(2019年9月)

 ・ 9月29日
 ・ 9月22日
 ・ 9月15日
 ・ 9月 8日
 ・ 9月 1日

 9月29日
メッセージ要約 主題:「ずっと私の神」

           詩篇90篇   三浦真信牧師

① すべてのものを造られた方が私の神です(2節)

 聖書では、神が天と地すべてのものを造られたと語っています。そして「山々が生まれる前から、あなたは神です」と、この詩篇の作者は宣言しています。神の存在に触れ、神が私の神であるということがわかった時に、ずっと前から神に見守られ神が共に歩んできてくださったのだと実感できるようになります。  

 神が天と地すべてのものを造られ、人をも造られたと信じるなら、私たちが人生で生き悩んだとき、迷い果てたときにも、この神に祈り求めながら歩むことができます。  

 「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩篇121:1~2)。山や海など大自然をも造られた方が、「あなたの今抱えている問題にも私が答え、私が助ける」と言われます。生きている限りは誰にも悩みがあります。ネットで調べれば解決するような問題ならまだ良いのですが、どこで調べても誰に聞いても解決しない問題もあります。その時に、天地を造られ、私たち人間一人ひとりを目的をもって造られた方が助けてくださるとは何と心強いことでしょう。主なる神は、私たちが人生で一番苦しい時、悩み果てて自分の足では歩けない時に、私たちを背負ってくださる方です。  

 マーガレット・F・パワーズの「あしあと(Footprints)」という以下のような詩があります。


 ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。一つは私 のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合っ (裏面に続く) てくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません。」 主はささやかれた。「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」


② 人間には限界があり、その一生ははかないものです(3~6節)

 人生100年の時代になっても、あっという間に人の一生は過ぎ去っていきます。「移ろう草のよう」です。華々しい時は短く、しおれ枯れる時がやってきます。人の人生も、力も限りがあるのです。もしも地上の人生ですべてが終わりであるなら、何とはかなく空しい一生でしょう。しかし聖書は、死ですべてが終わりではないと語ります。イエス・キリストは言いました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ福音書11:25)。私たちの罪の代わりとなって十字架で死なれたイエス・キリストは、死んで三日目に復活して死に勝利し、キリストを信じる者にも同じ復活のからだを与えると約束してくださいました。もう病気をしたり年ごとに衰えることもなく、悲しみ嘆き痛みもない神の国において、新しく与えられる復活のからだで主と共に生きるという約束が与えられています。その希望を持って今を生きるのと、今の人生が終わったらその先は真っ暗やみと思って生きるのとでは、生き方が全く違ってきます。

③ 神はその人にしかできない「手のわざ」を用意しておられます(16~17節)

 はかない人生でも、神の愛を受けた者たちに神は「手のわざ」をそれぞれに用意しておられます。その人にしかできない、働き、役割があるのです。それは日常生活のささいなことも含まれています。神から託されたわざをしていく時に、はかない人生が喜びの人生となっていきます。そのわざをしながら、神はご自身の偉大さを見せてくださいます。目的をもって一人ひとりを創造された神は、私たち一人ひとりのなすべき手のわざを用意しておられます。そのミニストリーに生きることで、神は人生の喜びを与えてくださるのです。   
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 9月22日
メッセージ要約 主題:「御恵みを惜しまれない主」

           ルツ記2:14~23   三浦真信牧師

<14節>

 はからずも、姑ナオミの親類であるボアズの畑で落ち穂拾いを始めたルツ(2:3)は、昼食もボアズに招かれ、パンと炒(い)り麦をごちそうになります。ボアズがパンを浸すように勧めた「酢」は、酸っぱくなったぶどう酒に少量の油を混ぜたもので、のどの渇きを癒し食欲を増進する飲み物でした。「炒(い)り麦」は、乾燥していないままの大麦を炒(い)ったもので、とても美味しかったようです。ルツは畑の主人が食べるのと同じものを十分食べ、余りをおみやげとして持ち帰ることができました。ボアズのしたことは、落ち穂拾いに来た人に対して、ありえない好意でした。


<15~16節>

 ルツが食事を終えて、再び落ち穂拾いに行こうとして立ち上がると、ボアズは「束の間」でもルツに穂を拾い集めさせるように、しかもわざと穂を抜き落として拾い集めさせるようにと、畑で働く若者たちに命じました。麦束の間には、特別多くの穂が落ちています。普通は畑の主人が拾い、落穂拾いに来た人には拾わせません。しかも「わざと」穂を抜き落とし、ルツがそれを拾って持ち帰ることを許可するというのは、ルツにとって身に余る好意でした。


<17節>

 ルツが朝から夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた量は、1エパ(約3ℓ、重さ約25㎏)でした。ふつうに落ち穂拾いに行った人が必死で集めても、到底集められない量でした。また拾った落ち穂を「打つ」ということは、正規の職員だけが使える作業場で道具を借りて、穂先の部分を打ってすぐに食べられる状態にすることです。 <18~19節>  ルツは畑からベツレヘムの家に帰り、姑のナオミに拾い集めたものを見せました。そしてナオミの分として残してきた、すでに打ってすぐに食べられる状態の麦、また調理された美味しい炒(い)り麦を彼女に与えます。ナオミは、ルツの生き生きとした表情と、持ち帰った麦の量の多さを見て、よほど彼女に親切にしてくれた人がいたに違いないと思いました。ナオミの問いかけに、ルツは「ボアズという名の人のところで働きました」と答えます。ナオミがボアズのことを知っているとは思いもしませんでした。


<20節>

 ナオミは、嫁であるルツがボアズから身に余る好意を得たことを聞いて、「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように」と言います。あえて「死んだ者にも」と言ったのは、ナオミ自身が「死んだも同然の自分にも、主は御恵みを惜しまれない」という感謝が溢れてきたからでしょう。モアブの野での10年間、次々に家族を失い、悲しみ痛んで帰ってきたナオミは、何の希望も持てず心は死んだも同然でした(1:20~21)。これからどうやって生きて行けばよいかわからない中で、ボアズからこのような好意を受けたのです。  

 そしてナオミは、ボアズが自分たちの親戚であり、買い戻しの権利を持っている人であることを伝えます。買い戻しの権利とは、貧しい人が生活に困って自分の土地を売ったとしても、数年後に一番近い親類がその人の代わりに土地を買い戻して与えるというものです。


<21~23節>

 ルツはモアブ人(外国人)であるという理由で、知らない畑でいじめられる可能性もありました。ですから、ボアズの畑で刈り入れの終わりまで安心して働かせていただけることはとてもありがたいことでした。ルツはナオミの勧めもあり、ボアズの畑で刈り入れの終わるまで落ち穂を拾い集め、姑ナオミと暮らしました。  

 ルツがボアズの畑で落ち穂拾いを始めたのが、4月の終わりごろでした(1:22「大麦の刈り入れの始まる頃」)。収穫が終わるのは6月初め頃です。約50日ルツは落ち穂を拾い集めました。ルツが初日に拾い集めた大麦の量1エパ(17節)をお金に換算すると、当時の一般人の半月分の収入にあたります。もしルツが毎日同じだけの麦を拾い集めたとしたら、その間に25か月分(約2年分)の収入を得たことになります。神は、夫と2人の息子を失い素手でベツレヘムに帰ったナオミと、やはり夫を失い姑の信じる神を慕って未知のベツレヘムにまで来たルツの生活を、このように守ってくださったのです。  


 今日の聖書個所だけを読むと、まるでナオミとルツの幸せ物語のようですが、このルツ記はどこまでも1章の苦しみから始まっています。ナオミはモアブの野で夫エリメレクと2人の息子を失う辛い10年を経て故郷ベツレヘムに帰ってきました。久しぶりに会った知人たちから呼びかけられても、「私をナオミ(快い)と呼ばないでマラ(苦しみ)と呼んでください」と応答するほど、心は荒(すさ)み傷んでいました。しかしナオミは生ける神を信じていました。神を「全能者」(天地万物を造りどんなことでもできる神)と信じていました(1:20~21で2回繰り返しています)。今の苦しみ悲しみも、全知全能の神の御手の中にあること、そして神は自分をその中で卑しくしへりくだるようにしたと、苦しみを正直に訴えつつも信仰の目をもって受けとめています。  

 神は、苦難を通して私たちを神の御前にへりくだるようにされます。自分の力で歩めると思っていた高ぶりを打ち砕かれ、神に造られた者として神の御前にへりくだることを学ばせてくださいます。そして神の御前にへりくだる者には、惜しみなく恵みを与えてくださいます(Ⅰペテロ5:5~6)。  

 ナオミの信じる神を慕い求め、その御翼(みつばさ)の下に避け所を求めて来たルツが、ナオミと共にベツレヘムにまで来たことで、ナオミもベツレヘムで生活することができました。ナオミにいくらモアブに帰るように言われても帰らずに、ナオミとベツレヘムで生活する決意を神はルツに与えてくださったのです。そしてルツが最初に落ち穂拾いに行った畑がボアズの畑で、身に余る好意を受けるように神は配慮してくださったのです。  

 家族を次々と失い、大きな痛みを負って帰ってきたナオミは、「死んだも同然の者にも、御恵みを惜しまれない主」と告白しています(20節)。とんとん拍子にここまできたなら、きっとこの言葉は出てこなかったでしょう。「すべての人に、特に死んだも同然のような者にも御恵みを惜しまれない主が、自分たちにこのように良くしてくださったボアズをも祝福してくださるように」と、他の人の祝福をも心から願う者とされました。  

 打ち砕かれた心こそ、神に受け入れられるささげものです(詩篇51:17)。主は心の打ち砕かれた者の近くにおられます(詩篇34:18)。主の御前にへりくだりましょう。主の御翼(みつばさ)の下に安住し、御恵みを受け取りましょう。恵みは、こちらが受け取らなければ何も始まりません。低い所では、すべてが神の恵みと思えてきます。そしてすべての人に(自分も含めて)御恵みを惜しまれない主だとわかった時に、心から人の祝福をも願う者となります。私たち一人ひとりが、人々の祝福を祈る時に、福音は広がっていきます。神の御恵みをしっかり受け取り、またすべの人にその恵みが惜しみなく注がれるように祈りましょう。  
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 9月15日
メッセージ要約 主題:「2通りの生き方」

           ルカの福音書12:16~32   三浦真信牧師

<19節>

 教会では、様々な年代の方のお話を聞くことができて感謝です。特に神に信頼してみことばに力づけられながら試練を乗り越えたお証しを聞くたびに、私たちの信じる神は真実な方であり、神を求める者を決して見放さず良くしてくださる方だと知り励まされます。 すべての人が人生を終える時が必ずきます。その時に備えて聖書は、私たちの人生において何が真に大切なことかを語っています。

 ある金持ちが、作物を納めきれないほどの豊作により「たましいよ。さあ、安心して、食べて飲んで楽しめ」と言った矢先に、「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」と言われ、失意のどん底に落とされます(12:17~20)。このたとえを通してイエスは、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」(21節)と言われました。「自分のためにたくわえる」ことを基盤とする生き方と、「神の前に富む」ことを大切にする生き方の二通りがあるのです。

① 自分のためにたくわえる生き方

 自分のためにたくわえる生き方は、どこまでも地上のいのちをすべてとする生き方です。ですから、いかに自分のためにたくわえ、良い生活をしていくかに心が集中していきます。その結果、「いのちのことで何を食べようか、からだのことで何を着ようか」(22節)という心配にたえず支配されていきます。心配したからといって、地上のいのちを永遠に保つことができるわけではありません。医療の力で少しいのちを延ばすことができても、限界があります。自分のためにたくわえ、いかに良い暮らしをしようとしても、そのことを人生の中心に置いていくなら、失望する時が来るのです。

② 神の前に富む生き方

 神の前に富むとは、言い換えると「神の国を第一に求める」(31節)生き方です。神との関係を深めることを求め、あらゆることに神の導きを求める生き方です。父なる神は、私たちにとって必要なものを知っておられる(30節)と信じて、今与えられていることに忠実に生きることです。神は、食べ物や着る物だけでなく、何が必要であるかを知っておられるのです。また何が必要でないかも知っておられます。カラスさえも養い、明日は炉に投げ込まれる草花さえもきれいに着飾ってくださる神は、まして私たちの必要を知って養い着飾ってくださいます(24、27~28節)。だから「あのことをどうしようか?」と自分であれこれ画策するのをやめ、「大胆に神の国をまず求めていきなさい、そうすれば必要な物は私が与えるから」と主は言われます(31節)。


 神が私たちに何よりも与えたいものは、「御国」です(32節)。しかも「喜んで」与えてくださいます。私たちが今心配している一時的なこと、やがては跡形もなくなるものではなく、永遠に続く御国を神は喜んでお与えになります。

 地上のパンは、やがて無くなるものです。この地上を生きるために必要なものですが、永遠のいのちを与えるものではありません。でもイエスは永遠のいのちに至るパンを与えてくださいます。イエスご自身が、そのいのちのパンです(ヨハネ福音書6:48~51)。昔エジプトを脱出したイスラエルの民たちは、荒野で天から神が与えてくださったマナを食べて生きましたが、やがては皆死にました。しかしイエスは天から下ってきた生けるパンです。マナとは違って、永遠のいのちを与えてくださるパンです。そのイエスが私たちと共におられるのだから、「心配するのはやめてまず神の国を求めなさい」と命じられているのです。

 イエスは、5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人を満腹にしてくださいました(マタイ14:15~21)。私たちは、見える物が十分に無いとすぐに不安になります。豊かにある時は安心なのに、もうすぐ無くなりそうになると、途端に焦り始めます。そしてそのことをどうしようと気をもむのです。そのような私たちにイエスは、5つのパンと2匹の魚でもイエスが祝福されるなら、5000人を満たすことがおできになるという事実を見せてくださったのです。そのような力ある、生けるいのちのパンであるイエスが、「私があなたの必要を知っているから心配するのはやめなさい」と言われます。ですから何よりも神の国を求めましょう。  
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 9月8日
メッセージ要約 主題:「死んだも同然のからだを通して」

           ローマ人への手紙4:19~22   三浦真信牧師

<19節>

 アブラハムが99歳の時に、神はアブラハムの子孫をおびただしく増やし、あらゆる国の人々の父とすると約束されました。しかし妻のサラは子を産むことができないからだでした。しかも子が与えられないまま、2人とも歳をとるばかりでした。

 「アブラハムは、およそ100歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎(たい)が死んでいること」を認めていました。「からだが死んだも同然」は、直訳すると「すでに死んだからだ」です。子どもを産むことにおいて、アブラハムの年齢は「すでに死んだからだ」であり、妻サラの胎もすでに閉ざされていました。2人とも、常識的には子どもを産むことができるからだではないことを認めていたのです。自分たちに子が与えられ、子孫が与えられるということは、普通はありえないことだと認めていたのです。そのことをしっかり認めた上で、なお神を信じました。神の約束を信じました。人間的望みはとうに断たれている状況で、なお神の約束に望みを置きました。「死んだも同然」の自分たちをも生かすことがおできになる神を信じたのです。「死者を生かす神」(17節)を信じる復活信仰に立ちました。


<20節>

 神を疑いたくなるような状況の中でも、アブラハムはなお神の約束を信じたのです。「信仰がますます強くなって」は、「信仰があることでますます強められた」とも訳すことができます。また19節の「その信仰は弱りませんでした」は、「信仰によって弱りませんでした」とも訳すことができます。ここは「信仰の強い弱い」を論じているというよりは、神を信じていることで、弱り果てることなく強められたことを強調しています。からしだね一粒の信仰(ルカ17:6)があることで、人は望みえない状況下でも弱り果ててしまうことなく、力づけられていくのです。

 アブラハムも、ある時は神の約束を信じきれず、妻サラではなく女奴隷ハガルを通してイシュマエルという子を産んでいます。サラも、90歳の時に神から男の子を与えられると聞いて、心の中で疑い笑いました(創世記17:17)。そのようなことがありながらも、また神を信じるように引き戻されていきました。神を信じることで、「神に栄光を帰した」のです。私たちが神を信じることが、「神に栄光を帰す」ことになるのです。

 アブラハムは神を信じることで、望みえない状況でも弱り果ててしまうことなく、むしろ不思議に力づけられ強められていきました。


<21節>

 アブラハムは、「神には約束されたことを成就する力がある」ことを堅く信じました。「堅く信じた」は、「説得された」とも訳すことができます。アブラハムの信念で確信を持ったのではなく、神が様々な出来事を通してアブラハムが信じられるように説得してくださったのです。神は約束されたことを必ず実行する力がある方と堅く信じられるように、神がアブラハムを説得してくださったのです。  

 神は私たちを優しく説得して、信仰の訓練をしてくださいます。説得するといっても強制的にではなく、時間をかけて、様々な出来事を通して、無理なく信じられる者へと変え続けてくださるのです。


<22節>

 「だからこそ、それが彼の義とみなされたのです」。アブラハムは、神の約束を疑いたくなるような状況下で、なお神を信じました。その信仰によって、アブラハムは神に義とみなされたのです。決して行いによるのではありません。しかしその信仰さえも、神から与えられたものです。試練の中でも、神が最善に導いてくださることを幾度も経験しながら、神の約束は真実であることを学んでいきました。


 アブラハムは、子どもが与えられるということでは「死んだも同然であること」を認めつつも、「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる神」(17節)を信じました。死んだも同然である自分をも、神は生かすことができると信じたのです。このアブラハムのように、ある出来事に関して「死んだも同然のからだ」でありながら、「神は生かすことができる」と信じるのも復活信仰です。あるいは肉体的には死に直面していたり限界にきているからだであっても、神は生かすことができると信じるのも復活信仰です。霊的に死んだ者をも神は生かすことができます。キリストに出会う前の私たちは、霊的には罪の中で死んだ者でした(エペソ2:1)。肉体的、精神的、物理的に様々な形で私たちは「死」を生きながらにして経験します。しかし死者を生かす神は、そこから生かすことがおできになるのです。

 病気やけがで肉体が思うようにならない状態になったり、心が枯渇(こかつ)したり疲れ果てて死んだも同然に思えたり、人間関係のトラブルやストレスで立ち上がれなくなったり、私たちは「死んだも同然」である自分に直面します。しかし主はそこから私たちを立たせる力があるのです。死んだ者を生かす神です。

 苦しい時は、その状態が永遠に続くかのように思えてしまいます。でも神を信じる者は、必ず神がそこから脱出させてくださり、最善に導いてくださると信じて望みを持つことができます。神を信じることで、困難の時も不思議に弱り果ててしまわず、倒れそうになっても逆に強められていることがあるのです。死んだも同然のように思える時にも、「神には約束されたことを成就する力がある」ことを信じましょう。神がその信仰をも与えてくださいます。  
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 9月1日
メッセージ要約 主題:「望みえないときに望みを抱いて」

           ローマ人への手紙4:17~18   三浦真信牧師

<17節>

  「このこと」とは、前節にある「アブラハムがあらゆる国の人々の父」とされたことです。アブラハムが99歳の時に神は、「あなたの子孫をおびただしく増やし、あなたを多くの国民の父とする」とアブラハムに約束しました(創世記17:1~5)。妻サラはもともと子どもを産むことができず、しかもアブラハムもサラも歳をとるばかりで一向に子どもは与えられませんでした。待って待って、ようやく神はイサクという男の子を与え、やがて多くの子孫が与えられます。しかもアブラハムは、彼の信仰を受け継ぐ世界中の人々の父となりました。

  「このこと」は、どうして実現したのでしょうか?それはアブラハムが神を信じたからです。アブラハムが信じた神は、

① 死者を生かす神

 アブラハムが100歳近くになり、子どもが与えられるという点では「自分のからだが死んだも同然」(19節)であると認めながらも、なお神の約束を信じることができたのは、アブラハムが死者をも生かす神の力、復活信仰を持っていたからです。身体的な限界をアブラハムは十分認めていたのです。それでも神は死んだも同然の自分さえも生かすことができる方と信じたのです。そして神の約束によりようやく与えられたイサクを捧げる時にも、アブラハムはこの復活信仰に立ちました(へブル11:19)。

② 無いものを有るもののようにお呼びになる神

 口語訳聖書では「無から有を呼び出される神」と訳しています。神はアブラハムに、まだ存在していない彼の子孫が、あたかも存在しているかのように言われました。自分の子どもがいない上に、人間的には子を産むことは不可能な状況で、子孫をおびただしくすると神は約束したのです。存在すらしないもの、存在する可能性すらない状況で、存在するようにおできになる神です。そのような神をアブラハムは信じました。


<18節>

 アブラハムはどのような時に、そのような神を信じたのでしょうか?それは「望みえないとき」にです。全く望みがない、ありえない状況で、なお望みを抱いて神の約束を信じたのです。ここはギリシャ語原語では、「彼は望みに逆らい、望みにおいて信じた」が直訳です。見えるところでの望みはなかったのです。見える状況では、神の約束が実現する望みはありませんでした。そして時間が経つごとに、いよいよ望みは無くなっていきました。見えるところに立ったら失望しかなかったのです。見えるところは失望しかないのに、それに逆らって、なお神を信じたのです。

 信仰とはそのようなものです。見えるところで安泰であるから大丈夫と信じるのは、神を信じているのではなく、見えるものに信頼と希望を置いているだけです。その見える安泰が崩れた途端に、絶望の淵に立つことになります。信仰は望みえないときに神を信じ、神に望みを置くものです。人間の可能性、見える状況にしっかり失望して、見えない神の力とみことばの約束を信じることです。アブラハムは望みえないときに、死者を生かし、無いものをあるもののようにお呼びになる神を絶望的状況に逆らって信じたのです。

 そのアブラハムは、いつもその信仰に立ち続けていたわけではありません。ある時は神の約束を待ちきれず、女奴隷ハガルを通して子孫を残そうとしました。結局そのことで女奴隷ハガルと妻サラの間に確執が生じ、アブラハムも板挟みになって苦しむことになります(創世記16章)。神の約束は、自分の力、人間の肉の力で実現しようとしてはいけないことを、アブラハムはこの痛みを通して学びます。そのような失敗をしながら、アブラハムの信仰を神が成長させてくださったのです。

 見える状況はいよいよ望みがない場所で、神は私たちを取り扱ってくださいます。死者を生かし、無から有を呼び出す神を信じるように訓練してくださいます。たとえ私が信じられなくても、死者を生かし無から有を呼び出す神であるという事実は変わりません。信じきれないまま、そのような神と宣言しましょう。見える望みが無くなった時でも、私たちはなお神に望みを置くことができるのです。この神を知らなかったら、見える望みが無くなった時には、絶望しかありません。望みえないときにも、なお望みを与えてくださる神がおられることを感謝してついていきましょう。  
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