(2020年1月)

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 ・ 1月 5日
 




 1月26日
礼拝メッセージ要約 主題:「もうあなたの罪を思い出さない」

           イザヤ43:22~28   三浦真信牧師

<22節>

 神の民イスラエルは、神の栄光のため(7節)、神の栄誉を宣べ伝えるため(21節)に造られました。それなのにイスラエルは、造られた目的とは反対に、神に反逆する歩みを繰り返してきました。「わたし(神)を」を強調して、本来呼び求めるべき肝心の神を呼び求めずに、自分たちで作った偶像や自分の欲望の対象を追い求めたことを指摘しています。  

 神からの度重なるラブコールがあったのに、イスラエルは「わたし(神)のことで疲れた」(神を疎(うと)ましく思った)のです。


<23~24節>

 ここにある「羊、穀物、乳香(穀物に添えてささげられた)、菖蒲(におい菖蒲という高価なもの)」は、神へのささげ物として用いられました。神はここで、イスラエルが神にささげ物をしなかったと叱責しておられるのではありません。むしろ神はイスラエル(私たち)に、ささげ物のことで煩わ(わずらわ)せたり重荷を負わせるようなことはしませんでした。  

 神は形だけのささげ物を喜ばれません。「形だけ献金し、形だけ礼拝に出席しているから、これでいいでしょう。これ以上何を要求するのですか?」と勝手に人の側が思っているだけで、神はそのような献金、礼拝を求めておられません。むしろ「あなたの心を神にささげてほしい」と願っておられます。「いけにえを献げて、わたしを崇めようともしなかった」とあるように、むしろ心から神を崇めることを求めておられます。「砕かれた霊、打ち砕かれた心」(詩篇51:16~17)をささげてほしいと求めておられます。形だけのささげ物、形だけの礼拝ではなく、あなたの打ち砕かれてズタズタになったそのままの貧しい心で神を呼び求めてほしいと神は願っておられるのです。形を整えることに心を煩わせるのではなく、そのままの心で「神様助けてください、自分の手には負えません、どうしてよいのかわかりません、自分を変えることもできません、苦しい、悲しい、痛い、寂しい、辛い…」その心のままで神を呼び求めましょう。  

 神の側では私たちに何も要求しておられません。強制もしないし、ささげ物のことで苦労させたり煩わせたりもしません。本来ささげ物は神への感謝が溢れてするものです(Ⅱコリント9:7~8)。私たちの側が、むしろ勝手に重荷に感じて造り主を避けていき、その罪で神を煩わせているだけです。


<25節>

 そのように神を煩わ(わずらわ)せ、悲しませるだけのイスラエル(私たち)に対して、神は「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」と宣言してくださるのです。11節と同じように、原語では「わたしは、わたしは」と主語を繰り返して、神ご自身の赦しを強調しています。イスラエルが神に対して優秀であったからではなく、むしろ造り主を呼び求めもせず神を煩わせる歩みであったにも関わらず、ただ「わたし(神)自身のために」、そのあなたの背きの罪をぬぐい去ると言ってくださるのです。私たちの罪を思い出さないほどに、神は背きの罪をぬぐい去ってくださるのです。神はご自身の栄光にかけて、ご自身の造られた者たちを救おうとしてくださいます。反逆する時があっても、神を呼び求めずそっぽを向いている時があっても、「なおわたしはあなたをあきらめない」と言って、神の側から私たちを呼び求めてくださるのです。そしてついに、この反逆する民を救うために、愛するひとり子イエス・キリストまでささげてくださいました。  

 罪からの救いは、神の恵みです。救いは神から来ます。人間の側の何にもよらない救いです。ただ神の一方的な恵みです。何度も神を裏切る私たちなのに、立ち返ると何ごともなかったかのように「もうあなたの罪を思い出さない」と言ってくださるのです。何と赦しにおいて太っ腹な神、惜しみなく赦してくださるあわれみに富んだ神でしょう。


<26節>

 イザヤ書では、ここのようにイスラエルが法廷で裁判を受けるかのような表現が度々出てきます。1:18でも同じような場面で「さあ来たれ、論じ合おう、主は言われる。たとえあなたがたの罪が緋のように赤くても雪のように白くなる」と言われています。その根拠が、ここで明らかにされたのです。即ち25節にあるように、「神ご自身のために」、神は私たちの罪を赦し、雪よりも白くしてくださるのです。 「あなたが正しいとされるために、あなたの方から申し立てよ」と主は言われます。「あなたの側に正しいと主張できるものがあるなら、あなたの方から言ってみなさい」と言われます。神の御前に、「私は潔白である、罪はない」と言える者はいないのです(ローマ3:10)。


<27~28節>

 「最初の先祖」(アダムあるいはヤコブ)から今に至るまで、人は罪を犯し続け、「あなたの仲保者(預言者や祭司たち)」含め、すべての人は神に逆らい、罪を犯し続けてきました。人類の歴史は、造り主神への反逆の歴史です。  

 本来は、「ヤコブが聖絶されるように、イスラエルがののしられるように」されたのです。その罪ゆえに、神に滅ぼされても当然のヤコブ(イスラエル)であり、私たちなのです。その罪の結果からすれば、バビロン捕囚さえも手ぬるいくらいなのです。でもその罪の痛みを経て、最終的には神のあわれみがあり、どんな罪も主による赦しがあり、回復があるのです。  


 今年与えられた「見よ。わたしは新しいことを行う」(イザヤ43:19)のみことばは、キリストによる罪の赦しも含まれています。反逆に反逆を重ね、造り主を呼び求めもせず、崇めもしない民の罪を、神ご自身がご自身のために、キリストによって贖(あがな)ってくださいます。背きの罪をぬぐい去り、存在丸ごと新しく造り変えてくださいます。そして終わりの日に救いを完成して、完全に罪の残骸からも解放してくださいます。今私たちは、その救いの完成を目指して地上の荒野の旅を続けています。道半ばですから、なお罪の残骸があり、心にうめきがあり痛みがあります。それでも小羊イエス・キリストの贖いの血により赦される喜びがあります。罪をきよめるキリストの十字架の血潮を注がれて、完全に贖われる救いの完成の日を待ち望みながら生きることができます。  

 罪の世にあって荒野の旅は続きますが、同時にそこはいのちの川が流れ、神の霊が注がれ、豊かな実がなるエデンの園の回復がなされる過程にある荒野です。今通っている荒野にも、神は必ず道を設けてくださいます。最大の荒野であった罪の苦しみから、神はすでに解き放ってくださいました。神のためにもともと造られたのに、神を呼び求めず神を煩わせるだけであった者さえも救うために、神はひとり子を送ってくださいました。キリストが私たちの背きの罪咎すべてを担って十字架で死んでくださり、罪をぬぐい去ってくださいました。その証拠に、罪の結果である死に勝利して、キリストは死からよみがえられました。

 キリストの贖いにより、神との関係が回復した者たちを、神は本来の目的通りご自身の栄光のためにお用いになります。神の恵みとあわれみの大きさを宣(の)べ伝える者としてくださるのです。罪だらけのはずの私たちに、「もうあなたの罪を思い出さない」と宣言してくださる神が、私たちをご自身の栄光のために生かしてくださいます。だからいつでも神の元に帰りましょう。打ち砕かれた心のままで、神を呼び求めましょう。

 「わたしはあなたの背きの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ」(イザヤ44:22)。
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 1月19日
礼拝メッセージ要約 主題:「必ず、荒野に道を設ける」

           イザヤ43:14~21   三浦真信牧師

<14節>

 イスラエルに今語られる神は、「あなたがたを贖う、イスラエルの聖なる方」です。神は、ご自身の民のために犠牲を払ってでも、罪と偶像から買い戻して「あなたがたを贖う方」です。それほどにイスラエルの民を、また霊的イスラエルである私たちを愛しておられます。

 そして神は「イスラエルの聖なる方(ケドーシュ・イスラエル)」です。この言葉は、1:4から、イザヤ書で25回使われています。人間とは全く違う、この世の何ものとも違う絶対無二の方です。何にも依存せず、ご自身の意志においてすべてのことを成し遂げられる方です。その神の聖さに触れる時に、人は自分の罪汚れを知り打ちのめされます。そこで神の贖いを経験し、その恵みを伝えるために遣わされていくのです(6:1~8)。

 このような、私たちを贖う聖なる方が、「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らをことごとく逃亡者として下らせる。カルデヤ人を彼らの喜びの船で」と言われます。やがてイスラエルがバビロンに連行され捕囚の身となりますが、周辺諸国を征服して喜び調子に乗っているカルデヤ人(バビロン)をその後に主が打ち砕き、イスラエルを解放することを預言しています。

 イザヤが預言者として活動したのは、紀元前745年~紀元前380年の間です。バビロン帝国にイスラエル(ユダ王国)が滅ぼされ、バビロンに強制連行させられた(Ⅱ列王記24:8~20)のは紀元前586年です。ですから100年以上前にイザヤは、バビロン捕囚が起きることと、そのバビロンを神が崩壊させてイスラエルを解放することを預言していたのです。


<15節>

 イスラエルの行く末について語られる神は、「わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの主である」と繰り返し宣言します。


<16」~17節>

 かつてエジプトで苦しい奴隷生活を送っていたイスラエル人のうめき叫びを聞かれた主は、モーセをエジプトに遣わしイスラエルの民たちを解放します。その後、前方を海に阻まれ、後ろから強力なエジプトの軍勢が追いかけてきますが、主は海を二つに分けて乾いた所をイスラエルの民が通れるようにし、渡り終えた後に水が戻り、エジプト軍は「灯芯のように」消え失せました。神が一度敵を倒されると、彼らは二度と起き上がることはできません。


<18節>

 イスラエルの民たちは、この出エジプトの時に主がなされた偉大なみわざを信仰の基盤としてきました。この出来事は、代々語り継がれてきました。ですからやがてバビロン捕囚が起きた時にも、「あの出エジプトの時と同じような方法で主は私たちを助けてくださる」と期待するでしょう。確かに主なる神は同じように偉大な力ある方です。しかし神の救出の方法が、常に同じわけではありません。ですから過去の出来事をイメージして、「あの時と同じように主はなさる」と、勝手なストーリーを思い描いてはいけないのです。

  「先のことに心を留めるな」、先に起きたことを「忘れなさい(Forget)」と命じられています。「昔のことに目を留めるな」は、直訳は「過去の上に住んではいけない」という強い禁止命令です。神ご自身の性質と、神の言葉は永遠に変わりません。時代によって、教会によって、そこに集まる人々によって、礼拝の仕方、讃美の曲調、交わりの持ち方、伝道の仕方なども変わってきます。生きた教会なら変わって当然です。神の新しいことを受け取るためには、私たち自身が絶えず新しくされていかなければなりません。


<19節>

 「見よ、わたしは新しいことを行う」

 主は、出エジプトの時よりも遥かに優る新しい、素晴らしいことを行ってくださいます。バビロン捕囚の時から解放される時にも、神が荒野に設けた道から帰り、必要な水も主が飲ませてくださいました。出エジプトの時と同じではありません。また終末に生きる私たちも、人生の中で荒野のような不毛で何もないところを通らされ、虚しさと不安を抱えながら生きています。しかしその荒野にも神が道を設け、川を流れさせてくださいます。捕囚からの解放と、終末の民たちの救いの完成まで、ここでは約束されているのです。先の先に起きることも、「今、それが芽生えている」と主は言われます。世界の歴史を導き、永遠を生きておられる神からご覧になれば、「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(Ⅱペテロ3:8)。私たちは、辛いことは一日でも長く感じます。10年、20年と解決しない問題があるとうんざりしてしまいます。でも主なる神は、100年先に起きるバビロン捕囚からの解放、そして数千年以上先に起きる終末さえも「今、それは芽生えている」とおっしゃる方です。

 「必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける」

 この後に起きるバビロン捕囚は、イスラエルにとって大きな荒野のような出来事となります。でも主は異邦の民ペルシャ帝国のクロス王を用いてバビロンを滅ぼし、イスラエルの民たちをイスラエルに帰らせてくださいます。私たちは歴史的事実としてこのことを今知っていますが、当時のイスラエルの民は、まだ始まってもいないバビロン捕囚の解放の預言を聞いて、なかなか実感しにくかったことでしょう。

 私たちも、まだ経験していない終わりの時に向かって、荒野の旅を続けています。終わりの時にどのようなことが起きるかは聖書を通して知らされています。そして今少しずつその預言が成就していくことを見ながらも、まだ実現していない預言の成就を待ち望んで歩んでいるのです。そういう意味では、イザヤの預言を聞いた時のイスラエルと同じです。


<20節>

 イザヤ書13:17~22では、バビロン帝国崩壊後の荒れ果てた地に、だちょうやジャッカル(狼に似た動物)が住みつくと預言されています。野の獣や動物たちも神を崇めるようになるというのです。宇宙のあらゆる神の創造物が声を合わせて神をほめ讃える、終末的な表現です。神の民たちが地上の労苦から解放され、完全に贖われる終わりの日に、被造物すべてが神を崇めるのです。バビロン捕囚からの解放の日、そして主が再び来られ完全に神の民たちの贖いが成し遂げられる喜びの日は必ず来るのです。

 「わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、私の民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ」。バビロン捕囚から解放された民たちに、荒野でも神が水を飲ませてくださいます。そしてキリスト再臨の時も、地上のあらゆる荒れ果てた場所から水がわき、荒れ地に川が流れ、神の民たちが十分にいのちの水を飲んで渇きが癒されるのです。

 神は、ご自身の民たちの荒野のような場所で、いのちの水を飲ませてくださいました。カラカラに渇いたこの魂を見捨てることなく、豊かに聖霊の水を飲ませてくださいました。現在の私たちの荒野の場所にも、神は聖霊の川を流して魂の渇きを潤してくださいます(ヨハネ福音書7:37~39)。荒野のような場所にこそ、生ける水の川(聖霊)を流し注いでくださいます。荒野でボロボロになり、飢え渇いて自分の力では成す術もない所で、「ついにいと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる」のです(イザヤ32:15)。


<21節>

 「わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える」 私たちは、神の栄光ために創造されました(7節)。この存在が、神の栄誉を宣べ伝えるためにあるのです。ですから自分のために生きているのではありません。私たちの人生には、神のご計画があるのです。そのことをハッキリ受け取るまで、私たちはさ迷います。「神のために造られた私」であることを受け取る時に、生きる意味や、残された地上での時間優先順位を何に置くべきかが見えてきます。


 イザヤはバビロン捕囚が始まる前に、すでに捕囚からの解放を預言しました。神は、荒野からの回復を予告するだけでなく、神の民たちに与えられているミッションまで与えてくださっています。様々な荒野のような出来事が次々に私たちに起きてきますが、最大の荒野である罪の奴隷から解放されているなら、他の荒野があっても問題ではありません。神はご自分の民が、荒野を通りながらも神の栄光のために生き、神の栄誉を宣べ伝える人生を送ってほしいと願っておられます。今の荒野にも神が必ず道を設けてくださることを信じて、神に仕えましょう(今年の目標③)。
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 1月12日
礼拝メッセージ要約 主題:「このわたしがあなたの主である」

           イザヤ43:8~13   三浦真信牧師
<8節>

 イスラエルの民が、裁判に召喚される場面を想定しています。「目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たち」とは、神の民イスラエルのことです(42:18~20)。彼らは目も耳もあるのに、神の真理が見えず、神の言葉を聞くことができない状態でした。暗やみに閉じ込められ、神の怒りを引き起こすことしかできませんでした(42:24~25)。そのような神の民イスラエル(そして霊的イスラエルである私たち)を、「証人として連れ出せ」と、主は言われます。


<9節>

 この法廷には、諸国の民も集められます。彼らは、自分たちが信じる偶像について弁明することになっています。「彼らのうちのだれが、われわれにこのことを告げ、初めのことを聞かせることができるだろうか」と神は言われます。初めからイスラエルの民たちに力あるわざを行ってこられた偉大な神、そして逆らう民にここまで良くしてくださった憐れみ深い神が他にいるかが問われます。イスラエルの民が主なる神を捨て、見える偶像に心を寄せた時に、その偶像が何をしてくれたかを偶像崇拝者たちにあなたが証言するようにと神は命じます。


<10~11節>

 主なる神は、ご自身が唯一の神であることの証人として、「あなたがた(イスラエル)」を選ばれました。神のみわざを見ることも聞くことも拒んだ民イスラエルを、あえて証人として選ばれたのです。主なる神がどれほど神の民を愛し、そのために力あるわざをしてくださったか、偶像に身を寄せてボロボロになった民たちだからこそ、証言することができます。いくら逆らっても、主を蔑(ないがし)ろにしても、なおも主はご自身の民を追い求めてくださり、「わたしが選んだわたしのしもべである」と言ってくださるのです。神に選ばれたイスラエル、また霊的イスラエルである私たち神の民は、全世界の人々が「神を知って、信じ、悟るために」証人として選ばれたのです。

 どのような証人でしょうか?

① 神が唯一無二の主であることの証人です。

 「わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にも、それはいない」のです。主なる神以外に、神は後にも先にもいません(46:9~10)

② 神が唯一の救い主であることの証人です。

 「わたし、このわたしが主であり、ほかに救い主はいない」。「わたしが、わたしが」と、原語では主語が二回繰り返され、「わたしが(神が)」が強調されています。この方を仰ぎ見る以外に救いはないのです(45:22)。最初から最後まで、神は変わらずにご自身の民を救い運んでくださるのです(46:4)。


<12節>

 「このわたし(神)」が、唯一の神であることを「告げ」、あらゆる危機から「救い」、神の言葉を「聞かせた」のです。イスラエルの中に、異なる神が実際にいたわけではありません。偶像崇拝が入り込みましたが、それは民たちが神でないものを神と考えただけで、異なる神が現実にいたのではありません。だから今も変わりなく、「あなたがたはわたしの証人」「わたしが神だ」と主は力強く宣言されます。


<13節>

 私たちが勝手に自分の頼る対象をコロコロ変えただけで、神の側ではずっと「わたしはあなたの神だ」と変わらずに言ってくださっているのです。「これから後もわたしは神だ」と今も語ってくださいます。

 「わたしの手から救い出せる者はない」。神が選び、神が守っている者を、何者も奪い取ることはできません。

 「わたしが事を行えば、だれがそれを戻せるだろうか」。神がなさることを、誰もとどめたり戻すことはできません。神のご計画は、人が邪魔しても必ず実現します。そのような方が、私たちの主であり神なのです。この神が、私たちをご自身のしもべとし、ご自身の証人として選ばれました。


 神の栄光のために、私たちは神に造られました(7節)。造り主をいつも見上げ、神の言葉に従って生きるように造られた私たちです。神が私たちの目も耳も造られました。それなのに、神を見上げることをやめて見える偶像(アイドル)を慕い求め、神の声に耳をふさぎ自分の欲の声や人の声に従っていったのです。そのような私たちに神はなおも「わたしが神だ、わたしがあなたの主だ」と呼びかけ続けてくださり、救いのために贖いの代価として、ひとり子イエス・キリストをささげてくださったのです。愛するひとり子のいのちに代えても私たちを救い出し、神の愛と真実の証人として、私たち一人ひとりを選んでくださいました。この方以外に救いはありません。人はすぐに見える何かに頼ろうとし、それが神のような存在になっていきます。しかしその空しさを知り、主なる神を見上げるなら、いつでもそこに救いがあるのです。神は今も「わたしが神だ。これから後もわたしは神だ」と語りかけてくださっています。この神が、「必ず荒野に道を、荒れ地に川を設けて」くださるのです(19節)。主がなさる新しいことに期待しましょう。
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 1月5日
新年聖日礼拝メッセージ要約 主題:「神の栄光のために名を呼ばれた者」

           イザヤ43:1~7   三浦真信牧師

<1節>

 「だが今、主はこう言われる」 前章まで述べたことと、これから述べることが対照的であることを、「だが今(But now)」という言葉で表しています。42章までは、神からの再三の呼びかけにもかかわらず心を頑(かたく)なにするイスラエルが神のさばきの下に置かれ、バビロン捕囚の屈辱を受けるとの預言でした。しかしそのようなイスラエルにも慰めと希望がなおあることを、この43章では預言しています。


「ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が」

 ヤコブがヤボクの渡し場で神の人と格闘した時に、その人はヤコブの踏ん張っている腿(もも)の関節を打ってはずしました。それでもなおヤコブは、神の人にしがみついて「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と言います(創世記32:26)。そこでヤコブは「イスラエル(神が戦われる)」という名で呼ばれるようになります。ずる賢い生まれつきのヤコブの性質が打ち砕かれ、どのようなことも神により頼み、神が戦ってくださることを信じるヤコブに変えられます。

 そして聖書の中で「イスラエルよ」と呼びかける時には、神の民たちすべてをも指しています。正に私たち一人ひとりに呼びかけておられるのです。私たちを呼びかけてくださる方は、「あなたを創造した方」「あなたを形造った方」です。人が何かを造る時には、造る人の意思が形に反映されます。造る側が造る目的を持っています。神が私を造られたということは、私が今地上に置かれている目的、私を取り囲む「何のためにこれがあるのか」、「なぜこのようなことが起きるのか」、わからないもの、わからない出来事も、神の側ではすべて明確な答えがあるのです。自分のことも、自分の人生も、造り主に聞かなければわからないことだらけです。また造られた私たちにはその理由が知らされないこともあります。造り主に聞いて答えがわかる時もあれば、「わたしがわかっているから、あなたは知らなくてもそのままわたしに信頼して任せなさい」と神が言われることもあります。わからなくても、私を造られた方がわかっていてくだされば、それで安心なのです。これが造り主と被造物(造られたもの)との関係です。


「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの」

 人から「恐れなくてもいいよ」と言われても、根拠がありません。しかし人を造られ、天地万物を造られた神が「恐れるな」と言ってくださるなら、力強いことです。また本当に恐れなくていいように造り主はしてくださいます。

 私たちを造られた神が、「わたしはあなたを贖った」と言われます。「贖う」(ヘブル語で「ガーアル」)とは、土地や奴隷をお金を払って買い戻すことです。そしてお金で買い戻せない「いのち」の場合、「ガーアル」は「血で復讐する」と訳されています(ヨシュア20:3)。人を殺した者に対して近親者が復讐しても良いという権利が、ダビデ王の時代まで続いていました(主イエスもパウロも復讐することは禁じています)。神ご自身が失われたいのちを血で買い戻されるという思想がここに啓示されています。神は、今私たちをキリストの血によって贖ってくださいます。ご自身のひとり子の血といのちに代えて私たちを贖い、主のものとしてくださいました。

 そして私たちの名を呼んでいてくださいます。神の民を一(ひと)括(くく)りにご覧になるのではなく、一人ひとりの名を呼んで「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ」と言ってくださるのです。神に反逆した民(私)に対して、「あなたは、わたしのもの」と言ってくださるのです。何とありがたいことでしょう。


<2節>

 イスラエルの民が歴史的に経験したことを、イザヤは思い起こしていたかもしれません。 「あなたが水の中を過ぎるときも」

 イスラエルがエジプトを脱出した後に、行く手を遮(さえぎ)る海の水がわかれて乾いた底を渡りました(出エジプト14:21~31)。その時にも主は共におられました。 「川を渡るときも、あなたは押し流されず」

 ヨシュア率いるイスラエルがヨルダン川を渡ってカナンに入る時に、川の流れが一時止まって向こう岸に歩いて渡った時を回想したかもしれません(ヨシュア3:16~17)。 「火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」

 ダニエル書で3人の少年たちが、火の燃える炉の中に投げ入れられても何の害もなかったという出来事が記されています(ダニエル3:14~30)。

 人生の中でも、水の中火の中を通るような危険な場面、恐れと不安に囲まれるような出来事が起きてきます。それでも主が贖った一人ひとりと主は共にいてくださるので大丈夫です。


<3節>

「わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ」

 私を形造った方は、私の神、私の主です。「聖なる者」とは、絶対他者です。人とも偶像とも全く違う方です。その方が私の救い主なのです。 「わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」

 イスラエルを贖うためなら、神はエジプト、クシュ、セバを身代金とすると言われます。アフリカ全土を、神の民イスラエルを贖うための代価として払っても惜しくないというのです。イスラエルをバビロンから故国へ帰還させるペルシャ帝国のクロス王に対して、主がペルシャに与えるものです(45:14)。「アフリカ全土を身代金にしてもあなたを救う、それほどにあなたは尊い存在である」というのです。事実神は私たちを贖うために、何よりも尊いひとり子イエス・キリストを与えてくださいました。「私たちすべてのために、ご自身の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして御子とともにすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」(ローマ8:32)。


<4節>

 そうまでして買い取るほどに、神は私たちを尊い存在としてくださっています。偶像に染まり、神への反逆と罪にまみれたイスラエルは、苦しいバビロン捕囚を通して自分の汚れ果てた姿を知りました。「何と私は汚れ果てているのか、何の価値もない者だ」と思われたその時に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」との神の声を聞くのです。神にそのように言われる資格など全くない場所で、罪にまみれた自分の姿に打ちのめされている場所で、神は「あなたは高価で尊い」と語りかけてくださるのです。「神様、罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と自分の胸をたたいて祈るしかない場所で、「わたしはあなたを愛している」という神の語りかけを聞くのです。


<5~6節>

 「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ」と、繰り返し「恐れるな」と主は言われます(1節)。「どのような事態が起きようとも、主なる神が共におられるから、恐れずにその事態を受けていきなさい」と主は言われます。「恐れるなんて不信仰だ」と叱(しか)るためではなく、私たちがすぐに恐れる者だとご存じだから、繰り返し「恐れるな」と力づけてくださるのです。造り主がそのように言われるのだから、恐れなくてよいようにしてくださいます。

「わたしは東からあなたの子孫を来させ、西からあなたを集める」

 バビロン捕囚から、やがて子孫たちが帰還することの預言です。さらに終末に全世界から神の民が集められることも含まれます。「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます」(マタイ24:31)。


<7節>

 神がご自分の民を造られた究極の目的が、ここで明らかにされます。それは「神の栄光のため」です。創造主なる神の栄光のために私たちは造られたのです。私の栄光のためではなく、神の栄光のためです。神の栄光のために神が造られたのですから、神がそのように一人ひとりを生かしてくださいます。私たちが神の栄光を造り出そうと力まなくても良いのです。神の導きにただついていけばよいのです。神の造られた目的に生きることこそ、神にとっても私たちにとっても喜びです。そこから外れてしまうと、人生が空しくなります。


 神は私たち一人ひとりの名を呼んでくださいました。キリストのいのちに代えて、神は私たちを贖ってくださいました。それは、私たちが神に造られた本来の目的に生きるためです。神の栄光のために、ひとり子イエス・キリストの死という代価を払って、私たちを買い戻してくださったのです。

 神はキリストを通して、私たちを高価で尊い存在と見てくださり、愛してくださいます。水の中、火の中でも、「わたしがあなたとともにいるから恐れるな」と呼びかけ続けておられます。今年も、神の後をついていきましょう。これまで久遠キリスト教会が危機に直面した時も、神はご自身の栄光のために力強く働き、80年間守り導いてくださいました。主のみわざに感謝します。そして今また、「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている」(19節)と宣言しておられます。主がなさる新しいことに期待しましょう。荒野であればあるほど、主のみわざが現われます。荒野から主の新しいことは始まります。ただ主の栄光が現われることを願って、主の後をついていきましょう。
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