(2019年1月)

 ・ 1月27日
 ・ 1月20日
 ・ 1月13日
 ・ 1月 6日
 




 1月27日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「キリストにあって歩みなさい」

           コロサイ人への手紙2:6~15  三浦真信牧師


1. 福音(キリスト)で生きる(6~7節)

 コロサイ教会の中で、異端的な教えに惑わされている人たちがいることをパウロは心配して、「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼(キリスト)にあって歩みなさい」と命じました。ユダヤ人だけでなく、すべての人に神との和解をもたらすキリストを信じて、コロサイ教会の人たちたちは罪の束縛から解放されました。  

 キリストによる罪の赦しを受け取り、喜びに満たされたのです。それが過去の喜びで終わってはいけないのです。キリストの解放と自由を味わったのだから、その救いの喜びを奪われないように、いよいよ「キリストにあって(in him)歩み続けなさい」と。  

 そしてこの「キリストにあって歩みなさい」を、植物と建物にたとえて表現しています。

① キリストの中に根ざしなさい。

 「根ざす」の原語「リゾオマイ」は、土の中に深く根をおろした樹木に使われます。「根を張るように、しっかりとキリストに結合しなさい」という意味です。しかも過去に起こり今もその効果が継続していることを表す文法が使われています。主イエス・キリストを受け入れた時に、キリストと結合しました。そして今もキリストとの結合が継続し、これからも続いていくようにという言葉です。

② キリストの中に建てられなさい。

 キリストという土台に信仰生活を築き上げていきなさいという意味です。自分の力・知恵・やり方ではなく、「知恵と知識の宝がすべて隠されているキリスト」(3節)に何でも聞きながら生きるのです。すでにキリストを主として受け入れたのだから、キリストを土台とし、キリストのやり方で歩みましょう。

③ 教えられた通り信仰を堅くしなさい

 すでに受け入れた教え、信仰を続けて強化していくように命じます。「1度信じて受け入れたのだから、もうそれでよい…」ではなく、いよいよその福音を確かなものとして受け取り続けていきましょう。

④ あふれるばかり感謝しなさい。

 神に対する感謝です。ちょっとばかりの感謝ではなく、「あふれるばかり」の感謝を神にささげましょう。

 信じたら、自動的に「キリストにあって歩むようになりますよ」というのではなく、与えられている意志を用いて「歩みなさい」と言われています。信仰は、「知情意(知識、感情、意志)をあげて信じる」ことです。与えられた「意志」をも、信仰の成長のために用いていきましょう。私たちの生まれながらの肉の性質は、放っておいたらすぐに逆戻りしてしまいます。だからたえずキリストの元に立ち返りましょう。罪で汚れてしまったら、またキリストの元に行って洗っていただきましょう。

 感謝も、生活の中ですぐに失ってしまいがちです。人の言葉に苛立ったり、社会への不満が噴出したり、放っておくとすぐに感謝が吹っ飛んでいまいます。たとえむしゃくしゃしても、落ち込んでも、そこから主を見上げましょう。祈ったり、讃美したり、みことばに向き合ったりしながら、キリストに向かって感謝していきましょう。


2. 肉を満足させるだけの教え(8~12節)

 コロサイ教会に忍び込んできた異端的教えが何であったかは正確にはわかりません。考えられるのは、

① グノーシス主義的教え

 物質を悪と考えるため、天地創造やキリストの受肉を否定する教え。神の子キリストが、悪である肉体をとることはないとして、キリストの神性を否定しました。天地創造に関しては、人間の罪により世界は堕落しましたが、神は最良のものを最初に造られました(創世記1:31。キリストの受肉に関してパウロは「キリストにこそ、神の満ち満ちたご性質が宿っています」と、キリストが神と等しい方であることを強調しています。

② ユダヤ教主義的教え

  律法の教えを守り行うことを強調する教え。その代表として、割礼を受けることを強調しました。「割礼という儀式を受けて異邦人もユダヤ人にならないと救われない」と説きました。しかしキリストを信じる者は「キリストの割礼」を受けていて(11節)、キリストを信じたことを表明するバプテスマにより、キリストとともに葬られ、復活のキリストとともによみがえらされたのだから、キリストだけで十分なのです(12節)。

 その他にも、禁欲主義(肉体の苦行を強調)や神秘主義(霊的体験を誇りキリストに結びつかない→18~19節)などが入り込んでいたようです。結局これらの教えは、人間の肉の欲望を満足させるだけでした(23節 新改訳2017)。より自分の欲望を満足させるものを選べば、一時的に満たすことができました。しかし決していのちと解放を与え、人を新しく生まれさせる(Ⅱコリン  ト5:17)ことはできないのです。いよいよ肉の欲望の奴隷となっていくだけです。キリストの神性を否定し、かしらなるキリストにつながらない教えでは、人を変えることはできず、肉の欲望を満足させるだけです。

③ キリストによる完全な罪の赦し、完全な勝利(13~15節)

 罪の中に死んでいた者(エペソ2:1)を、「神はキリストとともに生かしてくださいました」(13節)。神が、キリストにより「私たちの罪をすべて赦す」ことによって、私たちは生かされたのです。  

 「いろいろな定め」(14節)が、私たちの内に罪悪感をもたらします。ユダヤ人は律法によって、異邦人は良心などによって、罪の責めを受けます。私たちの罪の借金返済を迫る声が聞こえてきます。しかしキリストがその罪の借金を代わりに負って十字架で死なれました。私たちの罪の借用証書を、十字架に釘づけにして無効としてくださったのです。「あなたの罪の借金は返済済み」と、十字架を見上げるたびに無効になった証書を確認できるのです。罪の負債の記録は、キリストの十字架によって抹消(まっしょう)されています。負いきれない罪の重荷を、全部キリストが代わりに負ってくださいました。何とありがたい、慰めに満ちた知らせでしょう。これこそ福音です。  

 さらに神は「すべての支配と権威」(悪霊の力)から、私たちを解放してくださいました(15節)。ローマの将軍は戦いに勝つと、自分が征服した国の捕虜たちを従えて凱旋パレードをしました。それによって、勝利が決定的なものであることを内外に誇示したのです。それと同じように、神は「キリストにおいて」悪魔を無力にして捕虜とし、勝利宣言をしたのです。キリストの十字架は、信じる者たちに完全な罪の赦しを与えます。サタンへの完全勝利を宣言します。このすばらしい福音であるキリストで十分なのです。他の教えを付け加える必要はありません。神のご性質で満ち満ちたキリストによって歩み続けましょう。


 このキリストの福音が、今も広がり実を結び続けています。神の奥義であるキリストについて、地上ですべてがわかるわけではありません。キリストの愛は人知をはるかに越えています(エペソ3:19)。それでも、知れば知るほど私たちは喜びに満たされ、感謝が溢(あふ)れてくるのです。ですから、もっとキリストを深く知ることができるように求めていきましょう。ますますかしらなるキリストに結びつき(2:19)、かしらなるキリストにあって歩み続けましょう(2:6)。
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 1月20日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「キリストのうちに隠された宝」

           コロサイ人への手紙1:24~2:5  三浦真信牧師

<24節>

 パウロが「苦しみ」、「労苦しながら奮闘」(29節)、「苦闘」(2:1)という表現を繰り返し使っているのは、自分の働きをねぎらってほしいというよりも、パウロが宣べ伝えている福音が、それほどに価値あるすばらしいものであることを知ってほしいからです。この福音で十分なのに、今コロサイ教会に忍び寄る異端的教えは、福音に何かを付け加えたりキリストの神性を否定しながら、福音の根底を変えてしまうものでした。その教えにコロサイ教会の一部の人たちが惑わされていることをパウロは心配しています。

 パウロは、コロサイ教会の人々はじめ、「キリストのからだ」である教会のために苦しみを受けることを、嫌とは思わず喜びとしています。それは無意味な苦しみではなく、パウロの人生を変えたすばらしいキリストのためであり、キリストのからだである教会のための苦しみだからです。そのキリストのための苦しみであるからこそ、パウロは様々な苦難を乗り越えることができました(決してキリストが地上で受けた苦しみが不十分であったというわけではありません)。


<25節>

 特にコロサイ教会に異端的な教えを持ち込んだ教師たちは、自分たちの教えを正当化するために、パウの使徒職に疑念を抱かせようとしていました。ですからパウロはここで、今使徒としてパウロが諸教会に仕えているのは「神からゆだねられた務め」であることを強調しています。キリストを迫害していたパウロが復活のキリストに出会い、今度はキリストを宣べ伝える人となりました(使徒9章)。この務めは、パウロ自身から出たことではなく、また人から出たことでもありません。神が始められ、神からゆだねられた務めなので、苦難があっても、心くじけそうになることがあっても、神の許しなしに放り出すことはできないのです。パウロに神がゆだねられたことは、「神のことばを余すところなく伝える」ことでした。このためにパウロは苦闘しています。


<26~27節>

 奥義(ミューステリオン)は、英語の「mysteryミステリー」です。これまで覆い隠されていた大切な奥義が明らかにされたのです。

 キリストの十字架の血によって、神から遠く離れていた者も神と和解することができること、律 法を行うことによってではなく、キリストを信じることで救われる恵みの救いであることが奥義として明らかにされました。救いはユダヤ人だけでなく、血筋や民族に関係なく、キリストを信じるすべての人に及ぶのです。キリストこそ、すべての人に「栄光の望み」をもたらす方です。


<28~29節>

 この「栄光の望み」であるキリストを、「私たち(パウロはじめ使徒たち)」は宣べ伝えていることを強調しています。異端の教師たちがキリストを矮小化して伝えますが、「私たちは」この神の奥義であるキリストを、「知恵を尽くして、あらゆる人を戒め(警告し)、あらゆる人を教えています」。その目的は、「すべての人をキリストにある成人として立たせるため」です。すべての人を大人のクリスチャンとしてしっかり立たせるために、パウロたちは苦闘しています。

 神を信じ受け入れ、神に向かう時には幼子の心であるようにイエスは言われました(マタイ18:3~4)。同時に、サタンの策略や偽りの教えにもてあそばれたり振り回されたりしないように、あらゆる点で成長する必要があります(エペソ4:13~14)。神の視点に立って、自分自身や周囲のこと、世界のことを考え見られるように、聖書的世界観が身につくことをパウロたちは願っていました。

 一人の人がキリストにある成人として立つためには、とても時間がかかります。そのために、パウロは労苦し奮闘したのです。でも「がんばるぞ!」と自分を鼓舞していくのではなく、「自分のうちに力強く働くキリストの力」による労苦です。自分の力の限界や弱さを感じる時に、力強く働くキリストの力を体験しながら、キリストのからだに仕えました。


<2章1節~4節>

 エパフラスが、リュコス峡谷にあるコロサイ・ラオデキヤ・ヒエラポリスの牧会を任されていました(4:12~13)。パウロは、エパフラスからの報告を受けて、顔も見たこと がない彼らのためにも、祈りにおいて苦闘していました。パウロが彼らのために祈っていたことは、主に以下のことでした。

①心に励ましを受けるように

 人は落ち込んだり、失望しそうになる時があります。誰かにとりなし祈られ、また交わりの中で励まされることで、立ち上がる力を受けます。

②愛によって結びあわされるように

  一人の人がキリストにある成人として立たされるためには、愛の交わりが必用です。神は、キリストのからだである教会を通し、その交わりを通して成長することを求めておられます。交わりを通して、具体的にキリストがどのように働かれるかを知り、強められ、ある時は軌道修正されて成長していくのです。

③神の奥義であるキリストを真に知るように

 このキリストのうちにこそ、「知恵と知識の宝がすべて隠されている」(3節)のです。今福音に混ぜ物を加えている異端の教えに惑わされている人たちに、「あなたがたはこのキリストの宝がどれほどすごいか、まだわかっていない」と言わんばかりに、もっとこのキリストを知的にも体験的にも知ることができるようパウロは祈ります。キリストのうちにある知恵と知識の宝のすばらしさを真に知ったなら、「まことしやかな議論」(4節)によって真理から離れてしまうことはないのです。


<5節>

 「コロサイなどリュコス峡谷の人たちに直接会って話せるなら話したい」と願いつつも、物理的に無理なため、パウロは祈りによって彼らのためにとりなしました。でも「霊においてはあなたがたといっしょにいる」と言えるほど、彼らのことを心配し、祈っていたのです。 同時に様々な教えが吹き荒れる中でも(一部の人たちを除いて)、神の秩序が保たれ、かえって堅く信仰に立っていることをパウロは喜びました。

 「知恵と知識の宝がすべて隠されている」「神の奥義」であるキリストの福音が、広がり実を結ぶことを、私たちも期待し祈りましょう。生活の中で起きるあらゆることは、すべて神の奥義であるキリストを知るためにあります。日々の生活で悩み、迷う時にも、知恵と知識の宝すべてを所有しておられるキリストに祈り相談しましょう。人間の理解を超えた神の知恵と力を体験することができます。

 福音のすばらしさを知った者たちが、愛によって結び合わされ交わる時に、さらにキリストの奥義を知り、キリストのうちにある宝を味わい知ることができます。このキリストの宝をどん欲に求めて礼拝、交わりにも参加しましょう。求める者に神は惜しみなく与えてくださいます。
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 1月13日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「福音の望みに踏みとどまる」

           コロサイ人への手紙1:15~23  三浦真信牧師

<15~17節>

 御子イエス・キリストのご支配の中に移された私たちは、キリストを王とする神の国で生きる者となりました。そのキリストがどのような方であるかをパウロは伝えます。

① キリストは、見えない神のかたちです(15節)

 神は今私たちの目には見えませんが、キリストを通して神がどのような方であるかを知ることができます(ヨハネ福音書1:18)。4福音書にはキリストが2000年前、この地上でどのように歩まれたかが具体的に記されています。「主にかなった歩み」(10節)をしたいと願うなら、キリストがどのように歩まれたかを思い起こせばよいのです。

②キリストは万物より先に存在し、万物を造られた方です(15、16節)

 キリストは、私たちのように神に造られた被造物ではありません。万物を造られた方です。すべてのもは、御子キリストが主体となって造られました。またすべては「御子のために」造られ、キリストご自身が創造の目的となっています。異端の教えの中で、キリストの神性を否定するものが当時も今もあります。でもキリストは神と等しい方です。決して人間の中で最高の人であるとか、神が造られた者の中で一番すぐれているのではなく、キリストご自身が万物より先に存在し、すべてのものを造った方なのです。

③万物はキリストにあって今も成り立っています(17節)

 キリストは万物を造られたけど、その後は放っておかれるのではなく、今もキリストにあってこの宇宙は成り立っています。人間の罪ゆえに環境が破壊されたり、戦争が起きて悲惨な状況が生じていますが、それでもキリストにあってこの世界は保たれ、神のご計画通り新天新地の到来に向かって進んでいるのです。今もキリストは万物を保持しておられます。キリストなしに秩序ある世界は成立しないのです。


<18節>

 万物の主であり、宇宙の主であるキリストは、「そのからだである教会のかしら」です。教会とキリストは、特別な関係にあります。宇宙の創造者、そして宇宙の主であるキリストが、教会のかしらであり教会の主です。ですから教会は、キリストによっていのちと力を常に与えられます。教会はキリストの力によって、この世界でキリストのわざを行うキリストの器官です。教会は人間がつくる組織ではありません。特定の人の所有物でもありません。キリストが支配する霊的な実体が教会です。

 しかもキリストは「死者の中から最初に生まれた方」です。死者の中から最初によみがえられた方です。キリストを信じる者たちも、新天新地において復活のからだが与えられます。その初穂として、最初の方として、キリストは死者の中からよみがえられたのです。キリストの復活によって、教会は誕生しました。復活のキリストに息を吹きかけられた弟子たち(ヨハネ福音書20:22)によって、福音は世界に広がり実を結んでいきました。復活のキリストに出会う前の、まだ復活のキリストに息を吹きかけられていない失望しきった弟子たちには、教会を生み出すことはできませんでした。死からよみがえられたキリストに新しいいのちを与えられた弟子たちによって、教会が誕生したのです。教会は、復活のキリストをかしらとし、この方の器官として、キリストのわざを行います。神はご自身のわざを地上で行うために人をお用いになりますが、かしらはどこまでもキリストです。


<19節>

 神は、「満ち満ちた神の本質を御子キリストのうちに宿らせ」ました。「満ち満ちた(プレーローマ)」は、「完全」「充満」を意味します。キリストのうちに、神の本質が完全に充満しているのです。コロサイ教会で御使いを礼拝する者たちがいたようですが(2:18)、御使いも神に造られた被造物です。礼拝の対象では決してありません。でもキリストは神の性質を完全に満たしておられる神と等しい方です。礼拝されるべきお方です。


<20節>

 神の本質を完全に満たしておられる罪なきキリストが、最も重い罪人が架けられる十字架で血を流し死なれたのです。それは、御子イエス・キリストによって万物が和解するためです。神の律法を破り、神から遠く離れた人間の側から神との和解を得る道はありません。神と人との間にできた裂け目を人間に癒すことはできません。罪なき神の子キリストが、犠牲の小羊となって、いけにえとして十字架で血を流され、私たちの罪のなだめの供え物として死なれたのです。このキリストを信じ、キリストの内にある者たちが、神との和解を得られるようにしてくださったのです。

 人間の罪のために虚無に服している世界全体、被造物全体(ローマ8:20以降)も、御子によって和解させてくださるのです。事実神との関係が回復していく時に、その周辺の人間同士の関係が、また土地が、地域が変えられていきます。ある地域に福音が伝えられ、その土地の人々がキリストを信じて神と和解した結果、作物が良く育つようになったり、治安がよくなって明るくなるという変革が実際に起きていきます。キリストによって神との和解がもたらされていく時に、その恵みは被造物のあらゆるものに影響を与えていくのです。キリストの福音は万物の中に、和解の力をもたらしていきます。


<21~22節>

 御子キリストの十字架の血によって与えられる神との和解は、キリストを信じる者たち自身にも大きな二つの変化をもたらします。

①かつては神を離れ敵であった者が、神の味方となります(21節)

 「生まれながら神の御怒りを受けるべき子ら」(エペソ2:3)であったのに、キリストを信じることによって、神の御怒りは去り、神の味方となったのです。神がいつも共におられますから、光の子どもらしい生き方(エペソ5:8~10)を求めるようになります。

②最後の審判の時に、聖く、傷なく、非難されるところのない者として神の御前に立つことができます。

 終わりの日に、すべての人は神の御前に立つ時が来ます。それを信じようと信じまいと、聖書は、その厳粛な裁きの時が必ず来ることを宣言しています。その時に、キリストによって神と和解した者は、「聖く、傷なく、非難されるところのない者として」神の御前に立つのです。実際には、汚れに満ち、傷だらけ、非難されるところだらけの人生だったのに、キリストの白い服を着ているだけで、神の国に入国パスされるのです。神のあわれみを最高に感謝する瞬間でしょう。


<23節>

 ただし、「神との和解」が過去のことで終わっては意味がありません。最後まで福音に踏みとどまることが大事です。だからこそ「あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません」とパウロは釘を刺します。サタンが吠え猛るライオンのように獲物を狙っています(Ⅰペテロ5:8)。この福音の望みから引き離そうと、人間の理性で受け入れやすい福音(に似ているけど全く異なる教え)によって惑わそうとしてきます。だからみことばに留まりましょう。聞いた福音にしっかり踏みとどまり続けましょう。みことばを常に真実としていきましょう。

 この福音は、今も広がり、すべての造られたものに宣べ伝えられています。パウロはその福音のために仕えているのです。パウロだけでなく、この福音のすばらしさを味わった者たちはみな、この福音に仕える者として今生かされています。福音のすばらしさをしっかり受け取り、この福音の望みに踏みとどまりましょう
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 1月6日
新年聖日礼拝メッセージ要約 主題:「実を結び、広がり続ける福音」

           コロサイ人への手紙1:3~14  三浦真信牧師

 2019年のみことばは、「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それを本当に理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」(コロサイ1:6)です。

 テーマは、「福音の広がり、実を結ぶ教会」

 目標は、
①福音の豊かさを味わおう(福音の理解がより深められますように)。
②福音が広がることを喜ぼう(地域を越え、またこれまで届かなかった人々にも福音が届きますように)。
③福音の実(救いの実、悔い改めにふさわしい実、光の結ぶ実、御霊の実…)を結ぶ教会となるように祈ろう。
です。主がそのようにしてくださるようにお祈りください。1月はコロサイ人への手紙の前半から、今年のみことばとテーマを覚えましょう。

 コロサイ人への手紙は、パウロの獄中書簡の一つです。恐らくローマで捕らわれの身となっていた時に、パウロが訪問したことのないコロサイにある教会に宛てたのでしょう。パウロは第3回伝道旅行の時にエペソに3年間滞在しました。そこにあるツラノの講堂で伝道活動をする中で、「アジヤに住む者はみな主のことばを聞いた」(使徒19:8~10)のです。エペソから東160キロに位置するコロサイ教会も、その時に主のことばを聞いて救われた人々から始まったのでしょう。そしてエパフラス(1:7)が、コロサイと近隣のヒエラポリス、ラオデキヤでの伝道・牧会を苦労しつつ担いました(4:13)。

 エパフラスは捕らわれの身となっているパウロを訪問し、コロサイにいるクリスチャンたちの成長ぶりを知らせます(1:3~8節)。それと同時に、コロサイ教会が抱えている問題も伝えられます。コロサイ教会の問題は、大きく分けて二つありました。 ①コロサイ教会は異邦人が多く、異教の習慣に容易に逆戻りするリスクがありました(3:5~11)。そのためパウロは、具体的なクリスチャン生活について教える必要がありました(3:12~4:1)。 ②異端の惑わしがありました。福音だけでは足りないかのような教え(ユダヤ教主義、神秘主義、禁欲主義…)が入って来て、信仰を持ったばかりの人々を惑わしました。  この手紙の中で、パウロはこれらの問題へのアドバイスをしています。


<3~5節>

 コロサイ教会を牧会するエパフラスから、人々の信仰と愛の実践について報告を受けたパウロは、そのことを喜び神に感謝し、また彼らのためにとりなし祈りました。彼らは「キリスト・イエスに対する信仰」によって救いを受け、やがて与えられる想像を絶するような天の恵みに思いを馳せていました。将来与えられる「天にたくわえられてある望み」によって信仰は強められ、またその望みは周囲にいる信仰の仲間への愛をも育んでいきました。周囲への愛の実践は、「福音の真理のことば」が土台となっていました。福音の真理のことばを聞いて、「天にたくわえられてある望み」を確かに彼らは持ち、その結果、愛の交わりとなっていったのです。


<6~8節>

 コロサイ人たちは、神の恵みを聞き(恐らく最初はツラノ講堂でパウロから)、それを伝達され聞いた人々もその神の恵みを理解し信じた時から、福音は勢いをもって世界中で実を結び広がっています。福音には生命力があります。福音が一人に理解され受け取られていく時に、福音は種のように芽を出し育ち、30倍、60倍、100倍の実を結び成長して広がっていくのです(マルコ4:8)。福音を信じ受け入れた者たちを通して、また世界中の教会を通して、福音は広がっています。私たちが接する人々に、福音の力は及んでいるのです。神の恵みを知った者にとって、福音が自分だけでなく、広がり続け実を結んで成長していくことは喜びです。神を信じたら、あとはじっと天国を待ち続けるだけではなく、福音が広がり、実を結ぶ喜びを、神は私たちに地上で味わわせてくださるのです。キリストを信じ救われた者たちは、世界中で福音が広がり実を結ぶために生かされているのです。福音で生きる私たちを通して、また神の恵みが他の人々に届いていくのです。これは天国ではできないこと、味わえない喜びです(伝道は地上でしかできません)。私を通して、教会を通して、福音が広がっていきます。その広がりの中に、私が置かれていることを喜び楽しみましょう(今年の目標②)。そしてパウロは、直接行くことができないコロサイにおいて、「私たち(パウロたち)に代わって仕えている」忠実なエパフラスの存在を感謝しています。


<9~12節>

 パウロは、コロサイ教会の人々の信仰と愛について感謝を伝えたあと、彼らの生活の中での誘惑、また惑わしに対して、アドバイスをします。

 パウロが彼らのために祈ることは、「あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされるように」(9節)ということでした。キリストに出会う前の生き方が抜けきれず、いざという時には古い肉の考えで歩んでしまうことがあります。様々な教えが入ってくると、真理からずれてしまうことがあります。まず「霊的な知恵」つまり、聖霊の助けによって「神のみこころ」がわかるようにと、パウロは願っています。

 「神のみこころに関する知識に満たされる」ことによって初めて、「主にかなった歩み」(10節)をすることができます。何が神のみこころであるのか、神が喜ばれることであるのかを知らなければ、主にかなった歩みもできません。まずみことばを通して、聖霊の助けによって、神のみこころを良く知り、「主にかなった歩み」ができるようにとパウロはコロサイ人たちのために切に祈ります。天地万物を造られた唯一の神のみこころを知った者たちが、「自分たちの主である神にかなった生き方をしたい」と願うのは自然なことです。

 主にかなった歩みをしていく時に、4つの変化が与えられます

①実を結ぶ(10節)
②神に関する知識が増大する(10節)
③強められる(11節)
④感謝がささげられる(12節)


<13~14節>

 「光の中にある相続分」(12節)について言及したパウロは、神の国が光であり、その外は暗やみであったことを想起させます。かつて私たちは「暗やみの圧制」のもとにあったのです。神はその暗やみの中から、私たちを救い出してくださいました。本来この光の中に入る資格のない者なのに(12節)、神は一方的に私たちを暗やみの圧制から救出し、「御子キリストのご支配」という光の中に招き入れてくださったのです。御子キリストが、私たちの主となり王となって導き守ってくださる「神の国」に私たちを移してくださったのです。サタンが支配する暗やみの世界から、ご自身の光の国に私たちを移送されたのです。支配者が代わったのです。従うべき方が代わったのです。ですから、私たちが「主にかなった歩み」をすることを願うのは当然のことです。

 「この御子のうちにあって、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得ています」(14節)。キリストのうちにあるか否かだけが問われます。キリストのうちにあるなら、私たちは完全に贖われているのです。「贖い」は、聖書全体を貫く大切なキーワードです。「身代金を払って奴隷状態にある者を救出する(買い取る)こと」です。キリストの十字架の死という尊い代価が支払われて、私たちは暗やみの圧制である罪の奴隷から解放され救われたのです。その「贖い」という言葉は、パウロの時代にはローマ帝国からの解放という政治的意味にも使われていたので、パウロはあえて「贖い、すなわち罪の赦し」としています。キリストが十字架で血を流されたのは、私たちの罪を赦すためです(マタイ26:28)。私たちが御子キリストを信じ御子のうちにあるなら、すでに贖われ罪は赦され、光なるキリストのご支配の中に移されているのです。ですから私たちの主はキリストです。肉体はこの世界にあっても、すでにキリストを王とする神の国に移されているのです。「愛する御子のご支配の中」(13節)で、「主にかなった歩み」を求めて生きる人々を通して、福音は今も広がり、実を結び続けているのです。まず私たちの主が代わったことと、暗やみの圧制から解放され、御子のご支配の中で今生かされていることをはっきり受け取りましょう。そしてこの福音が広がり続け、実を結んでいきますように、心を合わせて祈りましょう。
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