(2019年2月)

 ・ 2月24日
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 2月24日
礼拝メッセージ要約 主題:「暗やみの中の空回り」

           士師記21章1節~25節  三浦真信牧師

<1~7節>

 あるレビ人のそばめが、旅の途中でベニヤミン族に暴行され殺害されたことをきっかけに、イスラエル12部族の一つベニヤミン族と、他の11部族との全面戦争となり、ベニヤミン族は倒されます。そして逃れたベニヤミン族の600人だけが生き残りました。

 全イスラエルは、「私たちはだれも、娘をベニヤミン族にとつがせない」と誓っていたので(1節)、このままでは12部族のうちの一部族が消滅することになり、民は声をあげて激しく泣きました(2~3節)。

 ここにきて、ようやく民は祭壇を築き、神に礼拝をささげます(4節)。しかし神に真剣に解決方法を求めたとは言えず、礼拝の形だけを整えただけのものでした。ベニヤミン族を滅ぼす勢いで、イスラエルは彼らと戦いましたが(20章)、そのことを彼らは悔やんでいます(6節)。


<8~23節>

 彼らは、イスラエル12部族の一つであるベニヤミン族を存続させるために、二つの解決策を立てます。

① ヤベシュ・ギルアデの若い娘をベニヤミン族600人に与える(8~15節)
 全イスラエルは、「ベニヤミン族との戦いに上ってこなかった者は必ず殺されなければならない」と重い誓いを立てていました(5節)。そして調べたところ、ヤベシュ・ギルアデの人々が戦いに上ってこなかったことが判明し、誓った通りこの町を攻撃して、400人の処女をシロの陣営に連れていきます。そしてリモンの岩場に逃げて助かったベニヤミン人600人(20:47)に、その400人の娘を与え結婚させます。しかしなお、200人足りませんでした。


② 主の祭りのためにシロに上る娘たちを略奪する(16~23節)

 長老たちは、生き残ったベニヤミン族で妻を得られなかった200人に、略奪婚を勧めます。毎年シロで行われる祭りに、シロの娘たちが踊りに出てくるので、ぶどう畑で待ち伏せして、めいめいが自分の妻として捕らえ、故郷に連れて行くようにしたのです。もしその女性たちの家族が苦情を言いに来たら、自分たちが理由を説明して説得に努めると約束します。

 こうして、ベニヤミン族の600人は、ヤベシュ・ギルアデとシロの娘たちを連れて、めいめい自分たちの地に帰り、町々を再建してそこに住みました(23節)。


<24~25節>

 この2節に、「めいめい」(ヘブル語のイーシュ)という言葉が、3回繰り返されています。神をも地上の秩序をも無視し、めいめいが勝手なことをして混乱していた時代であることを強調しているようです。

 士師の時代は、モーセやヨシュアの時代のように、神の言葉を受けて神のみこころを民たちに伝える者がいないために、「めいめい」が「自分の目に正しいと見えること」を行っていました。一人ひとり、正しいと思える基準は異なります。以前は神の言葉によって一つになっていたのに、肝心な神の言葉が蔑ろにされて、めいめいの基準で生きるようになったのです。その結果、「正しさ」の内容が違った時には、その正しさで争うしかありませんでした。

 ベニヤミン族消滅の危機を自分たちで生み出しておいて、いざ存続させようとする時には、ヤベシュ・ギルアデの町の住民を滅ぼしたり、シロの娘たちを略奪するようなお粗末な解決方法を選んでしまいました。その結果様々なしこりや痛みを残し、さらに難しい問題を引き起こしていったことでしょう。

 「神の言葉で一つになる」という土台が崩れた士師の時代は、霊的にも社会・家庭の秩序においても、暗黒時代でした。神を神として崇め、神の言葉で生きる時に、感謝・喜び・秩序が回復します(ローマ1:21)。そこからはずれると、めいめいの正しいと見えることをしながら、ちぐはぐなことばかりで空回りしていきます。士師記は歴史的事実を通して、そのことを私たちに語りかけています。

 キリストのからだである教会は、神の言葉によって初めて一つになることができます。そして神の言葉で造られたこの社会も、また社会の基盤である家庭も、神の言葉によらなければ、めいめいが自分の正しさを主張して空回りしていくのです。 「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」が、「皆が神の目に正しいと見えることを行い、神の言葉で生きていた」となる時に、本来の神の秩序が回復し、喜びと感謝が生まれてきます。神の言葉で生きましょう(詩篇19:7~8)。
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 2月17日
礼拝メッセージ要約 主題:「見せかけのクリスチャン」

           ローマ人への手紙2:25~29  三浦真信牧師

 イスラエルの歴史においても、教会史を振り返っても、神に対する情熱が冷めてくると、儀式が増えたり、見える華々しさを求めるようになりがちです。パウロがこのローマ人への手紙を書いたころのユダヤ人たちは、律法を持っていることで満足し、それを実行することの大切さを見失っていました。それにもかかわらず、見える形でユダヤ人になることを求め、ユダヤ人のしるしである割礼を異邦人も受けるべきだと主張しました。


<25節>

 割礼(男性の生殖器の皮の一部を切る儀式)は、神の民としての契約のしるしでした(創世記17:9~14)。割礼を受けた民は、神の民として律法全体を行うという契約です。ですから律法を行うなら、割礼には価値があります。でも実際には21~23節にあるように、ユダヤ人たちは律法にそむいて違反者となっていました。すでに「律法を行う」という契約に違反しているのですから、肉体に割礼の傷跡が残っていても、無割礼と変わりないのです。  

 ここでパウロは、律法を行うことによる救いを説いているわけではありません。ただユダヤ人たちが、割礼を受けて正真正銘の神の民であると言いながら、律法を行うことに関心がなく、異邦人も驚くほどの不道徳を行いながら、異邦人をさばいていることの矛盾を衝(つ)いているのです。


<26節>

 本来の割礼の意味を考えれば、割礼は律法を行うことの契約なので、たとえ異邦人で割礼を受けていない人であっても律法の規定を守ろうとしているなら、真に割礼を受けている神の民ユダヤ人とみなされるとパウロは考えます。


<27節>

 割礼を受けていながら律法の違反者となっているあなた方ユダヤ人を、割礼を受けていないけど律法を守る異邦人がさばく側になるということが起きるのです。割礼を受けていなくても、律法を守ろうとしている異邦人なら、割礼の本来の精神を受け取っていることになります。


<28節>

 「ユダヤ人」を「クリスチャン」に、「割礼」を「洗礼」に変えると、今の私たちにわかりやすいかもしれません。「外見上のクリスチャンがクリスチャンなのではなく、外見上の洗礼が洗礼なのではありません」とすると、とてもリアルになります。  

 洗礼は、受けても受けなくても良いものではなく、イエス様が大宣教命令で「あらゆる国の人々に、父・子・聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」と命じておられます(マタイ28:19~20)。ですから、キリストの救いを信じ、キリストの弟子として生きたいと願う者は受けるべき大切な礼典です。ただ割礼と同じく、その意味を忘れて形だけの儀式になってしまってはいけません。洗礼はゴールではなくスタートです。洗礼を受けた後、いよいよキリストと共に古い自分に死に、キリストの復活のいのちで生かされていくのです。いよいよキリストに結びつき、キリストの死と復活を日々の生活で体験していくのです。洗礼を受けてクリスチャンになったけれど、今キリストと関係のない生き方をしているなら、それは外見上のクリスチャンになってしまいます。パウロも、「もっとキリストと一つになり、復活のキリストの力をさらに体験したいと、今も追い求めている」と言っています(ピリピ3:10~12)。洗礼を受ける以上に、受けてから後の歩みが大切です。


<29節>

 外見上のユダヤ人が真のユダヤ人ではなく、また肉体に割礼の傷がある人が真の割礼を受けた者ではありません。「御霊による、心の割礼」を受けた者こそ、真のユダヤ人です。「心の割礼」という言葉は、パウロの言葉ではなく、旧約聖書でも繰り返し使われています(申命記  30:6、エレミヤ9:25~26)。頑(かたく)な心を捨て去り、神を愛し、神の導きの中を生きる者こそ、心の割礼を受けた者です。御霊によって心砕かれ、心からキリストを主として信じ従い、神の国の民として生きる者です。肉体の割礼よりも、心の割礼の方が大事なのです。  

 「その誉れは、人からではなく、神から来るものです」。「誉れ」のヘブル語は、イスラエル12部族の一つユダ族の族長「ユダ(イェフダー)」です。この「ユダ」から、「ユダヤ人」という名ができました。そしてこの言葉は、「ほめたたえる」という意味の「ヤダ」という言葉と関連があります(創世記29:35)。パウロは、ここで言葉の語呂合わせをしています。人の誉れを求め、偽善をしているユダヤ人たちに、「人からの誉れではなく、神からの誉れ」を求めるように促すと同時に、「真のユダヤ人は、目に見える割礼や人間的な血筋などにはよらず、神から来る」ということを伝えています。

 私たちは、外見上のユダヤ人ならぬ「外見上のクリスチャン」になっていないでしょうか?外見上の割礼ならぬ「外見上の洗礼を受けた者」となっていないでしょうか? キリストを受け入れた者として、キリストにあって歩んでいるでしょうか? キリストに根ざし建てられているでしょうか?(コロサイ2:6~7)。みことばを知っていることで満足して、実行することに無関心ではないでしょうか?  

 「自分は見せかけのクリスチャンだ」と思えるなら、今からキリストで歩めるように祈り求めましょう。「キリストなしでは生きられない、キリストのあわれみで生かされている」なら、たとえ「それで本当にクリスチャンですか?」と言われても、堂々と「このような自分だからこそ、キリストは救ってくださった」と証ししましょう。キリストは罪人を救うためにこの世に来られたのです(Ⅰテモテ1:15~16)。「このような私でも救われる」という神の寛容を示すことこそ、キリストを証しすることです。目に見えるクリスチャンらしさを追い求めるのではなく、たえず心砕かれキリストのあわれみに感謝しながら生きましょう。
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 2月10日
礼拝メッセージ要約 主題:「どうして自分自身を教えないのか」

           ローマ人への手紙2:17~24  三浦真信牧師

<17~20節>

 2章の初めで「すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません」とパウロが直接指しているのが、ユダヤ人たちのことであることがここで明らかになります。彼らは、「律法を持つことに安んじて」いました(17節)。異邦人たちと違って、自分たちは神の律法を持ち、神のみこころを知っている特別な民であると誇っていたのです。

 「知識と真理の具体的な形としての律法」を確かにユダヤ人は持っていました。旧約時代は、律法(モーセに与えられた十戒など)を通して、神がどのような方であるか、また神が人間に何を求めておられるかを知ることができました。そして新約時代には、イエス・キリストが「知識と真理の具体的な形」として神から遣わされました(ヨハネ福音書1:17~18、コロサイ1:18、2:3、2:9)。まだキリストを受け入れないユダヤ人たちは、どこまでも律法を知識と真理の基準としていました。律法によって「(真理に対する)盲人の案内人」、「やみの中にいる者の光」、「愚かな者の導き手」、「幼子の教師」であると自任していたのです。


<21~23節>

 パウロは、ユダヤ人たちが「自分たちは律法を持っており、それを人々に教えることで真理に導くのだ」と言うなら、「どうして人を教えながら、自分自身を教えないのですか」と問いかけます。

 ユダヤ人に限らず、人は他人の欠点や問題点にはよく気がついても、なかなか自分の姿には気がつかないものです。人をさばいている時は、だいたい自分の姿が見えていません。自分のことを棚に上げて、人の欠点ばかり見えてしまいます。でも自分自身に教えるなら、また神の言葉を照らしてみるなら、自分自身が守れない者、律法を犯している者だと気がつくはずです。自分自身が誰よりも真理の見えない盲人であり、闇の中にいる者であり、教えられるべき愚かな者だと気づくはずなのです。

 みことばを自分は聞いている、知っていると言って実行しないで終わるなら、それは自分の姿を鏡で見て、そのまま立ち去って忘れてしまう人と同じです(ヤコブ1:23~24)。みことばを知ることは大事ですが、それ以上に実行することの方が大切です。全部理解することよりも(実際みことばは一生かかっても全て理解することはできません)、一つ教えられたことを実行することの方が遥かに大切です。確かにみことばを知ったり理解することで、喜びが増したり、生き方に変化をもたらすことがありますが、知識を詰め込むことが信仰ではありません。それより、聞いたみことばを信じて歩むことの方が大事です。

 朝鏡を見て自分の姿を見ても、寝ぐせを直さずにそのまま出かけてしまうなら、「私は朝鏡を見ました」と言う時に、「なぜ鏡を見ているにもかかわらず寝ぐせを直さなかったのか」と言われて恥をかくことになります。

 聖書のことばは、私たちの真実を映し出す鏡のようです。自分でもわからない、自分の心の奥底にある考えやはかりごとを判別します(へブル4:12)。みことばによって自分の姿を見て、どうすべきかを示されたなら、それを実行しましょう。罪の汚れがあると気づいたら、悔い改めましょう。罪悪感にうなされたら、十字架のキリストを見上げましょう。神を信じて待つように教えられたら待ち、信じて前進するように迫られたら前進しましょう。助けを必要としている人がいたら、祈りつつできることをしましょう。

 みことばを人に当てはめるのではなく、自分自身を教えましょう。聞いたみことばを、すべて理解しなくても良いのです。一つ受け取ったら、それを実行しましょう。それが今年の目標である「実を結ぶ教会」につながる鍵かもしれません。
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 2月3日
礼拝メッセージ要約 主題:「隠れたことが公平に裁かれる日」

           ローマ人への手紙2:12~16  三浦真信牧師

 神がひとりひとりの行いに従って終わりの日に裁かれます。そのことにおいて、えこひいきはありません(6節、11節)。神の報い、神のさばきは、ユダヤ人だからという理由で免除されたり、異邦人だからという理由で軽減されることはないのです。民族、血筋など一切関係なく、すべての人が神のさばきの対象です。

 「律法なしに罪を犯した者」(12節)とは、律法を知らないで罪を犯した者、すなわち異邦人のことです。異邦人が、たとえ律法の規定を知らなくても、現実に罪を犯したなら、その責任を問われるのです。一般的にも、その法律を知らなかった、それが法に触れるとは思わなかったと言っても、それで刑罰が免除されるわけではありません。異邦人は律法を知らなかったから、それで「律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです」(14節)。「律法の命じる行いが彼らの心に書かれている」(15節)「彼らの良心もいっしょにあかしし」とあるように、律法を持たない異邦人であっても、神のかたちに創造された道徳的存在として、守らなければならないものが備わっています。「思いの中で責め合ったり、弁明し合ったり」するような「良心」があり(15節)、不完全ではあっても、異邦人も律法の知識を心の中に持っています。また罪を犯した結果負うことになる痛みを通して、それが良くないことであると知る場合もあります(姦淫、占いなど)。盗みや殺人のように、それによって社会がどれほど痛みと混乱を負うか人類が経験して知っていることもあります。ですから律法を持たない異邦人であっても、神のさばきの対象です。律法を持つユダヤ人だけが対象ではありません。

 また「律法の下にあって罪を犯した者は、律法によってさばかれます」(12節)。ユダヤ人も、同様に神のさばきの対象です。「律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められる」(13節)からです。ユダヤ人には律法が与えられています。律法は、完全に行うことを求めます。一つの点でも守れなければ、律法すべてを犯した者となるのです(ヤコブ2:10~11)。しかもイエスは、心の中の姦淫、心の中の殺人も指摘しています(マタイ5:21~28)。ユダヤ人たちの多くは、律法を自分たちは持っている、聞いているというだけで満足し、異邦人をさばいていました。彼らが本気で律法を行おうとしたなら、決して異邦人をさばくことのできない律法違反者だとわかったはずです。しかし彼らは、ただ律法を持っていること、聞いていることで安心していました。そして表面的に守っているふりをして満足していたのです。実行しないから、いかに律法からはずれ、神の基準からはずれている存在であるか、わからないのです。自分の罪がわからないのです。

 本気で律法を実行しようとしたなら、律法を完璧に守ることなどできないことに気づくはずです。律法の違反者であることを知り、神が遣わしてくださった救い主キリストの元に行かずにはいられないはずなのです。

 私たちも、礼拝に来てみことばを聞いている、聖書を持っているということで満足していたら、同じことになります。「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけせん」(ヤコブ1:21~25)。みことばを聞いて安心するのではなく、聞いた通りを実行していかないと、知識ばかり増えてそのことで満足し、自分はもう大丈夫だと思っているユダヤ人律法学者と同じになってしまいます。

 聞いたことを実行していく時に、その通りにできない自分の弱さや、古い肉の残骸に気がつきます。そして自分に破れ果てて、キリストの元に行くのです。律法の違反者である自分に幻滅し、神が遣わしてくださったキリストの元に行き、キリストを信じましょう。キリストを信じることが、唯一のわざです(ヨハネ福音書6:29)。キリストを信じることで、律法を全うするのです。行いによっては成しえなかったことを、キリストを信じることで完成するのです。そして本当にキリストを信じたなら、信じたように行動するようになります。キリストを救い主として受け入れたなら、キリストにあって歩みたいと願うようになります(コロサイ2:6)。

 ユダヤ人も異邦人も、それぞれ律法(良心など)により、違反者であって神の前にはさばかれるべき存在であることをパウロは明らかにします。そしてここまでパウロが記していることは、決して福音と無関係ではないのです。「私の福音によれば」(16節)「神のさばき」は、福音の中心的メッセージなのです。神はキリストによって、人の隠れたことをさばかれます。外側に現れた違反行為だけでなく、人には知られない内面の「隠れたこと」をさばかれる日が来るのです。「造られたもので、神の前に隠れおおせるものは何一つなく、神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明するのです」(へブル4:13)。異邦人もユダヤ人もえこひいきなく、すべての人が神のさばきの前にやがて立つ時が来ます。そこで他の人も知らない隠れた罪、心の中の罪もすべてが裸にされ、さらけ出されます(今も神の目にはさらけ出されています)。その時に問われるのは、キリストとの関係です。このさばきは、キリストの内にある者にとっては正に福音ですが、そうでない者にとっては恐怖でしかありません。ですからすべての人に福音は必要なのです。すべての人に、この福音であるキリストを伝えなければ大変なことになるのです。パウロは、この「神のさばき」をも、福音として伝えています。このさばきから救うのが、キリストです。

 すべてがさらけ出されている状態で、神の御前に立てるでしょうか?律法のすべてを完璧に守っていると、自分の行いで神の前に立つことができるでしょうか?とても神のさばきの前に立つことはできないと認めるなら、キリストを受け入れましょう。キリストは罪人を救うため、律法の違反者を救うために来られた方です。私たちのすべての罪汚れを担って十字架で死なれた方です。キリストを信じ、キリストの十字架の血によって罪洗われた人は、「あなたの罪は赦された」との神の宣言を今も、最後の審判の時にも聞くのです。このキリストを喜び、神のさばきから救う福音が全地に広がるように祈り、そのために仕えましょう。
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