(2019年5月)

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 5月26日
礼拝メッセージ要約 主題:「神が備えた出会い」

           ルツ記2:1~7    三浦 真信 牧師

<1~3節>

 モアブでの10年間に夫と2人の子どもを失ったナオミは、息子の嫁ルツと共に故郷のベツレヘムに帰ってきました。ナオミには夫エリメレクの親戚で、ボアズという町の有力者がいました。 モアブ出身のルツにとっては、ベツレヘムは異国の地です。慣れない場所であっても、若い自分が働いてナオミと自分たちの生活を維持しなければならないと思いました。そこで「畑に行って、私に親切にしてくださる方のあとについて落穂を拾い集めたい」(2節)とナオミに申し出ます。落穂拾いとは、穀物の収穫後に、畑に散らばる麦の穂などを拾い集めることです。  フランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーによって描かれた「落穂拾い」の絵は有名です。  

 ナオミとルツがベツレヘムに着いたのは、「大麦の刈り入れの始まったころ」(1:22)でした。その時期だったからこそ、2人は生活の糧をすぐに得ることができたのです。この落穂拾いに関しては、旧約の律法に規定がありました。モアブでは通用しませんが、ここはユダヤのベツレヘムなので、律法が社会通念にもなっていました。それは、「土地の収穫を刈り入れる時に、畑の隅まで刈ってはならず、収穫の落穂も集めてはいけない、貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない」という内容でした(レビ記23:22)。「また刈り入れをして束の一つを畑に置き忘れたときも、それは在留異国人、みなしご、やもめのものとして、取りに戻ってはいけない」(申命記24:19)という規定もありました。このように律法には、人に優しい(特に社会的に弱い立場にある人に対して)規定がたくさんあります。律法全体が、実は人が幸せに生きるための人に優しい内容なのです(申命記5:33)。ルツがこの律法をどこまで知っていたかはわかりませんが、少なくともベツレヘム出身の姑のナオミは知っていましたので、安心してルツを送り出したのでしょう。  

 ルツは、どこのだれの畑かも知らずに、麦を刈り入れる人たちのあとについて落穂を拾い集めます(3節)。しかし「はからずも」その畑は、「エリメレクの一族に属するボアズ」のうちでした。だれも予想していなかった、思いがけないことです。意図的に誰かが計画したわけではなく、ただ神のご計画によってルツが落穂拾いをした畑が、はからずもエリメレクの親戚ボアズの畑であったのです。神は、この「はからずも」という出来事を備えて、ご自身の計画を進めていかれるのです。


<4節>

 「ちょうどその時」にボアズがベツレヘムからやってきました。畑はベツレヘムの町から少し離れた場所にあったのでしょう。ルツがボアズの畑で落穂拾いをしている正にその時に、ボアズがやってきて、ルツと出会うのです。神が出会いも、その時や場所も備えていてくださることを、「ちょうどその時」という言葉で生き生きと表現しています。「神のなさることはすべて時にかなって美しい」(伝道者の書3:11)のです。やがて夫婦となるルツとボアズの出会いにも神が関わっておられ、その絶妙なタイミングと畑という日常生活の場所での出会いをも神が備えておられたのです。


<5節>

 多くの人が畑で働いている中で、ボアズの目にルツが留まりました。ボアズは刈る者たちの世話係の若者に「これはだれの娘か」と聞きます。ボアズのルツに対する関心が高いことがわかります(一説には、この表現は異性として意識している時に使われるとも言われています)。


<6~7節>

 若者の返事はとてもルツに対して好意的な内容でした。彼はルツがナオミといっしょに帰ってきたモアブの娘であること、また彼女の働きぶりを感動を込めてボアズに伝えます。(ここの「家」とは、畑の中にある休憩小屋のことです)  

 モアブの野で家族を次々になくす大きな苦しみを経験したナオミでしたが、それもすべて神の御手の中にあり、神はナオミとモアブ人のルツをベツレヘムに導き、不思議な形でやがてルツの夫となるボアズに出会わせました。神が導かれる時には、このように過去の苦しい出来事をも用いて、必要な出会いを絶妙なタイミングと場所で与えてくださいます。

 「はからずも」(3節)、エリメレク一族のボアズの畑で落穂拾いをルツがすることになりました。ルツが落穂拾いを始めた「ちょうどその時」(4節)に、ボアズと出会うように神はしてくださいました。そして神はボアズの目にルツが留まるようにしてくださいました。神の主権を信じる者にとっては、「偶然」ということは一つもありません。すべてが神のご計画、神の御手の中にあります。

 人生の別れや出会い、あらゆることに神の時があります(伝道者の書3:1~8)。神の恵みにより信仰によって救われた者は、その後の生活全般も神の導きがあると信じます。私たちのために必要な出会いも備えてくださいます。それは時には自分にとって好ましくない出会いであるかもしれません。信仰の訓練のため、砕きの岩として神が備えた人との出会いもあります。でも神のなさることに無意味なことは一つもありません。その信仰に立って、今直面している自分の課題も受け止めましょう。  

 あらゆることに時があります。「神の時」でない時には、何をしても動いていかないということがあります。しかし時を待ち望んで祈っていると、ある時に「今神がこのことをするように迫っておられる」とわかる時があります。その時には、大胆に主を信じて示されていることを実行していきましょう。「神のなさることはすべて時にかなって美しい」のです。
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 5月19日
礼拝メッセージ要約 主題:「人間の誇りを打ち砕く福音」

           ロ-マ人への手紙3:27~28    三浦 真信 牧師

<27節>

  「なだめの供え物」として公に示されたキリストを信じる者を、神は義とお認めになります(25~26節)。これはどこまでも神の恵みによる救いであり、人間の側の行い、人間的な良さ、働き、一切が救いのためには無益であることを示しています。ですから、「私たちの誇りはすでに取り除かれた」のです。私たち人間の側には誇りとするものは一切ありません。「取り除かれました」は、「エクセクレイスセー」という単語一つです。「私たちの誇りなんていうものは取り除かれてしまった、締め出されて入る余地がない」という強い響きがあります。私たちが神に義とされるために、自分の中に誇りを見出そうとしても何も見いだせないほど、神の側の一方的な恵みがあるだけなのです。

 人間の誇りというものは厄介なものです。この無条件の福音を受け取る時にも邪魔します。福音を受け入れてからも、いつしか人間的なものを誇ろとして福音のすばらしさを薄めてしまいます。

 当時のユダヤ人たちは、自分たちは神の律法を持つ神に選ばれた特別な民であるという誇りを持っていました。異邦人を代表するギリシャ人は、多くの哲学者を生み出し知恵ある民族として誇りました。ローマには、ローマ帝国の中心地にいる者としての誇りがあったかもしれません。

 人は個々にも、何かしら自分の中に誇りとするものを持っていたいものです。でも目に見える人間的なものを誇るなら、自分よりも優れた人が出現すれば一気に劣等感になります。人間的なものを誇りとし、それをより所としていくなら、人は延々と傲慢(ごうまん)と劣等感の狭間(はざま)を生きるしかありません。

 パウロは、かつて自分には誇りとするものがたくさんあったことを告白しています。ピリピ人への手紙3:2~8で、律法の行いによる救いを説き、人間的な良さや働きのすばらしさを誇っている働き人を「犬」と呼んでいます。そして自分に破れ、ただ御霊の助けによって礼拝し、キリスト・イエスだけを誇りとして崇める礼拝者こそ、真の神の民であると断言します。またパウロ自身にも、人間的にこれまで誇りとしてより頼んできたものがありました。家柄、学歴、人からも認められる立派な行い、律法を守ることへの熱心さなどです。でもキリストに出会ってから、あまりにキリストがすばらしいので、それらが損と思うようになり、「ちりあくた」(原語は「家畜の糞(ふん)」)とさ え思えるようになったのです。何と空(むな)しいプライドに振り回されてきたことか、実はその誇りによって自分自身が苦しんできたということに、キリストとの出会いが気づかせてくれました。

 キリストに出会ってからも、人間的なものを誇りとする誘惑がパウロにあったでしょう。そのたびに、かつてキリストを迫害していた最中でキリスに出会い、一方的に救われた恵みを思い出し、空しい誇りは打ち砕かれていきました。キリストの恵みによる救いは、人間的行い、働きに一切関係なく、ただ無条件で与えられるからです。

 「どういう原理によってでしょうか」は、その前に「私たちが義とされたのは」と入れるとよくわかります。私たちが「行いの原理」によって救われたとしたら、完全に人間の誇りを取り除くことはできません。どこかで「自分の力、自分の善い行いで救いを得た」と誇るでしょう。しかしパウロは、行いの原理ではなく、「信仰の原理によって私たちは義とされた」と宣言します。1から10まで信仰による義です。イエス・キリストを信じるだけで与えられる義です。信仰による原理で救われるなら、人間の働き、行いは救いのために何の役にも立ちません。  

 信仰の原理で義とされたのなら、私たちは自分の行為にではなく、神がしてくださった行為にたえず目を向けます。信仰の原理による救いは、常に神のわざに私たちを向かわせるのです。


<28節>

 さらにパウロは「信仰の原理による救い」について説明します。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではない」と強調します。これは「律法の行いとは無関係に、律法の行い無しに」という意味です。「律法とは別に」(3:21)と同じ原語です。

 「人が義と認められるのは信仰による」のです。宗教改革者マルティン・ルターが聖書をドイツ語に訳した時には、この信仰による原理を明確にするために「アライン(ただ~のみ)」という言葉を入れました。「人が神に義と認められるのは、ただ信仰のみによるのです」。

 「というのが私たちの考えです」の原語は、「ロギゾマイ(よく計算してこのような結論になりました)」です。思い付きではなく、旧約聖書の言葉やキリストの行為、御霊の示しなど、十分検証した結果出た結論です。

 この節と一見矛盾するように読めることを、ヤコブが言っています(ヤコブ2:24)。1節だけ取り出して読むと矛盾しているようですが、文脈で読むとヤコブの手紙とローマ人への手紙で取り扱っている事柄は全く違うことがわかります。ローマ書では、どこまでも救いに関して義とされるのは信仰のみによると伝えます。

 ヤコブは、頭だけの信仰で愛のわざを生み出していかないクリスチャンの問題を指摘しているのです。恵み深い神との交わりから与えられる力によって、本来は神と人に仕えていくはずなのに、ただ「わかる、わからない」「感動した、恵まれた」で終わって、その先の恵みを受けた者としての行動に至らないことの矛盾をヤコブは指摘しています。本当に信じたなら、信じたような行動が生まれてくるはずなのです。

 しかしパウロが扱っている救いに関しては、どこまでも信仰だけ恵みだけです。「あの時にこれをしなかったからもう救われない」とか、「あの人を助けることができなかったから救いを取り消される」とか、「この罪の行為を犯してしまったから救われない」ということではなく、どこまでも救いはキリストを信じる信仰のみによります。どのような罪も、イエス・キリストを信じるなら神には赦されるのです(地上での罰則や痛みは受けるかもしれません)。でもキリストを救い主と信じその恵みを受けたなら、必ずそれで終わりにはなりません。その恵みによって神と人に仕える行いが伴います。ただそれさえも、恵みでさせられていくので、自分の誇りとはならないのです。パウロ自身も、自分は他の使徒たちよりも多く働いたけど、それも神の恵みに突き動かされてしたことと言っています(Ⅰコリント15:10)。信仰により、恵みにより救われた結果の行為なので、パウロの誇りにはなりません。誇りそうになっても、また神の恵みに打ち砕かれるのです。

 かつては、自分の誇りを積み上げる生き方をパウロもしてきました。しかしそれが苦しく空しい生き方であったことに、キリストに出会って気がついたのです。誇りが打ち砕かれて恵みで生きることは、空しい生き方から解放されていくのです。肉の残骸(ざんがい)として、空しい誇りが顔を出しても、また神の恵みがそれを打ち砕きます。空しい誇りを打ち砕いて、さらにキリストだけを崇める素晴らしい生き方に導く福音の力を受け続けましょう。
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 5月12日
礼拝メッセージ要約 主題:「イエスを信じる者~今の時に現された神の義~」

           ロ-マ人への手紙3:25~26    三浦 真信 牧師

<25節>

 神は、キリストを「なだめの供え物として公にお示しになりました」。イエスの十字架の出来事は、公に示されたことです。イエスが架けられた十字架上には、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と、ヘブル語(ユダヤ人の言葉)、ラテン語(ローマ帝国の公用語)、ギリシャ語(へレニズム世界一般の共通語)の3か国語で書かれていました(ヨハネ福音書19:17~20)。キリストの十字架の出来事は、世界に公に示されたのです。

 「なだめの供え物」という表現は、ヨハネの手紙第一2:2、4:10にもあります。ギリシャ語原語で、このローマ3;25と全く同じ原語(ヒラステーリオン)が使われているのは、へブル9:5にある「贖罪蓋(新改訳2017で『なだめの蓋』)」です。これはモーセに与えられた十戒が刻まれた石の入った契約の箱の蓋(ふた)のことです。旧約の時代、年に一度大祭司が動物の犠牲の血を持って神殿の至聖所に入り、民の罪を贖うためその血を贖罪蓋に振りかけました。それによって聖い神は、罪ある人間と交わることができたのです。人間の罪をなだめるささげ物として、動物の犠牲の血がこの贖罪蓋に注がれることで、民の罪が赦されきよめられたのです。イエス・キリストは、この注がれた動物の犠牲の血のように、十字架上ですべての人の罪の身代わりとなって血を流され死なれたのです。「律法によればすべてのものは血によってきよめられる。また血を注ぎだすことがなければ罪の赦しはないのです(へブル9:22)。「血によるなだめの供え物」として、公に示されたイエス・キリストを、私たちは「信仰によって受け取るべき」(新改訳2017)なのです。

 キリストが公になだめの供え物として示されたのは、「(神)ご自身の義を現わす(実証する)ため」なのです。「神が義なる方なら、なぜなお世界に不義が存在するのか?もし罪を容認しているなら、神が義であるとは言えないのではないか?」という問いに対して、神の子キリストがなだめの供え物となることで、神の義が実証されました。しかもそれまでも、神は人間の罪を容認してきたのではなく、「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られた」のです。神のさばきに耐え得る人はいません。神の方で人間の罪に対して忍耐してくださり、徹底してさばきを行うことをなさらなかったのです。


<26節>

 「今の時に」の「時」は、ギリシャ語原語は「カイロス」が使われています。これは「瞬時、時点」を現わす特定の時を示しています。つまりキリストの十字架の決定的な時点を指しています。キリストが十字架にかかって死なれた今、神の義はついに実証され、「イエスを信じる者」も義と認められるのです。

 神は本質が義なる方です。不義でありえない方なのです。その義なる神は、人間の罪を容認することはできません。その義なる神の前には、人間は罪ゆえにさばきを免れることはできないのです。しかし義であると同時に愛なる神は、ご自身が造られた人間をすべて滅ぼすこともできません。そこで、ご自身が造られた人間に裏切られた被害者である神が、加害者の代表となって罰を受けて十字架で血を流されたのです。

 人間の罪は血生臭いものです。罪の究極は、血を流し人を傷つけていきます。罪の世は血生臭い事件や描写で溢れています。血生臭い人間の罪を贖うためには、神の子があえて人と同じ痛みを感じる肉体をとり、血を流すしかなかったのです。血によるなだめの供え物となり、人間の罪に対する義なる神の怒りをなだめる供え物として、キリストは十字架で血を流し死なれました。そしてそのイエスを信じる者を、義と認めてくださるのです。

 人間の思考は「あの罪を犯したからこうなったのだ」という因果応報的考えに陥りがちです。しかし「神は私たちの罪に従って私たちを扱うことをしない」(詩篇103:10)のです。私たち人間がちりに過ぎないことを心に留めておられます(詩篇103:14)。自分で自分を変えることができないのです。罪を認めても、また罪を犯してしまうのです。その個々の罪にとらわれていたら、永遠に罪悪感から解放されません。だから、キリストが代わりになだめの供え物となってくださったのです。このイエス・キリストを信じる者を義と認めてくださるのです。私たちの具体的な罪咎によって私たちを扱い報いることをせず、私たちの罪のためのなだめの供え物となって十字架で死なれたイエスを信じることで、罪が赦されるのです。この方を信じましょう。信じるとは、「キリストのうちにいる」ことです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)とある通りです。肉の残骸は生きている限り出てきますが、もう根っこはキリストによって抜かれています。キリストは、1回の十字架の死によって、完璧な贖いを成し遂げてくださいました。出てくる古い自分の肉を見ても、「こんな者をも神は救ってくださった」と、むしろ恵みを示すものと変えられるのです(ローマ5:20)。「イエスを信じる者を義とお認めになる」神の恵みに感謝しましょう。
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 5月5日
児童祝福親子礼拝メッセージ要約 主題:「イエスさまの約束」

           使徒の働き1:3~11、ヨハネの福音書14:1~3    三浦 真信 牧師

 イエスさまが十字架にかけられた時、イエスさまの弟子たちはとてもがっかりしました。イエスさまといっしょにいた時は毎日とても楽しかったのに、もう会えないと思うと寂しくて仕方がありませんでした。イエスさまが死んでいなくなった寂しさと、イエスさまをつかまえた人たちに見つかったらひどい目に会うかもしれない恐怖で、弟子たちはひっそりと部屋に閉じこもっていました。
 けれども、イエスさまは十字架で死んで三日目によみがえり、弟子たちに会ってくださいました。そして復活したイエスさまとお話しするうちに、弟子たちもだんだん元気になっていきました。
 復活したイエスさまは、エルサレムの町全体が見えるオリーブ山に弟子たちと登りました。そこで弟子たちに約束してくださいました。一つは、「あなたたちは世界中にわたし(イエスさま)のことを知らせる人になります。そのために聖霊という助け主を送ります。聖霊があなたたちに力を与えて、イエスさまが死からよみがえって今も生きておられることを証しさせてくださいますよ」という約束でした(8節)。聖霊が与える力は、自慢をするためではなく、イエスさまのすばらしさを伝えるためのものです。そのために、勇気・知恵・愛・忍耐など必要なものを聖霊が与えてくださいます。そのような聖霊が与えられることは、イエスさまが十字架にかけられる前にも弟子たちに話しています(ヨハネの福音書14:16~26、16:7~15)。
 イエスさまのお話を弟子たちは熱心に聞いていました。お話が終わると、弟子たちの目の前でイエスさまのからだが浮き上がり、そのままイエスさまは空高く上って雲の中に入って見えなくなりました(9節)
 イエスさまの二つ目の約束は、イエスさまが見える姿で帰って来られることでした(11節)。ここでは神の使いが伝えていますが、イエスさまご自身も十字架にかけられる前に、そのことを約束していました(ヨハネ福音書14:1~3)。天の神様の場所には住まいがたくさんあります。「わたし(イエスさま)は、あなたたちの住む天の場所を用意したら、あなたたちを迎えにきます。そうしたらずっといっしょにいることができるのです」と約束してくださいました。
 イエスさまは、弟子たちの目の前で天に上げられましたが、「また来ますよ」と約束してくださったのです。それがいつであるかは、神さましか知りません。でも必ずイエスさまは再び来られます(再臨)。はっきりとイエスさまだとわかるお姿で、今度は来られるのです。だからイエスさまの約束を信じて、その日を楽しみに待ちましょう。
 イエスさまのお約束通り、このあとペンテコステの日に弟子たちに聖霊がくだります。すると弟子たちは大胆にイエスさまが救い主であり、復活して今も生きておられることを伝えるようになりました。ふだんは普通にお仕事をしたり、勉強をしたり、友だちと仲良くしていながら、聖霊に助けられて生きる人々を通して、自然にイエスさまのすばらしさが広がっていったのです。私たちもイエスさまの約束を信じて、イエスさまが再び来られる時まで、自分にできることをせいいっぱいしながら、イエスさまを待ち望み礼拝しましょう。

 イエスさまの約束

 ①イエスさまのすばらしさを証しするために聖霊を与えてくださいます。

 ②イエスさまは私たちの天の住まいを用意して、再び私たちを迎えに来られます。
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