丹羽の発病
久遠基督教会五十年の歩み(16)

 1976年(昭和51年)1月には、三浦真照兄が大阪から東京に転勤になり、奈良集会は山田泰三兄姉宅で行われる事になった。そして三浦兄は、少し前から丹羽の補助者として奉仕されるようになった美川浩也兄と共に、集会の助けをして頂けるようになった。この事は、真に不思議な主の御計らいであると思わされた。

 この年の2月頃より、丹羽はせきが出たり、湿疹が出始め、4月中旬から毎夜高熱を発するようになったが、明け方には解熱し、聖日集会は一度も休む事無く続けられ、530日には百合丘の斯波兄姉宅の新会堂感謝集会にも、冨士野兄 (加筆:2020年:冨士野努兄の証し)の車で運ばれ、1時間語っているのである。8月に持たれた箱根冠峯楼における夏期集会にも参加出来たが、体調はあまりかんばしくない状態であった。その中で、石田和男先生はじめ諸兄姉に助けられ、460名参加、受洗者6名の盛んな集会を無事に持たせて頂いたことは感謝である。その後も、10月末には湖山荘を借り切って落穂会(婦人会)猿ヶ京(群馬県)集会を行っている。

 1977年(昭和52年)は体調もやや回復し、「御霊の働き、大きく現れる年」(イザヤ書6612節)として始まり、2日には「御霊の愛、教会に溢れて」と題してのメッセージ、出席者は253名であった。2月の初めには、初台のカトリック教会におけるカリスマ集会に出席したり、茅ケ崎のひばり幼稚園25周年記念会に招かれて母親たちに語るなど、次々と御用をさせて頂き、5月には近江八幡、高槻、京都へと、変わりなく訪問集会をしたのである。6月には、初めての事であるが、『百万人の福音』の記事で、当教会の存在を知ったという、アメリカ在住の松本勇牧師が、7名の外国人宣教師と共に来泊、伝道集会と交わりの時を持ったのであった。この頃は時折、断食集会も持って、有志数名が徹夜で祈りを共にしたのである。

 この年の天城集会は、丹羽も元気にされ、452名参加で、二つの民宿に分宿するという有り様であった。しかし、この集会を最後として、帰宅後、静養せねばならなくなったのである。926日、宮内マスエ姉の中島(愛媛県)における納骨式は、美川兄と私ほか数名の兄姉が参列して行ったのであった。

 この頃、丹羽の足ならしのため、私共二人は、時折散歩に出かけた。このような事は40年ぶりであろうか。それはまた近くにある空き地を見るためでもあった。丹羽が「汝の天幕を広げよ」(イザヤ書5423節)の御言葉を頂いて以来、願っていた広い土地、徒歩10分位の200坪の空き地をなんとか代替地として譲ってもらえないものかと、ついに私は直接交渉もしたのだが、絶対手放さない土地であると断られながらも、あきらめかねては、二人でまわりを廻って祈ったのであった。勿論、教会裏地のアパート二つとそのまた裏の土地のためにも祈り続けたのであった。ところが神様は思いがけなくもその小さな電源開発公社の所有地(18坪位)を、野末貞子姉の知人を通し払い下げ購入させて頂く事が出来たのであった。そこを整地して取りあえず信徒専用駐車場として用いることになり一同感謝したのである。

1016日は恒例の久遠教会の日であり、丹羽はこの日、「十字架につけられ給いしキリスト」と題して語り、午後の「一年の恵みを感謝して、さらに前進を祈る会」にも出席、兄姉と感謝を共にしたのであった。しかし24日から2泊3日の落穂会猿ヶ京集会には辛うじて出かけ、和氣兄姉の向山荘 (加筆:2020年:参考地図) にて休養を取りつつ、集会場の湖山荘に車で運ばれるという状態であったが、この会でも、その前後の聖日に語っていた「私の愛の中にとどまっていなさい」とのヨハネ伝15章の御言葉を切々と語ったのであった。そして遂に1113日の講壇を最後として、21日には聖路加病院へ入院する事になった。
(続く)

                


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