(2019年5月)

 ・ 5月12日
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 5月12日
礼拝メッセージ要約 主題:「イエスを信じる者~今の時に現された神の義~」

           ロ-マ人への手紙3:25~26    三浦 真信 牧師

<25節>

 神は、キリストを「なだめの供え物として公にお示しになりました」。イエスの十字架の出来事は、公に示されたことです。イエスが架けられた十字架上には、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と、ヘブル語(ユダヤ人の言葉)、ラテン語(ローマ帝国の公用語)、ギリシャ語(へレニズム世界一般の共通語)の3か国語で書かれていました(ヨハネ福音書19:17~20)。キリストの十字架の出来事は、世界に公に示されたのです。

 「なだめの供え物」という表現は、ヨハネの手紙第一2:2、4:10にもあります。ギリシャ語原語で、このローマ3;25と全く同じ原語(ヒラステーリオン)が使われているのは、へブル9:5にある「贖罪蓋(新改訳2017で『なだめの蓋』)」です。これはモーセに与えられた十戒が刻まれた石の入った契約の箱の蓋(ふた)のことです。旧約の時代、年に一度大祭司が動物の犠牲の血を持って神殿の至聖所に入り、民の罪を贖うためその血を贖罪蓋に振りかけました。それによって聖い神は、罪ある人間と交わることができたのです。人間の罪をなだめるささげ物として、動物の犠牲の血がこの贖罪蓋に注がれることで、民の罪が赦されきよめられたのです。イエス・キリストは、この注がれた動物の犠牲の血のように、十字架上ですべての人の罪の身代わりとなって血を流され死なれたのです。「律法によればすべてのものは血によってきよめられる。また血を注ぎだすことがなければ罪の赦しはないのです(へブル9:22)。「血によるなだめの供え物」として、公に示されたイエス・キリストを、私たちは「信仰によって受け取るべき」(新改訳2017)なのです。

 キリストが公になだめの供え物として示されたのは、「(神)ご自身の義を現わす(実証する)ため」なのです。「神が義なる方なら、なぜなお世界に不義が存在するのか?もし罪を容認しているなら、神が義であるとは言えないのではないか?」という問いに対して、神の子キリストがなだめの供え物となることで、神の義が実証されました。しかもそれまでも、神は人間の罪を容認してきたのではなく、「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られた」のです。神のさばきに耐え得る人はいません。神の方で人間の罪に対して忍耐してくださり、徹底してさばきを行うことをなさらなかったのです。


<26節>

 「今の時に」の「時」は、ギリシャ語原語は「カイロス」が使われています。これは「瞬時、時点」を現わす特定の時を示しています。つまりキリストの十字架の決定的な時点を指しています。キリストが十字架にかかって死なれた今、神の義はついに実証され、「イエスを信じる者」も義と認められるのです。

 神は本質が義なる方です。不義でありえない方なのです。その義なる神は、人間の罪を容認することはできません。その義なる神の前には、人間は罪ゆえにさばきを免れることはできないのです。しかし義であると同時に愛なる神は、ご自身が造られた人間をすべて滅ぼすこともできません。そこで、ご自身が造られた人間に裏切られた被害者である神が、加害者の代表となって罰を受けて十字架で血を流されたのです。

 人間の罪は血生臭いものです。罪の究極は、血を流し人を傷つけていきます。罪の世は血生臭い事件や描写で溢れています。血生臭い人間の罪を贖うためには、神の子があえて人と同じ痛みを感じる肉体をとり、血を流すしかなかったのです。血によるなだめの供え物となり、人間の罪に対する義なる神の怒りをなだめる供え物として、キリストは十字架で血を流し死なれました。そしてそのイエスを信じる者を、義と認めてくださるのです。

 人間の思考は「あの罪を犯したからこうなったのだ」という因果応報的考えに陥りがちです。しかし「神は私たちの罪に従って私たちを扱うことをしない」(詩篇103:10)のです。私たち人間がちりに過ぎないことを心に留めておられます(詩篇103:14)。自分で自分を変えることができないのです。罪を認めても、また罪を犯してしまうのです。その個々の罪にとらわれていたら、永遠に罪悪感から解放されません。だから、キリストが代わりになだめの供え物となってくださったのです。このイエス・キリストを信じる者を義と認めてくださるのです。私たちの具体的な罪咎によって私たちを扱い報いることをせず、私たちの罪のためのなだめの供え物となって十字架で死なれたイエスを信じることで、罪が赦されるのです。この方を信じましょう。信じるとは、「キリストのうちにいる」ことです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)とある通りです。肉の残骸は生きている限り出てきますが、もう根っこはキリストによって抜かれています。キリストは、1回の十字架の死によって、完璧な贖いを成し遂げてくださいました。出てくる古い自分の肉を見ても、「こんな者をも神は救ってくださった」と、むしろ恵みを示すものと変えられるのです(ローマ5:20)。「イエスを信じる者を義とお認めになる」神の恵みに感謝しましょう。
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 5月5日
児童祝福親子礼拝メッセージ要約 主題:「イエスさまの約束」

           使徒の働き1:3~11、ヨハネの福音書14:1~3    三浦 真信 牧師

 イエスさまが十字架にかけられた時、イエスさまの弟子たちはとてもがっかりしました。イエスさまといっしょにいた時は毎日とても楽しかったのに、もう会えないと思うと寂しくて仕方がありませんでした。イエスさまが死んでいなくなった寂しさと、イエスさまをつかまえた人たちに見つかったらひどい目に会うかもしれない恐怖で、弟子たちはひっそりと部屋に閉じこもっていました。
 けれども、イエスさまは十字架で死んで三日目によみがえり、弟子たちに会ってくださいました。そして復活したイエスさまとお話しするうちに、弟子たちもだんだん元気になっていきました。
 復活したイエスさまは、エルサレムの町全体が見えるオリーブ山に弟子たちと登りました。そこで弟子たちに約束してくださいました。一つは、「あなたたちは世界中にわたし(イエスさま)のことを知らせる人になります。そのために聖霊という助け主を送ります。聖霊があなたたちに力を与えて、イエスさまが死からよみがえって今も生きておられることを証しさせてくださいますよ」という約束でした(8節)。聖霊が与える力は、自慢をするためではなく、イエスさまのすばらしさを伝えるためのものです。そのために、勇気・知恵・愛・忍耐など必要なものを聖霊が与えてくださいます。そのような聖霊が与えられることは、イエスさまが十字架にかけられる前にも弟子たちに話しています(ヨハネの福音書14:16~26、16:7~15)。
 イエスさまのお話を弟子たちは熱心に聞いていました。お話が終わると、弟子たちの目の前でイエスさまのからだが浮き上がり、そのままイエスさまは空高く上って雲の中に入って見えなくなりました(9節)
 イエスさまの二つ目の約束は、イエスさまが見える姿で帰って来られることでした(11節)。ここでは神の使いが伝えていますが、イエスさまご自身も十字架にかけられる前に、そのことを約束していました(ヨハネ福音書14:1~3)。天の神様の場所には住まいがたくさんあります。「わたし(イエスさま)は、あなたたちの住む天の場所を用意したら、あなたたちを迎えにきます。そうしたらずっといっしょにいることができるのです」と約束してくださいました。
 イエスさまは、弟子たちの目の前で天に上げられましたが、「また来ますよ」と約束してくださったのです。それがいつであるかは、神さましか知りません。でも必ずイエスさまは再び来られます(再臨)。はっきりとイエスさまだとわかるお姿で、今度は来られるのです。だからイエスさまの約束を信じて、その日を楽しみに待ちましょう。
 イエスさまのお約束通り、このあとペンテコステの日に弟子たちに聖霊がくだります。すると弟子たちは大胆にイエスさまが救い主であり、復活して今も生きておられることを伝えるようになりました。ふだんは普通にお仕事をしたり、勉強をしたり、友だちと仲良くしていながら、聖霊に助けられて生きる人々を通して、自然にイエスさまのすばらしさが広がっていったのです。私たちもイエスさまの約束を信じて、イエスさまが再び来られる時まで、自分にできることをせいいっぱいしながら、イエスさまを待ち望み礼拝しましょう。

 イエスさまの約束

 ①イエスさまのすばらしさを証しするために聖霊を与えてくださいます。

 ②イエスさまは私たちの天の住まいを用意して、再び私たちを迎えに来られます。
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