(2019年6月)

 ・ 6月30日
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 ・ 6月 9日
 ・ 6月 2日

 6月30日
メッセージ要約 主題:「みじめな人間を救い出す方」

           ロ-マ人への手紙7:15~8:2 三浦真信牧師

 こうしたら良いとわかっていても、結局自分を守るためにできなくなってしまったり、良いことをするにも人から良く思われたくてしているだけであったり、人間のすることは突き詰めると自己中心が土台となっています。

 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(ローマ7:15)というパウロは、「自分がしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っているのであれば、それを行っているのは、私のうちに住む罪なのです」(7:19~20)と言います。人間の中に罪があるから、このような矛盾が起きるのです。

 聖書でいう罪とは、目的をもって人を造られた神との関係が断絶している状態を指します。もともと神中心に生きるように造られた人間が、神に従うことをやめた結果、自己中心にしか生きられないようになってしまいました。自己中心と自己中心がぶつかり、社会全体に悲惨な争いや苦しみが生じています。この自己中心から解放されるには、神中心の生き方に変わることです。人を造られた神のもとに帰り、神中心の生き方に変わらない限り、この負のスパイラルから抜け出すことはできません。

 パウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか」と言いながら、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ7:25~8:1)と宣言します。みじめな自分を認めつつも、そのようなみじめな自分を救ってくださるキリストのゆえに、神に感謝しています。

 自分の力では、人はきよい神に立ち返ることも、自己中心が染みついた生き方を変えることもできません。でもそのままでは、「ほんとうにみじめな人間です」という状態から抜け出すことができません。そこで神の方で私たち人間に救いの手をさしのべてくださいました。神に従うべき人間が、勝手に神を裏切り自己中心の道を選んだのに、神の側から救いの道を提供してくださいました。それがイエス・キリストです。罪なきキリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれました。そしてキリストを信じる者たちが、死のからだから救われるようにと、キリストは死からよみがえりました。キリストの内にある者は、決して罪に定められず、罪の結果である死をも恐れなくてよいのです。

  全く自己中心な思いがなくなってしまうわけではありません。自己中心な自分に気がつくたびに、その私に代わって死なれたキリストの恵みと赦しを受け取ることができるので、そのような自分の姿を見ながらも、みじめさから救われるのです。キリストの救いがなかったら、自分の汚い心の様に気がつくたびにみじめでしかたがなかったのに、キリストがしてくださったみわざを思うと、キリストのゆえに感謝がわきあがってくるのです。不安になっても、感情的な高まりがなくなってしまっても、キリストが私たちを救うためにしてくださった事実が変わることはありません。

 キリストを通して神に立ち返った者たち、そして自己中心ではなく神中心に生きたいと願う者たちの人生の道を、主なる神が確かなものとしてくださいます。

 「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴言16:9)。私たちは生きている限り、自分のこれからの道を思い巡らします。でも私たち一人ひとりを目的を持って造られた神に祈り聞きながら生きるなら、主なる神がその歩みを確かにすると約束されています。神中心の生き方は難しいことではありません。自分の考えや思い巡らすことは、どこまでも自己本位で歪んだものと認めて、私たちを造られた神に何でも相談し、聞きながら生きることです。

 神がまずひとり子キリストを送ってくださり、私たちをみじめな罪から救い出してくださいました。キリストの仲介により神と和解し、人生のどのようなことも神に相談し、私のことを私以上に知っていてくださる神が、その歩みを確かなものにしてくださるから安心です。本来ならみじめさの中に埋没し、何のあてもなく生きるしかなかった者のために、キリストは十字架で死に、3日目によみがえり、信じる者たちが罪赦されながら、終わりの日には復活のからだが与えられる希望まで持って生きられるようにしてくださいました。この方に何でも聞き、相談しながら生きましょう。主がその歩みを確かなものにしてくださいます。
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 6月23日
メッセージ要約 主題:「慰めのことば」

           イザヤ書40:1-2 豊村臨太郎伝道師


<イザヤ書について>

 イザヤ書の内容は大きく二つに分けられます。1章から39章と40章から66章です。

 1章から39章は、主にイザヤ自身が生きた時代(BC740~700頃)が背景です。イザヤは南ユダで活動しました。国外では、アッシリア帝国が世界を征服しつつあり、南ユダにも脅威が迫っていました。国内は、偶像礼拝によって宗教的に堕落し道徳的にも腐敗していました。そのような状況で、イザヤは「悔い改めて、主なる神に立ち返りなさい。」と警告と救いのメッセージを語ります。  

 40章から66章は、100年以上先の出来事についての預言です。イザヤは、南ユダがバビロン帝国によって滅ぼされ、捕囚の民として異邦の地バビロンへ連れて行かれることを預言します。それは、主なる神に背き続けた罪に対する裁きでした。しかし、裁きの後にバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還するという救いも預言しています。イザヤは主の霊によって、神の救いと慰めを語っているのです。40章1節と2節はその幕開けです。神は具体的にどのように慰めて下さるお方なのか、3つのポイントで覚えます。


<1. 思いなおして、慰めてくださるお方(1節)>

 「慰めよ。慰めよ。」という繰り返しは、原語のヘブル語では強調を意味します。絶望している民を「完全に慰める」という、神の強い意志を読み取ることができます。また、「慰めよ」(ヘブル語で「ナハムー」)は、出エジプト32章14節では「思い直す」と訳されています。「金の小牛」を拝んだイスラエルの民に神は怒られましたが、モーセのとりなしによって裁きを思い直してくださいました。神は、愛すべき存在として創造された人間が罪に陥ってしまっても、救いの道を備えてくださるお方です。その究極がイエス・キリストの十字架です。神はご自分に背いて偶像礼拝に走り、痛い思いをして初めて自分の罪に気づき、嘆き苦しんでいる民を、「思い直して」、「私の民」と呼んでくださるお方です。


<2. 優しく語りかけて、慰めてくださるお方(2節a)>

 「エルサレム」はイスラエルの民のことです。「優しく語りかけよ」は、直訳では「心に語りかけよ」です。イザヤと同時代の預言者ホセアも、ホセア書2章14節で「優しく彼女に語ろう。」と同じ表現を用いています。これは、ホセアが姦淫を犯した自分の妻ゴメルに語った言葉ですが、神が偶像崇拝に浸るイスラエルに語ったものでもあります。当時のイスラエルはバアルという偶像に誘惑され堕落しました。そのような愚かな彼らを神自らが口説いて関係を回復させるという語りかけです。  

 神は、罪に陥り、それゆえに痛み失望している民に「わたしのほうがもっと素晴らしい愛をあなたに与える。わたしのもとに戻っておいで。」と、優しく心に語り掛けてくださるお方です。ヨハネの福音書3章16節に「神は実にその一人子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあるように、本来滅びて当然の存在である罪人の為に、尊い犠牲を払って愛を注いでくださいました。神の私たちへの愛はそのような人間の常識や想像を超える大きな愛です。


<3. 罪を赦し、慰めてくださるお方(2節b)>

 「労苦」は「苦役」とも訳されます。「戦いに伴う苦しみ」というニュアンスを感じます。アッシリアやバビロンからの攻撃に伴う苦しみとも理解できますが、本質的には、自分の「咎(罪)」からくる「苦しみ」でしょう。「その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」と続きますが、「償われた」は、「咎に対する犠牲がささげられ、満足させられた」という意味があります。「二倍」は「十分な」という意味があります。神ご自身によって、十分な犠牲がささげられ、赦しを受けたということです。  

 罪には罰が伴います。犠牲が必要です。イスラエルの民はおよそ50年間「バビロン捕囚」という裁きを受けました。国が滅ぼされ、民族は汚され、絶望を味わいました。そのような「苦しみ」を経て、神の回復を体験しました。私たちの受けるべき「苦しみ」は何でしょうか。どこで「十分」な「罰」を、神の「裁き」を受けたのでしょうか。Ⅰペテロ2章22節~24節で、使徒ペテロはイザヤ書を引用しています。  

 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:22~24)  

 イエス・キリストが「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」ました。キリストが私たちの身代わりとなって「十分な裁き」をすでに受けてくださったのです。ですから、イザヤを通して、神が語っておられる慰めのことば「労苦は終わり、咎は償われた。すべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けた」は、今日、私たちにも優しく語り掛けられているのです。
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 6月16日
メッセージ要約 主題:「信仰による律法の確立」

           ローマ人への手紙3:29~31 三浦真信牧師


<29~30節>

 「神が唯一ならば」、神はユダヤ人だけの神ではなく、異邦人の神でもあるはずです。神が複数いるなら、それぞれの神によって区別されるところですが、神が唯一であるなら、それぞれの民族のままで救われるのです。世界中の人が割礼を受けてユダヤ人にならなくてもよいのです。それなのにユダヤ人の一部の人たちは、異邦人も割礼を受けてユダヤ人にならなければ救われないと主張しました。  

 私たちの心の中にも、信仰以外のものが救いのために必要であるかのように思ってしまうことがあります。しかしキリストが与えてくださる救いは無条件です。キリストを信じ受け入れる者は、どの民族であろうと、いかなる人であろうと、救われるのです。  

 30節で、「信仰によって」と2回記されていますが、原語は違う前置詞が使われています。最初の「割礼のある者を信仰によって」の「によって」は「エク(英語のfrom)」で、「割礼のない者をも信仰によって」の「によって」は、「ディア(英語のthrough)」です。割礼を受けていてもいいのですが、それが救いの絶対条件ではありません。そのことを強調するために、「エク(from)」を使っています。割礼を受けている者であっても、その行為を基盤として救われるのではなく、どこまでも信仰なのです。内側から信仰が出てこないと、いくら外側を割礼という行為で覆(おお)っていても救いにはならないのです。「割礼のない者」も同じく外側の何かによらず、ただ信仰によってのみ神に義と認められます。割礼を受けていない異邦人は、逆に何も救いの拠り所(よりどころ)となる見えるものがないので不安になるかもしれないけど、ただ信仰を通して(through)救われるから安心です。  

 このように信仰による救いは、民族的差別を取り除きます。ユダヤ人でも異邦人でも、何人であっても、救いの条件はキリストを信じる「信仰によって」のみです。神は唯一ですから、救いの条件も同じです。


<31節>

 「信仰によって神に義と認められ、ただ信じればよいというのであれば、神が定めた律法は無効にしてよいのか?無視してよいのか?」という疑問が出てくるでしょう。それに対してパウロは、「絶対にそんなことはありません」と、非常に強い言葉で打ち消します。信仰による救いは、律法を無効にするのではなく、むしろ確立することになるのです。キリストも、ご自身が来た目的は、「律法を廃棄するためではなく、成就するために来た」と言っています(マタイ5:17~18)。  

 では私たちは今律法をどのように受け取れば良いのでしょうか?

① キリストの十字架の贖いが律法の要求を完全に満たしたことを信じる。

 神は完全義なる方です。律法にはその神の義が現われています。そして律法を完全に行うことができないすべての人間は、神のさばきを受けて当然の存在です。義なる神は、人間の罪を罰せずにおくことはできません。義である性質を偽(いつわ)ることはできないのです。しかし義であると同時に愛なる神は、ご自身が造られた人間がそのまま滅びることを良しとはしませんでした。そこで罪なき独り子キリストがすべての人の罪の罰を代わりに受けることで、律法の要求を満たしてくださったのです。神の義は、キリストが罰(ばっ)せられ打たれることで実現されたのです。律法の要求を完全に満たしてくださったキリストを信じることで、律法を確立することになるのです。

② 律法を無効にするのではなく、キリストを見上げて律法に従う。

 律法は、人が幸せに生きるために神が与えてくださいました(申命記5:32~33、6:17~18)。律法に従って歩めることが、幸せに生きる道です。でもその通りに歩もうとすると、そうできない自分を知り罪悪感をもちます。今はそこでキリストを見上げることができるのです。律法を良いものと認め、無律法になるのではなく、キリストで律法に従いましょう。何度失敗しても、罪を犯してしまっても、キリストの赦しを信じて「神様ごめんなさい」と言って何度でも立ち返りましょう。「こんな罪人の私をあわれんでください」と胸をたたいて祈った取税人のように(ルカ18:13)、神に赦しを乞(こ)い、赦しを受け取りながら歩めることは幸せなことです。神が私たちの幸せのために与えてくださった律法に、何度はずれてもキリストにあって従っていきましょう。自分の力で律法を確立することは到底できません。律法を確立してくださったキリストの愛と赦しを受け取りながら、神の言葉に従いましょう。
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 6月9日
-ペンテコステ礼拝-メッセージ要約 主題:「聖霊の働き」

           使徒の働き2:40~47 他  三浦真信牧師


 聖霊の多岐にわたる働き(個人に対する働きと教会に対する働き)について、聖書が私たちに伝えていることを確認しましょう。

1.個人に対する聖霊の働き

 ① 神について知らせる(エペソ1:17~19)

  パウロは、「神を知るための知恵と啓示の御霊」を与えてくださるようにと祈っています。聖霊(御霊)は、神がどのような方かを具体的に知らせてくださいます。罪によって曇ってしまった私たちの心の目を開いて、はっきり神を見ることができるようにしてくださるのです。そして神が与えてくださる「望み」、聖徒たちが受け継ぐ「栄光」、信じる者に働く神の「力」がどれほどすばらしいものかを具体的にわかるようにしてくださるのです。

 ② 罪を示してくださる(ヨハネ福音書16:7~8)

 聖霊は、神がいかに義なるきよい方かを示し、その神の前にいかに人が汚れ果てた存在であるか、またそのままでは神のさばきを受けるしかない存在であるかを知らせ、世にその誤りを認めさせます。聖霊の助けなしには、何が罪であり、どのように神から外れていて、それがどれほど悲惨な状況であるのかを理解することはできません。キリストの絶大な恵みを知るために、聖霊は私たちにたえず罪を示し、いよいよ罪から救ってくださるキリストの元に行くように促してくださるのです。

 ③ 神の言葉を思い起こさせる(ヨハネ福音書14:26)

  聖霊は私たちにすべてのことを教え、主が語られた言葉(聖書の言葉)を実生活の中で思い起こさせてくださいます。家庭で、職場で、学校で、迷ったり判断しかねるようなことがあっても、具体的な道を聖霊が教えてくださり、生活の中でみことばを思い起こさせてくださるのです。聖霊は、私たちにみことばを思い起こさせることによって、大切なことを決断させたり、ある時は罪から守り、人間関係を変革したりするのです。

 ④ 「イエスは主です」と告白させる(Ⅰコリント12:3)

 聖霊の働きなしには、イエスが罪からの救い主であると信じ告白することはできません。人の説得や強制によってではなく、聖霊の働きによって、人は救われイエスを主として崇めるようになります。聖霊の働きなしに「イエスは主です」と告白することはできません。

 ⑤ 私たちの心のうめきをとりなしてくださる(ローマ8:26)

 心の中にあるものを、なかなかそのままに祈れないことがあります。何を悩み、何にモヤモヤしているのか言葉にできない時があります。それでも心の中に確かにうめきがある時に、その言葉にならない心のうめきを、聖霊は私たちに寄り添(そ)って共にうめいてくださいます。そして聖霊が共にうめいてとりなしてくださる中で、何が自分の問題であり、何を願っているのか、何が辛いのかがわかり具体的な祈りとなっていきます。自分ではどのように祈ってよいかわからなくても、うめき祈っていく時に、聖霊がとりなしてくださいます。「助け主」の原語は「パラクレイトス」です。「パラ(傍(かたわ)らに)」と「クレイトス(呼ばれた者)」で、「傍(かたわ)らに立つように呼ばれた者」という意味があります。助け主聖霊は、私たちの傍らにいつも立って、私たちの言葉にもならないうめきを共にうめき主に向かわせてくださるのです。

 ⑥ キリストの証人としてくださる(使徒1:8)

 人を恐れたり、恥ずかしいという思いがありながらも、聖霊が臨まれる時には力を受けます。その力は、キリストを証しするための力です。私たちは弱くても、尻込みすることがあっても、聖霊が迫られる時には、大胆にキリストを証させてくださいます。語る言葉も、聖霊が教えてくださいます(マタイ10:19~20)。


2.教会に対する聖霊の働き

  ① 教会を誕生させた(使徒2:40~47)

 ペンテコステ(五旬節)の日に、集まっていた弟子たちの上に、突然天から激しい風が吹いて来るような響きが起こり、一同が聖霊に満たされました(使徒2:1~4)。そしてこの出来事についてペテロが旧約聖書を引用し、またキリストについて語ったところ、彼の言葉を3000人が受け入れ、キリストの弟子となりました(41節)。こうしてキリストを信じる者たちの共同体である  教会が誕生したのです。教会堂などなく、家々で集まって礼拝し聖餐(せいさん)をささげていました。聖霊が教会を始めたのですから、教会は常に聖霊に導かれていきます。教会の様々な課題も、聖霊に助けを求め導いていただきましょう。

 ②教会を神の住まいとする(エペソ2:22)

 聖霊は教会を神の住まいとしてくださいます。神の臨在が満ち溢れる場所としてくださるのです。建物としての教会堂がなくても、キリストの御名によって2人3人が集まり心一つにして祈るところにキリストはおられます(マタイ18:19~20)。その交わり、その共同体が教会です。

 ③神のみ心を教える(Ⅰコリント2:11)

 御霊は神のみ心を知っておられます。私たちが知るべき神のみ心を教えてくださいます。個人に対するみ心も教えてくださいますが、教会のみ心をも教えてくださいます。み心は、事実となって初めて「み心だった」と言えます。祈っていて「これがみ心だ」と思っても、自分の思いであるかもしれません。平安があるからみ心とも限りません。単に自分の思い通りになって安心したいだけかもしれません。

 教会に対する神のみ心は、皆で心合わせて祈る中で明らかにされていきます。ですから教会であえて集まって祈ることは大切なのです。一人で祈る密室の祈りも大切ですが、同じ課題のために集まって心を一つにして祈ることは、大きな力となります。

 ④各々に賜物を与えて一つにする(Ⅰコリント12:7~11)

 個人のためではなく、「みなの益となるために」御霊は一人ひとりに賜物を与えておられます。それは同じ御霊がなさる働きなので、ばらばらではなく一つです。せっかく賜物が与えられていても、みなの益のために用いられ、また一つにされていかないと、教会の力とはなっていきません。同じ御霊が、教会に必要な賜物をそれぞれに与え、キリストのからだなる教会の成長のために一つとして用いてくださることを信じ期待しましょう。

 ⑤実を結ばせてくださる(ガラテヤ5:22~23)

 御霊が結ばせてくださる実は、教会のため、また福音の広がりのために与えられます。御霊の実が教会に、一人ひとりに結ばれていく時に、福音は広がっていきます。教会が誕生した時に、救われた人々が心を一つにして神を礼拝し、交わり、そこに御霊の実が豊かに現わされていく中で、毎日救われる人々を主が仲間に加えてくださいました(使徒2:46~47)。御霊の実を求めましょう。


 このような豊かな聖霊の働きを信じて、あらゆることに聖霊の助けを求めましょう。聖霊は助け主(パラクレイトス)、私たちのそばに寄り添(そ)って立ち、私たちのうめきを共にうめき とりなしてくださる方です。この方に期待して、心を合わせて祈りましょう。
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 6月2日
召天者記念礼拝メッセージ要約 主題:「神のあわれみで救われた喜び」

           ペテロの手紙第一 1:3~9    三浦 真信 牧師


 キリストに出会った召天者皆さまの人生がどのようであったのか、みことばで確認しつつ、また私たちの今の歩みも振り返りましょう。

① 神をほめたたえる人生(3~4節)

 教会では、神を賛美し神をほめたたえます。それは、「神の大きなあわれみゆえに」救われたからです。それまで何かに束縛され、重たいものを背負ってきた古い自分を脱ぎ捨てて、神に「新しく生まれさせて」いただいたからです。自分で努力してそうなったのなら、「よくやった」と自分をほめたたえるのでしょうが、そうではなく、そのような神のあわれみを受けるに値することは何一つしていない、むしろマイナスのことしかしていないのに、神がそのような私を「新しく生まれさせて」、「生ける望みを持つように」してくださったからこそ、神をほめたたえるのです。  

 この手紙は、今非常に大きな苦しみの中にある人たちに宛ててペテロが書いたものです。本当に苦しい時は、その苦しい状況に心がとらわれ、いよいよ苦しみの中に埋没していきがちです。しかしペテロは、そこからもう一度私たちに「生ける望み」を与えてくださった、あわれみ豊かな神を見上げ、神をほめたたえるように勧めています。  

 この「生ける望み」は、どのように私たちに与えられたのでしょうか?それは、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」です。キリストの復活の事実が、私たちを新しく生まれさせ、苦しみの中でも「生ける望み」を与え続けるのです。  

 私たちの罪のために十字架で死なれたキリストは、死からよみがえり、確かに神の子であることを示してくださいました。そして今も信じる者たちと共に生きて働いておられ、信じる者たちにも復活のからだを与えてくださるのです。  

 それだけでなく、神は私たちのために「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を天にたくわえて」くださっています。地上の持ち物は、いつか朽ちてなくなります。死ぬ時にはすべてを手放していくことになります。しかし神が天にたくわえてくださっている資産は永遠に朽ちることがありません。このことは、人生の中で大切なものを失ったり、朽ちたり衰えていく悲しみを感じる時にも大きな希望となります。  

 神の大きなあわれみによって「生ける望み」が与えられた信仰の先達たちは、苦しみの時もその神をほめたたえて歩んだのです。


② 試練の中でも根底に喜びがあった(5~8節)

 神の大きなあわれみを体験し、生ける望みを与えられ、朽ちることのない天の資産を受け継ぎ、何があっても「神の御力によって守られている」(5節)から、「そういうわけで」(6節)、試練の中でも大いなる喜びがあります。

 家族や親しい人をなくすことも大きな試練です。「しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならないのですが」(6節)、「信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊い」(7節)のです。試練を通して学ぶことがたくさんあります。自分の気がつかなかった欠点や弱さを知ったり、これまでにはなかった新しい視点が与えられたりします。何よりも、試練の中で神のことばの真実を学びます(詩篇119:71)。  

 試練の時には、悲しみ、痛みを伴います。でも神が私たちに与える「生ける望み」によって、悲しく辛い時にも、消えない喜びが根底にあるのです。


③ 信仰の結果であるたましいの救いを得ている(9節)

 試練の中でも「信仰の結果であるたましいの救いを得ている」ことが、何にも勝る喜びです。聖書が語る救いとは、造り主なる神との和解にあります。神と断絶していることにより、あらゆる的はずれな歩みが生じています。人間の力では、きよい義なる神に立ち返ることはできません。私たちの罪の代わりに十字架で死なれたキリストは、3日目に死からよみがえりました。このキリストを信じるだけで、罪がきよめられ、神と和解し、神と共に歩むことができるのです。また死んだ後もキリストと同じように、復活のからだが与えられるのです。ただ神のあわれみによって与えられる救いだから安心です。人間の側の努力や行い、人間的な良さによる救いなら、失敗したり調子が悪くなると救いまで取り消されてしまいそうで不安です。でも「信仰の結果であるたましいの救い」は、こちら側の状態に一切よらないので安心です。この信仰によるたましいの救いが、召天者お一人おひとりの人生を支えたと信じます。私たちもたえず、立派な行いや働きのすばらしさに心が向かいやすいですが、救いはただ信仰により神のあわれみにより与えられるものであることを思い起こしましょう。私たちの状態や人間的な働きにいっさいよらない救いです。だから安心です。
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