(2019年2月)

 ・ 2月10日
 ・ 2月 3日
 




 2月10日
礼拝メッセージ要約 主題:「どうして自分自身を教えないのか」

           ローマ人への手紙2:17~24  三浦真信牧師

<17~20節>

 2章の初めで「すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません」とパウロが直接指しているのが、ユダヤ人たちのことであることがここで明らかになります。彼らは、「律法を持つことに安んじて」いました(17節)。異邦人たちと違って、自分たちは神の律法を持ち、神のみこころを知っている特別な民であると誇っていたのです。

 「知識と真理の具体的な形としての律法」を確かにユダヤ人は持っていました。旧約時代は、律法(モーセに与えられた十戒など)を通して、神がどのような方であるか、また神が人間に何を求めておられるかを知ることができました。そして新約時代には、イエス・キリストが「知識と真理の具体的な形」として神から遣わされました(ヨハネ福音書1:17~18、コロサイ1:18、2:3、2:9)。まだキリストを受け入れないユダヤ人たちは、どこまでも律法を知識と真理の基準としていました。律法によって「(真理に対する)盲人の案内人」、「やみの中にいる者の光」、「愚かな者の導き手」、「幼子の教師」であると自任していたのです。


<21~23節>

 パウロは、ユダヤ人たちが「自分たちは律法を持っており、それを人々に教えることで真理に導くのだ」と言うなら、「どうして人を教えながら、自分自身を教えないのですか」と問いかけます。

 ユダヤ人に限らず、人は他人の欠点や問題点にはよく気がついても、なかなか自分の姿には気がつかないものです。人をさばいている時は、だいたい自分の姿が見えていません。自分のことを棚に上げて、人の欠点ばかり見えてしまいます。でも自分自身に教えるなら、また神の言葉を照らしてみるなら、自分自身が守れない者、律法を犯している者だと気がつくはずです。自分自身が誰よりも真理の見えない盲人であり、闇の中にいる者であり、教えられるべき愚かな者だと気づくはずなのです。

 みことばを自分は聞いている、知っていると言って実行しないで終わるなら、それは自分の姿を鏡で見て、そのまま立ち去って忘れてしまう人と同じです(ヤコブ1:23~24)。みことばを知ることは大事ですが、それ以上に実行することの方が大切です。全部理解することよりも(実際みことばは一生かかっても全て理解することはできません)、一つ教えられたことを実行することの方が遥かに大切です。確かにみことばを知ったり理解することで、喜びが増したり、生き方に変化をもたらすことがありますが、知識を詰め込むことが信仰ではありません。それより、聞いたみことばを信じて歩むことの方が大事です。

 朝鏡を見て自分の姿を見ても、寝ぐせを直さずにそのまま出かけてしまうなら、「私は朝鏡を見ました」と言う時に、「なぜ鏡を見ているにもかかわらず寝ぐせを直さなかったのか」と言われて恥をかくことになります。

 聖書のことばは、私たちの真実を映し出す鏡のようです。自分でもわからない、自分の心の奥底にある考えやはかりごとを判別します(へブル4:12)。みことばによって自分の姿を見て、どうすべきかを示されたなら、それを実行しましょう。罪の汚れがあると気づいたら、悔い改めましょう。罪悪感にうなされたら、十字架のキリストを見上げましょう。神を信じて待つように教えられたら待ち、信じて前進するように迫られたら前進しましょう。助けを必要としている人がいたら、祈りつつできることをしましょう。

 みことばを人に当てはめるのではなく、自分自身を教えましょう。聞いたみことばを、すべて理解しなくても良いのです。一つ受け取ったら、それを実行しましょう。それが今年の目標である「実を結ぶ教会」につながる鍵かもしれません。
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 2月3日
礼拝メッセージ要約 主題:「隠れたことが公平に裁かれる日」

           ローマ人への手紙2:12~16  三浦真信牧師

 神がひとりひとりの行いに従って終わりの日に裁かれます。そのことにおいて、えこひいきはありません(6節、11節)。神の報い、神のさばきは、ユダヤ人だからという理由で免除されたり、異邦人だからという理由で軽減されることはないのです。民族、血筋など一切関係なく、すべての人が神のさばきの対象です。

 「律法なしに罪を犯した者」(12節)とは、律法を知らないで罪を犯した者、すなわち異邦人のことです。異邦人が、たとえ律法の規定を知らなくても、現実に罪を犯したなら、その責任を問われるのです。一般的にも、その法律を知らなかった、それが法に触れるとは思わなかったと言っても、それで刑罰が免除されるわけではありません。異邦人は律法を知らなかったから、それで「律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです」(14節)。「律法の命じる行いが彼らの心に書かれている」(15節)「彼らの良心もいっしょにあかしし」とあるように、律法を持たない異邦人であっても、神のかたちに創造された道徳的存在として、守らなければならないものが備わっています。「思いの中で責め合ったり、弁明し合ったり」するような「良心」があり(15節)、不完全ではあっても、異邦人も律法の知識を心の中に持っています。また罪を犯した結果負うことになる痛みを通して、それが良くないことであると知る場合もあります(姦淫、占いなど)。盗みや殺人のように、それによって社会がどれほど痛みと混乱を負うか人類が経験して知っていることもあります。ですから律法を持たない異邦人であっても、神のさばきの対象です。律法を持つユダヤ人だけが対象ではありません。

 また「律法の下にあって罪を犯した者は、律法によってさばかれます」(12節)。ユダヤ人も、同様に神のさばきの対象です。「律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められる」(13節)からです。ユダヤ人には律法が与えられています。律法は、完全に行うことを求めます。一つの点でも守れなければ、律法すべてを犯した者となるのです(ヤコブ2:10~11)。しかもイエスは、心の中の姦淫、心の中の殺人も指摘しています(マタイ5:21~28)。ユダヤ人たちの多くは、律法を自分たちは持っている、聞いているというだけで満足し、異邦人をさばいていました。彼らが本気で律法を行おうとしたなら、決して異邦人をさばくことのできない律法違反者だとわかったはずです。しかし彼らは、ただ律法を持っていること、聞いていることで安心していました。そして表面的に守っているふりをして満足していたのです。実行しないから、いかに律法からはずれ、神の基準からはずれている存在であるか、わからないのです。自分の罪がわからないのです。

 本気で律法を実行しようとしたなら、律法を完璧に守ることなどできないことに気づくはずです。律法の違反者であることを知り、神が遣わしてくださった救い主キリストの元に行かずにはいられないはずなのです。

 私たちも、礼拝に来てみことばを聞いている、聖書を持っているということで満足していたら、同じことになります。「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけせん」(ヤコブ1:21~25)。みことばを聞いて安心するのではなく、聞いた通りを実行していかないと、知識ばかり増えてそのことで満足し、自分はもう大丈夫だと思っているユダヤ人律法学者と同じになってしまいます。

 聞いたことを実行していく時に、その通りにできない自分の弱さや、古い肉の残骸に気がつきます。そして自分に破れ果てて、キリストの元に行くのです。律法の違反者である自分に幻滅し、神が遣わしてくださったキリストの元に行き、キリストを信じましょう。キリストを信じることが、唯一のわざです(ヨハネ福音書6:29)。キリストを信じることで、律法を全うするのです。行いによっては成しえなかったことを、キリストを信じることで完成するのです。そして本当にキリストを信じたなら、信じたように行動するようになります。キリストを救い主として受け入れたなら、キリストにあって歩みたいと願うようになります(コロサイ2:6)。

 ユダヤ人も異邦人も、それぞれ律法(良心など)により、違反者であって神の前にはさばかれるべき存在であることをパウロは明らかにします。そしてここまでパウロが記していることは、決して福音と無関係ではないのです。「私の福音によれば」(16節)「神のさばき」は、福音の中心的メッセージなのです。神はキリストによって、人の隠れたことをさばかれます。外側に現れた違反行為だけでなく、人には知られない内面の「隠れたこと」をさばかれる日が来るのです。「造られたもので、神の前に隠れおおせるものは何一つなく、神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明するのです」(へブル4:13)。異邦人もユダヤ人もえこひいきなく、すべての人が神のさばきの前にやがて立つ時が来ます。そこで他の人も知らない隠れた罪、心の中の罪もすべてが裸にされ、さらけ出されます(今も神の目にはさらけ出されています)。その時に問われるのは、キリストとの関係です。このさばきは、キリストの内にある者にとっては正に福音ですが、そうでない者にとっては恐怖でしかありません。ですからすべての人に福音は必要なのです。すべての人に、この福音であるキリストを伝えなければ大変なことになるのです。パウロは、この「神のさばき」をも、福音として伝えています。このさばきから救うのが、キリストです。

 すべてがさらけ出されている状態で、神の御前に立てるでしょうか?律法のすべてを完璧に守っていると、自分の行いで神の前に立つことができるでしょうか?とても神のさばきの前に立つことはできないと認めるなら、キリストを受け入れましょう。キリストは罪人を救うため、律法の違反者を救うために来られた方です。私たちのすべての罪汚れを担って十字架で死なれた方です。キリストを信じ、キリストの十字架の血によって罪洗われた人は、「あなたの罪は赦された」との神の宣言を今も、最後の審判の時にも聞くのです。このキリストを喜び、神のさばきから救う福音が全地に広がるように祈り、そのために仕えましょう。
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