(2019年10月)

 ・ 10月27日
 ・ 10月20日
 ・ 10月13日
 ・ 10月 6日

 10月27日
メッセージ要約 主題:「何を誇りとして生きるのか」  -宗教改革記念礼拝-

         ガラテヤ人への手紙6:14  三浦真信牧師

 マルティン・ルターはじめ宗教改革者は、以下のことを大切にしようと叫びました。

① 神の言葉(聖書)の権威

 中世のヨーロッパで、人々は聖書ではなく教皇や司祭の語る言葉をそのまま鵜呑みにしていました。信徒が勝手な解釈をしてはいけないから、自分たちの語る教えを聞いて信じるように命じたのです。ですから「免罪(めんざい)符(ふ)を購入すれば罪が赦される」という間違った教えもそのまま信じて受け入れてしまったのです。

 社会的に権威ある人が語った言葉であっても、それよりも聖書に権威があることを、宗教改革者たちは訴えました。宗教改革者たち自身も、自分たちが聖書を解釈しているというよりも、神が自分たちを、聖書を通して取り扱ってくださっていると感じていました。ですから聖書から離れた当時の教会のあり方や教えに対しては、抗議(プロテスト)せざるを得ませんでした。

 初代教会においても、ベレヤの人たちは、「使徒たちの教えを非常に熱心に聞き、はたしてその通りかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17:11)のです。使徒たちの教えさえも、彼らは聖書で語られていることかどうか調べたのです。終わりの時代に、偽キリストや惑わす者たちが大勢現れます(マタイ24:3~5)。キリスト教異端、カルトも日本の教会に次々侵入してきて、クリスチャンを聖書から引き離そうと狙っています。ネット社会になり、これまで以上に多くの情報に触れる機会が増え、いよいよ聖書に聞かないと惑わされてしまいます。常に聖書に聞きましょう。

② 救いはただ恵みだけ

 ルターがある日激しい雷雨に会った時に、罪深い自分に神が怒っておられると恐怖を感じ、その後修道院に入りました。そこで難行苦行をしますが、一向に平安を得ることができませんでした。やがてルターは、ドイツのウィッテンベルク大学で聖書の講義をするために聖書を読み学ぶ中で、救いはただ神の恵みによることを知り、罪の咎(とが)めから解放され平安を得ました。

 私たちが神に罪赦され義とされるのは、免罪符を購入するとか、人の行いには一切よりません。ただ神の一方的な恵み、あわれみであって、キリストが私たちのためにしてくださった十字架のみわざによります。

③ 万人祭司

 中世ヨーロッパ教会では、教職者と信徒が階層のようになっていました。しかし聖書では、そのような区別はありません。役割としての違いや秩序はありますが、誰が上で誰が下という違いはありません。キリストの光の中に招かれた者はすべて、神と人を仲介する祭司とされています。「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたをやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(Ⅰペテロ2:9)

 教会はキリストのからだであり、メンバーすべてがからだの器官の役割を果たしていく時に成長していきます。教職者だけが教会のことをしていくなら、宗教改革前の教会と同じになってしまいます。万人祭司、キリストの救いを受けた者はみな、祭司として神と人との懸け橋となるのです。

 またそれぞれが異なった職業、働きに召されています。職業は英語でcallingです。これは「召命」と同じです。宗教改革者たちは、教職の働きだけでなくどの職業も神から召されていることを強調しました。それぞれが与えられている職業、家事、育児、奉仕、あらゆる働きを通して、神に仕え神を知るように召されています。今与えられている仕事を通して、どのように神に仕え、信仰を学んでいくのか、主にお聞きしましょう。

 「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」 (ガラテヤ6:14)

 宗教改革前の教会も、「肉を誇る」(13節)生き方を肯定していました。見える立派な建物を競い合ったり、教会内における役職を誇りとしたり、人間的な権威が中心となっていました。

 ガラテヤ書を読むと、初代教会ではユダヤ人律法学者たちが、自分たちが神に選ばれた民であることを誇りとし、異邦人たちも割礼を受けてユダヤ人となるように強要しました。パウロ自身も、キリストに出会う前は自分の学歴、家柄、能力、知識など、人間的なものを誇りとし頼みとして生きてきたと告白しています(ピリピ3:3~8)。しかし生けるキリストに出会って、それまで得であると思っていたことがキリストのゆえに損と思うようになった、主であるキリストを知っていることのすばらしさゆえに、それらをちりあくたと思うようになったと語っています。

 肉を誇りとする生き方は、初代教会や中世ヨーロッパ教会だけの問題ではありません。今も私たちの中に、肉を誇りとし人間的なものを誇りたいという欲望があります。生涯その思いとの戦いです。

 この14節は、原語では「私には決してあってはならない」という言葉で始まっています。これは、命令ではなく願望を表す言葉です。「私としては、決してあってほしくない」というニュアンスです。「割礼を強制する人たちは肉を誇りたがっているけど(12~13節)、私パウロとしてはキリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってほしくない」という強い願望の言葉です。そこには、「自分には肉を誇りとすることなど絶対ないと断言することはできない」というパウロの葛藤がありました。割礼を受けたことで肉を誇っている人々を見て、「ああはなりたくない」と思っているけど、自分の中にも肉を誇る思いが見え隠れしていることを否めませんでした。「すべてちりあくただ」と思っているはずなのに、一方でまだ古い自分、人間的なものを誇り頼みとする自分もいる…「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24)と葛藤するパウロがいました。そのようなみじめな自分だからこそ、今もいよいよキリストが必要、キリストの十字架なしには生きられないパウロでした。そのみじめさの中でも、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」(ローマ7:25)と、キリストに向かわされるから、結局は感謝なのです。

 肉が働くところでは、肉の実しか結びません(ガラテヤ5:19~21)。肉の思いは死であり滅びです。だからこそ、肉を誇ろうとする自分はたえずキリストと共に十字架で死んだものと認めましょう。

 「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」 この世界に今私たちは生きています。神を神として受け入れない世界です。この世界と私との間に、キリストの十字架が立っています。この世界は、どこまでも目に見えるものを誇り、目に見えるものに依存しようとする世界です。見えない神ではなく、見えるものをすべてとする世界です。そこでは見えるものが崇められ、人々は見える物を誇ろうとします。だから見える地位、見える持ち物、見える人を誇りとし、それらによって価値ある者と認められようとします。キリストの十字架は、その生き方に「No!」を宣告します。もう見える物を誇り、見えるものを崇拝する価値観に、私たちは死んだのです。「私はキリストとともに十字架につけられたのです」(ガラテヤ2:20)。

 中世ヨーロッパ教会が、肉を誇りとする生き方を当然としていたところに、宗教改革が必要でした。宗教改革者たち自身もまた、「自分たちこそ正しい」という思いから、肉を誇りとする誘惑がありました。私たちの中にある「肉を誇ろうとする思い」にも、たえず改革が必要です。でも私たちは、人の肉には気がつくのに、自分の肉の姿にはなかなか気づきません。だからこそ、聖霊の助けと交わりが必要です。誇ろうとする肉が私たちを不自由にします。十字架だけを誇りとして生きたいと求めていくことで、私たちは自由にされていきます。今日もパウロ同様に、「キリストの十字架だけを誇りとしたい」と求めていきましょう。  
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 10月20日
メッセージ要約 主題:「あなたのパンを水の上に投げよ」

           伝道者の書11:1 奥山実・宣教師訓練センター所長

<世界宣教会議2020>

 来年4月30日〜5月3日に、世界宣教会議がイスラエル伝道と世界宣教をテーマに、淀橋教会において開催されます。分科会では、イスラムの諸国、共産圏の諸国への伝道について、国ごとに専門の先生から詳しいお話を伺えます。  

 私は1996年の京都での世界宣教会議の議長を務めましたが、来年再び大会議長を務めることになりました。現在は、かつて「第3世界」と言われたアジア、アフリカ、南米という諸国から世界中へ宣教師が派遣される時代になっていて、その数は欧米諸国から派遣される宣教師よりも多くなっています。  

 世界宣教会議が東京で開催される意義は大きいものがありますので、是非多くの方に参加してほしいと思います。


<パンを水の上に投げる>

 「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」(伝道11:1) パンを水の上に投げることほどむなしいことはないでしょう。その作業をしなさいと聖書は言っています。「投げなさい」のヘブル語は、強意系の命令の言葉が使われています。むなしく見えても、伝道はしっかりしなければなりません。後になって、必ず刈り取り、実を結びます。


<インドネシアへの宣教>

 アメリカの改革派教会はこの事を経験しました。カリマンタン島(別名:ボルネオ島)の原住民への伝道のために、100年前から宣教師を送ってきました。多くの宣教師と家族に風土病などによる犠牲者が多く起こり、一時は本国へ引き上げるように命じられました。しかし、彼らの宣教の証を聞いた欧米の若者が立ち上り、献身して宣教師となって、当地での宣教が継続されていきました。  

 犠牲を乗り越えて行うのが、この海外宣教です。かつてアフリカも宣教師の墓場と言われていましたが、宣教師の伝道が実を結び、今ではクリスチャンがすごく多くなっています。  インドネシアでは、中国の影響を受け多くの人が共産党に入り、その勢力が増して武装化するようになりました。教会にも共産党の影響が入り込み、クリスチャンでありながら共産党員という人も出たほどです。その共産勢力が国軍(イスラム系)との戦いに負けて、カリマンタンのジャングルの奥に逃げ、原住民の中に紛れ込ました。そこで追討する国軍の司令官が「宗教を持たなければ共産党員とみなして排除する」という指令を出します。イスラム、カトリック、プロテスタント、仏教、ヒンズーの5つから選べというものでした。その時に原住民の人々がプロテスタントを選ぶと言いました。それまでにプロテスタント教会・団体が、宣教と共に、道路・橋・学校・病院等を造って来た事が現地の人に評価されていたのでしょう。100年間宣教し続けた末に、ついに大リバイバルが起こって多くの原住民が救われ、洗礼を受けるようになりました。


<奥地で洗礼を授ける>

 按手礼を受けた牧師の私が洗礼を授ける資格を持っているので、ジャングル伝道専門のインドネシア人宣教師らと共に現地に入りました。出発の間際には私の娘と彼の息子が高熱を出しなかなか熱が引かない。サタンの妨害でしたが、皆で祈ってから、出発しました。現地では、イエス様を信じたら罪が赦される、イエスの十字架の贖いを信じ受け入れるように、また信じたらその告白が必要だと説いて洗礼を勧めました。原住民の首長を始め多くの家族が信仰を持ち、短期間に何百名にも洗礼を授けました。彼らから、洗礼名を欲しいと求められたのですが、聖書で普通に探せる名前は直ぐに尽きてしまい、旧約聖書に出てくるあまり聞いたことのない名前を選んだという面白おかしいエピソードもあります。  

 伝道は一見むなしくみえますが、やり続ける時に必ず実を結んでいくものです。私達は伝道して、パンを投げ続けます。日本でも大リバイバルが起きて、クリスチャンになりたいと言う人が多く起こされる日が来ます。歴史を支配する神様ですし、神様には不可能なことはありません。 (要約まとめ:田内博)  
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 10月13日
メッセージ要約 主題:「神との平和」

           ローマ人への手紙5:1    三浦真信牧師

<1節>

 信仰によって義と認められた私たちだからこそ、神との平和を持っています。アブラハムやダビデだけではなく、今ここに生きている「私たち」の主イエス・キリストを信じることによって、神との平和が与えられました。私たちの主イエス・キリストが成し遂げてくださった十字架の贖(あがな)いだけが、宇宙を創られた神と私たち人間を平和な関係に導くのです。キリストを信じることによってのみ、人は神に義と認められ、神と平和な関係を持つことができます。  

 行いによって義と認められるとしたら、常に良い行いをキープしていなければなりません。そもそも私たちは神の義を満たすような良い行いなどできないし、仮にできたとしてもずっとそのままの状態を保つことはできないのです。すぐに外れてしまいます。頭では「こうすべき」とわかっていても、そうできずに体は悪いほうに反応してしまいます。人間の行いによって神に義と認められようとするなら、神と平和な関係を持つことは永遠にできません。「また外れたかな?また神の義失格かな?」と、いつも不安でビクビクしていなければなりません。ですから、自分の行いではとても神に義と認められないとあきらめて、キリストを信じる時に、救いがあるのです。信仰よって義と認められることは、安心です。信仰すらも、私たちはすぐに揺(ゆ)らいでしまいますが、信仰の創始者はイエス・キリストです。キリストが十字架で成し遂げてくださったみわざにすべてかかっています。始めてくださった方は、完成させてくださいます(へブル12:2)。信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいましょう。たえず主イエスを見上げましょう。  


 神との平和を持つか否かは、人生とその先に関わる大問題です。なぜなら、神と和解して神との平和を持たない限り、人は神の怒りとさばきの下にあるからです。

 「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」(ローマ1:18)

 「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながらに御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:3)  

 神から罪の赦しを受けない限りは、人は自らの罪を背負い、神の怒りを受けながら、死と滅びに向かって生きるしかなかったのです。旧約聖書を読むと、人間がいかに神を侮り、罪にすぐ傾いていくかがよくわかります。「苦しい時の神頼み、楽しい時の神離れ」を繰り返しています。苦しい時には、ひたすら神に向かって叫び求めながら、調子が良くなると神を忘れ、偶像や欲望の世界に帰っていきます。人類はそれを繰り返してきました。神はそのたびに、悔い改めて神に立ち返るように呼びかけますが、民はまた神以外のものに心が向いていきます。そのようなどうしようもない浮気性な私たち人間を神はあわれみ、神自らが出向いて来てくださいました。その方が神の子イエス・キリストです。  

 「神は、罪を知らない方(キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって神の義となるためです」(第2コリント5:21)  

 罪のない方が、罪深い私たちの代わりに「罪」とされました。本来私たちが受け続けるはずの神の怒りを、キリストがすべて代わりに十字架で受けて死なれたのです。そして3日目によみがえられました。このキリストの内にいるなら、もう神の怒りは去り、罪の無いものとしていただけるのです。神に義と認めていただけるのです。  

 では、神との平和が与えられた者たちは、実際にどのような経験をするのでしょうか。

① 神の怒りではなく、神の愛を感じながら生きます。 神と共に歩み、神の言葉で生きるようになりますと、いよいよ自分がみじめな罪人であることを思い知らされます。それにもかかわらず、神が愛してくださることがよくわかってきます。自分の状態の良し悪しに関係なく、神はいつもキリストの十字架を通して信じる者たちを見てくださり、その愛は変わらないので安心です。

② 神に対する恐怖がなくなります。 神を敬う意味での畏れはあります。しかし恐怖はなくなります。その結果、大胆に神に近づくことができます(へブル4:16)。いつでも「天のお父様」と呼びかけ、心の中のどのようなことも、きよい神に遠慮なく話しかけることができるのです。

③ 良心の呵責(かしゃく)から解放されます。 「あれでよかったのだろうか?とんでもない失敗をしてしまった…」と思い、反省したり一時的に落ち込むことはあっても、キリストによって義とされた事実は変わりません。悪魔は、神に義と認められた者たちに、「お前の心は汚れで真っ黒ではないか、それでも罪がきよめられていると言えるのか」と訴えてきます。その非難の声も、キリストは打ち消してくださいます。

 「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです」(ローマ8:33~34)。

 どれほど悪魔が訴えてきても、私たちの罪のために十字架で死んでよみがえられたキリストが、私たちのためにとりなしてくださいます。神に義と認められた事実は変わらないのです。

④ 死と最後のさばきに対して恐れがなくなります。 キリストを信じる者たちから、神の怒りは去ります。ですから、神との平和が与えられた者たちは、死に対して、また最後のさばきに対して、恐れる必要がなくなります。 「キリストの死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(へブル2:14~15)

⑤ たとえ罪を犯してしまった時にも、神に義と認められた者として生きられます。 神との平和を持った後にも、罪に陥(おちい)ることがあります。そのたびに、神に義と認め直していただく必要はありません。具体的な罪は神に告白し悔い改めつつも、神に義と認められた事実は変わらないので、神の子として生きることができます。罪を犯すたびに、神の義とされた事実がご破算になるわけではありません。罪のきよめは永遠に有効です。キリストの内にあるなら、どのような状況でも、神に義と認められた者として生きることができるのです。

 以上のように神との平和を持つことは、一時的な心の平安とか安心ではなく、永遠を左右する出来事です。  

 神の怒りを一生、いや、永遠に受けながら生きたいでしょうか?神の怒りとさばきから解放されたいですか?すでにキリストが、神の怒りの原因となっている私たちの罪を赦す道を開いてくださいました。そのままでイエス・キリストを心に迎えましょう。キリストの内を歩みましょう。神の怒りではなく、神の愛を受け取りながら歩みましょう。神と和解をして、神との平和を持って生きることができる恵みを、感謝しましょう。   
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 10月6日
メッセージ要約 主題:「主イエスをよみがえらせた方」

           ローマ人への手紙4:23~25   三浦真信牧師

<23~24節>

 ここまで、ユダヤ人たちが尊敬するアブラハムのことを例に、パウロは「信仰による義」について述べてきました。しかしそれはただアブラハムのためだけではなく、今生きているすべての民族、つまり「私たちのためです」と語ります。遠い昔の遠い国のことではなく、今ここに生きている私たちにも関係があるのです。  

 パウロはここで、イエス・キリストのことをあえて「私たちの主イエス」と表現します。今生きている「私たち」と関係がある「主イエス」です。「主」は、「主なる神」、「イエス」は、「人間イエス」の名前です(「キリスト」は称号)。つまり「主なる神であり、人となられたイエス」です。神でありながら、人の肉体をとられた主イエスを、神は十字架の死からよみがえらせたのです。クリスチャンは、そのことを信じます。神には、人をよみがえらせる力があり、死からよみがえられた神の子キリストが、今も私たちの現実の生活で生きて働いておられると信じるのです。  

 アブラハムも、神は死者をも生かすことができると信じました(17、19節)。復活信仰に立ちました。この復活信仰に立たなければ、死んだも同然の自分たちを通して、おびただしい数の子孫が与えられると信じることはできませんでした。神はこの信仰を、彼の義と認めたのです。そしてアブラハムの義が、私たちの義の原型となっているのです。


<25節>

 神であり人となられた「主イエス」は、「私たちの罪のために死に渡されました」。ここの「罪」の原語は「パラプトーマ」という言葉で、具体的な個々の罪のことです。「罪過」「私たちの背きの罪」とも訳しています。「パラプトーマ」は、「パラ(傍(かたわ)ら)」と「プトーマ(死骸(しがい))」から成る単語です。罪の中にいることは、「死骸(しがい)の傍(かたわ)ら」にいるようなことなのです。またパラプトーマの動詞形は、「堕落(だらく)する」という意味になります。  

 創世記を読むと、人は神との正しい関係から堕落(だらく)して、死を経験するようになりました。神との関係が壊れてしまい、堕落した結果、人は「死骸(しがい)の傍(かたわ)ら」で生きるような望みのない存在になってしまいました。正に「あなたがたは自分の罪過(パラプトーマ)と罪との中に死んでいた者であって…」(エペソ2:1)という状態だったのです。  

 「茹(ゆ)でガエルの法則」(カエルを熱湯に入れると驚いて逃げるが、水に入れてゆっくり煮ると、気づかずに茹(ゆ)で上がって死んでしまうという法則。生物学的には根拠はありません)のように、罪過(パラプトーマ)の中にいると、いつの間にかその生活に慣れてしまい、気がついたら取り返しのつかないところまで堕落(だらく)していくことがあります。神との関係が切れてしまっていたりこじれていて、あらゆることが空回りしていても、その状態に慣れてしまい、滅びに向かっていることに気がつかないままでいることもあります。ですから毎週礼拝ごとに「今神と私の関係はどうなっているか?」を自問し軌道修正していくことは大切なことです。

 死骸(しがい)のそばにいるような、背きの罪の中で生きていた「私たちのために」、主イエスは「死に渡された」のです。「死に渡され(パラディドミー)」という表現はあまり使われません。70人訳聖書(旧約聖書もギリシャ語)では、キリスト預言のイザヤ書53章で2回使われています。70人訳聖書を使っていたローマのユダヤ人たちは、パウロがこの言葉を使ったことで、イザヤ書53章が主イエスの十字架を指していたことをより鮮明に受け取れたでしょう。  

 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」。ここの「死に渡され」と「よみがえられた」は、どちらも不定過去(歴史上一回限り起きた事実を表す)です。2000年以上前に、歴史の真っ只中で確かに一度起きた出来事が、永遠に罪を赦すために有効なのです。神が罪人を贖(あがな)うために、主イエスの十字架の死と復活は永遠に有効です。だから今も主イエスを信じて罪から解放され、神に義と認められる喜びを経験する人が起こされ続けているのです。そして信じて救われた人は、さらに主イエスの十字架の死と復活を思うたびに、喜びと感謝があふれてくるのです。  


 「アブラハムが主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)は、アブラハムだけに留まらず、主イエスの十字架の死と復活を信じて救われた私たちに継続されているのです。アブラハムは、神が死者をも生かす方と信じ、見える状況ではなく、どこまでも神の約束の言葉を信じました。その信仰によって義と認められました。今私たちも、どのような罪の現実があっても、その罪のために死に渡された主イエスは、私たちが義と認められるためによみがえられたことを信じましょう。  
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