(2019年11月)

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 11月24日
メッセージ要約 主題:「ナルドの香油~私たちの献身に先立つ、キリストの献身~」

           マルコの福音書14:1~9    豊村臨太郎伝道師

 今日の箇所は、イエス・キリストが十字架に磔にされる前、受難週に起こった出来事です。一人の女性がイエスに高価な香油を注ぎました。周囲の人々は驚き「もったいない」と批判します。しかしイエスは女性の行動を「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と高く評価されたのです。


<1節~2節>

 ここでは出来事の背景が語られています。「過越の祭りと種なしパンの祭りが二日後に迫っていたので」とありますが、「過越の祭り」は、イスラエルが主なる神によってエジプトから助け出された事を記念する祭りで、季節的には春の祭りでした。「種なしパンの祭り」は、秋の収穫感謝祭でした。この二つの祭りは、もとは別だったのですが、イエスの時代には同時に祝われていたようです。神から与えられた「いのち」に感謝し、日々の糧が与えられていることを祝う盛大な祭りの時に、ユダヤの指導者たちは「どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめい」でした。そのような時に「ナルドの香油」の出来事が、闇(やみ)に輝く一筋の光のように起こります。


<3節>

 「べタニヤ」は、エルサレムから3キロほど離れた町で、イエスがエルサレムに上ってこられた時には、この町の支援者の家に滞在したようです。「ツァラアトに冒(おか)された人シモン」は、おそらくこの時より前にイエスによって病を癒していただいた人でしょう。ヨハネの福音書12章には、この家の食卓にマルタ、マリヤ、ラザロ姉弟がいたと記されています。「マルタは給仕していた。」ラザロは「イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。」と書かれています。そして「マリヤ」が「ナルドの香油」を注いだ女性でした。

 「ナルド」は、インドの山岳地方にできる木で、日本では甘松香という生薬として知られています。「香油」は、ある辞書では「オリーブオイルからできた軟膏のようなもの」と説明されています。「ナルドの香油」は、高価な香料がたっぷりと溶かされたいい香りのする油(軟膏のようなもの)だったようです。それを300グラム注いだのですから、当然「家は香油のかおりでいっぱいに」なりました。


<4節、5節>

 すると、何人かの者が「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」ときびしく責めました。批判の中心にいたのは「イスカリオテのユダ」でした。彼は財布係をしていて預かった金を使い込んでいたのです。金に執着していたユダの言葉が周囲の弟子たちに伝わり彼女を攻撃しました。人間は自分の欲を隠します。「偽善」という罪です。そして罪の影響力は人から人へと広がります。しかし、その連鎖を断ち切るかのようにイエスが口を開かれました。


<6節~8節>

 イエスは、「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。」とマリヤをかばい、「わたしのために、りっぱな(美しい)ことをしてくれたのです。」と評価されました。人の目に無駄に見えることも御心にかなったものなら、イエスはそれ見て「美しい」といってくださるのです。

 また、イエスは、決して「施し」を否定はされませんでした。むしろ「いつも」するべきだと言われています。しかし、「今はその時ではない」と語られたのです。イエスが意識されたのは、十字架の死を前にした「今」すべきことでした。マリヤはその時を逃さずに行動したのです。

 そして、マリヤが注いだ香油の香りは部屋の中だけでなく、この後、ゲッセマネの園やカヤパの宮殿、ピラトの裁判、そして、ゴルゴタの丘にいたるまで広がりました。おそらく、その香りは苦しみを受け続けたイエスを最後まで慰めたことでしょう。


<9節>

 イエスは、「ナルドの香油」に表された「マリヤの献身」が世界中のどこででも、記念となると言われました。マリヤは愛する弟ラザロを蘇らせてもらいました。本当にうれしかったでしょう。いつもイエスのそばでみことばに耳を傾けました。イエスにありのままの自分を受け止めてもらいました。イエスの愛を受けて、彼女の内側から自然にイエスへの愛が湧き上がり「持てるものを、すべて、今注ぎだした」のです。

 人間的に考えればマリヤの行動はもったいないこと、無駄と思えることかもしれません。しかし、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)とあるように、人の目には無駄と思えること、もったいないことをしてくださったのはイエス・キリストです。「罪人」である私たちの為に死んでくださり文字通り「献身」してくださったのです。

 そして、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)とある通り、父なる神も、愛するたった一人の御子イエス・キリストを、死んで滅ぼされて当然の私たちのためにお与えになりました。これほど「もったいない」ことがあるでしょうか。


<まとめ>

 「ナルドの香油」の出来事を通して、私たちはイエス・キリストへの「献身」に招かれています。しかし、それは歯を食いしばって無理やり注ぎだすものではありません。まず、父なる神が、子なるキリストが私たちに先立って「献身」してくださいました。その大きな愛を聖霊によって実感させていただけるなら、私たちは喜んで自分自身の手にある「ナルドの香油」を注がせていただけると信じます。その時、私たちの「献身」が、マリヤの「献身」と同じように、世界中で記念となり「福音」の広がりとなると信じます。

 「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」(コロサイ1:6)
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 11月17日
メッセージ要約 主題:「私たちの心に注がれる神の愛」

           ロ-マ人への手紙5:3~5    三浦真信牧師

<3節>

 多くの宗教は、患難や苦しみは悪いものであり、よくない原因があると教えます。患難がない状態こそ、ご利益であり祝福だと考えます。しかし聖書は患難を悪いものとみなしません。先祖が罪を犯したからとか、あなたが過去にこのような罪を犯したから患難に会ったとは考えません(犯した罪の直接の結果として痛みを負うことはあります)。またヨブのように目に見える悪いことをしなくても、大変な苦難に会うこともあります(ヨブ1:8)。  

 パウロはここで「患難さえも喜んでいます」と言っています。これは2節の「喜んでいます」と同じ原語です。「神の栄光を望んで大いに喜んでいる」のと同じテンションで「患難を喜んでいる」のです。患難そのものを喜びとしているのです。「患難=悪いもの」と考える価値観とは正反対です。  

 イエスの弟子ヤコブも言っています。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上ない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)。  

 また主イエスも言われました。「あなたがたは世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ福音書16:33)。


 イエスの弟子であるクリスチャンが、なぜ患難に会うのでしょうか?

①神の側についた者たちに対して、神の敵である悪魔が攻撃してくるからです (サタンの攻撃による患難)。
②神が愛する子どもを訓練するからです(神の訓練としての患難)。

 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです」(へブル12:5~7)。

 悪魔の誘惑と、神の与える試練は目的が違います。悪魔は私たちを倒そうとし、神への信仰を失わせようとします。神は私たちを生かし、試練によって神への信仰を成長させようとします。患難さえも神の目的があり、また患難によって得られるものは大きいのです。  


 パウロが「患難」という時に主にイメージしていたのは、「キリストの御名のゆえに受ける患難」です。福音宣教のための労苦や迫害、また日々押し寄せるすべての教会への心づかいがパウロにはありました(Ⅱコリント11:23~28)。外からも内からも、キリストの御名ゆえの苦悩がありました。

 主イエスも言われました。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです」(マタイ5:10~12)。事実初代教会の使徒たちは「キリストの御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら議会から出ていった」(使徒5:41)のです。

 本来キリストを信じる前と後では、苦しみ悩みの質が変わるはずです。中途半端に信じていると、それまでの悩みとキリストの御名のゆえの悩みと両方に悩むことになり大変です。今悩んでいること、心がとらわれていることが、本当に悩むべきことなのか問いかけてみましょう。聖書の価値観に立てば、本来悩まなくてよい余計なことで心をすり減らして、本当に悩むべきこと、心砕くべきことに心が向いていないことがあるかもしれません。


 さてパウロは、「患難さえも喜んでいます」の理由として、「患難が忍耐を生み出す」と言っています。「生み出す」は、「造り出す」とも訳せます。患難によらなければ、忍耐が造り出されないのです。この忍耐は、歯を食いしばってじっと我慢するという消極的なものではなく、信仰による忍耐です。「神が必ず助けてくださる、神がここから脱出させてくださる、神がすべてを益に変えてくださる」と、神を信じて待ち望む忍耐です。ですから信仰が養われます。患難が信仰を鍛えるのです。患難を、信仰で通り抜ける経験を重ねていくと、次に別の患難が来た時に「あの時も神が最善に導いてくださったから大丈夫だ」という安心があります。これが忍耐となって表れていきます。


<4節>

 そして忍耐は「練られた品性」(ドキメーン)を生み出していきます。この「ドキメーン(練られた品性)」は、「テストに合格している」という意味の言葉です。数々の信仰の試験にパスした円熟した性質です。そしてこの「練られた品性」は、「希望」を生み出します。(「生み出す」という動詞は一つだけで、「忍耐を」「練られた品性を」「希望を」にかかっています)。忍耐によって生み出された「練られた品性」は、救いの喜びに満ち、確信を持った希望を抱く習性を造り出していきます。信仰のテストに合格していく中で、常に神に希望を抱く習性が造り出されていくのです。その希望の喜びに、患難が飲み込まれてしまうのです。ですから患難が喜びとなります。患難そのものは痛く辛く悲しいのですが、患難から造り出される希望の喜びが、それらを飲み込んでしまうのです。


<5節>

 「この希望は失望に終わることがありません」は、「この希望は恥をかかせません」とも訳せます。キリストを信じる者に与えられた希望は、一時は落ち込んだり、くじけそうになっても、最後の最後に恥をかかせることはありません。失望に終わることはないのです。 なぜなら、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。ここの「注がれている」は、現在完了形です。つまり「すでに神の愛が聖霊によって注がれ、今も継続して注がれ続けている」のです。「神の愛が与えられている」ではなく、「神の愛が注がれている」という表現によって、恵みの豊かさが示されています。

 「聖霊によって」です。聖霊によらなければ、神の愛を感じることはできません。私たちが神の愛をひしひしと感じられるなら、それは聖霊が神の愛を今も注ぎ続けてくださっているからです。聖霊は、特に患難の時に、もうお手上げ状態で主に任せるしかない中で力強く働いてくださいます。こちらは行きづまり切って自分ではどうすることもできない状況下で、聖霊が引き上げてくださいます。そこで神の一方的な愛が注がれていることを受け取ります。 とかく私たちは何かをうまくすること、そつなくこなすこと、上手だとほめられるようにすることを求めてしまいがちです。しかし最も大切なのは、主への信頼であり、常に神の愛を受け取りながら生きることです。  

 世にあってはたえず患難があります。全くなくなるのは、新天新地で復活のからだを与えられてからです。そこでは神が、目の涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。死もなく悲しみも叫び苦しみもない時がやがて来ます(ヨハネ黙示録21:4)。地上のこの肉体を持つ間は、患難があります。でも神の愛が私たちの心に注がれ続けているから、決して失望に終わることはありません。私たちが生涯受け取り続けるのは、神の愛です。患難があってもなくても、私たちの心に神の愛が溢れるほどに注がれ続けているのです。私たちがすることは、注がれている愛を受け取り続けていくことです。患難に会った時に、それをどのように解決するかと悩むこと以上に、その患難の中でいかに聖霊によって今注がれている神の愛を受け取ることができるかが大切なのです。  

 今も神の愛が私たちの心に注がれ続けています。その神の愛を何よりも受け取りましょう。そして今もこれからも神の愛を注ぎ続けてくださる聖霊に、直面している苦しみをゆだねましょう。主が最善をしてくださることを信じて、お任せしていきましょう。
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 11月10日
メッセージ要約 主題:「見えるようにしてください」

           列王記 第二6:8~23    三浦真信牧師

 昔イスラエルとアラムの国が戦争をしていました。アラムの国はイスラエルに勝つために様々な作戦を立てますが、ことごとく失敗します。そのため自分の国にスパイがいるとアラム王は疑います。しかし家来の1人から、イスラエルの預言者エリシャが自分たちの作戦すべてを言い当ててイスラエル王に告げていることを聞き、激怒してエリシャを捕まえるために大軍を送りました。

 アラム軍は夜のうちに、エリシャが住むドタンの町を包囲します。その翌朝早く、エリシャの家の若者が町を取り囲むアラムの大軍を見て、エリシャにどうしたらよいかと恐怖を訴えます。するとエリシャは、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言い、「どうぞ彼の目を開いて、見えるようにしてください」と祈ります。すると、主がその若者の目を開き、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちているのが見えました。人の目には見えない、神の大軍がエリシャを取り囲んで守っていたのです。

 アラム軍はエリシャを捕まえようとして、エリシャの家に近づいてきます。エリシャは、「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください」と主に祈ります。主はエリシャの言葉通りに、アラム軍の兵士たちを打って盲目にされました。

 エリシャは、イスラエルの王がいるサマリヤの町まで、目が見えなくなった兵士たちを連れて行きました。そして「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください」とエリシャが祈ると、主は彼らの目を開かれました。イスラエルの王は、「私が彼らを打ちましょうか」とエリシャに繰り返し尋ねます。しかしエリシャは、「打ってはなりません。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい」と言います。イスラエルの王はエリシャの言葉通り、アラムの兵士たちに盛大なもてなしをしてのち、彼らをアラムに帰しました。それからは、アラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来ませんでした。

 エリシャは、イスラエルを攻撃してくるアラムに仕返しをするのではなく、むしろ盛大にもてなして相手の喜ぶことをすることで、イスラエルとアラムを仲直りさせ、争いを止めたのです。

 アラムの大軍に一度はエリシャの住む町ごと包囲されましたが、神さまが守ってくださいました。そしてアラムの国がもうイスラエルを攻撃してこないようにまでしてくださいました。恐怖に囲まれた時、またどうしてよいかわからず困った時にも、神さまが助けてくださいます。そのような時に、私たちの心の目を開いてくださって、エリシャと若者が見たように「私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者より多い」から大丈夫だと神は安心させてくださいます。神さまのこのような偉大な力に取り囲まれていることが見えるように祈りましょう。

 受験生や進路を求めている人など、人生の岐路に立つ時に先が見えないため不安になることがあります。でも神さまが共にいてくださるから大丈夫です。怖い目に会ったとき、友だちとうまくいかないとき、勉強や仕事が思うようにできないとき、どんなことでも神さまにお祈りしていきましょう。エリシャにイスラエルとアラムの戦争をやめさせる知恵を与えてくださった神さまが、どのようにしたらよいかをいつも教えてくださいます。イエスさまを信じる私たちは、神さまの愛と力で囲まれているのです。そのことが具体的にわかるように、神さま、私たちの目を開いて見えるようにしてください!
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 11月3日
メッセージ要約 主題:「この恵みに導き入れられた私たち」

           ローマ人への手紙5:2   三浦真信牧師

 人間の心には、他の人から認められたいと願う承認欲求があります。しかし人から認められることだけで自分の価値を測ろうとすると、どこまでも満足することができません。聖書は、私たちの心が本当に満足し、安心できるのは、天地万物を造られた神に認められる時だと語ります。人がどのように思っても、神が私を義と認めてくださり、神が私を価値ある尊い者と認めてくださることがわかると、人からの承認はそれほど大きなものではなくなってきます。神は、私たちの行いや人間的な良さによってではなく、神を信じる信仰によって、私たちを正しい者と認めてくださいます。神の御前に価値ある者と見てくださいます。

 信仰によって義と認められた私たちには、その結果として大きな祝福が伴われています。その1番目は、「神との平和」を持っていることです(1節)。罪によって神との間に大きな断絶があった私たち人間にとって、きよい神との間に平和な関係を持てること自体、奇跡でありこの上ない祝福です。


<2節>

 神に義と認められた私たちに伴う祝福の2番目は、「恵みの立場」に導き入れられていることです。「信仰によって」、「いま私たちの立っている恵みに」導き入れられました。キリストの十字架により神との平和を持った私たちは、神との愛の交わりの中で、神の恵みを日々感じながら生きられる立場に導き入れられたのです。

 「導き入れられた(プロスアゴーゲー)」という言葉は、神の宮に入る時や、王様のところに先導する意味があります。また「通路」「アクセス」の意味もあります。キリストを信じることによって、恵みの場にアクセスできたのです。「私たちは、このキリストによって、一つの御霊において、父なる神のみもとに近づくことができるのです」(エペソ2:18)。「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです」(へブル10:19)。

 神に義と認められた私たちに与えられる祝福の3番目は、「希望と喜び」です。「私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」

 「神の栄光を望む」とは、どのようなことでしょうか?

① 神の栄光をやがて見るという希望です。

 今はまだ神を完全に知ること見ることはできませんが、肉体の死を通過しやがて主の許に行く時に、栄光の神の姿の全容をはっきり見ることができるのです(Ⅰコリント13:12)。完全に神を知ることができるのです。ですから地上でわからないことがあっても望みがあります。神はその時に、神に関するすべてのことを明らかにされます。

② 私たちもキリストの神の栄光のからだに変えられる希望です。

 神の栄光の姿を見るだけでなく、私たちもキリストの栄光のからだと同じ姿に変えられます(ピリピ3:21)。栄光のからだに変えられるという将来の望みと同時に、地上にあっても、キリストとの交わりを通して、キリストの栄光を身にまとう者として世で生かされています。不完全ではありますが、栄光から栄光へと主と同じ姿に少しずつ変えられ、主の栄光を世に放つ者とされています。(Ⅱコリント3:18)


 このような「神の栄光を望んで」いるからこそ、私たちは「大いに喜んで」いるのです。あるいは「大いに喜ぼうではないか」ともここは訳せます。また「大いに誇ろうではないか」とも訳せます。ガラテヤ6:14「キリストの十字架以外に誇りとするものが断じてあってはなりません」の「誇り」と同じ原語です。キリストの十字架の恵みにより、私たちは神の栄光を待ち望む者とされています。このことをこそ、大いに喜びとし誇りとしましょう。
 神に義と認められた私たちは、このような祝福が与えられています。病気にならないとか、お金持ちになるとか、希望通りの人生を歩むとか、苦しい目に会わないということが聖書の語る祝福ではありません。事実次の節には「患難さえも喜んでいます」とあります。この神の祝福は、患難さえも喜びとするものです。
 信仰の成長とは、神に義と認められたことでもたらされるこれらの祝福が、どれほど大きなものかを知ることにあります。神との平和を持ち、恵みの立場に導き入れられ、神の栄光を望んで生きることが、どれほどの喜びであり誇りであるか、御霊は私たちに教えてくださいます。今何を喜びとしていますか?何を祝福と感じていますか?聖書が語る「喜び」、「祝福」を受け取りましょう。
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