地方集会への訪問
久遠基督教会五十年の歩み(14)

 さて、会員が増大してくるに従って、地方に転出する兄姉も多く、またその兄姉方はほとんど、自宅を開放して東京からのテープによる家庭集会を持ち、そこに新しい魂も加えられてゆくにつれ、ぜひ東京から先生に来てほしいとの要望が出され、春秋2度の京阪神訪問集会が行われるようになっていたのであるが、時には宮内姉の郷里、愛媛県中島までも足をのばし、渇き求めている魂をかこんで深夜までも集会が持たれたのである。

 また、1971年(昭和46年)4月には、大阪中之島公会堂での聖書講演会が持たれ、この集会は以降、三浦真照兄その他の兄弟によってしばらくの間、続けられたのである。

 そして奈良の三浦兄姉を中心として、高槻の菅兄姉、近江の高村兄姉、京都の森田兄姉等が一つとなって、夏期集会とは別に、宇治リトリートセンターで特別集会を開いたり、「コイノニア」誌を発行して、感謝の証しをあらわし、これは98号(1981年)まで続けられた。他には長野県丸子町の工藤兄姉宅でも1974年頃よりテープによる集会が始められ、次々に導かれる魂が起こされてきたのである。


AMGの発足

 このような現状の中で、信徒各自がさらに深く御言葉の学びをし、その受けた恵みを積極的に証ししていく訓練の必要性を感じた丹羽は、毎週火曜日に夜間講座を開き、旧約聖書を石田和男牧師に依頼し、新約聖書を自分が受け持って、第1回伝道グループの集まりが1969年4月1日に発足し、参加者47名であった。

 この会をAMG(働きながら伝道する者のグループ)と称し、毎週、熱心な学びが続けられ、また二人ずつ組んで共に祈りあい、訪問するという働きが始まり、時にはハンセン病療養所慰問伝道にも遣わされて行ったのである。この会は、丹羽召天後は石田先生によってさらにベテル聖書研究会として続けられたのであった。

 この頃の日曜集会は2百数十名となり、会堂いっぱいに補助椅子を並べ、スピーカーをつけて、2階や会堂脇別室にも席を設けたのであった。午後は愛餐会をはじめ、各グループの集会が持たれ、毎週木曜日夜の祈祷会にも遠近から130名ほどが出席し、熱心に聖霊の満たしを求めての祈りが燃えており、他教会の先生方も時折は来会されたのであった。また都内9箇所で持たれた地域聖書集会にも、それぞれ20数名から50名近くの方が集われた。

 この頃の久遠教会の様子が『百万人の福音』1975年8月号に「聖書講解こそ教会の柱」のタイトルで紹介されている。 




                


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