(2019年3月)

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 3月17日
礼拝メッセージ要約 主題:「破壊と悲惨の原因」

           ローマ人への手紙3:9~18  三浦真信牧師

<9節>

 ローマ人への手紙の中で、初めて「罪」(ハマルティア)が出てきます(8節の「罪に定める」は「審判がくだる」の意味)。聖書にある「罪」(ハマルティア)は、「的はずれ」の意味です。罪の根本原因をあらわしている言葉です。どのように「的はずれ」であるのか、そして的はずれである結果、どのような悲惨な罪の中に人が置かれているかが、ここから示されています。 

 パウロはここにきて、「ユダヤ人もギリシャ人(異邦人の代表)も」関係なく、「すべての人が罪の下にある」ことを明らかにします。パウロは「私たち」と、当然自分も同じであることを伝えています。


<10~12節>

 「すべての人が罪の下にある」ということが、パウロ独自の意見でないことを示すため、旧約聖書の言葉を引用しています(18節まで)。まず詩篇14:1~3節の引用です(70人訳聖書をパウロは引用しているので少し訳が違います)。

 「義人はいない、一人もいない」とは、決してオーバーに言っているわけではありません。神がこのようにおっしゃるからには、義人は本当に一人もいないのです。神の御前に、「義人(正しい人)」は一人もいません。すべての人が罪の下にあるのです。

 「悟りのある人はいない」とは、異邦人の代表であるギリシャ人を意識して引用しています。哲学好きのギリシャ人は、常に新しい知識を追求していました。しかし真に悟る者はいないのです。

 「神を求める人はいない」とは、ユダヤ人を意識して引用しています。彼らは、自分たちは熱心に神を求めていると自負していたけれど、結局その熱心は神に対してではなく自分に向かってのものでした。自分を守り自分の欲を満たすための熱心で、真に神を求めてはいませんでした。

 「すべての人が迷い出て、みな無益な者となった」。聖書では、神とその民との関係を、羊飼いと羊の関係に例えています。羊は迷いやすい動物です。羊飼いの元を離れてしまったら、羊は迷い続け危険に晒されてしまいます。すべての人は、羊飼いである神の元を離れた結果、 迷い出てしまい、無益な存在となってしまいました。神との正しい関係が壊れてしまい、人は霊的にも倫理的にも「腐り果てて」(詩篇14:3)しまったのです。そのような人間が、真に他の人に対して善を行うことはできません。


<13~14節>

 「彼らののどは開いた墓であり」は、詩篇5:9の引用です。当時のイスラエルの墓は、岩に横穴をあけて造りました。その墓の入り口には大きな石を置いて墓穴をふさぎましたが、地震などによって石がころがってはずれてしまうこともありました。すると墓の中の死体が外から見えたり、死体の臭いが外にまで漂ったのです。そのように、人間ののどはからだ(心)の入り口のようで、そこから人間の汚いものが現われます。その舌は欺きの言葉で満ちています。嘘偽りで満ちた口です。心の中は汚いもので満ちています。人をさばく心、ねたみ、虚栄心、どん欲…それらを隠して、きれいに装い人を欺きます。それは「まむしの毒」のようでもあります。内側にある者を全部出したら、毒のように人を傷つけ殺していきます。「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている」(詩篇10:7の引用)のです。のろいと苦さでその口は満ちていて、その中からは汚いものしか出てきません。

 イエスは、「外から食べるものが人を汚すのではなく、人間の中から出てくるものが人を汚すのです」と言われました(マルコ7:18~23)。私たち人間は、内側から汚いものを吐き出し、まき散らしながら生きているのです。「あの動物には毒がある」と言いますが、聖書では「人間こそすごい毒を持っていて、しかも同じ人間を毒によって汚し合い傷め合っている」ことを指摘しています。あたかも自分が人の毒によって傷つけられ、ボロボロにされたかのように訴え被害者面をしていても、神からご覧になれば「あなたも同じように毒をまき散らして人を損なっていますよ」と言われてしまうのです。悲しいことに、人間はお互いの罪の毒をgive&take(ギブアンドテイク)しながら生きているのです。


<15~17節>

 ここはイザヤ書59:7~8の引用です。兄カインが弟アベルを殺したのが、「血を流すのに速い」人類最初の殺人事件です(創世記4章)。それ以降常に殺人、戦争が続いています。人間同士の争いにより、破壊と悲惨を人類は繰り返しています。結局「彼らは平和の道を知らない」というのが人類の歴史です。


<18節>

 詩篇36:1の引用です。人間の内側から出てくる罪の毒は、血を流し、破壊と悲惨をもたらし、平和とはほど遠いのがこれまでの人間の歴史であり、現在、未来です。「平和が一番良いのに決まっている」とわかっているのに、人は争い戦争を続けています。身近なところでも、平和を生み出す力がありません。そのもとは、「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」ことにあると、聖書は語ります。ユダヤ人たちは、外見を取り繕うことは上手にできました。それは人を恐れ、人の評価を求めているだけで、真に神を恐れ(畏れ)てはいません。神のみこころを求めず、神の評価を求めてもいません。だから平和とは反対に、罪人と呼ばれていた人たちを除外し、神が遣わしたキリストを葬り去ろうとしました。偽りの裁判までして、キリストを十字架で殺したのです。

 神への恐れ(畏れ)がなければ、平気で人を傷つけ、人を無視し、人を蔑み、心の中の殺人を人は犯します(マタイ5:21~22)。ですから私たちが生きる上で一番知恵あることは、「主なる神を恐れること」なのです(箴言1:7)。神との間に平和を取り戻し、神を恐れて生きない限り、人は平和の道を歩むことができません。

 聖書によれば、破壊と悲惨は私たちの内側から出てくるものが原因です。神に対する恐れがないから、まむしの毒を吐き出しっ放し、のろいと苦さをまき散らしっ放し、のどは開いた墓のように心の中から出てくる汚いものを放出し続けています。私たちを造られた神に立ち返らなければ、神を恐れて生きることはできません。神が共におられることを実感する時に(神の臨在に触れる時に)、この悲惨な状態に留まっていては大変なことになると気づきます。

 人はこの悲惨な結果を自分で生み出しながら、自力で解決することができません。だから神の側で、この悲惨な状況から抜け出すための救いの道を差し出してくださったのです。それが独り子イエス・キリストです。私たちを造られた神のもとにいるべきだったのに、そこから迷いだしてしまい、はずれてしまった結果、人は「的はずれ」な生き方しかできないようになりました。平和を求めているのに、破壊と悲惨の道を歩んでしまうのです。その根本原因こそ、「的はずれ」です。この存在自体が、本来いるべき所からはずれてしまっているのです。だからすべてが、ちぐはぐです。罪に染まった私たちは、自らいるべき所に戻ることができません。だからキリストは私たちの存在丸ごとの罪を引き受けて、身代わりとなって十字架で死なれたのです。このキリストを通して神に立ち返ることができるように、神が救いの手を差し伸べてくださったのです。

 私たちの中からは、「義」も「きよさ」も出てきません。開いた墓のように、悪臭を放つしかない存在です。しかし十字架で私たちの罪の身代わりとなって死なれたキリストを信じることによって、そのような私たちを神は、義としてくださり、きよい者としてくださるのです(Ⅰコリント1:30)。私たちがキリスト・イエスのうちにあるなら、キリストは私たちにとって「神の知恵」となり、また「義」と「聖め」と「贖い」とになられたのです。


 キリストの救いのすばらしさ、ありがたさを伝えるために、パウロはまず「すべての人が罪の下にあること」「義人はいない、一人もいない」ことを伝えました。罪の下にある人間が、いかにまむしの毒に満ち、のろいと苦さで満ち、平和の道を知らないかを知らなければ、この救いの恵みはわかりません。神からはずれたままでいたら、神への恐れも生まれませんから、いつも人を恐れ、人と比較し、人の評価で一喜一憂することしかできず、その結果破壊と悲惨を生み出していくだけです。キリストを通して神の元に立ち返る時に、健全な神への恐れ(畏れ)が回復していきます。キリストによって、絶望の中にいた私たちに朗報がもたらされました。それが「福音」です。
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 3月10日
礼拝メッセージ要約 主題:「神は真実な方」

           ローマ人への手紙3:3~8  三浦真信牧師

<3節>

 2章で、神の律法を知っていることで満足し、異邦人をさばいているユダヤ人の問題を指摘したパウロは、3章でユダヤ人たちから出てくるであろう疑問について答えていきます。2節でユダヤ人のすぐれたところとして「神のおことばをゆだねられている」ことを挙げました。神がユダヤ人を信頼して、アブラハムにはじまり多くの預言者たちに神の言葉を語りました。その点でユダヤ人は特別な民です。

 パウロはここで、「ではユダヤ人たちのうちに不真実な者があったら、神の真実が無に帰するのか」と問いかけます。この3節で使われている「不真実」「真実」は、どちらも言語は2節の「ゆだねられている」(ピステウオー「信じる」)の名詞形「ピスティス(信仰、信頼)」です(「不真実」はピスティスの反対語)。「神の側が信頼して言葉を語りかけたけど、受け取るユダヤ人のうちに不信仰な者がいたらどうなるのか?」という問いです。事実 イスラエルの歴史を見ると、神の言葉が預言者たちに語られ、それが民たちに伝えられても、多くの民はそれに従いませんでした。2000年前神がキリストを遣わしても、この方を彼らは信頼せずに拒み、十字架にかけて殺したのです。それでも、神の言葉に信頼して従う者たちもいました(レムナント「残れる者」)。


<4節>

 「神が信頼してユダヤ人に語りかけてくださった大切なおことばを、不信仰によって受け取らない者がいたら、神の彼らへの信頼が無になってしまうのか?」という問いかけに、「絶対にそんなことはありません」とパウロは強く否定します。人間の側の不信仰によって、神が信頼して語られたみことばが無に帰してしまうことは決してありません。

 「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」。ここの「真実」は、「アレーテース(「偽り」の反意語)」です。すべての人が偽り者であっても、神は真実な方です。真実な神が、信頼して語ってくださった言葉は、不真実な人々の中にも真実を生み出していくのです。真実な神が、不信仰な者の中にも信仰を生み出してくださるのです。ですからイスラエルの民たち皆が神に反逆しているように見える時にも、神は真剣に神の言葉を受け取り従う者(レムナント)を残してくださり、今日に続いているのです。その真実な神が、信仰をもって神の言葉に従う者たちを生み出し、それが今や世界に広がっているのです。

 「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため」は、詩篇51:4の70人訳聖書の引用です。


<5~6節>

 前節の詩篇の引用のように、人間の不義を神がさばかれる時に、神が勝利を得るのなら、人間的な言い方(人間の論理)だと、その人間の罪に怒りを下す神は不正ではないか?との問いが出てきます。それに対してもパウロは、「絶対にそんなことはありません」と強く否定します。いくら人間の論理で屁理屈を言っても、真実な神の前に言い逃れはできません。必ずすべての人は、神のさばきの座に立つ時が来るのです。


<7~8節>

 私の偽りが神の真理を明らかにして神の栄光となるなら、罪人をさばくのはおかしいではないか、「善を現わすために、悪をしようではないか」と言うことになってしまうと、パウロが伝えた福音がそしられていました。それは、「泥棒がいることで警察官の仕事が成り立っているのだから、泥棒に感謝すべきで罰すべきではない」というのと同じ論理です。しかしパウロは、「もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです」と述べます。一部のユダヤ人たちは、福音を誤解していました。「自分の行いによって救われるのではなく、人の罪の身代わりに十字架で死なれたキリストを信じることによってのみ救われる」とパウロが語ると、「では善を現わすために、悪をしようではないか」という危険な教えだと誤解したのです。しかし本当に罪人を救ってくださるキリストに出会ったら、この方についていきたい、この方が喜ばれる生き方をしたいという心を神が与えてくださいます。

 「わたしもあなたを罪に定めない。今からは決して罪を犯してはなりません。わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ福音書8:11~12)と主イエスは言われました。罪深い私を、キリストは「もう罪に定めない」と宣言してくださったのです。同時に、このキリストの宣言は、「もう罪の暗やみをさまよわなくてもいい、いのちの光を持ったのだから、もう暗やみにとどまる必要はない。むしろ世の光であるわたしにとどまりなさい」と、光から光へとキリストが導いてくださるのです。キリストに出会ったのちも、罪を犯したり失敗することはあります。でもいのちの光を持ったら、罪の暗やみの中に以前のようにどっぷりととどまり続けることはできないのです。キリストの救いを真に受け取ったら、「善を現わすために、悪をしよう」とはならないのです。

 神は真実な方です。私たちはどこまでも不真実、不信仰な者ですが、神は100%真実な方です。その真実な神が、不真実な私をもあえて信頼して、みことばを語りかけてくださり、今も私たちの中からは出てこない信仰を生み出し続けてくださっています。だから真実な神に信頼しましょう。不真実な自分をいじくり回すのをやめて、不信仰な者の中にも信仰を生み出してくださる真実な神に期待しましょう。
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 3月3日
礼拝メッセージ要約 主題:「ゆだねられた神の言葉」

           ローマ人への手紙3:1~2  三浦真信牧師
 2章で、異邦人をさばくユダヤ人たちの問題点を指摘したパウロは、「では、ユダヤ人のすぐれたところはいったい何ですか?ユダヤ人のしるしである割礼を受けることにどんな益があるのですか?」と、ユダヤ人たちから出てくるであろう疑問を投げかけています。

 それに対して、「あらゆる点から見て、大いにあります」と答え、「第一に」と言ってそのまま「第二に」がなく終わってしまいます。これは、パウロの手紙のほとんどが、自ら語った言葉を他の人が記述したものだからです。文章をしっかり構成して推敲した文章ではなく、口述のため途中で話題が変わったり、このように「第一に」で終わってしまうようなことがしばしばありました。パウロが字を書けなかったわけではありません。当時の文学作品などでも口述はよくありました。またパウロが重い目の病気であったという説もあります。いずれにしても、ここでは「第一に」と語りながら、第一の答えに関する話題に移り、そのまま戻らなかったようです。

 さて、ユダヤ人のすぐれたところとしてここでパウロが唯一挙げたことは、「彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられている」ということです。新改訳第3版では「神のおことば」と訳しています。新約聖書で「ことば」という時には、原語の多くが「ロゴス」を使っていますが、ここは「ロギヤ(ロギオンの数形)」です。この「ロギオン」は、「神のお告げ」「神の託宣」の意味で、正に「おことば」です。ユダヤ人は、神からの特別なおことばを語りかけられた民族です。神はユダヤ人の預言者たちに、神のみこころを伝え託されたのです。預言者の「預」という漢字のごとく、預言者は神の言葉を預かってそれを人々に伝えました。自分の主義主張や考えを語ったのでは決してありません。

 まず「信仰の父」とユダヤ人たちに呼ばれているアブラハムに、神の言葉が語られました。アブラハムが慣れ親しんでいた故郷ウルの町で「あなたの生まれ故郷を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と神はアブラハムに語りかけ、75歳の時にアブラハムはその通りに、行く先もわからず何の保証もないまま故郷を出ました(創世記12:1~4)。また妻のサラは子どもを産むことのできない身体でした。そしていよいよ高齢になり、アブラハムが99歳になった時に、「わたしは、あなたをおびただしくふやそう」と、アブラハムとサラを通して、多くの子孫が与えられることを神は約束します(創世記17:1~3)。アブラハムは、人間的には絶対にありえない状況下でなお神の言葉を信じました。その信仰によって、神の祝福がユダヤ人、そして全世界に広がっていきます。「ユダヤ人のすぐれたところ」は、このようにアブラハムはじめ、その後も多くの預言者たちに神のおことばが語られ託された特別な民族であることです。

 しかもここの「ゆだねられています」という原語は、「信じる(ピステウオー)」が使われています。神の側が彼らを信じてゆだねたのです。神があえてユダヤ人を信頼して、神の言葉をゆだねてくださったのです。神から信頼されてゆだねられたからこそ、それを受け取ったアブラハムや預言者たちも神の言葉を信頼したのです。ですから、信仰はまず神の側から始まっているのです。それは今も同じです。救われるにふさわしくない者を神は救ってくださいました。いかにも救ったら役に立ちそうな立派な者だからではなく、むしろ罪の中でもがき苦しみ弱り果てている場所で、神は私たちにみことばを語りかけ救ってくださいました。神の側が、私たちをあえて信頼して神の言葉をゆだねてくださったのです。そこから信仰は始まっています。

 アブラハムは、神が信頼してゆだねてくださった言葉だから、望みえない時にもいよいよ神を信じました。神の約束の言葉を信じました。旧約の預言者たちも、神が信頼してゆだねてくださった神の言葉だからこそ、人々からあざけられ迫害されても、ゆだねられた神の言葉をそのまま伝えたのです。


 神が私のような者に目を留めてくださり、神の言葉を語りかけてくださいました。その神の側からの信頼、語りかけから信仰は始まります。ですから信仰とは、「信じるぞ」と念じて無理やり信じこませることではなく、神の側の呼びかけにこちらが応答していくものです。神の呼びかけに、応答してついていくことです。行く先もわからず、何の保証もないまま、アブラハムは神の言葉を信じて故郷ウルを出ていきました。「すべてがわかったら信じる、すべてが保証されたら信じる」というのは信仰ではありません。何の保証もないまま、まだ先が見えていないまま、神の言葉を信じて行動していくのが信仰です(へブル11:1、7~8)。「見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留める」のが信仰です(Ⅱコリント4:18)。私たちは、「見るところによってではなく、信仰によって歩んで」いるのです(Ⅱコリント5:7)。

 それでも信じられない私たち人間のために、神は見える形でひとり子イエス・キリストを遣わしてくださいました。神の側から、私たちの罪を完全に取り除くために、キリストを差し出してくださったのです。すべて神の側から始まっている信仰です。「私の信仰」ではありません。このイエス・キリストこそ「信仰の創始者であり完成者です」(へブル12:2)。キリストは、信仰を始めてくださっただけでなく、完成するまで責任をもって導いてくださいます。ですからこの方から「目を離さないで」いましょう。たえずキリストを見続けましょう。
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