(2018年11月)

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 11月25日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「イザヤの召命~罪の自覚・赦し・応答~」

         イザヤ書6:1~8   豊村臨太郎伝道師

<はじめに>

 今年の久遠教会のテーマは「罪人のための救い」で、テーマ聖句の第一テモテ1章15節aは、パウロが若い伝道者テモテに宛てた手紙の一節です。パウロは自分がどのようにイエス・キリストの宣教者に召されたのかを証する中でこの言葉を語っています。ですから、この箇所からはパウロ自身の「罪の自覚」、「赦された喜び」、「恵みの応答」としての「献身」を読み取ることができます。  

 「献身」は神に自分自身をおささげすることですが、それは牧師や伝道者だけではなく、すべてのクリスチャンが招かれているものです。また「献身」は、自分の能力や才能が根拠ではありません。むしろ、弱さや罪を抱えたありのままの自分が神様に触れられ、恵みによって召され、それぞれの場所へと送り出されていくものだと信じます。  

 聖書に登場する預言者や伝道者たちも同じでした。ですから彼らの物語は、私たちの信仰の歩みにも重なります。今日はそんな人物の一人、預言者イザヤがどのように神様に召されたのかをご一緒に読みたいと思います。


<1節>

 「ウジヤ王が死んだ年」は、紀元前740年のことです。ここからイザヤは約40年間、預言者として南ユダ王国を中心に活動しました。もともと統一王国だったイスラエルは、ソロモン王の後、南北に分裂します。ウジヤ王は南ユダの十番目の王で、とても良い王でした。偶像礼拝を避け、宗教、政治、経済、軍備、すべての面で国を繁栄させました。しかし、晩年に高慢の罪に陥り(Ⅱ歴代26:16)、病に犯され、亡くなる前の8年間は隔離されて生活しました。後のヨタム王は信仰面で堕落し、国内の政治は腐敗していきました。また、国外ではアッシリア帝国が周辺諸国を滅ぼし、北イスラエルの滅亡が近づきます。そして、南ユダにも脅威が迫っていました。  

 そのような国内外ともに大きな変化の時に、イザヤは神殿で「高くあげられた王座に座しておられる主」の幻をみます。「高くあげられた王座」は神の宇宙的な大きさを、「衣のすそ」は偉大な神の光り輝く栄光を表しているのでしょう。宇宙大の圧倒的な神の臨在がその場を覆(おお)ったのです。  

 この時、イザヤは20歳くらいだったと思われます。彼は王や高官のところに自由に出入りすることができる立場でした。上流階級の一員として繁栄した国を見ていました。しかし、自分が理想としていたウジヤ王は死んでしまいました。おそらく、彼は失意の中で神殿に身を置き、国の行く末を案じて祈っていたのでしょう。その時、神の圧倒的な臨在を体験したのです。


<2節>

 神の臨在の中でセラフィムが登場します。神に仕える多くのみ使いたちです。翼が六つ、二つで顔を覆(おお)い、二つで両足を覆っていました。「顔を覆(おお)う」のは、畏(おそ)れ多くて神を見ることができない、「足を覆う」のは、汚れた足を出すことができないという表現でしょう。私たち人間も、本来は神の前に立つことのできない罪深い存在です。しかし、Ⅰヨハネ1:7節に「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめる。」と記されているとおり、イエス・キリストの十字架の血によって、汚れた罪が覆われ、神の臨在に入ることができます。キリストの血に覆われているから、私たちは今、ありのままで礼拝できるのです。


<3節、4節>

 み使いたちは神を賛美していました。「聖なる」は、原語では「別にする」や「分離する」という意味の言葉です。人間的なレベルで汚れていないということではなく、全く「別のもの」「違う」ということです。人間の王とも、偶像とも、全く別の存在である神を、み使いたちは賛美していました。その時、神殿は揺れ動き煙で満たされます。煙は罪深い人間と聖なる神との間に本来ある隔たりでしょう。


<5節>

 イザヤは「ああ、私は、もうだめだ」と叫びました。「もう、私は滅んでしまう。」とも訳せる言葉です。死の恐怖を感じたということです。「くちびる」は、自分の全存在が汚れているということです。「けがれた民」は口先だけで神を礼拝しているが、実際は信頼していない民のことです。  

 おそらく青年イザヤは雄弁だったのではないでしょうか。王族として育ち、宮殿や政治の場に顔を出し、王にも役人にも進言していました。偉大なウジヤ王が死に、「このままでは国がダメになってしまう。」そんな思いでイザヤは神殿にひれふし民のために憂いていたのかもしれません。しかし、主の臨在の中で、イザヤは自分こそが一番罪深いと気づかされます。聖なる神の臨在に触れた時、自分の一番の強さである「くちびる」(雄弁さ)が、罪だと示されたのです。聖霊による「罪の自覚」と言えます。今も同じように聖霊は、私たちの罪を示してくださるお方です。   


<6節>

 自分ではどうしようもない罪に打ちひしがれ、赦しを乞(こ)うことさえできないイザヤに「セラフィムが飛んで来」ます。神が一方的に罪人に近づいてくださるのです。その手には、祭壇からの燃える炭がありました。「祭壇」は罪のための犠牲がささげられる場所です。「炭」は犠牲としてささげられた子羊が焼き尽くされて炭になったものかもしれません。罪人のために宥(なだ)めのそなえものとして焼き尽くされてくださったイエス・キリストの十字架とも言えるでしょう。


<7節>

 新約聖書でバプテスマのヨハネは、イエス・キリストは聖霊と火によってバプテスマをさずけるといいました。ですから新約聖書の光に照らしてこの箇所を読むとき、「燃える炭」は「聖霊の火」とも理解できます。聖霊が触れてくださる時、罪は焼き尽くされ不義は取り去られるのです。「触れる」には、「そっと触れる」というニュアンスがあります。同時にこの「触れる」というヘブル語は、創世記32章25節では「打つ」と訳されています。ヤコブが神と格闘した箇所で、神が彼のもものつがいを「打った」という言葉と同じ語源です。  

 神の御手(みて)は「ソフト」であると同時に「強く」、「痛い」けれども「心地よい」のです。聖霊の取り扱いは、ヤコブが足を引きずって歩んで行ったように、人間的な力がなくなるほど「力強く」、それでいて、どこまでも「やさしい」のです。「罪の赦し」は、「神様から一方的に与えられるもの」  (イザヤ1:18)で、神の「力強さ」と「やさしさ」にあふれています。その神の御手(みて)に身をゆだねましょう。


<8節>

 そして、そのように罪をきよめてくださった神がイザヤに語り掛けてくださいました。「だれを遣(つか)わそう。だれが、われわれのために行くだろう」その「主の声を聞いた」イザヤは答えます。「ここに、私がおります。私を遣(つか)わしてください。」このイザヤの「応答」が私たちの体験となりますように。そして、イザヤを召してくださった同じ神の「召し」を、私たち一人ひとりが受け取ることができますように。祈りましょう。
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 11月18日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「欲望のままに生きる苦しみ」

         ローマ1:18~32  三浦真信牧師

  パウロは、ローマでぜひ福音を伝えたいと願っています(15節)。なぜなら「福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」だからです(16節)。

<18~25節>

 しかし「人々のあらゆる(神に対する)不敬虔と(人間同士の)不正に対して、神の怒りが天から啓示されて」いるため、「真理」がはばまれているのです(18節)。造り主なる神との関係が壊れているために、真理が見えなくなっているのです。そして「神の怒り」のもとにあることが、人の心を暗くし、人生を重くしています。

 神は、「神を知っていながら、その神をあがめず、感謝もせずにいる」人間に対して怒っています(21節)。「神の見えない本性、神の永遠の力と神性は、世界の創造の時から被造物によって知られ、はっきり認められる」のです(20節)。つまりこの宇宙、大自然、生命の緻密さを偏見なしに見るなら、すべての人にこれらを造られた偉大な神の存在は明らかにされているのです。生物学者パストゥールも月面着陸した宇宙飛行士ジム・アーウィンも、自然の研究や壮大な宇宙を見て神の存在と偉大さを信じました。地上のすべてのものを知恵深く目的をもって造られた神がおられることは明らかなのに、人はその造り主なる神を崇めず、感謝もせず、被造物(神が造られたもの)である人間や動物などを偽りの神に代えて拝み仕えました(23節)。造られた神からご覧になれば、その状態を見過ごしにはできません。神の怒りは当然なのです。「造り主なる神こそ、とこしえにほめたたえられる方」だからです(25節)。

 神ではないものを神のようにした人間は、自分たちの欲望を満足させてくれる神々と呼ばれるものを勝手に作り出しました。「自分の欲望を満たしてくれる神」を次々に作り出して拝みだしたのです。だから「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され」ました(24節)。即ち、人間が作り出した偶像礼拝から、神が本来良いものとして結婚という枠の中で祝福として与えてくださった性(SEX)を、欲望のままに用いていくようになったのです。そこから様々な性の歪みや倒錯が起きていきました。人は情欲はじめ、様々な欲望の奴隷となっていったのです。欲望という偶像の虜になっていきました。欲望のままに生きることが、どれほど不自由で苦しい結果を生み出すかを味わうように、神は人を汚れに引き渡されたのです。  


<26~32節>

 「造り主の代わりに造られた物を拝み仕えた」(25節)結果、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました」(26節)。欲望を神とし、「(造り主なる)神を知ろうとしたがらない」ため、「神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするように」なりました(28節)。そして人は「あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、慈愛のない者」となったのです。ここにあらゆる欲望を神とした人間の悲惨な姿、罪の暗さが具体的に示されています。

 そしてその先に神の裁きがあることを感じながらも、それを行う者に同調さえしています。欲望の奴隷となっていた時に、そこから何か良い実を得たでしょうか?その行きつくところは死です(ローマ6:20~23)。キリストが私の主となられた時に、死ではなく永遠のいのちの希望が与えられます。「いのちの道」と「死の道」があり、「いのちの道」を選択していくことが安心であり喜びとなるのです。神は、「あなたはいのちの道を選びなさい」と常に私たちに語りかけておられるのです(申命記30:19)。 欲望の奴隷となっている時は、どのようなものも偶像となります。いっけん良いことでも、

 欲望を満たすためにしていることは最終的に良い実を結ぶことはありません。でも心の欲望のままに生きることが身についてしまっている私たち人間には、そうだとわかっていても自分を変える力がありません。だから福音が必要なのです。キリストが必用です。キリストを信じることから、すべてが始まります。欲望の奴隷としてしか生きられない不自由な私たちを、キリストが解放してくださいます。キリストを信じて生きる時に、キリストが私たちに新しい人生を与え、造り主をほめたたえ、感謝して生きる幸いな道を与えてくださるのです。これが「恵み」です。自分では、これまでに染みついた生き方を変えることができません。「もうだめだ、自分の中からは何の良いものも出てこない。罪汚れが出てくるばかりだ…」と認めた時に、キリストが介入してくださるのです。自分に対してお手上げとなった時に、キリストが一方的に介入して、新しい創造をしてくださるのです。キリストの恵みが、私たちを罪から解放し、生かし続けてくださるのです。

 欲望という偶像から解放されていく時に、今度は自分の利益とか損得と関係なく、小さなことでも神と人に仕えたいという願いが起こされます。「今与えられている物、力、知識、経験を、神のために人のために用いていただきたい」と、自分の欲望を神として生きていた時にはなかった願いを起こし、新しい生き方へとキリストが導いてくださいます。

 心の欲望を神として被造物を神としていくのか、造り主ご自身を神として崇めていくのか、神はすべての人に問いかけておられます。そして「あなたはいのちの道を選びなさい」と神は今も招き、迫っておられます。この神の呼びかけに今応答しましょう。  
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 11月11日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「弱虫ギデオンを用いる神」

         士師記6:11~14、7:1~25  三浦真信牧師

 イスラエルを治めていたヨシュアが死んでから、イスラエルの人たちは自分たちで勝手に造った偽物の神を拝んだり、神さまを悲しませる悪いことを始めました。神さまのことを忘れて勝手なことをしているうちに、当時とても強かったミデヤン人がイスラエルを攻めてきて畑や食料を奪うようになり、イスラエルの人たちは食べるものにも困るようになりました。そのような苦しい生活が7年も続く中で、みな神さまに祈り叫ぶようになりました(7:1~8)。   「神さま、私たちはあなたのことを忘れて生きていました。ごめんなさい。どうかミデヤン人の攻撃から救ってください!」

 その頃ギデオンという青年が、ぶどうを踏む場所で小麦を打っていました。ギデオンはミデヤン人に見つかるのが怖くて、隠れて仕事をしていました。そんなギデオンの前に突然、神の使いが現れて言いました。「力ある勇士よ。神さまがあなたと共におられます」(6:12)。するとギデオンは驚いて、「神さまが共にいてくださるなら、どうして私たちはこんなつらい目に会うのですか?もうずっと私たちはミデヤン人に苦しめられているのです」と答えました。神の使いは、「あなたがミデヤン人からイスラエルを救うのです。神さまはあなたを選ばれたのですよ」と伝えます(6:13~14)。ギデオンはびっくりして「とても私にはそんな力はありません」と答えます。神の使いは「神さまが共にいてくださるから大丈夫です」と言いました。ギデオンは、なかなか御使いを通して神さまが言われたことを受け入れられませんでした。しかし最終的には神さまが共にいて助けてくださることを信じて、従っていくことにしました。

 さてミデヤン人と戦うために、国中からギデオンのもとに兵士が集まってきました。その数は3万2千人でした。ギデオンは「ミデヤン人の兵士の数は私たちよりもずっと多い。この人数で勝てるのだろうか?」と不安になりました。そのギデオンに神さまは「ギデオン、あなたと一緒にいる兵士は多すぎる。もっと人数を減らしなさい」と命じます。それは 今の人数でミデヤン人に勝ったら、イスラエルの人々が「神さまの助けがなくても自分たちの力で勝った」と自慢するかもしれなかったからです(7:2)。ギデオンは、今の人数でも少なくて不安でしたが、神さまがそうおっしゃるので、神さまの言葉を信じて従いました。そして神さまに言われた通り、「この戦いを恐れている者は帰りなさい」と言いました。すると兵士の数は半分以下になりました。それでも神さまはまだ数が多すぎるとおっしゃいました。そこでギデオンは、きれいな水が流れている川にみなを連れていき、手ですくって水を飲んだ300人を選び、他の兵士は帰らせました(7:5~7)。

 夜になって、ギデオンは「こんなに少ない人数で勝てるだろうか」ととても不安になりました。恐れているギデオンに神さまは、ミデヤン人たちの陣営にこっそり行って、彼らが何と言っているかを聞くようにギデオンに命じます。ギデオンと若者プラがこっそりミデヤン人の泊まっているテントに近づくと、一人のミデヤン人が仲間に話している声が聞こえました。「さっき大きなパンのかたまりが転がって来て、私たちのテントにぶつかりテントが倒れた夢を見たよ」。聞いていた仲間は、「それって、私たちがギデオンに負けるということではないか?」と不安そうに答えます。それを聞いて、ミデヤン人の方がイスラエルのことを怖がっていることがわかりました。神さまは、そのことをギデオンに知らせ、この戦いに神さまが勝たせてくださることを確信させてくださったのです。そしてギデオンは生ける神を礼拝しました(7:10~15)。

 神さまが共にいて勝利を与えてくださると信じたギデオンは、300人の兵士を三つのグループに分けて、それぞれに角笛とつぼを持たせました。つぼの中には火のついたたいまつが入っています。真夜中にギデオンは仲間を連れてミデヤン人のテントに近づくと、突然角笛を吹きならしてつぼを割りました。それを合図に、全員が一斉に角笛を吹き、大声で叫びながらつぼを割りました。ミデヤン人は、それでなくてもイスラエルを恐れていたので、そのすごい音を聞いてびっくりして逃げていきました。そして長い間苦しめられてきたミデヤン人からイスラエルは解放されたのです。

 神さまは、ミデヤン人に苦しめられてきたイスラエルの人々の祈りを聞いてくださり、ギデオンを勇士として選びイスラエルを助け出しました。ギデオンは、最初ミデヤン人を恐れて隠れていましたが、そのような弱虫ギデオンを神さまはイスラエルを助けるために用いてくださったのです。でもギデオンだけでなく、人間はみな弱虫です。恥ずかしいからあまり弱いところを見せないようにしたり強がったりしているけど、いざとなったらみんな怖がりだし、不安になるし、ビクビクしてしまいます。

 ギデオンも、ミデヤン人との戦いの直前まで不安で恐れていました。だから神さまは、ミデヤン人たちの方がこわがっていることを知らせるために、ギデオンをミデヤン人たちのテントに偵察に行かせました。どちらも恐れていたけど、ギデオンは神が共にいて勇気と力を与えてくださったので勝つことができたのです。 すぐに不安になったり恐れてしまう私たちに神さまは、「わたしが一緒にいるから恐れなくてよい」と言ってくださいます。「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主があなたの行く所どこにでもあなたとともにあるからである」(ヨシュア1:9)すぐに恐れてしまう私たちであることを神さまはご存じで、このよう励ましてくださるのです。

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ5:7)。私たちが心配する前に、神さまが私たちのことを心配してくださっています。ですからすべて神さまにお任せしましょう。

 そしてすぐに恐れてしまうギデオンを用いてイスラエルに勝利を与えた神さまは、私たちの弱さもご存じで、足りないまま私たちを用いてくださいます。神さまが、苦しんでいる人や困っている人を助けるために私たちを遣わしてくださる時には、「自分なんかとてもできません」と尻込みせず、神さまが共にいて力を与えてくださることを信じて出ていきましょう。
 
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 11月4日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「自分と周りを生かす喜び」

         ルカの福音書19:1~10、創世記12:1~3

                     廣瀬薫・東京キリスト教学園理事長

 今の時代に、自分が生き甲斐をもって手応えのある生き方を出来るのか、また自分の周りを生かす喜びを味わう生き方が出来るのか。ザアカイがイエス様に会うこの聖書箇所は、このテーマに答えを与えてくれます。  

 人生に二つの要素があるように思われ、一つは乗り物あるいは道筋で、学校、職業(どの会社)、結婚相手、子育て、住む場所など大切なことです。もう一つは目的地で、こちらの方が決定的に大切です。どんなに良い乗り物に乗っても、目的地に着かないのであれば意味はありません。


1. ザアカイの職業選択

 ザアカイなりに人生を考え、お金を蓄えていけば多くの困難に立ち向かうことができ、人生を生き抜いて行けると考えたのでしょう。嫌われる職業であることを承知の上で、取税人(しゅぜいにん)となったザアカイは、取税人のかしらに出世し、金持ちになりました。


2. 取税人になってみると

 収入や地位はありますが、人間関係など大切なものを失いました。 取税人は「罪人」と見られ、誰からも愛されない者となり孤独を感じるザアカイでした。そんな自分自身に劣等感を持っていた事でしょう。幸せとなる要素を失っていました。 聖書が教えるように、人間が幸せになるのには、①人間関係の基本の幸せな家庭、②自分を生かす持ち場、仕事場、③神様(教会)との関係、この3つの場が共に幸せに満たされていなければなりません。


3. 失われた人間を本来の姿に活かす力

 いちじく桑の木に登っていたザアカイを見て、イエスは「ザアカイ。急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われます(5節)。この一言でザアカイは一変します。失われ、迷子になっていたザアカイをイエスは何の条件も付けずに、受け入れました。

 ① 人間関係の回復:人間関係が壊れると、人は名前で呼ばれなくなります。イエスはザアカイの名前で親しく呼びかけられました。名前を呼ぶと言うのは、人格的な関係を持とうとして下さる事です。ザアカイはイエス様の暖かさに触れて心が癒(いや)されました。そして本来の人間関係を回復していく、これからは人々との和解と愛の関係に生きると言うのです(8節)

 ② 自分自身との関係:食事を共にするより事は完全に受け入れ合うことを意味しますが、さらに踏み込んで「家に泊まる」との申し出を受けました。「私とあなたは一つだよ、心を開いてほしい」とのニュアンスがあります。人々が寄り付かなかったザアカイの家に、イエス様は泊まると言って下さる。「ザアカイは急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた」(6節) イエス様は、ザアカイの全てを知った上で彼を受け入れます。無条件で受け入れられる事を通して、ザアカイは初めて自分で自分を受け入れられるようになったのです。誰が何と言おうと、イエス様に愛され受け入れられている尊い存在と分かったのです。

 イエス様はこのように、人が避ける問題に踏み込み、避ける人を呼びます。自分も問題を共有し罪・汚れを引き受け、十字架に処分するのがイエス様のなさり方です。

 ③ 神様との関係:「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」(9節) アブラハムの子(神の民)には、神様に救われた人と言う事と、神様の祝福を周りに拡げる人の意味があります。この家とは、使用人を含めた大きな共同体でした。神様がアブラハムを召されるところ(創世記12:1〜3)では、その最後に「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」と言われました。

 ザアカイの地上の持ち場に救いが来たとイエス様は言われたのです。ザアカイは救われて神様との関係を結ばれる、そして祝福の拠点として神様に用いられていきます。私たちが受ける救いと恵みは、私たち個人に留まらないで私たちが置かれている場に広がるものであることが示されています。


4. イエスに救われた後のザアカイ

 聖書に記されていないので想像でしかないのですが、そのまま取税人を続けたのではないかと思われます。不正な取税人ではなく本物の正しい役割を果たす取税人として生き、また、儲けたお金で世界を良くする働きをして行ったのでしょう。

 初代教会が大きく成長して行った要因は、一人一人のクリスチャンたちがあらゆる分野で大きなインパクトを与えて行った事によると思われます。

 東京基督教大学(TCU)はこれを目指しています。牧師だけでなく、あらゆる分野に聖書のキリスト教世界観に立って神の国を造る信徒献身者がいて欲しい。一人一人がそれぞれの持ち場でザアカイのように活躍する、それが日本のリバイバルへの道だと思っています。


5. 私たちは、今の時代をどう生きるのか

 聖書は、ザアカイに起きた事は、信じる全ての人に起きるのだと言います。

 第1に、神様は全ての人の名を呼んでいます。あなたを愛している神様の声です。
 第2に、神様は泊まって下さいます。「私はあなたと一緒だ」と言って下さるのです。聖霊の内住です。
 第3に神様は、私たちをアブラハムの子として活かし、用いられます。置かれた場所が祝福の拠点となり、周りを活かし喜びを広げる存在とされます。
                 (要約:田内博)

 
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