(2019年4月)

 ・ 4月28日
 ・ 4月21日
 ・ 4月14日
 ・ 4月 7日

 4月28日
礼拝メッセージ要約 主題:「みことばに生きるとは」

           マタイの福音書4:1~4 新生宣教団海外宣教部 赤松清師

<試みを受けるために(1~2節)>

 イエスは洗礼を受けた後、悪魔の試みを受けるために聖霊に導かれて荒野へ行かれました。多くの預言者も荒野で神の声を聴きました。荒野は日常から離れて、何も聞こえない状況の中で神に近づき、導きを求めていく場所でした。私たちは何かを始める時に様々な準備をしたり、訓練をします。ある人は日常を離れて、祈りに集中するでしょう。それは孤独であり、準備に集中し、祈りながら、本当にこのことが主の導きかどうかを問いながら進みます。キリストは40日40夜断食した後でしたので、相当な疲れと空腹を覚えたと思われます。そのような時に、試(こころ)みる者が近づいたとあります。


<一番弱いところ (3節)>

 弱さのところに悪魔はささやきかけ、誘惑が来ます。自分の栄光を表そうとする誘惑があります。イエス様はこれらの誘惑を退けましたが、誘惑に弱い私たちは、もっと霊的に敏感になる必要があります。自分の力で大丈夫だから、祈る必要がないと思うかもしれません。私たちは祈る事なしに、神様に頼ることなしに踏み込んで行って、失敗する事があるかも知れません。


<神のことばによる(4節)>

 イエスは申命記8:3を引用して、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と、答えられました。当時の人たちは、個人の聖書を持っていませんから、毎週読み上げられる聖書の言葉を心に刻み、生活の中に定着させていたのだと考えられます。私たちの想像以上に、神の言葉の厳しさや、そこに真の希望や解決がある事を知っていた事でしょう。  


<試練の中にあっても>

 神様がイスラエルの民を40年間荒野で歩まされたのは、イスラエルの民を試すためであったと記されています。「あなたを苦しめ、試み、命令を守るかどうか、私たちの心のうちにあるものを知るために」とあります(申命記8:2)。神は愛であり、赦して下さるお方ですが、それと裏腹に私たちに試練・訓練を与える時には、とても厳しく辛いものに思えます。そのような神様と共に歩むにはみことばがないと、やっていくことが出来ません。その時人がどう行動するのか-自分の経験で歩んでいるかどうか、神様に頼るのか試される訳です。私たちは自分に出来ると思えると、自分の力や経験に頼り、みことばから学ぼうとしなかったり、祈らない事があります。神様のことばによらなければ生きられないと、確かに知ることが私たちに必要なのです。みことばに生かされることが大切なのです。
 厳しい訓練を与える一方で、神様はいつも共にいてくださると約束されています。「着物はすり切れず、足ははれなかった」(申命記8:4)。辛い(つらい)訓練も神様は見ておられ、共におられ、みことばによって生きるように助けて下さるという事です。神様は私たちの生活の中の細かいことまで見てくださっています。


<みことばに生かされて>

 イエス様は、最後まで神様に従い通され、誘惑に会ってもみことばから外れなかったのです。十字架から降りようと思えば出来たのに、そうされませんでした。死んだ後復活の時も、自分の力ではなく神様にお委ねして、神の力を待たれました。  
 「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」(詩篇119:11) 私たちが生活の中で様々な問題に直面し、また選択をしなければならない時もあります。その時にみことばに従って選び取る事が出来るように、みことばに生きて行きたいと思います。 (要約:田内博記)
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 4月21日
礼拝メッセージ要約 主題:「恐れてはいけません~復活のキリストが与える希望~」

           マタイの福音書27:62~28:10  三浦真信牧師

① 万全な警備をも打ち破る復活のキリスト(62~66節)

 イエスへのねたみからイエスを十字架にかけるように仕向けたのは、祭司長や律法学者たちでした。イエスに敵対していた彼らですが、皮肉なことに彼らはイエスの言葉をよく覚えていました。決して信じてはいませんが、「自分は三日の後によみがえる」とのイエスの言葉を思い出し、イエスが葬られた墓(57~60節)に番兵をつけるように総督ピラトに依頼します。それはイエスの弟子たちが来てイエスの遺体を盗み出し、「イエスが死人の中からよみがえった」と人々に言うことがあっては困るからでした。

 ピラトは彼らの提案を受け入れ、墓石に封印をし、兵士たちに墓の番をさせました。ユダヤの墓石は、大人の男性が5~6人いないと動かせない重さです。墓石に封印をしたというのは、「この墓を開く行為は犯罪となる」という意味があります。しかも番をするのは、当時地中海世界を支配していた最強のローマ兵たちです。これだけの万全な警備体制がとられていた墓から、キリストは復活したのです。復活のキリストは、万全な防御も打ち破る力があります。人間のあらゆる姑息(こそく)な手段も、どのような武器や兵力も、復活のキリストの力に勝つことはできません。このような力ある方を、私たちは救い主として信じるのです。


② 恐れを喜びに変える復活のキリスト

 日曜日の明け方(1節)、マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、サロメの3人(マルコ16:1)がイエスの遺体が納められた墓に来ました。彼女たちは、あの大きな墓石をどのように転がして中に入ろうかと相談しながら来ましたが、驚くことに墓石はすでに転がされていました(マルコ16:3~4)。それは主の使いがしたことでした(2節)。不安があってもキリストを求めて進んでいく時には、このように不安材料も取り除かれていきます。  

 主の使いの形相を見たローマの番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり死人のように動けなくなりました(3~4節)。最強のローマ兵も、恐怖で御使いを攻撃することすらできなかったのです。恐怖に支配されると、人は本来の力を発揮できなくなります。  

 御使いは女たちに「恐れてはいけません」(恐れることをやめなさい)と言います。彼女たちも、恐怖で動けなくなっていたのでしょう。御使いを通して、イエスの復活の事実を知った彼女たちは、大喜びで弟子たちに知らせに行きます。

 キリストがよみがえられたという知らせは、すばらしい福音です。キリストの復活は、喜びと希望を人々に与えます。「キリストはよみがえりました!」と告白し、復活のキリストを賛美する時に、喜びが湧き上がるのです。復活のキリストが「恐れてはいけません」(10節)と一人ひとりに声をかけてくださる時に、恐れが取り除かれます。復活のキリストは、あらゆることに恐れを抱く私たちに、今も「死からよみがえった私が共にいるから、恐れるのをやめなさい」と語っておられます。


③ からだを持ってよみがえられたキリスト(9節)

 よみがえられたキリストは、女たちにいつものように「おはよう」と声をかけ、彼女たちは近寄ってイエスの足を抱きます。復活したイエスは、幽霊のようではなく、からだを持ってよみがえりました。戸が締められた部屋に入ることができる特殊性はありましたが(ヨハネ福音書20:19、26節)、触ることができる肉や骨があるからだを持っておられたのです(ルカ24:39)。この後イエスは弟子たちと一緒に魚を食べたりもします(ルカ24:41~43)。  

 キリストを信じる者たちも、皆肉体の死を経験しますが、新天新地において(ヨハネ黙示録21:1)復活のからだが与えられるのです。復活したイエスに会った弟子たちがすぐにはイエスだとわからなかったように、地上の肉体と全く同じではありません。しかしイエスの脇には十字架の釘跡(くぎあと)があったように(ヨハネ福音書20:25、27)、その人だとわかる地上のからだとの連続性があります。パウロは「御霊に属するからだ」とも表現しています(Ⅰコリント15:44)。


 キリストが十字架で死んで絶望の淵にいた弟子たちですが、死からよみがえられたキリストに出会って、絶望は希望に変えられました。そしてイエスの弟子たち(女たち)は、この復活のキリストが与えてくださる希望を、自分たちの言葉で人々に伝えるようになります。キリストを信じる者にとっては、お墓は復活の希望の象徴でもあります。今も死からよみがえり生きておられるキリストは、その復活の力を私たちに現してくださいます。そして一人ひとりに与えた役割を地上で果たすために、それぞれに賜物を与えておられます。地上の役目が終われば、復活のからだによって神と共に生きる御国を用意してくださっています。キリストの復活により、私たちにもたらされた恵みは計り知れません。
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 4月14日
礼拝メッセージ要約 主題:「ただ神の恵み」

           ローマ人への手紙3:23~24  三浦真信牧師

<23節>

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と、一部の人ではなく、「すべての人が罪を犯した」のです。罪を犯した人と犯していない人がいるのではなく、罪が大きい人と小さい人がいるのでもありません。神の前には、すべての人が同罪なのです。この「罪を犯した」の原語は、不定過去形が使われています。これは、個々の罪ではなく、過去に犯した1回の罪を指します。その罪とは、「ひとりの人(アダム)」から始まって広がった罪です(5:12)。最初に驚くべき自由が与えられていたアダムですが、神の権威の唯一の象徴である戒めを破ったところから、「罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった」のです。福音が広がる以前に、まず罪と死が全世界に広がっていたのです。この全世界に広がったアダムの罪が、その後代々引き継がれて今に至るのです。私たちは、みな生まれながらにしてアダムの罪(造り主である神との関係が壊れた状態)を持つので、具体的な個々の罪を犯します。罪を犯したから罪人になるのではありません。そしてその結果、人は生まれながらに神のさばきの下にあるのです(19節)。

 そのため「神からの栄誉を受けること」ができなくなっています。もともと人は「神のかたち」に造られました(創世記1:26~27節)。神の栄光を現わす存在として人は造られたのです(Ⅰコリント11:7)。しかし人間の側の罪によって、神の栄光を失ってしまいました。ここは「神の栄光に達しない」とも訳せます。平和を願い、麗しい世界を創ろうと努力するけれど、争いはなくなりません。世界を汚し破壊するばかりです。具体的な現れとしても、おおよそ神の栄光とはほど遠いのです。人間だけが、唯一神と交わり、神の言葉で生かされて神の栄光を現わすものとして造られたのです。また「地を従え支配する」役割を与えられているのです(創世記1:27~28)。それなのに、人間がこの地を欲や争いによって破壊しているのです。すべての人は罪によって神の栄光を現わす生き方ができなくなっています。


<24節>

 すべての人が罪を犯し、神からの栄誉を受けることができなくなりましたが、神の驚くべき恵みの御手がそこに差し伸ばされました。それが「キリスト・イエスによる贖(あがな)い」です。すべての人が神のさばきに服するしかなかったのに(19節)、「ただ神の恵みにより」「価なしに」義と認められる救いがもたらされたのです。本来造り主に逆らって勝手な道を歩んだのですから、裏切ったのは人間の側でした。神は被害者です。神が、罪の道を自ら選択した人間を助ける義務はなかったのです。  

 愛なる神は、そのまま人を罪あるまま裁き滅ぼすことはできませんでした。しかし愛であると同時に、義なる神は、罪をそのまま見過ごすこともできません。そこで罪なき神の子キリストを代わりに裁いたのです。キリストが、私たちに代わって呪われた者の代表として十字架にかけられたのです(ガラテヤ3:13)。  

 旧約の時代には、人が罪を犯すと、傷のない小羊が罪のいけにえとしてささげられました。罪の贖(あがな)いとして、動物が代わりに血を流しささげられたのです。キリストは、罪なき神の小羊として、すべての人の罪の身代わりとして十字架上でささげられたのです。罪を贖う神の小羊キリストです。  

 また「贖(あがな)い」は、奴隷を解放する時に支払われる代金を指すこともあります。この「贖い」と同じ、あるいは同じような意味を現わしている新約聖書のみことばがあります。

 ① マルコ10:45

 罪によって神からの栄誉を受けられなくなった人々の代わりに、キリスト・イエスが「贖いの代価」として、「自分のいのちを与えるため」にとことん人に仕えてくださいました。十字架の死という代価を払って、私たちを買い戻し、罪の支配から解放してくださったのです。

 ② Ⅰコリント6:19~20

 罪によって神の栄光を一度は失いましたが、キリストがご自身の死という代価を払って私たちを買い取ってくださいました。すでに私たちのからだは聖霊の宮であり、主のものです。だから神の栄光を現わす生き方を求めていくようにと勧められています。  

 すべての人は罪を犯したのに、「キリスト・イエスの贖(あがな)いのゆえに(贖いを通して)」「価なしに(だだで、無条件で)」義と認められるのです。これが神の恵みであり、福音です。キリストが十字架で成し遂げてくださった贖いのみわざを通して、救われるのです。人間の側の行いには一切よりません。神の恵みとして差し出された、キリストの贖いを感謝して受け取るだけで良いのです。「もうあなたの中からは救いに価する良きものは出てこないのだから、わたしで生きなさい」とキリストは言われます。キリストが救いのために必要なことを私たちに代わってしてくださったのだから、無条件に差し出された恵みの救いを「ありがとうございます!」と感謝して受け取りましょう。

 この神の恵みであるキリストの贖(あがな)いを受け取って、神と共に歩む中で、いよいよ自分の罪深さを知ります。でもそれによって、赦された罪の大きさ、神の恵みの深さ、死という代価を払ってまで罪人を救おうとしてくださったキリストの愛がわかってきます。すると自然にこの方に仕えたい、この方の後をついていきたいと願うようになるのです。「私は多く主に赦された」と実感する人は、多く愛し仕えるようになるのです。でもそれは救いの条件ではなく、救われて恵みの大きさを知った結果です。救いはどこまでも「キリスト・イエスの贖いを通して」のみ与えられます。ただ神の恵みです。  

 どんなに頑張っても、律法を完璧に行おうとしても、人間の側にそれを成し遂げる力はありません。キリストが成し遂げてくださった十字架の贖(あがな)いだけが救いです。私たちの罪を贖うために、キリストは十字架の苦しみを受けられたのです。キリストの贖いのわざによって神と和解した時に人は、神が本来造られた目的に生きるようになるのです。神の栄光のために、与えられたすべてを用いる本来の生き方を回復していくことができるのです。
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 4月7日
礼拝メッセージ要約 主題:「罪悪感からの解放」

           ローマ人への手紙3:19~22  三浦真信牧師

<19節>

 「私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています」。ここの「律法の言うこと」とは、直接は10~18節で言われている旧約聖書の引用を指しています。また「律法の下にある人々」とは、ユダヤ人だけではなく、自然法の下にあるすべての人々をも指しています。すべての人は罪の下にあります(9節)。「すべての口はふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです」。つまり、神の御前ではだれ一人自己弁明することはできず、自分の罪の責任を負って神のさばきに従うことになるのです。


<20節>

 なぜ全世界が神のさばきに服するかというと、「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないから」です。「律法によっては、かえって罪の意識が生じるだけ」で、行いによっては「神の義」を持つことができず、律法の前に罪悪感が生まれるだけなのです。そして罪の下にある状態に変わりありません。人間として善行を積んでも、人としての道を踏み外さなかったとしても、それによって神の義を全うすることはできないのです。「だれひとり」は、「すべての肉」が直訳です。すべての人は、霊的にも倫理的にも無力な存在であって、神の律法を完全に守る力を持っていません。「良いことが何であるかを知っても、それを完全には実行できないのが人間である」というのが聖書の人間観です。  

 律法を行おうとすればするほど、それができない自分に直面します。律法があることで、神の基準がわかり、その通りできない自分の現実を見る時に、罪の意識が生じます。律法に関しては、イエス・キリストがその根本精神を語られました。「あなたの隣人を愛しなさい」という戒めには、自分の敵も含まれていること(マタイ5:43~44)、心の中の殺人、姦淫があること(マタイ5:21~28)などの神の崇高(すうこう)な基準の前に、私たちは自分の罪に対して絶望するしかないのです。


<21節>

 「しかし、今は(But now)」 人間の罪についてここまで語ってきたパウロは、ここで神の恵みについて語り始めます。この恵みを知らせるために、パウロは罪の現実を語ってきたのです。神の救いのみわざによってもたらされた劇的変換が、この「しかし、今は」によって表現されています。人間の行いや努力によっては神の前に義と認められない、むしろ罪の意識に苛(さいな)まれるしかない私たちすべての人に、「律法とは別に」 律法を行うことによってではなく別の方法で「神の義」を得る道が示されたのです。しかもそれは「律法と預言者(旧約聖書)によってあかしされてきた」ことです。「神の義が示されました」の「示されました」は、原語は現在完了形になっています。つまりすでに示され、現わされた神の義は、今も現れたままになっているということです。今この「神の義」はオープンになった状態なのです。「見よ。今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2 新改訳2017)とあるように、今この恵みの時に私たちはいるのです。救いがオープンになっていて、今ならだれでも受け取れる状態になっているのです。


<22節>

 律法を行うこととは別の「神の義」を持つ方法とは、「イエス・キリストを信じる信仰による」ものです。「律法と預言者によってあかしされて」きた(21節)イエス・キリストによる神の義が示されたのです。旧約聖書において、昔から約束され証しされてきたイエス・キリストが、今現れたのです。本来神のさばきに服するはずの者を、罪の中から救い出し、神との正しい関係に招き入れてくださる神の子イエス・キリストが、今おられるのです。  

 「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」は、ギリシャ語原語では「イエス・キリストの信仰による神の義」となっています。「私の信仰」ではなく、「イエス・キリストの信仰」なのです。キリストが神を信頼し従って成し遂げてくださったみわざによって、神の義がもたらされたのです。そのキリストの十字架のみわざを受け取るだけでよいのです。そしてそれは「すべての信じる人に与えられ、何の差別もない」のです。どの民族であろうと、どのような人であろうと、このキリストを受け入れるなら、差別なくだれでも「神の義」を持つことができるのです。罪によって分断されていた神との関係が回復するのです。ですから、このキリストに向きを変えればよいのです。悔い改め(メタノエオー)は、ただ向きを変えることです。「信仰の創始者であり完成者であるイエス」(へブル12:2)に、罪の現場から向きを変えて、キリストを見上げることです。イエス・キリストなしには、神との良好な関係を持つことはできません。信仰を始めてくださるのも、完成してくださるのも、キリストなのです。罪悪感に悩むとき、見える罪の世界に失望するとき、すでに救いを完成してくださったキリストを見上げましょう。恵みの時、救いの日である今、キリストの救いを受け取りましょう。
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