(2019年11月)

 ・ 11月10日
 ・ 11月 3日

 11月10日
メッセージ要約 主題:「見えるようにしてください」

           列王記 第二6:8~23    三浦真信牧師

 昔イスラエルとアラムの国が戦争をしていました。アラムの国はイスラエルに勝つために様々な作戦を立てますが、ことごとく失敗します。そのため自分の国にスパイがいるとアラム王は疑います。しかし家来の1人から、イスラエルの預言者エリシャが自分たちの作戦すべてを言い当ててイスラエル王に告げていることを聞き、激怒してエリシャを捕まえるために大軍を送りました。

 アラム軍は夜のうちに、エリシャが住むドタンの町を包囲します。その翌朝早く、エリシャの家の若者が町を取り囲むアラムの大軍を見て、エリシャにどうしたらよいかと恐怖を訴えます。するとエリシャは、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言い、「どうぞ彼の目を開いて、見えるようにしてください」と祈ります。すると、主がその若者の目を開き、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちているのが見えました。人の目には見えない、神の大軍がエリシャを取り囲んで守っていたのです。

 アラム軍はエリシャを捕まえようとして、エリシャの家に近づいてきます。エリシャは、「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください」と主に祈ります。主はエリシャの言葉通りに、アラム軍の兵士たちを打って盲目にされました。

 エリシャは、イスラエルの王がいるサマリヤの町まで、目が見えなくなった兵士たちを連れて行きました。そして「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください」とエリシャが祈ると、主は彼らの目を開かれました。イスラエルの王は、「私が彼らを打ちましょうか」とエリシャに繰り返し尋ねます。しかしエリシャは、「打ってはなりません。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい」と言います。イスラエルの王はエリシャの言葉通り、アラムの兵士たちに盛大なもてなしをしてのち、彼らをアラムに帰しました。それからは、アラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来ませんでした。

 エリシャは、イスラエルを攻撃してくるアラムに仕返しをするのではなく、むしろ盛大にもてなして相手の喜ぶことをすることで、イスラエルとアラムを仲直りさせ、争いを止めたのです。

 アラムの大軍に一度はエリシャの住む町ごと包囲されましたが、神さまが守ってくださいました。そしてアラムの国がもうイスラエルを攻撃してこないようにまでしてくださいました。恐怖に囲まれた時、またどうしてよいかわからず困った時にも、神さまが助けてくださいます。そのような時に、私たちの心の目を開いてくださって、エリシャと若者が見たように「私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者より多い」から大丈夫だと神は安心させてくださいます。神さまのこのような偉大な力に取り囲まれていることが見えるように祈りましょう。

 受験生や進路を求めている人など、人生の岐路に立つ時に先が見えないため不安になることがあります。でも神さまが共にいてくださるから大丈夫です。怖い目に会ったとき、友だちとうまくいかないとき、勉強や仕事が思うようにできないとき、どんなことでも神さまにお祈りしていきましょう。エリシャにイスラエルとアラムの戦争をやめさせる知恵を与えてくださった神さまが、どのようにしたらよいかをいつも教えてくださいます。イエスさまを信じる私たちは、神さまの愛と力で囲まれているのです。そのことが具体的にわかるように、神さま、私たちの目を開いて見えるようにしてください!
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 11月3日
メッセージ要約 主題:「この恵みに導き入れられた私たち」

           ローマ人への手紙5:2   三浦真信牧師

 人間の心には、他の人から認められたいと願う承認欲求があります。しかし人から認められることだけで自分の価値を測ろうとすると、どこまでも満足することができません。聖書は、私たちの心が本当に満足し、安心できるのは、天地万物を造られた神に認められる時だと語ります。人がどのように思っても、神が私を義と認めてくださり、神が私を価値ある尊い者と認めてくださることがわかると、人からの承認はそれほど大きなものではなくなってきます。神は、私たちの行いや人間的な良さによってではなく、神を信じる信仰によって、私たちを正しい者と認めてくださいます。神の御前に価値ある者と見てくださいます。

 信仰によって義と認められた私たちには、その結果として大きな祝福が伴われています。その1番目は、「神との平和」を持っていることです(1節)。罪によって神との間に大きな断絶があった私たち人間にとって、きよい神との間に平和な関係を持てること自体、奇跡でありこの上ない祝福です。


<2節>

 神に義と認められた私たちに伴う祝福の2番目は、「恵みの立場」に導き入れられていることです。「信仰によって」、「いま私たちの立っている恵みに」導き入れられました。キリストの十字架により神との平和を持った私たちは、神との愛の交わりの中で、神の恵みを日々感じながら生きられる立場に導き入れられたのです。

 「導き入れられた(プロスアゴーゲー)」という言葉は、神の宮に入る時や、王様のところに先導する意味があります。また「通路」「アクセス」の意味もあります。キリストを信じることによって、恵みの場にアクセスできたのです。「私たちは、このキリストによって、一つの御霊において、父なる神のみもとに近づくことができるのです」(エペソ2:18)。「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです」(へブル10:19)。

 神に義と認められた私たちに与えられる祝福の3番目は、「希望と喜び」です。「私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」

 「神の栄光を望む」とは、どのようなことでしょうか?

① 神の栄光をやがて見るという希望です。

 今はまだ神を完全に知ること見ることはできませんが、肉体の死を通過しやがて主の許に行く時に、栄光の神の姿の全容をはっきり見ることができるのです(Ⅰコリント13:12)。完全に神を知ることができるのです。ですから地上でわからないことがあっても望みがあります。神はその時に、神に関するすべてのことを明らかにされます。

② 私たちもキリストの神の栄光のからだに変えられる希望です。

 神の栄光の姿を見るだけでなく、私たちもキリストの栄光のからだと同じ姿に変えられます(ピリピ3:21)。栄光のからだに変えられるという将来の望みと同時に、地上にあっても、キリストとの交わりを通して、キリストの栄光を身にまとう者として世で生かされています。不完全ではありますが、栄光から栄光へと主と同じ姿に少しずつ変えられ、主の栄光を世に放つ者とされています。(Ⅱコリント3:18)


 このような「神の栄光を望んで」いるからこそ、私たちは「大いに喜んで」いるのです。あるいは「大いに喜ぼうではないか」ともここは訳せます。また「大いに誇ろうではないか」とも訳せます。ガラテヤ6:14「キリストの十字架以外に誇りとするものが断じてあってはなりません」の「誇り」と同じ原語です。キリストの十字架の恵みにより、私たちは神の栄光を待ち望む者とされています。このことをこそ、大いに喜びとし誇りとしましょう。
 神に義と認められた私たちは、このような祝福が与えられています。病気にならないとか、お金持ちになるとか、希望通りの人生を歩むとか、苦しい目に会わないということが聖書の語る祝福ではありません。事実次の節には「患難さえも喜んでいます」とあります。この神の祝福は、患難さえも喜びとするものです。
 信仰の成長とは、神に義と認められたことでもたらされるこれらの祝福が、どれほど大きなものかを知ることにあります。神との平和を持ち、恵みの立場に導き入れられ、神の栄光を望んで生きることが、どれほどの喜びであり誇りであるか、御霊は私たちに教えてくださいます。今何を喜びとしていますか?何を祝福と感じていますか?聖書が語る「喜び」、「祝福」を受け取りましょう。
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