(2019年7月)

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 7月28日
メッセージ要約 主題:「感謝して受け取る神のご好意」

           ルツ記2:8~13   三浦真信牧師
<8節>

 ボアズがルツに直接話しかけます。「娘さん」という呼びかけは、上の地位にある者が声をかける時の言葉です。ボアズは町の有力者でもあり(2:1)、ルツよりだいぶ年上でした。

 「ここから出て行ったりしてはいけません」は、とても強い言葉です。ボアズは、ルツが他の畑に行かなくても十分な落ち穂を拾えるように配慮するから、毎日ボアズの畑に来るように強く勧めています。


<9節>

 刈り取り作業がちょうど始まる時を確認して若い女性たちのあとについて落ち穂を拾うようにと、ボアズはルツにアドバイスをします。刈ったばかりの方が落ち穂が多いからです。

 またボアズは若者たちに、ルツの邪魔をしないようにきつく命じています。当時イスラエルでは収穫したものを隅々まできれいに集めないで少し残し、貧しい人や在留異国人がそれを拾っても良いという決まりがありました(レビ23:22)。それでも落ち穂を拾う人たちに対して皆が親切であったわけではありません。追い出されることもありましたし、暴力を振るわれることもありました。ボアズはそのことを心配して、ルツが自分の畑にいてそのようなことがないようにと、若者たちに厳しく命じたのです。  

 また大麦の刈り入れの頃(1:22)は、イスラエルはとても暑い季節です(4月末~5月初め)。水道はありませんから、町にある井戸から水を汲んで何キロもある重い水がめを若者たちが運んできました。とても貴重な水で、刈り入れの仕事をする人たちの分だけでも相当の水が必要でした。落ち穂拾いをする人に自由に水がめの水を飲ませることはありえませんでした。それなのにボアズはルツに、のどが渇いたら自由に水を飲むようにと勧めています。  

 どのことも、ルツにとってはありがたい特権でした。


<10節>

 並みはずれたボアズの親切に対して驚き、ルツは思わず地面にひれ伏します。そして自分が外国人であるのに、なぜここまで親切にするのかを尋ねます。ユダヤ人は自分たち以外の民族に対して偏見を持っていました。自分たちは神に選ばれた特別な民族で他の民族は神の祝福を受けることができないと、多くのユダヤ人たちは考えていました。それなのに、モアブ人である自分に対してここまで親切にされることがルツには不思議でした。


<11節>

 ボアズが外国人のルツにここまで親切にする理由を答えます。

① ルツの夫が亡くなってから、ルツが姑ナオミにしたことを聞いたから。  

 ルツは生まれ育ったモアブの地で再婚することもできました。しかし年老いた姑ナオミを一人ベツレヘムに帰らせることはできませんでした。しかも死ぬまでナオミのもとを離れず姑であるナオミに仕えると言って、ベツレヘムまで来たことをボアズは聞いていました。遠い親戚でもあるナオミ(2:1)に対してここまでしてくれたことへのルツへの感謝もボアズにはあったことでしょう。

② ルツが生まれ故郷を離れて、全く知らない外国の地に来たことを聞いたから。

 モアブ人のルツは、ナオミについていくために生まれ育った自分の国を離れ(「捨て」が原語)、全く知らない土地に来ました。ベツレヘムの方が住みやすいと思ってきたわけではありません(事実ナオミ一家はベツレヘムが飢饉のためにモアブに来ました。(1:1))。そこまで犠牲を払ってナオミについてきたことにボアズは感動したのでしょう。


<12節>

 そして「あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように」と、ボアズはルツを祝福します。ルツがイスラエルの神を求め神に信頼して知らない土地ベツレヘムまで来たから、その信仰に神が答えて、ボアズを通して祝福がもたらされているのです。モアブ人ルツが故郷を離れてユダのベツレヘムに来たということは、モアブ人たちが信じていた偶像を捨てて、天地万物を造られた神を信頼し求めてきたということです。実際ルツはナオミに、「あなたの神は私の神です」(1:16)と告白しています。モアブの地でナオミたちと共に生活する中で、ナオミたちが信じ従う神のすばらしさを知り、ルツも信じるようになったのでしょう。ですからただ人間ナオミを慕ってここまでついてきたのではなく、ナオミの信じる生ける神を求めてついてきたのです。

 モアブからは、女神像アシュタロテが出土しています。またモアブ人の主神はケモシュでした(民数記21:29)。そのような人間が作り出した偶像ではなく、宇宙を造り人をも造られた生け  る神の「翼の下に避け所を求めて」ルツはナオミと共にベツレヘムに来たのです。偶像と決別して、生ける神を求めて来たのです。

 私たちの人生の中でも、自分の偶像(アイドル)となっているものと決別を迫られる時があります。預言者エリヤがカルメル山で「あなたがたはいつまでどっちつかずによろめいていているのか。もし主が神であれば、それに従い、もしバアルが神であればそれに従え」(Ⅰ列王記  18:21)と、偶像バアルにも生ける神にも二股(ふたまた)を掛けて仕えようとするイスラエルに迫りました。ルツはモアブの偶像を捨て、主なる神の翼の下を安息の場所として求めてきました。鳥のひなにとって、母鳥の翼の下が一番安心していられる場所であるように、神の民は神の御翼の陰が一番安心できる場所です。そこにいつも身を避け安らぎ、また力を得るのです。「神よ。あなたの恵みはなんと尊いことでしょう。人の子らは、御翼の陰に身を避けます」(詩篇36:7)。


<13節>

 ルツは、ボアズからの親切に対して、決して調子に乗らず謙虚に、でもその申し出を感謝して受けとります。また自分をはしため(女奴隷)の位置に置き、このような自分に対して慰めを与え親切に話しかけ、本当にありがたいと伝えます。卑屈になってボアズの申し出を断るのではなく、謙虚に感謝してその好意を受け取ったからこそ、具体的な祝福が始まっていきました。そしてボアズとの人格的な関係も始まっていきました。  

 神の恵み、神のご好意も同じです。自分の罪汚れを知るなら、とても受ける価値はないのですが、それでも神が差し出してくださった恵みを受け取る時に、神の祝福の出来事が始まっていきます。私たちの罪のいけにえとなって十字架で死なれたキリストを信じるなら、だれでも救われます。そのように聖書は繰り返し語っています。これほどの恵み、ご好意はありません。その恵みを、「あなたのご好意にあずかりとう存じます」とルツのように受け取る時に、神の祝福が始まります。「恵みの救いを信じます」と、感謝して受け取りましょう。神の恵みを、一つひとつ単純に受け取りましょう。恵みは受け取らなければ何も始まりません。いつまでも恵みの周辺を眺めていても何も始まらないのです。

 さて最後に、ボアズがルツにしたことは、イエス様が私たちにしてくださったことと重なります。

① 「他の畑に行かず、私の畑にいなさい。そうすれば好きなだけ落ち穂を拾えます」(8節)

 ボアズはルツに対して、自分の畑に毎日来れば十分な落ち穂を拾えるようにするから、他の畑に行かないようにと命じました。イエス様も「わたしにとどまりなさい。そうすれば豊かな実を結びます」(ヨハネ福音書15:4~5)と命じました。イエスのもとにいるなら、主が実を豊かに結ばせてくださいます。

 また放蕩息子の兄に父(神)は「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは全部おまえのものだ」(ルカ15:31)と伝えます。父なる神と共にいるなら、神のものを全部いただけるのです。必要な物を、神は惜しみなく与えてくださいます。ですから主から離れないでいましょう。主のもとにとどまりましょう。

② 「若者たちにあなたの邪魔をしてはならないときつく命じた」(9節)

 ボアズは、ルツが安心して自分の畑で落ち穂を拾えるように、若者たちにルツの邪魔をしないようにきつく命じました。イエス様も、私たちの人生を破壊しようとする悪魔に対して、決して触れないように命じておられます。キリストの内にある者に対して、悪魔はたえず威嚇(いかく)してきますが、神がきつく触れないように命じておられるので、手を出すことはできないのです。ですから悪魔の脅しがあっても、恐れる必要はありません。

③ 「のどが渇いたら飲みたいだけ自由に水を飲みなさい」(9節)  

 従業員ではない、落穂拾いに来ただけのルツに対して、ボアズはいくらでも水がめの水を飲んで良いと許可しました。イエスも「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちの水がわき出ます」(ヨハネ福音書4:14)と言われました。特別な人でなくても、だれでもイエスの与える永遠のいのちの水を飲むことができるのです。主イエスに対して、いつも渇きをもっていましょう。イエスとの交わりを通して、いのちの水を存分に飲みましょう。


 主イエスは今も私たちに恵みを注いでくださっています。自分の苦しい現実を見たり、人に神が与えておられる恵みを見て比較したりすると、今神が私に与えておられる恵みが見えなくなってしまいます。神は今、「わたしにとどまりなさい。そうすればあなたに豊かな実を結ばせる」「わたしと一緒にいれば、わたしのものは全部あなたのものだ」と約束しています。神の言葉をしっかり受けとめましょう。  

 「サタンもあなたに手を触れさせないようにきつく命じている」、「尽きないいのちの水をいくらでも飲んで良い」と言ってくださる神のご好意を、感謝して今受け取りましょう。
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 7月21日
メッセージ要約 主題:「心に残る愛、一途に、一途に」

           使徒の働き9:36~41   田村治郎師
    (日本国際飢餓対策機構(通称:ハンガ-ゼロ)啓発事業部総主事)

 私たちがこの世を去るとき、身近な人々に自分に関するどんな思い出を残せるだろうか。

 ここに登場するタビタ טָבִיתָא (良い、美しい女性を意味する「トーヴァー」טוֹבָה) )に由来する名前。ギリシャ名:ドルカス 雌のカモシカとの意味。聖書では神に愛されたものの象徴)という婦人は、自分が地上から取られた時に残す人々への印象が何かを考えさせられる、良い模範を示している。

①ドルカスは、人々の心に神様の愛の豊かさを残した。

 ドルカスは病気になって死にました。するとやもめたちはペテロを呼び、泣きながら生前ドルカスが一緒にいた頃に作ってくれた下着や上着の数々を見せるのでした。ドルカスが死んだことによって人々は悲しんだのです。

 ドルカスは「多くの良いわざと施しをしていた」とあるように、数々の良い働きをしていました。ドルカスの死を悼(いた)んで集っていた人々が死んだドルカスの残した思い出を語っていたのです。

 ヨッパは港町です。多くの船乗りたちがこの港から出航して帰らぬ者となりました。後に残された家族はどれほどの困難と貧困の中にいたでしょう。

 その困難な中にいる人々に彼女が行なった「多くの良いわざと施し」は、下着や上着、買うこともできない貧しさの中にいる者にとって、それはどれほどありがたく、生き続ける励みとなったことでしょう。

 私たちの愛の奉仕、他者のために仕える奉仕のわざは、いったい人々にどのような豊かな神様の愛の思い出を、また生き続ける励ましと勇気という神様の愛の豊かさを残すことができるでしょうか。

②ドルカスは、自分にできることを一途に行う神様の祝福を残した。

 36節でドルカスは「女の弟子」と紹介されています。当時も女性は様々な制約と限界、時には差別に直面していました。しかし、ドルカスはそのような抗(あらが)うことのできない限界の中でも自分がなし得る実際的な事柄、裁縫の腕を惜しみなく用いて「多くの良いわざと施しをしていた」のです。それは決して大きな働きではありませんでした。

 ドルカスの生き方は私たちにチャレンジを与えます。あれもこれもできなくとも、私の限界の中でこのことはなし得ると心を決めたならその身近なところで一歩踏み出してゆく。その時にたとえそれが小さな一つ一つであっても、関わる人々の心に生き続ける励ましと勇気を与えるものとなるのです。 「ただ一途に熱心に行う」これこそ主の弟子の成長した愛の姿です。

③ドルカスは、祈りに支えられて奉仕することの実例を残した。

 このような意味深い生活を送っていた彼女が「病気になって死」んでしまいます。病気や死の力の前にドルカスの地味な働きは、変えようのない現実の前に挫折(ざせつ)し、中断されます。

 教会の前進は、挫折しない活力に溢れた成功の働きのみによって押し進められてゆくのではありません。病気や死の変えようのない現実の前に挫折せざるを得ないのです。しかし、大切なことはそのような中でも祈りによって支えられてゆくということです。  

 ドルカスの死という現実の中で、ヨッパの弟子たちはペテロにここに来てくれることを願いました。そして、ペテロは一人「ひざまずいて祈る」のです。ここにこの抗うことのできない変えようのない現実を打ち破る神の恵みがあるのです。  

 「ひざまずいて祈る」人々に支えられて教会(JIFH)は前進してゆくのです。そして、私たちの信仰生活も祈りに支えられてゆくのです。ヨッパでも、この日本・遣わされた持ち場にあっても。

  *私たちの信仰の生涯もこのドルカスのように神に支えられ自らに与えられた神の恵みを見出し用いて、地味ではあるけれど確かに生かされていきましょう。  

 挫折を恐れず、しかも挫折せざるを得ない自らの弱さを自覚し、主イエスのとりなしの祈りや兄弟姉妹の祈りに支えられて、人々の心に残る神様の愛の豊かさを残せる人生を歩んでゆきましょう。自分になし得る働きを、一途に熱心に行う、成長した奉仕の生涯を生かされてゆきましょう。
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 7月14日
メッセージ要約 主題:「主が罪を認めない人」

           ローマ人への手紙4:4~8   三浦真信牧師

<4節>

  仕事をするときに、雇用者は契約に基づいて被雇用者に労働賃金(給与)を支払います。それは当然支払うべきものとみなされます。働いた結果支払うのが報酬です。仕事として契約が成り立っている場合、雇用者が「この仕事の賃金はただ(恵み)にしてください」と言うことはできません。そうすると、雇用者が負債を負うことになってしまいます。  神と私たちの関係は、このような雇用者と被雇用者の関係ではありません。人が「良い働きをした、律法をしっかり守り行った、だから祝福してください」と神に言うなら、それは神を報酬の神とみなしていることになります。「これだけ一生懸命働いたのだから、その見返りとして私を救ってください、祝福してください」と言うのなら、それは恵みの神としてではなく、報酬の神とみなしているのです。

 祈りも、「こんなに祈ったのだから、その通りにすべきだ」「昨日よりたくさん祈ったのだから、今日はもっと祝福すべきだ」と神に要求するなら、神を報酬の神とみなしていることになります。それは「お賽銭(さいせん)を沢山入れたから、願いを聞くべき」とする偶像信仰と同じです。祈りは見返りを求めてするものではなく、生ける神との交わりです。愛する方と親しく交わり、心の重荷や不安恐れ、また嬉しかったことを神に聞いてほしいし、神の語りかけも聞きたいと願ってするものです。小さい子供が、学校から帰って親の顔を見るなり「ねえねえ、聞いて聞いて」と今日会ったことを話すようなものです。祈りさえも労働のようにみなしていないでしょうか。

 イエスのたとえ話で、神を報酬の神とみなして不満をぶつけている人が登場します。放蕩息子の兄です(ルカ15:29~32)。父親の財産を使って放蕩三昧して帰ってきた弟のために、父親が盛大な祝宴を設けたのに腹を立て、兄息子は「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません」と不満をぶつけます。しかし父親は、「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」と答えます。正(まさ)に兄息子は、自分の働きや、善い行いによって父親に認められようとして報酬を求めていました。父といつも共にいて不自由なく暮らしていることへの感謝はありませんでした。親子でありながら、雇用者と被雇用者の関係でしかなかったのです。私たちと神との関係はどうでしょうか?


<5節>

 「何の働きもない者」とは、「神に対して何の功績もない者」という意味です。もしも人間の働きや良い行いで神に義と認められようとするなら、完璧に律法を守り実行しなければなりません。でも「一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者」となります(ヤコブ2:10)。神の御前では100%でない限りは、ゼロなのです。だからアブラハムも、神に義と認められるにふさわしい働きはゼロなのです。神の前では、どうしよもない存在なのです。不敬虔などうしようもない存在なのです。そのような「神の前に認められるような働きなど何一つできない者さえも、神は義と認めてくださる」と信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。「こんな自分でも、神はキリストを通して義と認めてくださる」と信じるなら、神は義と認めてくださるのです。「神様。こんな罪人の私をあわれんでください」と取税人のように祈るなら(ルカ18:13~14)、神は義と認めてくださるのです。「隣で立派な祈りをしているパリサイ人のようにはとても生きられない、罪丸出し、救われるに価しない者、でもあわれんだください!」との祈りを、神は喜んで受け入れてくださいます。キリストは、不敬虔でどうしようもない私たちのために、十字架で死なれました(ローマ5:6)。神に認められる働きができるようになったからではなく、強く立派になったからではなく、弱く不敬虔な者のために、キリストは十字架で死なれました。このキリストにあって、どんな不敬虔な者も、何の良き働きのない者も、恵みによって救われるのです。もしも行い(わざ)というなら、神が遣わした者(キリスト)を信じることこそ、神のわざ(単数)なのです(ヨハネ福音書6:29)。


<6~8節>

  ここでパウロは、イスラエルで英雄として称えられるダビデの言葉を引用します。ダビデは、「行いとは別の道で(行いによらないで)」神に義とされる人の幸いを伝えています。ダビデは、自分の罪に悩んだ人でした。バテシェバとの不倫、そして彼女の夫ウリヤを戦いの最前線にわざと送り出して死なせるという罪を犯し、預言者ナタンにそのことを指摘されます。ダビデは、神がナタンを通して自分の罪を指摘してくださったと受け取り、その罪を認めました。罪悪感で苦しむダビデの様が、詩篇32:3~5に記されています。罪にうめき、体の芯まで疲れ果てたダビデは、自分の罪を主に告白しました。その時に、神に罪を赦される経験をしたのです。

 「主が罪を認めない人は幸いである」は、ダビデ自身が体験したことでした。ここの「認めない」は、原語は「数えない」という意味です。神から罪を一つひとつ数えたてられ責められたら、人は苦しくて生きた心地がしません。自分の罪に悩み果てたダビデは、自分の罪を認め主に 告白した時に、神に罪を赦された幸せを味わったのです。新約時代に生きる私たちは、ダビデ以上に罪の赦しのすばらしさを味わうことができます。キリストが私たちの罪の贖いとなってくださいました。どれほど罪悪感が襲ってきても、そこで十字架のキリストを見上げる時に、キリストによる罪の赦しを確認することができるのです。このキリストのうちにあるなら、キリストが私の義、私の聖め、私の贖いとなってくださっているから安心です(Ⅰコリント1:30)。キリストのうちにあるなら、主が私たちの罪を一つひとつ数え上げ責めたてることはなさらないのです。キリストが贖いとなられたので、もう罪に問われることはありません。何の働きもないどころか、罪を犯しマイナスのことしかできない者でも、キリストの恵みによって救われるのです。これこそ福音です。主に罪赦された恵みを感謝しましょう。
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 7月7日
メッセージ要約 主題:「アブラハムは神を信じた」

           ローマ人への手紙4:1~3   三浦真信牧師

<1節>

 パウロは、人が神に義と認められるのは信仰によること、割礼を受けてユダヤ人にならなくてもそれぞれの民族のままで信仰によって救われること、律法の完成者であるキリストを信じることによってかえって律法を確立することを3章28~31で語ります。それによって当然ユダヤ人たちの中から出てくるであろう疑問をここで想定しています。

 「肉による私たちの父祖アブラハム」とは、歴史的・民族的にパウロを含むユダヤ人の先祖であるアブラハムという意味です。「肉による」という表現は、1:3でも使われています。アブラハムは、ユダヤ人が義人の代表として最も尊敬している先祖です。

 その「アブラハムの場合は、どうでしょうか」と問いかけます。ギリシャ語原語では、「アブラハムは何を発見したのでしょうか」となっています。「ユダヤ人が尊敬するアブラハムは信仰によって神に義とされたのか、それとも行い(働き)によって義とされたのか…」アブラハムは、どのように救いを見出したのかを、この4章で検証します。

 自分はユダヤ人ではないから、別にアブラハムが何を発見しようが関係ないということにはなりません。アブラハムが発見したこと、アブラハムが経験したことを知ることで、旧約聖書と新約聖書が一つになります。旧約の時代にも福音がもたらされていること、その時代から一貫して福音が流れ広がっていることを知ることで、福音の豊かさを知ることになります(今年の目標①)。ですから福音の豊かさ広がりを味わうためにも、この4章のみことばをしっかり受け取りましょう。


<2節>

 「もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら」とありますが、実際多くのユダヤ人が、アブラハムは行いによって義とされたと考えていました。もし本当にそうであるなら、自分の力で義と認められたのですから、アブラハムは誇ることができました。しかしパウロは、「神の御前では、そうではありません」ときっぱりそれを否定します。ユダヤ人の歴史的・民族的先祖であるアブラハムでさえ、神の御前で誇るようなものは何一つ持っていないとパウロは宣言します。


<3節>

 パウロはここで、多くのユダヤ人たちの言い伝えや思い込みではなく、「聖書は何と言っていますか」と問いかけます。人の意見や権威ある人の言葉ではなく、聖書は何と言っているかが私たちの共通の考え方の土台です。また神の民は、聖書の言葉でしか納得することはできないのです。

 旧約聖書で言われていること、それは「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」ということです。これは創世記15:6の引用です。アブラハムは、主から「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言われ、故郷ウルを出ます。行き先を知らないまま、神の言葉に従いました(創世記12:4)。それは神の言葉を信じたからです。神の言葉を信じたから、何の保証もないまま、神が示される場所に向かって出ていきました。

 またアブラハムとサラ夫妻には子どもがいませんでした(11:30)。大家族の多い当時の社会において、このことはとても夫妻にとって辛いことでした。しかし神はアブラハムを大いなる国民とすると約束しました(12:2)。いつまでも実現しないまま、痺れを切らしたアブラハムは、自分の奴隷を跡取りにすると言います。そのアブラハムに「主のことばが臨み」ました。神はアブラハム夫妻の実子が跡取りとならなければならないと伝えます(15:4)。そして主はアブラハムを外に連れ出し、空にあるおびただしい数の星を見せ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われたのです。その言葉を、アブラハムは信じました。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:6)のです。

 主のことばが彼に臨むまでは、彼の心中は穏やかではありませんでした。しかし一度神の言葉が臨むと、彼は主を信じ、主の言葉をすっきり信じ受け取っていったのです。アブラハムも、主を信じた信仰によって、神に義と認められたのです。

 アブラハムが行く所を知らずに慣れ親しんだ故郷を出ていったことも、人間的な可能性では子孫を持つことができないのに、天の星の数のように多くの子孫が生まれたのも、すべて信仰によることでした(へブル11:8~12)。


 ユダヤ人たちが尊敬するアブラハムも、その信仰を義とされたのです。旧約の時代も今も、人は信仰によって神に義と認められるのです。ではアブラハムはどのようにして救われたのでしょうか。新約時代の私たちは、キリストが十字架で成し遂げてくださった贖いを信じて救われます。でもまだキリストの贖いのわざが為されていない旧約の人たちは、どのようにして救われたのでしょうか?

 彼らは、キリストを待ち望む信仰によって救われたのです(ヨハネ福音書8:56)。アブラハムの時代に、どの程度救い主の到来が示されていたかはわかりません。アブラハムだけでなく、旧約時代の多くの預言者や義人たちが、キリストを見て福音を聞くことを切に願ったのに、叶いませんでした(マタイ13:17)。旧約の人々は、この救い主キリストを信仰によって待ち望みました。キリストを待ち望む信仰によって、彼らは救われたのです。

 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」。旧約時代も今も、救いは信仰によります。アブラハムに見る良い行い(失敗もたくさんあります)も、神を信じた結果であって、すべては信仰から始まっています。信じた結果、主の言葉に従ったのです。信じた結果、神が喜ばれることをしたいという願いが与えられるのです。神を信じ、神の言葉を信じましょう。
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