(2019年1月)

 ・ 1月13日
 ・ 1月 6日
 




 1月13日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「福音の望みに踏みとどまる」

           コロサイ人への手紙1:15~23  三浦真信牧師

<15~17節>

 御子イエス・キリストのご支配の中に移された私たちは、キリストを王とする神の国で生きる者となりました。そのキリストがどのような方であるかをパウロは伝えます。

① キリストは、見えない神のかたちです(15節)

 神は今私たちの目には見えませんが、キリストを通して神がどのような方であるかを知ることができます(ヨハネ福音書1:18)。4福音書にはキリストが2000年前、この地上でどのように歩まれたかが具体的に記されています。「主にかなった歩み」(10節)をしたいと願うなら、キリストがどのように歩まれたかを思い起こせばよいのです。

②キリストは万物より先に存在し、万物を造られた方です(15、16節)

 キリストは、私たちのように神に造られた被造物ではありません。万物を造られた方です。すべてのもは、御子キリストが主体となって造られました。またすべては「御子のために」造られ、キリストご自身が創造の目的となっています。異端の教えの中で、キリストの神性を否定するものが当時も今もあります。でもキリストは神と等しい方です。決して人間の中で最高の人であるとか、神が造られた者の中で一番すぐれているのではなく、キリストご自身が万物より先に存在し、すべてのものを造った方なのです。

③万物はキリストにあって今も成り立っています(17節)

 キリストは万物を造られたけど、その後は放っておかれるのではなく、今もキリストにあってこの宇宙は成り立っています。人間の罪ゆえに環境が破壊されたり、戦争が起きて悲惨な状況が生じていますが、それでもキリストにあってこの世界は保たれ、神のご計画通り新天新地の到来に向かって進んでいるのです。今もキリストは万物を保持しておられます。キリストなしに秩序ある世界は成立しないのです。


<18節>

 万物の主であり、宇宙の主であるキリストは、「そのからだである教会のかしら」です。教会とキリストは、特別な関係にあります。宇宙の創造者、そして宇宙の主であるキリストが、教会のかしらであり教会の主です。ですから教会は、キリストによっていのちと力を常に与えられます。教会はキリストの力によって、この世界でキリストのわざを行うキリストの器官です。教会は人間がつくる組織ではありません。特定の人の所有物でもありません。キリストが支配する霊的な実体が教会です。

 しかもキリストは「死者の中から最初に生まれた方」です。死者の中から最初によみがえられた方です。キリストを信じる者たちも、新天新地において復活のからだが与えられます。その初穂として、最初の方として、キリストは死者の中からよみがえられたのです。キリストの復活によって、教会は誕生しました。復活のキリストに息を吹きかけられた弟子たち(ヨハネ福音書20:22)によって、福音は世界に広がり実を結んでいきました。復活のキリストに出会う前の、まだ復活のキリストに息を吹きかけられていない失望しきった弟子たちには、教会を生み出すことはできませんでした。死からよみがえられたキリストに新しいいのちを与えられた弟子たちによって、教会が誕生したのです。教会は、復活のキリストをかしらとし、この方の器官として、キリストのわざを行います。神はご自身のわざを地上で行うために人をお用いになりますが、かしらはどこまでもキリストです。


<19節>

 神は、「満ち満ちた神の本質を御子キリストのうちに宿らせ」ました。「満ち満ちた(プレーローマ)」は、「完全」「充満」を意味します。キリストのうちに、神の本質が完全に充満しているのです。コロサイ教会で御使いを礼拝する者たちがいたようですが(2:18)、御使いも神に造られた被造物です。礼拝の対象では決してありません。でもキリストは神の性質を完全に満たしておられる神と等しい方です。礼拝されるべきお方です。


<20節>

 神の本質を完全に満たしておられる罪なきキリストが、最も重い罪人が架けられる十字架で血を流し死なれたのです。それは、御子イエス・キリストによって万物が和解するためです。神の律法を破り、神から遠く離れた人間の側から神との和解を得る道はありません。神と人との間にできた裂け目を人間に癒すことはできません。罪なき神の子キリストが、犠牲の小羊となって、いけにえとして十字架で血を流され、私たちの罪のなだめの供え物として死なれたのです。このキリストを信じ、キリストの内にある者たちが、神との和解を得られるようにしてくださったのです。

 人間の罪のために虚無に服している世界全体、被造物全体(ローマ8:20以降)も、御子によって和解させてくださるのです。事実神との関係が回復していく時に、その周辺の人間同士の関係が、また土地が、地域が変えられていきます。ある地域に福音が伝えられ、その土地の人々がキリストを信じて神と和解した結果、作物が良く育つようになったり、治安がよくなって明るくなるという変革が実際に起きていきます。キリストによって神との和解がもたらされていく時に、その恵みは被造物のあらゆるものに影響を与えていくのです。キリストの福音は万物の中に、和解の力をもたらしていきます。


<21~22節>

 御子キリストの十字架の血によって与えられる神との和解は、キリストを信じる者たち自身にも大きな二つの変化をもたらします。

①かつては神を離れ敵であった者が、神の味方となります(21節)

 「生まれながら神の御怒りを受けるべき子ら」(エペソ2:3)であったのに、キリストを信じることによって、神の御怒りは去り、神の味方となったのです。神がいつも共におられますから、光の子どもらしい生き方(エペソ5:8~10)を求めるようになります。

②最後の審判の時に、聖く、傷なく、非難されるところのない者として神の御前に立つことができます。

 終わりの日に、すべての人は神の御前に立つ時が来ます。それを信じようと信じまいと、聖書は、その厳粛な裁きの時が必ず来ることを宣言しています。その時に、キリストによって神と和解した者は、「聖く、傷なく、非難されるところのない者として」神の御前に立つのです。実際には、汚れに満ち、傷だらけ、非難されるところだらけの人生だったのに、キリストの白い服を着ているだけで、神の国に入国パスされるのです。神のあわれみを最高に感謝する瞬間でしょう。


<23節>

 ただし、「神との和解」が過去のことで終わっては意味がありません。最後まで福音に踏みとどまることが大事です。だからこそ「あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません」とパウロは釘を刺します。サタンが吠え猛るライオンのように獲物を狙っています(Ⅰペテロ5:8)。この福音の望みから引き離そうと、人間の理性で受け入れやすい福音(に似ているけど全く異なる教え)によって惑わそうとしてきます。だからみことばに留まりましょう。聞いた福音にしっかり踏みとどまり続けましょう。みことばを常に真実としていきましょう。

 この福音は、今も広がり、すべての造られたものに宣べ伝えられています。パウロはその福音のために仕えているのです。パウロだけでなく、この福音のすばらしさを味わった者たちはみな、この福音に仕える者として今生かされています。福音のすばらしさをしっかり受け取り、この福音の望みに踏みとどまりましょう
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 1月6日
新年聖日礼拝メッセージ要約 主題:「実を結び、広がり続ける福音」

           コロサイ人への手紙1:3~14  三浦真信牧師

 2019年のみことばは、「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それを本当に理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」(コロサイ1:6)です。

 テーマは、「福音の広がり、実を結ぶ教会」

 目標は、
①福音の豊かさを味わおう(福音の理解がより深められますように)。
②福音が広がることを喜ぼう(地域を越え、またこれまで届かなかった人々にも福音が届きますように)。
③福音の実(救いの実、悔い改めにふさわしい実、光の結ぶ実、御霊の実…)を結ぶ教会となるように祈ろう。
です。主がそのようにしてくださるようにお祈りください。1月はコロサイ人への手紙の前半から、今年のみことばとテーマを覚えましょう。

 コロサイ人への手紙は、パウロの獄中書簡の一つです。恐らくローマで捕らわれの身となっていた時に、パウロが訪問したことのないコロサイにある教会に宛てたのでしょう。パウロは第3回伝道旅行の時にエペソに3年間滞在しました。そこにあるツラノの講堂で伝道活動をする中で、「アジヤに住む者はみな主のことばを聞いた」(使徒19:8~10)のです。エペソから東160キロに位置するコロサイ教会も、その時に主のことばを聞いて救われた人々から始まったのでしょう。そしてエパフラス(1:7)が、コロサイと近隣のヒエラポリス、ラオデキヤでの伝道・牧会を苦労しつつ担いました(4:13)。

 エパフラスは捕らわれの身となっているパウロを訪問し、コロサイにいるクリスチャンたちの成長ぶりを知らせます(1:3~8節)。それと同時に、コロサイ教会が抱えている問題も伝えられます。コロサイ教会の問題は、大きく分けて二つありました。 ①コロサイ教会は異邦人が多く、異教の習慣に容易に逆戻りするリスクがありました(3:5~11)。そのためパウロは、具体的なクリスチャン生活について教える必要がありました(3:12~4:1)。 ②異端の惑わしがありました。福音だけでは足りないかのような教え(ユダヤ教主義、神秘主義、禁欲主義…)が入って来て、信仰を持ったばかりの人々を惑わしました。  この手紙の中で、パウロはこれらの問題へのアドバイスをしています。


<3~5節>

 コロサイ教会を牧会するエパフラスから、人々の信仰と愛の実践について報告を受けたパウロは、そのことを喜び神に感謝し、また彼らのためにとりなし祈りました。彼らは「キリスト・イエスに対する信仰」によって救いを受け、やがて与えられる想像を絶するような天の恵みに思いを馳せていました。将来与えられる「天にたくわえられてある望み」によって信仰は強められ、またその望みは周囲にいる信仰の仲間への愛をも育んでいきました。周囲への愛の実践は、「福音の真理のことば」が土台となっていました。福音の真理のことばを聞いて、「天にたくわえられてある望み」を確かに彼らは持ち、その結果、愛の交わりとなっていったのです。


<6~8節>

 コロサイ人たちは、神の恵みを聞き(恐らく最初はツラノ講堂でパウロから)、それを伝達され聞いた人々もその神の恵みを理解し信じた時から、福音は勢いをもって世界中で実を結び広がっています。福音には生命力があります。福音が一人に理解され受け取られていく時に、福音は種のように芽を出し育ち、30倍、60倍、100倍の実を結び成長して広がっていくのです(マルコ4:8)。福音を信じ受け入れた者たちを通して、また世界中の教会を通して、福音は広がっています。私たちが接する人々に、福音の力は及んでいるのです。神の恵みを知った者にとって、福音が自分だけでなく、広がり続け実を結んで成長していくことは喜びです。神を信じたら、あとはじっと天国を待ち続けるだけではなく、福音が広がり、実を結ぶ喜びを、神は私たちに地上で味わわせてくださるのです。キリストを信じ救われた者たちは、世界中で福音が広がり実を結ぶために生かされているのです。福音で生きる私たちを通して、また神の恵みが他の人々に届いていくのです。これは天国ではできないこと、味わえない喜びです(伝道は地上でしかできません)。私を通して、教会を通して、福音が広がっていきます。その広がりの中に、私が置かれていることを喜び楽しみましょう(今年の目標②)。そしてパウロは、直接行くことができないコロサイにおいて、「私たち(パウロたち)に代わって仕えている」忠実なエパフラスの存在を感謝しています。


<9~12節>

 パウロは、コロサイ教会の人々の信仰と愛について感謝を伝えたあと、彼らの生活の中での誘惑、また惑わしに対して、アドバイスをします。

 パウロが彼らのために祈ることは、「あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされるように」(9節)ということでした。キリストに出会う前の生き方が抜けきれず、いざという時には古い肉の考えで歩んでしまうことがあります。様々な教えが入ってくると、真理からずれてしまうことがあります。まず「霊的な知恵」つまり、聖霊の助けによって「神のみこころ」がわかるようにと、パウロは願っています。

 「神のみこころに関する知識に満たされる」ことによって初めて、「主にかなった歩み」(10節)をすることができます。何が神のみこころであるのか、神が喜ばれることであるのかを知らなければ、主にかなった歩みもできません。まずみことばを通して、聖霊の助けによって、神のみこころを良く知り、「主にかなった歩み」ができるようにとパウロはコロサイ人たちのために切に祈ります。天地万物を造られた唯一の神のみこころを知った者たちが、「自分たちの主である神にかなった生き方をしたい」と願うのは自然なことです。

 主にかなった歩みをしていく時に、4つの変化が与えられます

①実を結ぶ(10節)
②神に関する知識が増大する(10節)
③強められる(11節)
④感謝がささげられる(12節)


<13~14節>

 「光の中にある相続分」(12節)について言及したパウロは、神の国が光であり、その外は暗やみであったことを想起させます。かつて私たちは「暗やみの圧制」のもとにあったのです。神はその暗やみの中から、私たちを救い出してくださいました。本来この光の中に入る資格のない者なのに(12節)、神は一方的に私たちを暗やみの圧制から救出し、「御子キリストのご支配」という光の中に招き入れてくださったのです。御子キリストが、私たちの主となり王となって導き守ってくださる「神の国」に私たちを移してくださったのです。サタンが支配する暗やみの世界から、ご自身の光の国に私たちを移送されたのです。支配者が代わったのです。従うべき方が代わったのです。ですから、私たちが「主にかなった歩み」をすることを願うのは当然のことです。

 「この御子のうちにあって、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得ています」(14節)。キリストのうちにあるか否かだけが問われます。キリストのうちにあるなら、私たちは完全に贖われているのです。「贖い」は、聖書全体を貫く大切なキーワードです。「身代金を払って奴隷状態にある者を救出する(買い取る)こと」です。キリストの十字架の死という尊い代価が支払われて、私たちは暗やみの圧制である罪の奴隷から解放され救われたのです。その「贖い」という言葉は、パウロの時代にはローマ帝国からの解放という政治的意味にも使われていたので、パウロはあえて「贖い、すなわち罪の赦し」としています。キリストが十字架で血を流されたのは、私たちの罪を赦すためです(マタイ26:28)。私たちが御子キリストを信じ御子のうちにあるなら、すでに贖われ罪は赦され、光なるキリストのご支配の中に移されているのです。ですから私たちの主はキリストです。肉体はこの世界にあっても、すでにキリストを王とする神の国に移されているのです。「愛する御子のご支配の中」(13節)で、「主にかなった歩み」を求めて生きる人々を通して、福音は今も広がり、実を結び続けているのです。まず私たちの主が代わったことと、暗やみの圧制から解放され、御子のご支配の中で今生かされていることをはっきり受け取りましょう。そしてこの福音が広がり続け、実を結んでいきますように、心を合わせて祈りましょう。
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