創立者召天後の教会の歩み
久遠基督教会五十年の歩み(18)

 宗教法人法によって、代表役員喪失の場合は必ず代務者をたてることになっているので、丹羽の遺志を受け、丹羽清雄兄がこの場に置かれることになった。集会は他に三浦真照兄、美川浩也兄が分担して下さり、各兄姉方がそれぞれの賜物に応じて奉仕され、すべての集会は休むことなく続けられたのである。また各地域集会はテープによってもたれたのである。三浦兄が体調を悪くされ、講壇に立たれない時には、冨田正造兄も何度か奉仕して下さった。また落穂会(婦人会)のためには石田和男先生が引き続いて毎月御言葉の御用をして下さり、ベテル聖書研究会も、石田先生のご指導で続けられた事は感謝であった。

 丹羽召天後はじめての第22回夏期聖書集会が8月22〜25日に、天城山荘においてもたれ、400名が参加した。石田先生と3人の兄弟をはじめ兄姉方のお勧め、お証しによって変わることなく行われたことはまことに感謝であった。

 丹羽の納骨式は、10月10日に東京霊園・久遠教会墓苑において、丹羽清雄兄の司式で行われた。1970年に建てられた墓石には、丹羽の手によって書かれた「我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん」(ヨハネの福音書11章25節)の御言葉が鮮やかに刻まれており、ここにはすでに主にあって召された15名の兄姉の遺骨が納められていた。一同は、丹羽先生が納骨式の度に「キリスト者の墓は暗くはない。これは天国への道しるべである」と語られたことを思い起こしつつ、主の御再臨の日、再び相まみえさせて頂ける望みにあって、御国の歌を心から賛美したのである。

 10月の第3聖日は定例の「1年の恵みを感謝して更に前進を祈る会」がもたれ、使徒行伝20章28〜30節を改めて確認し、丹羽清雄、美川浩也、三浦真照の3兄弟は、一致して群れのために仕えていきたいとの願いを語られ、祈られたのである。

 だが、この年の冬頃から、「丹羽先生のテープによる集会を」と願う声が一部の人から起こり、その願いは次々と多くの声となり、ついに3人の兄弟方もその事を受け入れ、1979年(昭和54年)の年頭の祈祷会から、テープによる集会が持たれるようになったのである。やがて聖日集会も、担当する兄弟方の祈りと選定によって、丹羽の聖書講解テープが選ばれ、会衆一同が、また新しい思いをもって、今与えられた御言葉として受けて行くという集会が始まったのである。

 しかし、一人丹羽清雄兄は、第4聖日に旧約聖書を、示されるままに語り続けていたのであるが、ついにこの年の暮れにはこの群れを離れて、自宅での聖書集会を始められたのである。この集会は東伏見集会として現在も続けられている。

 三浦兄はなお朝日新聞社勤務の多忙な中にあり、美川兄は丹羽の在世中から補助者としての場におられたので丹羽清雄兄去りし後、美川兄が代表役員として推され、三浦兄と共に二人体制となった。集会はすべて丹羽のテープによると共に、教会行事としての洗礼式および会員の結婚式、葬儀その他、一身上にかかわるすべてに当たられるようになったのである。

 こうして1980年には全ての集会は丹羽のテープによってもたれていた。4月の召天2周年記念集会においても、夏期集会においても、美川兄と三浦兄は、「丹羽先生が語り続けてこられた、〈自分の罪を認め、砕かれていく信仰〉の方向をますます受け継ぎ、この聖書講解を聞き続けていきたい」と語られたのであった。(続く)





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