(2018年12月)

 ・ 12月30日
 ・ 12月23日
 ・ 12月16日
 ・ 12月 9日
 ・ 12月 2日
 




 12月30日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「主に身を避ける者の幸い」

         詩篇34篇   三浦真信牧師

 詩篇34篇は、ダビデがサウル王のねたみによって追われ、ガテの王アキシュのところへ逃れた時に歌われたと言われています(諸説あります)。表題の「アビメレク」は、個人名ではなく王の称号です。ガテにおいても、ダビデの戦いの功績が知れ渡っていたため、ダビデはガテ王の前で気が狂ったふりをして難を逃れます。


<1~4節>

 そのような状況においても、「私はあらゆる時に主をほめたたえる」(1節)とダビデは宣言します。神を信じる者にとって、神をほめたたえる賛美は力です。賛美は嬉しい時だけでなく、苦しみ悲しみの中でも、「あらゆる時に」ささげるものです。

 ダビデは一人だけでなく、信仰の仲間たちにも、「私とともに主をほめよ」(3節)と呼びかけ、賛美の中に巻き込んでいきます。そして主を崇めているうちに主は「すべての恐怖から救い出して」くださいました(4節)。恐怖の中で、問題だらけの中で、主を求め、主をほめたたえているうちに、気がつけば主が救い出してくださっていたのです。私たちの人生を(あるいはこの1年を)振り返っても、主を崇めているうちに主が解決してくださったことがあるはずです。恐れや問題があるままで、主を讃美し、主に祈り求め、主を礼拝していくなら、「主が私をすべての恐怖から救い出してくださった」と告白できるようにしてくださいます。その一つひとつを、主のみわざとして感謝しましょう。


<5~10節>

 「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」(5節)。信仰の仲間たちが主を讃美し、主を仰ぎ見ている時の輝く顔をダビデは思い出しています。問題に向かってうつむいている時には、顔つきも暗くなります。でもそこで主を仰ぎ見るなら、主の光が私たちを照らしてくださいます。ダビデも、悩みの中から主に呼ばわりました(6節)。どのような悩みの中にあっても、私たちは主に叫ぶことができます。これは本当にありがたいことです。そして主は私たちの悩む姿を傍観しておられるのではなく、「主の使い」を送り「陣を張り」、助け出されます(7節)。「主のすばらしさ」は、特に悩みの中で味わう(体験する)ことができます(8節)。苦悩は、主のすばらしさを味わうためのスパイスのようなものです。苦しみの中で、「主に身を避ける」なら、主のすばらしさを味わうことができるので、「幸いなこと」です。味わった主のすばらしさを「見つめよ」とダビデは命じます。大変だったことは覚えているけど、それに対して主がしてくださったすばらしいことを人は忘れてしまいがちです。主のすばらしさを感謝しつつ見つめ続けましょう。

 ダビデは、サウル王に命を狙われ、ガテの王にも襲われるかもしれない恐怖の中でも「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」(10節)と宣言します。主は、苦しみ悲しみもすべて隠し味として「良いもの」に変えてくださいます。「この苦しみがあったからこそ、神のことばの真実を知ることができた」(詩篇119:71)、主のすばらしさを体験できた」ということがあるのです。「このようなことさえなければ良かったのに…」と思えることさえも、主はすべて「良いもの」にいつか変えてくださいます。


<11~16節>

 苦しみの中で、放っておくと人の心は悪に向かいがちです。しかしその苦しみの中でも、「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな」(13節)と、言葉の罪を犯さないようにダビデは戒めます。また人と争う方向ではなく、「平和を求め、それを追い求めよ」(14節)と命じます。「主のしもべが争ってはいけません」(Ⅱテモテ2:24)。どこまでも、主を求め、主にある平和を追い求めましょう。


<17~22節>

  私たちが苦しみの中から主に叫ぶときに、主は「すべての苦しみから」救い出してくださいます(17節)。手軽で時間がかからないことに現代は慣れてしまい、主に叫んだらすぐに解決してほしいと私たちは求めてしまいがちです。でも救い出されるまでの時間が、信仰の成長のためにはとても大切です。そこで主と一対一で格闘し、主との人格的交わりが生まれ、主のみことばの確かさを味わい、主への信頼が深められていくのです。時間がかかることをマイナスと受け留めず、大切なプロセスを通っていると信じましょう。

 「主は心の打ち砕かれた者」の近くにおられます。「霊の砕かれた者」を救われます(18節)。悲しみ悩む中で、ただ主の助けを求めるしかない者の近くに主はおられ救われます。必死で自分の力でふんばっていたけど、もうふんばれなくなって倒れ果て、主に起き上がらせていただき、主に運んでいただくしかどうすることもできない者こそ、打ち砕かれた者です。神の人と格闘して、ももの関節を外されたヤコブが、「私を祝福してくださらなければ、私はあなたを去らせません」と言って神にすがりついたように(創世記32:24~30)、自分の力ではもう一歩も歩めない、ただ神の一方的なあわれみと祝福を受けて運んでいただくしかない者に、主は近く寄り添ってくださいます。

 「正しい者の悩みは多い」とは、悩みの多さよりも「しかし、主はそのすべてから彼を救い出される」という、救いの確かさを強調しています。生きている限り、誰にも悩みはあります。しかし「正しい者」すなわち「打ち砕かれた心で、主に身を避ける者」は、救い出されるのです。自分の正しさではなく、キリストが一方的に与えてくださる義を受け取り、主により頼むなら、主は救い出してくださいます。

 「主に身を避ける者は、だれも罪に定められない」のです(22節)。失敗しても、心が弱り果てても、罪を犯してしまっても、心の中が汚いものでいっぱいでも、たえず主のもとに行きましょう。主に身を避け続けましょう。主は私たちの罪をたえずきよめてくださいます。「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」(Ⅰテモテ1:15)のです。生涯かけて、この真実を味わい続けましょう。地上にある限り、罪との戦いがあります。自分の罪深さにあきれ果てることもあります。でもそのような私を救うためにキリストが代わりに十字架で死なれ、罪の借金を帳消しにしてくださいました。今もキリストの十字架を見上げるたびに、感謝が湧き上がってきます。いよいよキリストなしには歩めない者だとの自覚が深まります。「主に身を避ける者は、だれも罪に定められない」のです。たえず十字架の主を仰ぎ、主をほめたたえましょう。  
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 12月23日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「私の隣人となった方~傷んだ者を救うため」

         ルカの福音書10:30~37三浦真信牧師

<30~32節>

 自分の正しさを示そうとして(29節)イエスのもとに来た律法の専門家に、イエスはこのたとえを話します。エルサレムからエリコへ下る道は28キロあり、その辺りは実際強盗がよく出没していました。エリコは「祭司の町」と呼ばれ、エルサレム神殿に従事する祭司やレビ人が多く住んでいました。往復56キロを徒歩の移動ですので、エリコに住む祭司レビ人たちは、数日神殿に泊まって勤め明けに帰って別の祭司が交代するようになっていました。  

 ここに出てくる祭司レビ人は、数日間の仕事を終えて家路を急いでいたことでしょう。強盗に襲われて傷つき倒れている人を見た時に、ここで時間を取られるのは困ると思ったか、あるいは自分も強盗に襲われることを恐れたのかもしれません。でも祭司である自分が「目の前にいる、傷ついて動けなくなっている人をこのまま放っておいて良いものか」と葛藤した結果、祭司もレビ人も反対側を通り、見て見ぬふりをしました。


<33~35節>

 ところが、あるサマリヤ人が旅の途中この道を通り、強盗に襲われた人を見つけます。サマリヤ人は、ユダヤ人が敵対視していた人たちです。しかしそのサマリヤ人は、強盗に襲われて倒れている人を見てかわいそうに思い、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、手厚く介抱をします。


<36~37節>

 イエスは、ここに登場する祭司、レビ人、サマリヤ人の3人の中で、だれが強盗に襲われた人の隣人(となりびと)になったと思うかを、イエスのもとに来た律法の専門家(25節)に尋ねます。彼は「自分の正しさを示そうとして」イエスに言い寄ってきました(29節)。イエスは、その律法の専門家(律法学者)に、「あなたも行ってこのサマリヤ人と同じようにしなさい」と言われます。律法の中心は、「神を愛し、隣人(となりびと)を愛すること」です(26~28節)。しかし当時の律法学者たちは、自分たちこそ神の律法を持つ特別の民であり、律法を持たない異邦人や律法を大事にしない取税人や罪人たちとは関りを持ちませんでした。物理的には隣にいても、自ら隣人になろうとはしなかったのです。ただ「隣人である」から、「隣人になる」ことを律法は求めているのに、この律法学者はそのことをなおざりにしながら自分の正しさを主張してきたのです。サマリヤ人は、民族として敵であるかどうかにかかわらず、目の前で傷つき倒れている人を助けて、強盗に襲われた人の隣人になったのです。イエスは、自分の正しさを示そうとする律法学者に、いかにその「正しさ」が違うかに気づいてほしかったのです。  


 このサマリヤ人のしたことは、正にイエス・キリストが私たちにしてくださったことと同じです。罪に翻弄(ほんろう)され、傷つき倒れていた私たちを助けるために、キリストはこの地にお生まれになりました。造り主なる神を無視して、人々がそれぞれの基準で生きるこの世界では、争い、だまし合い、傷つけ合いが横行しています。そこにいる私たちを救うために、神の子キリストは2000年以上前に生まれてくださいました。私たちの心の痛み、人間関係における苦悩など、様々な生きる上での苦しみの根源は、造り主である神との関係が切れていることにあります。  

 神との間を大きく隔てているものを、聖書は「罪」と呼んでいます。罪によって傷つき倒れている者は、自分で自分を助けることができません。そこで神の子キリストが遣わされ、罪なきキリストが代わりにすべての人の罪を負って十字架で痛み傷つき、死なれたのです。そのキリストは、死より三日目によみがえり、罪の結果である死に勝利しました。キリストを信じる者は、罪をきよめられて神と和解し、苦しみ悲しみの多い世にあっても、いつも最善に導いてくださる神と共に生きることができます。そして肉体の死後にも、復活のからだが与えられます。  

 神のもとから離れて、罪の世で傷つき倒れていた私たちを、キリストが介抱して神のもとに運んでくださり、助けてくださいます。このキリストの愛とあわれみを受けた者たちに対して、キリストは「あなたも行って同じようにしなさい」と語っておられます。罪の中に死んでいた者(エペソ2:1)を救うために、キリストは世にお生まれになりました。救い主の誕生を心から感謝しましょう。  
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 12月16日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「一人ひとりに与えられる報い」

         ローマ人への手紙2:5~11 三浦真信牧師

<5節>

 「御怒りの日」、「神の正しいさばきの現れる日」とは、キリストが再び来られてこの世界が過ぎ去る日です。すべての人が神の前に立ち、さばきを受ける時です。神は今もその「豊かな慈愛と忍耐と寛容」によってその日を遅らせています。それは「すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」からです(Ⅱペテロ3:8~10)。「滅び」が確かにあり、そこから救われるのに必要なのは「悔い改め」です。  

 ここでも「あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、神の御怒りを自分のために積み上げている」と言われています。悔い改めとは、向きを変えることです。異邦人(ユダヤ人以外の民族)は自分の欲望を神のかたちに代えて拝み(1:21~24)、ユダヤ人たちは自分の正しさを主張し、自分を神の位置に置いて異邦人をさばきました(2:1~3)。どちらも造り主なる神を崇め神に感謝するのではなく、向かっているのは自分の正しさであり自分の中にある欲望という偶像です。そこから向きを変えて、神ご自身を崇め感謝をささげて生きるのでなければ、終わりの日に御怒りを積み上げていくことになるというのです。神のさばきが確かにあるのです。キリストによる救いは、この罪の結果である神の御怒り、神の正しいさばきから救われるということです。  

 神が遣わしたキリストを信じ、この方の恵みにより頼んで生きる者は、「積み上げている」のは「神の御怒り」ではなく、「神の恵み」です。終わりの日に向かって、神の御怒りを積み上げていく生き方と、神の恵みを積み上げていく生き方と、二通りあるのです。神の前における人間の生き方は、この二通りしかありません。 


<6~11節>

 6節の「その人の行い」とは、自己満足の行いではなく、また自分で勝手に良いと思ってしている行いでもなく、神の御心にかなった行いのことです。パウロがここで伝えたいのは、神の報いは、ユダヤ人であるとか異邦人であるという人間の枠によってではなく、「ひとりひとり」の行いによるということです。「~教会に属しているから」「~グループのメンバーだから」「~家の者だから」救われるのではなく、ひとりひとりの信仰にある行いを神はご覧になり、そのことにおいては「えこひいきなどはない」(11節)のです。ユダヤ人たちが主張するように、「自分たちは神に選ばれた特別な民だから救われる」とか「アブラハムの子孫だから救われる」というのではなく、終わりの日には「ひとりひとり」が神のさばきの座に立つことになるのです。それは厳粛(げんしゅく)な時です。  

 「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになる」という「報い」に関して、7~10節でパウロは説明します。この「報い」は、「永遠のいのち」の報いと、「神の刑罰を受ける滅び」の報いの二つしかありません。その中間は無いのです。  

 「忍耐をもって善を行い」(7節)とは、特に迫害下にあっても、人の言葉や周囲の状況に押し流されることなく、神の御心に従っていくことです。「栄光と誉れと不滅のものとを求める」とは、神ご自身を求めることです。彼らには「永遠のいのち」が与えられます。  

 「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者」(8節)とは、「利己的な思いから真理に従わない」ことです。「党派心を持ち」という言葉の原語は、「自分の利益を求める」「賃金、報酬を求める」「自分の野心のために働く」という意味があります。イエス・キリストにおいて啓示されている神の真理に従おうとせず、ユダヤ主義者たちのように自分の利益を求めて党派心を生かしていこうとする者に、神の怒りと憤りが下るのです。  

 「患難(かんなん)と苦悩」(9節)とは、永遠に続く死後の苦しみを指しています。永遠の滅び、あるいは「永遠の刑罰」(マタイ25:46)と言われるものです。それは地上の苦しみとは比べられないほどの苦しみです。「悪を行うすべての者」すなわち、神の御心であるキリストを拒否する者に下ります。  

 「栄光と誉れと平和」(10節)は、永遠のいのちによって与えられるものです。「善を行うすべての者」すなわち神の御心であるキリストを信じる者にあります。    


 パウロは、キリストの福音をローマの人々に伝えるにあたって、まず「どのようなところから救われるのか」を明確にしています。それは「神の正しいさばきの現れる日の御怒り」からの救いです。そして御怒りを積み上げた結果の滅びも、神の恵みを積み上げた結果の永遠のいのちの救いも、民族や特定のグループなど人間的枠には一切よらず、「ひとりひとり」の行いに従っていて、そのことに関してはえこひいきなどないのです。  

 では神が望まれる行い、神の御心を行うとは、どうすることでしょうか?神が永遠のいのちを与えてくださる、神の御心にかなった行いとはどのようなものでしょうか?それは、神が遣わしたイエス・キリストを信じることです(ヨハネ福音書6:27~29)。人々がイエスから「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と言われて、「神のわざを行うために何をすべきでしょうか?」と問いかけます。その時にイエスは、「あなたがたが神が遣わした者(キリスト)を信じること、それが神のわざです」と答えました。ここの「わざ」は原語では単数です。つまり神が遣わしたキリストを信じることだけが、唯一の神のわざなのです。キリストを信じることから始まり、キリストを信じることに尽きるのです。キリストを信じたら、信じたように生きるようになります。私たち人間のわざは、どこまでも不完全です。神の御心に完全にかなった行いはできません。でもキリストを信じる時に、神はその信仰を完全な神のわざと見てくださるのです。信仰そのものも不完全な信仰だと思えるかもしれません。それでよいのです。その不信仰な者をもあわれんでくださる神と信じていくのが信仰です。  

 キリストは、私たちのすべての罪の身代わりに十字架で死なれました。それは本来私たちが受けるべきだった神の刑罰、神の怒りをキリストが受けて死なれたということです。キリストのこの犠牲の愛を信じ感謝して受け取るだけで、永遠の滅びから救われるのです。救われた者は、その救いの大きさを感謝するとともに、またこの福音が広がっていくことを喜びとします。滅びからいのちに移された者は、このキリストの驚くべきみわざを体験した者として、またその救いのすばらしさを証言していくために生かされています(Ⅰペテロ2:9~10)。このクリスマスも、救いの喜びで満ち溢れますように。その祝福がひとりひとりを通して、全地に広がっていきますように!  
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 12月9日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「神の豊かな慈愛」

         ローマ人への手紙2:3~4 三浦真信牧師

<3節>

 自分たちは神の律法を持ち忠実に守っていると自負していたユダヤ人たちは、パウロが1章で記した異邦人の罪の実態に対して、異邦人をさばき非難する思いがあったことでしょう。彼らは自分たちの正しさを主張して、あたかも自分を神の位置に置いて異邦人をさばいています。それ自体が神への冒涜(ぼうとく)でした。しかも彼らは道徳心で行動は抑えていますが、その心の中は汚い思いでいっぱいでした。それは異邦人もユダヤ人も変わりありません。結局神の前には、すべての人はどうしようもない存在なのです。神の前に立つなら、本来神のさばきを免(まぬか)れる人はひとりもいません。 


<4節>

 「神の慈愛が悔い改めに導く」ことに関しては、イエスが話された放蕩息子(ほうとうむすこ)のたとえがあります(ルカ15:11~24)。父から受けた財産をもって遠い国に旅立った弟息子は、放蕩三昧(ほうとうさんまい)して湯水のようにお金を使い果たします。やがて食べるものにも困ったときに、弟息子は父の元に帰っていきます。手放しで迎え入れる父親に、自分のしたことを弟息子は謝ります。父親は大喜びで彼を迎え宴会を催します。この父親のように、神は当時罪人と呼ばれていた人たちが神の元に立ち返ることを喜ばれました。そのことを象徴するかのように、神が遣わしたイエスは、罪人らの友となり親しく食事をしました。この「神の慈愛」により、罪の中でもがき苦しんでいた人々が悔い改めに導かれ、神に立ち返ることができたのです。悔い改めは、このように神の慈愛に触れて初めてなされるものです。悔い改めは、今自分のいる場所が本来いるべき所ではないことに気づいて、向きを変えて神の元に立ち返ることです。  

 「その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか?」  ユダヤ人は、歴史を通して「神の豊かな慈愛と忍耐と寛容」を体験的に知っている民族です。神の慈愛の大きさを奴隷として苦しんだエジプトからの解放などで体験し、その後の荒野で神に何度も罪を犯したことに対する神の忍耐を知り、それでもまた神を呼び求める時に赦し受け入れてくださる神の寛容を体験しています。その神の豊かな慈愛に感謝するなら、人をさばくことなどできないはずなのです。神への慈愛と忍耐と寛容を軽んじているから、「自分の正しさを主張して人をさばく罪」に対して悔い改めるに至らず、異邦人との間に壁を作ってしまっているのです。  

 弟の帰還を喜んで祝う父親に怒りをぶつける兄息子に対して、父親は「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」と言います(ルカ15:31~32)。このたとえは、当時のユダヤ教指導者・律法学者・パリサイ人たちに対してイエスが語られたものです(ルカ15:1~3,11)。ユダヤ人たちも、これまで神の慈愛をたくさん受けてきたのです。それなのに、まるで何も受けていないかのように不平を言って異邦人の救いを喜べないのは、この兄息子と同じです。  

 ユダヤ人だけでなく、人をさばくすべての者たちに、神は今も「神の豊かな慈愛と忍耐と寛容を軽んじるのですか?」と問いかけておられます。神から豊かな慈愛を受け、神への不従順に対してこれまでも忍耐していただき、また立ち返った時に赦し受け入れてくださる神の寛容を知っているのなら、まずそのことを感謝しましょう。そうでなければ、造り主なる「神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしく」なっている異邦人と同じことになります(ローマ1:21)。  

 人が悔い改めに導かれ、神に立ち返るのは神の慈愛に触れた時です。神の慈愛を受けた者は、そのことをたえず感謝しながら生きる者とされたのです。そこに立つなら、人をさばく位置に自分を置き続けることはできなくなります。  暗やみの中にいた者たちにいのちを与えるためこの地に生まれてくださったキリストに感謝をささげましょう。「キリストの命がけのご愛をあなたがたは軽んじるのですか?」と今も私たちに問いかけられています。  
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 12月2日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「他人をさばく人」

         ローマ人への手紙2:1~2 三浦真信牧師

<1節>

 「すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません」
 これは、「彼らに弁解の余地はないのです」(1:20)と同じ表現です。異邦人たちが、神が造られた壮大な宇宙や自然の神秘を知っても、造り主を崇めないで被造物を神のようにしていることと同じように、他人をさばく人にも弁解の余地がないのです。神の怒り(1:18)は、目に見える物を神のかたちに代えた不敬虔(ふけいけん)だけでなく、他人をさばく者たちにもくだされます。

 「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています」  イエスは、ユダヤ教指導者パリサイ人たちが、他人の目の小さなちりを非難しながら、自分の目の中にある大きな梁に気づいていないことを指摘しています(マタイ7:1~5)。人をさばくことができるのは、唯一神だけです。人をさばくとは、自分を神の位置に置くことです。神と同一視することです。本来これほどの神への冒涜(ぼうとく)はありません。でも自分の目のちりが見えないと、人は平気でこれをしてしまうのです。ですから、他人をさばくことで、自分自身に有罪判決を下しているのです。  

 「さばくあなたがたが、それと同じことを行っているからです」 自分では正しいことを行っていると自任していても、実は自分たちも同じことをしているとパウロは指摘します。「悪意、ねたみ、争い、高ぶり、陰口…」(1:29~31)は、実際には行動に移さなくても、同じ根をすべての人が持っています。異邦人と同じ欲望は、人間の中にあります。道徳心で抑えていたとしても、心の中は汚いものでいっぱいです。そう考えると、私たちは人がしていることを簡単に非難することはできません。


<2節>

 新改訳2017では、「そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下る」となっています。神のさばきは無原則ではなく、「真理に基づいて」下されるのです。人間のように、自分の気分で怒ったり不機嫌になるのとは全く違います。神は真理に基づいて正しくさばかれます。その基準は聖書で明らかにされています。

 異邦人の罪の現状、そして欲望のままに汚れに引き渡される(1:24)ことが、どれほど恐ろしいことで望みのないことかが1章で提示され、それを読んでいた特にユダヤ人たちは「自分たちは違う」と他人事のようであったかもしれません。でもその異邦人をさばき、自分たちは関係がないと言っている彼らも、神のさばきの元にあることがここで明らかにされています。

 「人をさばく」ことは、表面的には見えにくいため、たいしたことではないと人は思いがちですが、神からご覧になれば、神のさばきの対象なのです。明らかに「それは罪だ、人としてどうなんだ…」と言える罪は、人の目にも明らかなため、指摘されれば罪と認めやすいでしょう。でも内面的な罪は、表面に出ないだけにわかりにくく、質が悪いです。

 結局自分の欲望に従っている異邦人も、そういう人をさばいているユダヤ人も、神の目にはどうしようもない存在です。造り主から離れてしまったら、望みのない存在です。でも汚れに引き渡された人間には、自力できよい神に近づくことができません。だから神の方で救いの手を差し伸べてくださいました。救い主イエス・キリストを送ってくださったのです。どっちに転んでも、神のさばきを受けるしかない私たちを救うために、2000年以上前に神の子キリストはこの地に生まれてくださり、すべての人の罪の身代わりとなって十字架で死なれました。このキリストを信じるだけで救うという、実にシンプルな救いの道を開いてくださったのです。

 私たちの罪はキリストが十字架で代わりに負って処分してくださったのです。罪の結果である死にも勝利してよみがえられたキリストが、私たちを神の元に導いてくださいます。だから、もう自分をも人をも責めなくてよいのです。神もキリストにある者たちをお責めになりません。十字架のキリストを見上げるたびに、赦された喜びと罪から解放された安心があります。 神なく望みなく、欲望に埋没して滅びに向かっていた者、あるいは「自分は正しい」と自分の義を振りかざして人をさばき続ける空しい人生を歩んでいた者も、キリストの元に行くなら救われます。辛く悲しいことがたくさんある人生にあっても、神が共にいてくださる平安があります。神が一人ひとりに用意してくださっていた地上での目的を果たしていく充実した生き方ができます。死んだ後にも、新天新地において復活のからだが与えられ、神と共に永遠を生きる希望があります。 罪人を救うために生まれてくださった救い主キリストの誕生を、心から感謝いたします!

 
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