどんなものでしょうか。


<ピリピ書2章5〜8節>

 これらのみ言葉を要約して言いますと、パウロは「愛するピリピ教会の信徒たち、私たちが求める唯一の目的はイエスキリストです。その方は神様と同じ立場であり偉大なる方ですが、それを拒否しました。そして謙そんに神様に従順に従い、私たちの元に来てくださったのです。人に仕えるため、僕のような立場をとりました。そして人々のために死を選んだのです。」と言っています。

 パウロが求めた霊性は、今私たちが求めている霊性と同じです。これが十字架の霊性です。 自分を犠牲にし、へり下っていく、そして主に仕えて自分を死んだものにするこの十字架の霊性、これがパウロが主張した、神様が望んでおられる霊性です。

 私たちが求めるべきである信仰の人の歩みは、十字軍の旗を求めるものではなく、自己犠牲の十字架によるものです。自分を無にして神様だけを見上げる、自分の益とプライド、自分の名誉ではなく、主の栄光と主の喜び、教会の益と教会の一部になること、 これが私たちが求めるべき霊性であり、主が望んでおられるクリスチャンの歩みであります。

 これらのものが実る時こそ、私たち久遠教会と新一教会が良い基盤の上に立つことができます。もちろん自分を犠牲にしてまでの道は決して易(やさ)しい道ではありません。人の前で自分が負けているように感じたり、結果がいつ出るかも分からない、底が抜けたつぼに水を注いでいるように見えるかもしれません。大きなイベントでかなりの成果を出すことの方が早くて良いように見えます。  

 しかし、私たちが求めるのは十字軍の霊性ではなく、十字架の霊性です、なぜそうしなければならないでしょうか。それはイエス・キリストがそう生きておられたからです。イエス・キリストは十字架を通して全てのもの、自分の命までお捧げになりましたので、神様はそんなイエス・キリストを喜んでおりました。それで栄光なる神様の御座(みざ)に高く上げられたのです。


<ピリピ書2章9節〜11節>

 「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝(ひざ)をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(2:9〜11)  十字軍の霊性と十字架の霊性をよく比較した詩がありますが、その一部を読んでみたいと思います。

 ・バプテスマのヨハネの弟子たちがイエス・キリストを妬(ねた)んだのは十字軍の霊性、「あの方は  盛んになり私は衰えなければなりません」と言ったバプテスマのヨハネは十字架の霊性。

 ・ペテロが主の行く道を阻(はば)んだのは十字軍の霊性、イエス・キリトがご自身の思いを拒んだのは十字架の霊性。

 ・どちらが強いかという戦いは十字軍の霊性、幼子のような信仰を持ちなさいと言ったのは十字架の霊性。
 ・自分を高くすることは十字軍の霊性、自分を低くすることは十字架の霊性。

 ・弱い者を無視することは十字軍の霊性、弱い者を省(かえり)みることは十字架の霊性 ・ユダの裏切りは十字軍の霊性、キリストが捕まるままになされたのは十字架の霊性。

 ・罪を判断し処刑することは十字軍の霊性、黙々と走り続けたのは十字架の霊性。

 ・お墓の封印も守れなかったのは十字軍の霊性、死に勝ち、お墓の石を動かした復活の  勝利は、十字架の霊性。    


 今日礼拝を捧げている日本の久遠教会と韓国の新一教会の皆様が本当に信仰の人として正しく霊的な生活を送るためには十字軍の霊性ではなく、十字架の霊性を求めなければなりません。  

 十字架の霊性、その霊性で生き、生涯の本当の幸福を感じていた使徒パウロの告白(Ⅱコリント6:8〜10)を最後に読んでメッセージを終わります。

 「また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲(こ)らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」
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 2月2日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「罪と死の始まり」

           ローマ人への手紙5:12、 創世記3:1~8  三浦真信牧師
<12節>

 「一人の人」最初の人アダムによって、「罪が世界に入り」ました。この「入り」の原語は、「侵入する」という意味の言葉です。罪が最初の人によって、侵入し押し入ってきたのです。そして「その罪によって死が入り」ました。こちらの「入り」の原語は「通り抜けた、刺し通した」という意味の言葉です。

 罪が世界に侵入した結果、死が容赦なく突き刺してきたのです。だれも逃れられない悲惨で恐ろしい死が、すべての人を刺し通すように世界に入ってきました。  

 「こうして、すべての人が罪を犯したので」とあるように、すべての人間が最初の人アダムの罪の性質を受け継いでいるのです(原罪)。ですから、だれもこの罪と関係のない人はいません。すべての人が罪を犯すようになっています。そしてその結果、だれ一人例外なく人は死ぬのです。

 どのようにしてこの罪が入り、死が入ってきたのかを、創世記3章を中心に学びましょう。


<創世記3章1節>

 神が男からとったあばら骨の一つを肉でふさいで造られた女(2:21~22)が、エデンの園の中央の辺りで一匹の蛇に出会いました。「蛇」は、ヘブル語でナーカーシュ(光輝くものという意味)です。今の蛇からはあまりイメージできない言葉ですが、人が罪を犯す前は、すべてが非常に良いものでした(1:31)。ですから、蛇も光り輝く存在だったのかもしれません。これまであまり気にも留めていなかった善悪の知識の木ですが、光り輝く蛇が側(そば)にいたことで、その木自体も麗(うるわ)しく見えたかもしれません。「ほかのどの生き物よりも賢かった」蛇をサタン(悪魔)が用いて、女を誘惑してきました。

 ここで蛇と女との会話が始まります。すべての生き物を人が治めるため(1:28)に、何らかの方法で人と動物がコミュニケーションをとれたのかもしれません。蛇は、「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」と女に質問します。実際には、神は「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい」(2:16)と言われました。驚くべき自由の中で、人は生きていたのです。サタンは神の言葉を勝手に変えて、とても厳しい命令を出されたかのように思わせます。神がとてつもなく厳しい要求を人にしておられるかのように思わせて、神の愛から目をそらせようとしてきます。「思いのまま食べてよい」と言われた神の言葉を厳しい内容に変えた上で、「神は本当に言われたのですか」と、神の言葉そのものに不信感をもたせようとしています。


<2~3節>

 女は、「それに触れてはいけない」と神が言っていない言葉を付け加えました。また「あなたがたが死ぬといけないからだ」と、とても曖昧(あいまい)な言葉に変えています。神は「善悪の知識の木からは食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と語られたのに、「死ぬといけないから」という言葉に変えてしまっています。サタンは、神の言葉を曖昧に変えて、私たちをそそのかしてきます。たとえ自分には難しいことであっても、神の言葉を変えてはいけません。自分にできる内容に勝手に神の言葉を変えてはいけないのです。むしろみことばに従いきれないどうしようもない自分を認めて、そのような私たちのために惜しみなく与えてくださったキリストの赦しと聖霊の助けを求めましょう。


<4~5節>

 女が神の言葉を曖昧(あいまい)に変換させたところで、「あなたがたは決して死にません」と、サタンは蛇を通して、神の言葉と正反対のことを断言してきます。むしろそれを食べると目が開かれて、「神のようになる」と言います。「神のようになる」という言葉は、人の心をくすぐります。今までは、造り主と被造物という関係を当然と受け取って満足していたのに、「神のようになれる」と聞いて、心が動いてしまいました。「神のようになりたい」という心が、罪の根源です。造り主の下にいたくはない、むしろ自分も神のように偉くなりたいと思った時に、善悪の知識の木を食べればそのようになり、食べても絶対死なないから大丈夫と言われたのです。


<6節>

 蛇からそのように言われて、今までは何とも思わなかった善悪の知識の木が、「食べるに良さそうで、目に慕わしく、賢くしてくれそうで好ましく」見えてきました。造り主なる神の言葉ではなく、被造物である蛇の言葉に耳を傾け、神の言葉より自分の感じた印象を優先した女は、善悪の知識の木の実を食べることの効果が絶大であると思えてしまい、ついにその実を食べてしまいます、そして共にいた夫(男)にも与え、夫も食べてしまいます。男は男で、神の言葉ではなく女の言葉に従ってしまいました。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉」(2:23)と喜び叫んだ女に対する情を、神の言葉よりも優先させてしまいました。サタンが女に囁(ささや)きかけて、女の情を用いて男を神の言葉から引き離していきました。これは今もサタンが良く用いる方法です。人間の情は一見麗(うるわ)しく見えますが、しばしばサタンに用いられるきっかけにもなりますので、気をつけましょう。夫であろうと妻であろうと、親しい人・信頼している人であろうと、神の言葉と違う時には、神の言葉に従っていくことが、最終的にはすべての人の祝福の出来事となっていくのです。


<7節>

 こうして男と女の目は開かれました。罪に対して目覚めたのです。禁断の木の実を食べたこの時から、すごい力で罪が押し入ってきました。ここから男と女は、神との関係よりも互いの情の中で生きるようになります。神に向かうよりも、人間が互いに向き合い、情と欲が絡み合っていく罪に根ざした人間関係が始まっていきます。夫婦、親子、あらゆる人間関係に混乱が生じていきます。  

 目が開かれた二人は、互いが裸であることを知り、イチジクの葉で腰の覆(おお)いを作りました。これまでは裸であることが当然であったのに、急に羞恥心(しゅうちしん)が生じて、互いの性器を隠すようになりました。その陰部が、また人間の情欲の働く場所となっていくのです。  

 肉体だけでなく、罪に目覚めた人間は、互いに心を隠すようになります。本心を覆い隠す結果、互いが疑心暗鬼になり、さらに人間関係を複雑にしていきます。


<8節>

 今までの二人は、主の気配を感じたら、喜んで主のもとに駆け寄っていたことでしょう。しかし神の言葉をうしろにして罪を犯した彼らは、「神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した」のです。罪を犯すと、人は主の御顔を避けて身を隠します。光を避けて暗やみの中に身を潜ませます。  

 罪の結果、造り主なる神と、神の特別な愛の対象として造られた人間の間に、大きな溝ができてしまいました。あれほど親しく喜びであった神との関係は壊れてしまい、人は主の御顔を避けて、暗やみに身を隠す者となってしまったのです。  


 この罪が、世界に入り、世界中に広がり、今に至るまで引き継がれているのです。この罪から救われなければ、人は主の御顔を避けて身を隠す生活から抜け出せません。罪の与える影響は、死んだ後にまで及びます。決してそのままで良くはありません。でも罪を犯した人間にこの問題を解決する力はありません。神の側でこの問題を解決するために、ひとり子キリストをこの罪の世界に送ってくださったのです。私たちがアダムの時から代々受け継いできた原罪のために、罪なきキリストは十字架で死なれました。このキリストを信じる者たちを罪から救うことが、神の知恵です。キリストによって、私たちはこのままで神の正しさ、神の聖さ、そして神に贖われた者としての親密な関係が回復されるのです(Ⅰコリント1:30b)。個々の罪に対する償いはできるかもしれません。しかし最初の人から受け継いでいる原罪は、私たちの手には負えません。丸ごと私たちの罪のいけにえとなって死という代価を払い贖ってくださった、キリストを受け入れましょう。
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