石原兵永先生

丹羽に関わりの深かった5人の先生方


(石原先生が「丹羽e之氏召される」と題して『聖書の言』に載せられた巻頭言を、『信仰短言』(1982年)より転載させて頂いた。無教会の立場にあられる石原先生が、丹羽の聖霊体験を理解して下さったという事を、生前に丹羽が感謝していたことを思い、ここに掲載させて頂いた。)

 「4月18日朝、阿佐谷の久遠教会牧師丹羽e之氏夫人からお電話があり、御主人が聖路加病院で召されたことを知り、悲しみにたえなかった。68歳とのことであった。20日正午同教会で告別式、氏の教えを受けた石田和男牧師の司式、私も友人の一人として弔辞をのべた。

 氏との最初の出会いは40数年前、内村先生が召されて間もなく私が独立の聖書研究会を始めた頃であった。当時、日英堂から黒崎幸吉先生編集『新約聖書略註』の出版が計画され、まだ若い丹羽君が日英堂編集部の有能な責任者として熱心にその仕事をされたのである。そんな関係で執筆者の一人であった私も同君と親しくなった。またその頃氏は友人中浜慶男君などと共に私の聖書研究会に出席され、数年間共に聖書を勉強したのであった。その間氏はまた日大宗教学科を卒業され、その方面の研究を積まれたのである。

 その後昭和15年(1940年)1月、氏は独立して阿佐谷独立集会を発足された。最初は御自宅の室にわずかな人数が集まった集会であったが、氏はここで地味にしかも熱心に集会を続けられた。その信仰は内村鑑三の流れを汲む無教会的な福音中心の信仰であった。この集会はやがて久遠聖書塾となり、さらに久遠基督教会と改称された。独立の単一教会である。氏の信仰生涯における画期的な出来事は、それから10年後、昭和26年6月25日に経験した聖霊によるバプテスマであった。久しく信仰的にも伝道においても行き詰まりを感じられていた矢先、この時生けるキリストの啓示をうけ、信仰的に全く新しくされたのである。

 それからの氏の福音伝道の活動は真にめざましいものがあった。氏はいわゆる教会拡張の運動を一切行わず、ただひたすらに生けるキリストの霊に導かれて聖書を学び、真実をつくしてキリストの福音を説き、救いの喜びをのべ伝えられたのである。ところが福音を求める人々は、後から後からと集まり、教会はいくたびか拡張を余儀なくされ、現在は東京でも最大の集会の一つとなったのである。まことに氏の信じた、生けるキリストの霊による神のみわざであった。栄光神にあれである。」
(1978年(昭和53年)5月)



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