(2019年8月)

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 8月25日
メッセージ要約 主題:「日々、恵みに満たされて」

           列王記第一17章1~16 小野淳博兄

 今日は、紀元前9世紀中ごろに活動をした預言者エリヤの歩みから、実を結ぶ人生について学びたいと考えております。

 Ⅰ列王記17章1節で、稲妻のように突然、エリヤが登場いたします。エリヤの、1節での宣言は、「バアル(乾季を打ち破る降雨と肥沃(ひよく)の神として拝(おが)まれていた)ではなく、イスラエルの神、主こそ、天候もすべて支配している真の神である」というものです。当時の最高権力者で、バアル礼拝を積極的に取りいれていたアハブ王の前での、大胆かつ勇気ある宣言でした。

 このことに続くエリヤの行動は、2節以降にあります。「主のことば」に従い、王のもとから逃れて、身を隠すということでした。「こんな、いつ涸(か)れるかもしれない川で大丈夫か」、「烏(からす)に養われるなんてあり得るのか」。これは、人の頭に浮かぶ、常識、考えです。エリヤは主のことばに従う者でした。エリヤにとっては、王宮の王の前も、ケリテ川のほとりも、同じように主が遣わされたところ、何も変わりません。主のことばの真実は、6節に明らかにされております。

 7節から場面が変わり、エリヤは、主のことばに導かれ、ツァレファテ(異邦人の町)の一人のやもめのところへ出て行きます。ひどい困窮にあり、死を迎えざるを得ない運命(12節)を覚悟している彼女に対して、一口であってもパンを求めることは、人情ではできません。しかし、主のことばは、「ひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」(9節)でした。主のことばとその真実を確信していたエリヤは、「主のことばの真実を、どうこのやもめ女に体験させたらよいか」で頭が占められていたことでしょう。また、エリヤがみことばに忠実に歩むことができるよう、主の側の配慮がありました。1つは、涸れ川の水と烏を通して経験した、主の養いの事実です。もう1つは、9節での主のことば、「やもめに命じてあなたを養うようにしている。」の、「養う」は、原語では強意形で書かれていて、「絶対に養うから」という主の力強い語り掛けでした。エリヤの求めへのツァレファテの女の反応は、12節にあります。拒絶こそしませんでしたが、乏しい窮状を察してほしいという内容です。現実を前に、エリヤを養うようにとの主のことばに従えない者でした。この、弱い小さなやもめ女を主は顧み、エリヤを通して力強く迫り、みことばに従えるようにしてくださいました。

 ヨハネ4章に、イエス様とサマリヤの女との出会いの出来事があります。すべてを解決する力のあるお方が、小さく乏しい者に近づいてみことばで迫って、弱さの現実から、主を求めるようにしてくださる。このことが、ここⅠ列王記17章でも、新約のヨハネ4章でも変わることなく一貫して語られています。

 Ⅰ列王記17章14節の「尽きず」「なくならない」、16節の「尽きず」「なくならなかった」のそれぞれの箇所のヘブル語の原文で、「ロー」という否定語が用いられています。「アル」という一般的な否定語ではなく、「絶対的禁止」とヘブル語文法で言われるとても強い禁止の「ロー」で、4回も使われています。〈飢え死にさせることは絶対にしない〉、こう主は力強く宣言してくださいます。さらに、16節は、かめとつぼからあふれ出るのではなく、「尽きず」、「なくならなかった」とあります。つまり、一日一日に必要な分が与えられたということです。一日一日、主のみことばを従順に受け取って、その日その日の恵みに養われていく。ツァレファテの女にとって、このことを体験する訓練の時でありました。私たちの信仰の歩みも、礼拝で与えられるみことばにしても、デボーションで与えられるみことばにしても、日々に恵みをいただき、養われていくのです。

 人生においては、山あり谷あり、干ばつの日も、嵐の日もあります。しかし、どのような日も、「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」(16節)。今日を生きる力を、主は、主とそのことばを信じ頼る者に、日々与えてくださいます。私たちは、一日一日の恵みで、十分に歩むことができるのです。

 2年前に、私と家族に関係するところの問題から、神学校は卒業できるのか、卒業後はどうなるのかといった大きな課題に直面いたしました。今も問題は解決されてはおらず、普段の生活、働きにもいろいろと支障があります。しかし、主の御手の中で、私も私の家族の歩みも平安に運ばれてきたと感じております。今後も、この現実の中で主の御翼に運ばれ、養われていくのだと、信じております。

 ツァレファテの女の粉と油は、14節に「主が地の上に雨を降らせる日までは」とあるとおり、永遠のものではありませんでした。しかし、イエス様から信じる者に与えられるもの、イエス様が、私たちの身代わりとして裁きを受けられ、その、十字架の贖い、赦しと復活を通して、私たちに与えられるものは、永遠のいのちのパンです。いのちのパンであるキリストの恵みを、一日一日いただいていくのです。また、ツァレファテの女に与えられた一日一日の粉と油が、やもめ女と息子だけでなく、エリヤとやもめ女の他の家族をも養いました。そのように、主の愛の恵みは、私たちを越えて家族へ、地域へと広がっていくほど十分なものです。そして、事実、広がっていきます。

 私たちの歩みは、課題を抱えながら、という現実がありますが、主はこの現実にある者に、みことばにある通りの恵みを与えてくださいます。一日一日与えられる恵みをもって仕えていきたいと願いますし、そうさせていただきましょう。  
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 8月18日
メッセージ要約 主題:「荒野に響く声」

           イザヤ書40:3~11   豊村臨太郎伝道師

<イザヤ書について>

 イザヤ書は大きく二つに分けられます。1章から39章と40章から66章です。

 1章から39章は、主にイザヤ自身が生きた時代(BC740~700頃)が背景となっています。イザヤは南ユダで活動しました。国外では、アッシリア帝国が世界を征服しつつあり、南ユダにも脅威が迫っていました。国内は、偶像礼拝によって宗教的に堕落し、道徳的にも腐敗していました。そのような状況下で、イザヤは「悔い改めて、主なる神に立ち返りなさい。」と警告と救いのメッセージを語りました。

 40章から66章は、イザヤが生きた時代から100年以上先の出来事の預言です。南ユダがバビロン帝国によって滅ぼされ、捕囚の民として異邦の地バビロンへ連れて行かれることが預言されています。それは、主なる神に背き続けた罪に対する裁きでした。しかし、裁きの後に捕囚から解放され、エルサレムに帰還するという救いも預言されています。イザヤは主の霊によって、将来に訪れる神の救いと慰めを語っているのです。そして、今日の箇所40章3節から 11節には、神様の「慰めのメッセージ」を代弁する預言者の「声」が響いています。

(1)「主の道を備えよ」という声(3節~6節)

 3節の直訳は「声/叫ぶ/荒野に/整えよ/道を」で、「声」が文頭に置かれています。

 新共同訳聖書では、「呼びかける声がある。」と始まり、その後、「主の為に荒れ野に道を備え」と訳されています。「荒野」には「人が住まない場所」「やせた地」という意味があり、比喩的には「人間の惨めな状態」を表しています。イザヤ書と同時期のホセア書には、姦淫を繰り返す妻ゴメルが「荒野」に連れ出され、そこで自分の罪に気づき悔い改めに導かれることが記されています。
 私たちも、時に主なる神様の御手によって、何もない荒野のような場所、頼る人のいない孤独に導かれます。人間的な助けが一切取り去られた中で、私たちは自分の問題(罪)に気づかされ、悔い改めへと導かれます。預言者イザヤが叫ぶ一つ目の「声」は、私たちを荒野に響き、罪に気づかせ、悔い改めに導く、主なる神の「声」です。

(2)「神のことばは永遠に立つ」という声(6節~8節)

 イザヤは「平らにされた場所」「主の前に悔い改めた心」に、「神のことば」が響くといいます。私たちが「荒野」で体験するのは、罪の自覚とともに人間に対する失望かもしれません。この世の富や力、繁栄には限界があります。イザヤが生きた時代には、アッシリア帝国が猛威を振っていました。王たちは外交に奔走し、安全保障の為、どの国の軍事力に頼るかを考えました。しかし、どのような大国であったとしても、その繁栄は永遠には続きません。ただ「神のことば」だけが「永遠に立つ」のです。私たちが、この世の力に絶望し、悔い改めに導かれ、心が空っぽになった時、そこに永遠に変わることのない「神のことば」が響き、主なる神の業が成し遂げられるのです。

(3)「神の訪れ(臨在)」を叫ぶ声(9節~11節)

 9節に「高い山」で「力の限り声をあげよ」とありますが、その内容は「恐れるな」、「見よ、あなたがたの神を」です。罪を犯し「神の民」ではなくなったイスラエルに対して、「あなたがたの神を」と語られています。

 10節には、神の方から「報い」と「報酬」を持って来てくださるとあります。「報い」には「償い」という意味があります。神に対して犯した罪に対する償いを、神ご自身が用意してくださるということです。それは、イエス・キリストの十字架で成就されました。神の子であるイエス・キリストが、私たちのどうすることもできない罪を、十字架で処理してくださいました。「救い」はいつも神の方から来ます。私たちは、ただ自分の罪を素直に認め、十字架を信じ受け取るだけでよいのです。

 そして、11節にあるように、主なる神は「羊飼いのように」やさしく、「御腕に子羊を引き寄せ」るように、私たちを抱き寄せてくださるのです。


<まとめ>

① 主なる神は、時に私たちを荒野へと導いてくださいます。曲がったところに気づかせ、まっすぐにしてくださいます。罪の自覚と悔い改めに導いてくださるお方です。

② 主なる神は、荒野のような空っぽ心に、失望した心に、永遠の神のみことばを響かせてくださいます。みことばには力があります。みことばによって渇いた心が潤されます。 主なる神は、罪の赦しの根拠となる十字架を携えて、私たちのところにきてくださいました。イエス・キリストの十字架によって、主なる神との関係が回復され、聖霊が注がれています。聖霊の臨在は、羊飼いのようにどこまでも優しく私たちを抱き、全ての必要を満たしてくださいます。

 Ⅰペテロ1章23節~25節には、イザヤ書40章に響く「声」が引用され、イエス・キリストにある新しいいのちについて語られています。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(Ⅰペテロ1:23~25)  
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 8月11日
メッセージ要約 主題:「GODISNOWHERE」

           マルコの福音書16:14~20   松尾献・KGK九州地区主事

 今日のタイトル“GODISNOWHERE”には2つの読み方があり、どこで区切るのかで意味が全く違います。“God is nowhere” 「神はどこにもおられない」と “God is now here” 「神は今、ここに生きておられる」。様々な出来事を前に、神はおられないと思うのと、神は生きておられると思うのでは、全く違った生き方になります。人生で試練が起きた時、「神はおられない」なら、その試練を自分の力や神以外の何かに頼って乗り越えようとします。しかし、神は生きておられるという信仰は、試練の最中にも、そこに神様の計画を信じる希望を持ち、祈ることができます。

 私たちはそれぞれの生活の中で、「神はいない」と「神は今も生きておられる」のどちらに立つ者でしょうか。今日の聖書箇所を見ると、イエス様の弟子たちは「神はおられない」側に立っていたのですが、そんな彼らにイエス様が現れて、語りかけます。


<イエス様に期待していない信仰の行く末>

 「それから後」(14節)とはイエス様が十字架にかかった後のことです。人生をかけて従ってきたイエス様が、十字架上で殺され、弟子たちは失意のどん底に置かれました。他の福音書には、彼らは捕まるのではないかと恐れ、隠れていたことが記されています。

 マグダラのマリヤが「私は復活したイエス様に会った」と言っても、弟子たちは取り合わなかったのです(マルコ16:11)。別の人がイエス様に会ったと言っても、まだ11人の弟子たちは信じませんでした。彼らはイエス様の復活を信じられず、なお失望と悲しみのどん底にいました。弟子たちが集まり、神に祈っていても、誰一人イエス様を復活させる神様の力を信じていないのです。  


<形だけの祈りは、私たちの信仰をだめにする>

 私たちが、神様の力を信じられずに、イエス様が生きていることを信じられずに祈っているならば、それはむなしい祈りです。イエス様が生きておられることを信じられずに、信仰的なことに取り組んでも、それは疲労感しか残らず、その働きはむなしいものです。

 ある学生が「そこそこの期待で、聞かれたらラッキーくらいの気持ちで祈る。そうすれば結果がどうであれ、神様への信仰が保てる」と言うのです。本当は、そんな祈りは信仰を保つどころか、かえって祈る意味や信じる意味を曖昧にします。聞くか聞かないかわからない祈りのために集まることは、馬鹿らしく思えてきます。御言葉を聞くことより、自分の生活に役立つような情報なり、誰かのアドバイスを求めていくでしょう。中途半端な神様への期待は、私たちが神様に信頼することから引き離していくのです。

 逆に、本気で神様に期待するなら、私たちをますます神様に近づけます。神様に本気で信頼するなら、祈りが聞かれないように思える時、「神様なぜですか?」とますます祈る者とされ、神の言葉を求めていくようになります。  


 自分の信仰生活を振り返ると、神様に信頼せずに祈りの場に出ていたことがありました。本当は苦しくて悩んでいた事があったのに、教会の人に祈ってほしいと言えない時がありました。「イエスの御名によって誰かに一緒に祈ってもらう」とりなしの祈りの力を信じていなかったのです。  

 弟子たちは、神の力を信じられずにいました。形だけの信仰の弟子たちの前にイエス様は現れ、その不信仰とか頑(かたく)なな心を責めました。不信仰とは、死んだ信仰という意味です。頑(かたく)なな心とは、出エジプトの時、どこまでも神を信じず、自分の頭と経験に頼ろうとしたイスラエルの民に使われた言葉です。イエス様は、どこまでも自分の知恵や経験にすがる弟子を本気で責めたのです。  

 もし私たちが、イエス様が生きて働かれることを信じられないのなら、私たちもこのイエス様の叱責をちゃんと受け取りたいと思うのです。いつの間にか神様との時間をとるよりも他の事で忙しくし、神様に信頼するよりも、自分の力、他の何かにすがって生きた自分をはっきりと悔い改めたいと思います。  


<根拠のある神様への信頼>

 弟子たちには神の力を信じる根拠がちゃんとあったのです。何故なら彼らはイエスの弟子であり、神様の言葉をたくさん聞いてきた、神様の働きもその目で見てきたのです。生活の中でイエス様の愛を十分に体験しており、彼らの生活には、神様を信じる根拠が一杯だった。それなのにイエス様が生きておられることや、神様が働くことを信じなかったのかとイエス様に責められたのです。

 私たちにも、神様を信じる根拠であふれています。人生の中で、神様が生きておられることを何度も知ったはずです。私にも神の御業(みわざ)は確かにおきました。ある時は、色々なことで疲れきって礼拝に来たら、そこで開かれた御言葉にまさに自分の状況が言い当てられたことがありました。御言葉に何度励まされたことや、祈り以上の答えをくださったことが何度もあったでしょう。

 多くの所で神様が生きておられ、どのような方であるかを教えられました。熊本震災の被害を聞いて気付かされたのは、私たちがあることが当たり前に思う「日常」-家族、家、仕事、食べる物そのほか当たり前と思う事ごと-これらすべては、神様の守りなしには無いことです。私が今礼拝しているのも、神様の確かな恵みです。自分の信仰を振り返れば、祈りたくない日、教会の交わりが面倒、聖書も読みたくない日がありました。神様が様々な方法で、私たちの信仰がなくならない様に守ってくださったのですし、これからも守ってくださいます。この確かな、私たちの生活にある神の御業(みわざ)を一つ一つ数えたいのです。そして、何度も神様の励ましや愛や御業(みわざ)を経験しながらも、神様に形だけ祈ったり仕えた自分、神を疑う自分を悔い改めたいと思うのです。


<遣わされた弟子たち>

 イエス様は、弟子たちを責められた後に、その弟子たちに全世界に出て行けと命じられました(15節)。イエス様は、何故こんな疑う弟子たちを全世界に福音を知らせよと遣わすのでしょうか。それはイエス様がこの弟子たちを愛していたから、この弟子たちと一緒に神の働きをすると決めたからです。

 イエス様がペテロとアンデレを招いて「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マルコ1:17)と言われました。「これはイエス様の一方的な約束で、イエス様がこの弟子たちと一緒にすると決めたのです。ご自身に誓って召し出した彼らを捨てないのです。イエス様が不信仰を叱責するのは、あなたを決して諦めない愛の故(ゆえ)です。

 弟子たちは出て行きました(20節)。確かにイエス様の復活を疑い、神の力を疑ったのだけれども、イエス様が招かれたその言葉に応答します。イエス様がいっしょに働いてくださって、この福音は、弱くて小さな弟子たちから全世界へと広がっていきました。キリストの弟子である私たちにも、「出て行って、福音を告げ知らせるように」とイエス様は今日語られます。

 「こんな私に何ができるのか」と思うかも知れませんが、今も確かに生きておられる神様のことばに信頼しましょう。神様が生きておられないと決めていたその場所にも、“God is now here”という信仰に立って生きようではありませんか。その信仰と共に、イエス様は働いてくださいます。  
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 8月4日
メッセージ要約 主題:「世界の相続人となる約束」

           ローマ人への手紙4:9~16   三浦真信牧師

<9~12節>

 「この幸い」(9節)とは、「主が罪を認めない人の幸い」(8節)のことです。神に罪を赦されなければ、終わりの日に神のさばきを受けることになります。それは恐ろしいことですから、神に罪を赦されなければ大変なことになります。神に罪を赦されることほど、安心で幸せなことはありません。  

 ではこの幸いは、ダビデやアブラハムのように割礼を受けなければ得られないのでしょうか? その疑問に対して、パウロはアブラハムが神を信じて義と認められた時と、割礼を受けた時の順番に着目しています。アブラハムが主を信じ、主がそれを彼の義と認められたのは、創世記15:6でした。子どもを産むことのできないからだである妻サラを通して、アブラハムの子孫をおびただしい星の数ほど与えると神が約束してくださいました。見えるところはありえない出来事です。その状況の中で、見える現実ではなく人間的な可能性でもなく、アブラハムは神の言葉を信じたのです。その信仰を、神は彼の義と認められました。そして神が割礼を制定されたのは、創世記17章です(アブラハムが99歳の時)。16章の終わりの出来事が86歳の時ですので、その時からでも13年以上は経過しています。つまり割礼が制定され、アブラハムが割礼を受けるよりも13年以上前に、アブラハムは「信仰によって義と認められた」のです。「割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときに、(アブラハムは)その信仰が義とみなされた」(10節)のです。  

 「割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として」、アブラハムは割礼というしるしを受けました(11節)。アブラハムは、「割礼を受けない(異邦人の)ままで信じて義と認められるすべての人の父」(11節)となり、「また割礼のある者(ユダヤ人)の父」となりました。大事なのは、割礼という儀式を受けることや人間の行為ではなく、「アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む」(12節)ことなのです。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」(ガラテヤ5:6)。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされていました。決して割礼を受けて義とされたわけではありません。

 洗礼もそのような一面があります。洗礼という儀式を受けないと救われないわけではありません。救いは信仰によります。ただ本当にキリストの恵みを信じて生きるなら、そのしるしとして洗礼を受けます。受けることで、生き方がはっきりしていきます。

 「私は主のものだ。キリストと共に十字架で古い私は死に、復活のキリストのいのちで今生かされている。私の人生の主はキリストである」ということが曖昧(あいまい)になりそうな時にも、洗礼を受けていることで立ち返ることができます。ですからキリストを信じるなら、洗礼を受けることは大切なことです。逆に洗礼を受けたから、もう大丈夫というものでもありません。信仰はいつも「今」が問われています。過去の信仰ではだめなのです。「今主を信じるのか?」が、毎日、一瞬一瞬問われています。


<13~16節>

 「世界の相続人となる」という約束は、直接はアブラハムに神が約束のカナンの土地を与えることです。またその約束は、「その子孫」に与えられました。ここの「子孫」は単数で、キリストをさしています(ガラテヤ3:16)。アブラハムの子孫であるキリストが、この世界を治め、そしてキリストと親密な関係を持つ者たちも世界の相続人となります。この地に神の祝福をもたらす一人ひとりとなり、神の国を相続します。これも「律法によってではなく、信仰の義によった」のです(13節)。この「律法」は、モーセに与えられた律法のことです。アブラハムの時代から数世紀を経て、モーセの時代に律法は与えられました。もし律法による者が相続人であったとしたら、アブラハムの時代からモーセに律法が与えられる時代までの子孫は、神の約束から除外されることになります。その数世代は神の約束の相続人ではなくなってしまいます。またアブラハムへの約束が「信仰」を前提にしているのに、律法を守ることによって与えられる義であるなら、「信仰はむなしく」(14節)なってしまいます。  

 律法があることによって私たちは、神の基準に違反していることを知ります(15節)。律法がなければ、どれほど神からはずれ神から遠い存在であるか、罪ある者であるかがわかりませんでした。違反したままでいることは、刑罰としての神の怒りを招くものです。その神の怒りから救われることは、人間の力では無理なのです。律法は、罪の状態がどのようなものかを示し、罪の自覚を生み出しますが、救いをもたらすことはできません。  

 世界の相続人となることは、割礼を受けることでも律法を完璧に行うことでもなく、どこまでも信仰によります。神を信じることだけです。人間の側の何かには一切よりません。神からの恵みによるのです。この約束は、律法を持つユダヤ人だけでなく、アブラハムの信仰にならうすべての人に保証されているのです(16節)。民族の違い、人間の行いに関係なく、アブラハムのように単純に主を信じる人を、神は世界の相続人としてくださるのです。

 「信仰が先か、行いが先か」という時系列で、アブラハムが信仰によって神に義と認められたのは、割礼が制定されるよりも前であり、律法がモーセに与えられるよりも前のことでした。神の救いを受け世界の相続人となるためには、ただ神を信じるだけでよいのです。すべて神の恵みによるのです。自分の罪に泣き、どんなに失敗してやるせない思いになったとしても、そのような私たちを神は、キリストを通して救ってくださり、神の国の民として迎え入れてくださいます。救いはどこまでもキリストを信じるだけです。人間の行いや努力によらず、ただ神の恵みによります。もしも良い行いが人に与えられるなら、それは神の恵みに感謝し、神の恵みに押し出されて思わずすることです。それは人間の誇りには一切なりません。信仰により恵みにより、世界の相続人とされたことを感謝しましょう。  
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