出て行って福音を宣べ伝えよ
久遠基督教会五十年の歩み(10)

 これまで独立伝道一筋で歩んで来た丹羽は、ほとんど他教会との交流を持たず、種々な会合に声をかけられても固辞していたが、目黒カベナント教会とは、石田先生を通して、しばしば合同の青年会や婦人会を行ったのであった。しかし、その他ふりかえってみると、何ヶ所かで御用をしているのである。1960年(昭和35年)1月初めには帯広メノナイト教会の新年聖会に招かれ、極寒の地へだだ一人で、10日間の旅をし、16日から10日まで、イザヤ書講解、新約史、第二コリント書等を語っているのである。この時が最も遠くまた長い旅であったと思う。また1962年(昭和37年)3月に下馬福音教会で三夜連続の聖書講解をし、さらに8月には、この教会の軽井沢夏期集会において4泊5日の御奉仕をしており、この時には私はじめ数名の姉妹も同行したのであった。1963年(昭和38年)9月には、岡山及び児島の聖約教会で、日本新教史や、旧約のアブラハム、イサク、ヤコブの信仰について語っているのをみる。

 翌1964年(昭和39年)1115日には、かねてからお交わりのあった、武蔵野幕屋集会小池辰雄先生と共に神田YWCAにおいて特別講演会を開催させて頂いた事は顕著な出来事だと思う。小池先生は「鴻大なる福音」、丹羽は「無法則の法則」と題して、300余名の会衆に福音を語ったのである。両方の信徒が協力して祈りと準備をなし、まことに恵まれた集会であった。

 そのほか、目黒恵風寮では寮長はじめ寮生、寮母方のために定期的に集会を開き、これは後に石田先生に引き継いで頂いたが、寮生の何人かは地域集会や夏期聖書集会にも参加され、入信された。また中野総合病院での聖書研究会や、鉄道病院のクリスチャン看護婦の集まりでも何度か聖言の御用をさせて頂いたのであった。



テープレコーダ−の活用と地方集会の発足

 1959年(昭和34年)411日、初めて久遠教会にも大型のテープレコーダーが備えられた。卒業後、朝日新聞大阪本社勤務となった三浦兄の要望で、聖日集会の録音テープを送って欲しいとの事からこの文明の利器は大いに用いられるようになり、次々と宮内マスエ姉宅をはじめ各地域集会のお宅にも備えられ、丹羽の聖書講解はその度毎に録音されるようになった。

 この頃から、宮内姉が神戸に移住、生津敏子姉が猿ヶ京へ (加筆:2020年:参考地図) 、菅匡夫兄姉が関西へと転勤して行かれ、それらの兄姉宅でこのテープによっての家庭集会がもたれるようになったのである。毎週、あるいは随時に送られるテープによって、各地に散在する兄姉方が自宅を開放して2,3人での集まりがもたれ、多くの兄姉方が次々と家庭集会に導かれ、地方集会の形態が整えられていったのである。また毎年もたれる夏期聖書集会には、多くの地方の兄姉方も参集され、共に御言葉を学び、主を賛美し、交わりをもって、次第に信仰告白者も起こされるに至ったのである。

 このように主の導きの中で集会に加わる兄姉も増して来て、1957年(昭和32年)に増築した集会所も狭さを感じるようになっており、まだ借地であったため、買い取ってほしいとの要望も出され、土地問題委員会をつくり、相談をはじめたのであった。


                


ページの先頭に戻る