井上伊之助先生
丹羽に関わりの深かった5人の先生方


 1966年6月4日の朝日新聞の天声人語欄に「東洋のシュバイツアー」として紹介されたことのある井上伊之助先生にお出会いしたのは、終戦後、独立伝道者有志によって結成された福音同志会を通してであった。全くの一人で伝道してきた丹羽が、この会の趣旨に賛同し一時期ではあるがメンバーの一員になり、回り持ち会場として数名の教役者方をお迎えした頃、井上先生もみえられ、私共は始めて先生の歩まれた道を知り、主の愛の迫りの故に、台湾の原住民伝道を志された30余年の厳しいお働きの数々を聞かせて頂いたのである。

 先生が千葉の神学校で学んでおられたある日、当時台湾奥地で事業をしておられた父上が、現地の住民に襲われ逝去されたとの訃報を受け、悲嘆、どうこく慟哭の中からキリストにあって現地の人たちに、真の福音を宣べ伝えたいとの願いが起こされたのであった。
 しかし表向きには認められない当時の事情を知り、医術を身につけてという事で、無教会に属しておられる医師諏訪幹雄先生に、門下生として受け入れて頂き勉強された。やがて時来たり、はるばる台湾奥地での診療所開始となったが、それはたとえようもない困難と多くの危険を伴うものであり、肝心の福音伝道はなかなか実現をみることは出来なかった。ご家族はお子様の勉学のために九州に別居されたときもあり、長い年月全くのお一人、山地での医療活動には心身共に多大なご苦労の連続であられたと思う。

 この間、内村鑑三先生は多くの方に呼びかけられると共に、ご自身も物心両面で援助されたと聞く。終戦と共に引き揚げ者となられた先生を受け入れて下さったのは、東海大学学長前松重義先生で、学内の医務関係ポストが備えられ、それと共に、招かれてはキリストの証しをしておられた、静岡の地では、鳥居ミチ姉(冨士野洋子姉の母(加筆:2020年))宅で定例集会を持たれた由、上京の折には私共宅に長期滞在して頂き、折々に語って頂いたのである。そして先生を通して諏訪先生、米田先生、大久保真太郎兄等の方々にも知遇を得た事も感謝であった。

 先生がご病床に就かれたと伺い、1964年4月、大阪郊外のご住居にお伺いし、お目にかかったのが最後となったが、先生の蒔かれた福音の種は、確実に根をおろし、蛮刀を聖書に持ち替えた現地の人々により、台湾山地各所にみことばが宣べ伝えられ、また遣わされる方々も起こされ、現在は多くの立派な教会堂が建てられている事実を見、真に主の聖名をほめたたえざるを得ない。
(1966年6月20日御召天)



ページの先頭に戻る