(2018年9月)

 ・ 9月16日
 ・ 9月 9日
 ・ 9月 2日
 




 9月16日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「義の栄冠を目ざして」

           テモテへの手紙第二4:6~8   三浦真信牧師

 パウロは、エペソ教会の牧会を託されたテモテにこの手紙を送っています。福音とは異なる教えを持ち込んできた偽教師の活動がある中で、健全な教え(福音そのもの)をしっかり伝えるようにテモテを励ましています。
 またパウロは、ローマ皇帝ネロの迫害により、ローマで投獄され殉教の死を目前にしている中でこの手紙を書いています。


<6節>

 1~5節で、地上にこれからも残るテモテの使命を確認させたパウロは、今度は「私は今や」と自分の今のことを語ります。
 「注ぎの供え物」とは、殉教を意味します。パウロはローマの牢獄で死を待つ身でしたが、このように手紙などを通して人々の信仰を励ましていました。
 「世を去る」(アナリュシス)は、船が航海するため岸から離れていく時や、兵士が前進するためテントを引き払う時などに使われる言葉です。パウロにとって、「死」とは古い世界からの解放であり、新しい世界への出発でした。その新しい世界への旅立ちの日がすぐ目の前に来ていました。地上での時間があまり残されていないという厳粛さと緊迫感を持ちながら、パウロは今この手紙を書いています。


<7節>

 ここでパウロは、自分の過去から今に至る生涯を総括しています。パウロは、「勇敢に戦い」ました。私たちの戦いは、信仰を守り通す戦いです。唯一の敵であるサタンは、私たちが信仰を失うように、あの手この手を使って誘惑してきます。信仰は、どれほどかつて熱心であっても、最期まで守り通さなければ意味がありません。
 伝道者パウロといえども、その誘惑はたえずあったことでしょう。「なぜこのような悲惨な出来事を神はお許しになるのか」「なぜ祈りにストレートに応えてくださらないのか」、様々な出来事をサタンは私たちの目の前に突きつけ、「ほら、神なんか信じていてもいいことないよ」と吠え猛ります。あるいは、罪責感を呼び覚まし、「お前の罪はまだ赦されていないよ」と、キリストの十字架の赦しが無効であるかのように囁いてきます。このようなサタンの声がある中で、信仰を守り通す戦いが生涯あります。
 またパウロはパウロで、そして私たち一人ひとりにもそれぞれ、神から与えられた地上での使命があります。それは、神から与えられたことを一つひとつ忠実に果たしていく時に、自分に与えられた役割、使命が明らかになっていきます。パウロは、迫害下においても福音を伝えていく使命があり、また今の年齢になってからは特に若い牧会者たちを励ましたり、迫害の中で戦う人々の信仰を励ます使命がありました。その「走るべき道のりを」走り終える時が近づいています。


<8節>

 「今からは」と、ここではこれからのことを記します。パウロのこれからは、「義の栄冠が用意されているだけ」でした。当時競技で優勝した人に授けられた花輪の冠をイメージしながら、「私のためには、朽ちることのない義の栄冠が用意されているだけです」と確信しています。
 地上の戦いが続いてきたけど、永遠から見ればほんのつかの間の道のりです。もうこれからは、その戦いからも解放され、復活の朽ちないからだが用意されています。
 「かの日」すなわち、キリスト再臨の時には、「正しい審判者」である神が、その義の栄冠を授けてくださるのです。ネロ皇帝は、法廷で不正な判決をパウロに下して処刑しようとしていますが、再臨の時には、神が正しく裁いてくださいます。これから与えられるものの素晴らしさと、神の正しい審判のゆえに、パウロは地上の不当な裁判も甘んじて受け取る覚悟でいます。「主の現れ」である再臨の日を慕い求める者には、だれでも漏れなく「義の栄冠」が授けられるのです。
 地上でたくさんの勲章やトロフィーを受けても、それらはやがて手放していくものです。朽ち果てていくものです。しかし「義の栄冠」は、朽ちることがありません。そしてこの「義の栄冠」こそ、受け損なったら取り返しのつかないことになってしまいます。

 この「義の栄冠」を目ざして、今それぞれに与えられている走るべき道のりを走りましょう。たとえからだが動けなくなっても、私たちは誰かのために祈ることができます。祈りによって世界を動かす世界宣教の働きに参与することができます。そして最期まで「信仰を守り通し」ましょう。
 ページの先頭に戻る

 9月9日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「力ある神の子」

           ローマ人への手紙1:2~7  三浦真信牧師

<2節>

 パウロは、「神の福音のため」に選び分けられ、使徒として召され、キリスト・イエスのしもべとなりました。その「福音」は、「神がその預言者を通して、(旧約)聖書において前から約束されたもの」です。パウロが作り出したのではありません。旧約の預言者たちを通して、昔から神が繰り返し与えてくださると約束されていた福音です。ですから、「福音」を通して読む時に、旧約聖書も新約聖書も一貫した神のことばとして受け取ることができるのです。


<3~4節>

 その預言されてきた福音とは、ズバリ「御子(イエス・キリスト)に関する」ことです。福音(Good News)とは、キリストご自身のことです(マルコ1:1)。

 そのイエス・キリストを、「肉によれば」と「聖い御霊によれば」とそれぞれに表しています。キリストは、神でありながら人となられた方です。100%神であり、100%人となられた方です。 「肉において」とは、キリストの人性を表します。人間イエスは、「ダビデの子孫として生まれました」。マタイの福音書にイエスの系図が掲載されています。「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)とあります。人間イエスは、ユダヤ人として生まれました。またユダヤ人たちが信仰の父として尊敬するアブラハム、またダビデ王の子孫として生まれました。

 霊的には(神性)、『死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として(新改訳2017では「力ある神の子として公に」)示された方、私たちの主イエス・キリスト』です。キリストが地上で行った最大の奇跡が復活です。キリストは、500人以上の弟子たちに復活の姿を現わし(Ⅰコリント15:6)、ご自身が神の子であることを公に示されました。その方が、「私たちの主イエス・キリスト」です。この方を信じる者たちにも、復活のからだが与えられるのです。ローマ帝国の時代には、皇帝も「主(キュリオス)」と呼ばれていました。それに対してパウロは、「人間としてはダビデの子孫として生まれ、神なる方としては十字架で死んで三日目に復活し、力ある神の子であることを公に示されたキリストこそ私たちの主です」と告白しています。

 キリストを信じる者は、「イエス・キリストは死者の中から復活した」と信じます。そこが曖昧だと、空しく希望のない形式的な信仰になってしまいます(Ⅰコリント15:14,17)。キリストは確かに死から復活しました。この方を信じる者はみな、地上の肉体が滅びても、復活のからだを神から与えられるのです。復活のからだによる永遠のいのちを受けます。これこそGood Newsです。


<5節>

 福音そのものであり、死者の中から復活した力ある神の子キリストによって、パウロは「恵みと使徒の務め」を受けました。パウロにとって、「恵みと務め」は一つでした(Ⅰコリント15:9~10)。パウロは、神の恵みによって使徒になりました。かつて神の教会を迫害していた自分を省みると、「使徒と呼ばれる価値のない者」と常に思われました。使徒になってからも他の使徒たちより多く働きましたが、それも自分の力ではなく神の恵みでした。ですから多く働いても、自分の誇りとはなりませんでした。ただ神の恵みにつき動かされて神に人に仕えたので、神への感謝しかありませんでした。私たち一人ひとりも「恵みと務め」を神から与えられています。受けた恵みは、消化しないと恵み太りします。神の恵みを受けたら、その恵みによって神に仕えましょう。逆に恵みなしに働き続けると霊的にやせ細ってしまいます。しっかり神の恵みを受け取り続けましょう。恵みが先行している時には、自分の誇りにも、また人への不満にもならないのです。

 パウロと私たちが、「恵みと(キリストに仕える)務め」を受けた目的は、「御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすため」です。何のために私たちが神の恵みを受けたのかを忘れないようにしましょう。私たちが恵みを受けたのは、キリストへの信仰と従順を世界中にもたらすためなのです。キリストを信じたら、その信じている方に従いたいと願うのは自然なことです。「信じているけど、従う気はない」というなら、それは本当に信じているとはいえません。キリストを信じ、キリストに従うことの喜びを世界中の人々にもたらすために、まず私たちが先に恵みを受けたのです。


<6~7節>

 ローマのクリスチャンたちも私たちも、5節の「あらゆる国の人々」の中に含まれています。先に恵みを受けた人々によって、神の恵みが私たちにもたらされたのです。そして私たちはみな、「イエス・キリストによって召された」のです。神に呼び出された一人ひとりなのです。「神に愛されている」一人ひとりです。「召された聖徒(神に呼び出され神のご計画のために世から取り分けられた者)」です。

 最後の挨拶は、パウロがよく使う表現です。キリストの恵みによって、私たちに平安がもたらされます。

 福音そのものであるイエス・キリストは、「力ある神の子」です。死者の中から復活した方です。この方の恵みを、私たちは受けたのです。それは自分だけで喜ぶためではなく、あらゆる国の人々にこの恵みがもたらされるためです。恵みを受けた者たちが、キリストに従って生きる喜びを伝えるために、まず私たちに恵みが与えられました。この恵みを内に溜めるのではなく、恵みにつき動かされて仕えましょう。

 何のために私にこのすばらしい福音の恵みが与えられたのか、そして何のために今生かされているのかを忘れないようにしましょう。今も福音は世界中に広がり続けています。これまで福音が届いていなかった地域にも福音が届けられています。救いの喜びは広がっています。その福音の広がりの中で、私たちも恵みを受けて救われました。その恵みとともに、主から務めも与えられています。恵みによって神に人に仕えましょう。
 ページの先頭に戻る

 9月2日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「すべて福音のために」

           ローマ人への手紙1:1  三浦真信牧師

 これからしばらく礼拝で、ローマ人への手紙を通して神様の御声を聞いてまいりましょう。ローマ人のへの手紙を選んだ理由は、

①今年のテーマである「罪人のための救い」を受け取るため。

 私自身が罪からの解放を受け(ローマ3:24)、また罪赦された者として生きる献身の道を示された(ローマ6:13)書簡でもあり、また古代の神学者アウグスチヌス(13:11~14)、宗教改革者マルチン・ルター(1:17)も、ローマ書のみことばでキリストの救いを明確に受け取りました。恵みの救いを今、私たちも受け取りましょう。

②信仰歴の長い人にも信じて間もない人にとっても大切な福音が豊かに語られています。

 新約聖書の中で、パウロは13の手紙(ローマ書~ピレモン書)を書いています。ローマ書は、パウロが第3回伝道旅行の際に3か月コリントの町に滞在した時に書かれたと考えられています(執筆年代は紀元57~59年の間位)。その時点で、パウロはまだローマを訪れたことはありませんでした。他の書簡はパウロが訪問したあとに様々な問題が起きてきて、そのことへのアドバイスをする目的で書かれていますが、ローマはまだ行ったことのない未知の教会でした。これから訪問しようとしているローマ教会に、パウロが宣べ伝えている福音がどのようなものかを、自己紹介も兼ねて伝える目的がありました。ですからローマ書では、福音について様々な角度からパウロが受けたことを記しています。

 ローマの教会(一つの建物ではなく散在する家の教会)は、ユダヤ人信徒より異邦人クリスチャンが多かったと考えられています。キリストを信じて新生したばかりの異邦人クリスチャンたちが、しっかり福音を理解するために大切な内容が記されています。また長年神のことばを大切にしてきたユダヤ人たちにとっても、再度福音を確認するとともに、今の時代だから、また今の年齢だから理解できる福音の側面があります。信仰歴の長さに関わらず、ローマ書から福音をしっかり受け取りましょう。

<1節>

 パウロは、ローマに散在するキリストを崇める共同体に、まず手紙であいさつを述べます。 この1節は、原語では「パウロ、奴隷、キリスト・イエスの」で始まります。この手紙の著者パウロ(パウロの言葉を筆記したのはテルテオです。16:22)のことをローマの人は、伝道旅行で出会った人たち以外はほとんどが知りません(16章)。ですから、パウロはまず自分が何者であるかを伝えます。そのパウロの自己紹介の最初が、「パウロ、奴隷、キリスト・イエスの」です。普通でしたら、まず「使徒である」ことを伝えるでしょう。しかしパウロにとっては、使徒であることよりも、キリストの奴隷であることのほうが大事なのです。

 当時は奴隷制度がまだありました。この手紙を読む人の中には、実際に奴隷がいたでしょうし、奴隷とはどのようなものかを人々はよく知っていました。ですから手紙の最初に「パウロ、奴隷」とあるのは衝撃的でした。奴隷は、主人に対して絶対服従でした。権威的な主人のもとで働く奴隷たちは大変でした。今の時代でしたら、パワハラで訴えられるような横暴な主人もたくさんいたことでしょう。主人の一挙手一投足にビクビクしながらも、生きていくために我慢して従うしかなかった奴隷も多くいたことでしょう。

 でもパウロが仕える主人、キリスト・イエスは違います。パウロは嫌々キリストに従っているのではなく、喜んで心からキリストに仕えました。自らこの方の奴隷になりたいと思うほどに、キリストは素晴らしい主人なのです。パウロは、むしろキリスト・イエスの奴隷であることを誇らしく思っているかのように、まず「パウロ、私はキリスト・イエスの奴隷です」と紹介しています。パウロが仕えるキリストは、奴隷のように人々に仕える主人です(ピリピ2:6~9)。「俺はお前の主人だから言うことを聞け!」というのではなく、神でありながら、自らその立場をおりて仕える者の姿をとってくださった方です。そして本来すべての人が受けるべき罪の罰を、全部代わりにその身に負われ、十字架の死にまで神の御心に従ったのです。「仕える者の姿をとられたキリストが私の主人です、このキリストに従う私パウロです」と、キリストとパウロの関係がまず紹介されています。

 パウロは、キリスト以外の何ものにも支配されませんでした。かつては「罪の奴隷」でした。その時には、何の良い実も得られませんでした(ローマ6:17~23)。しかしパウロはその罪の奴隷から、キリストに買い取られて自由になりました。安心してついていける方が主人となったのです。

 パウロだけでなく、キリストによって罪から解放された者たちは、みな「キリスト・イエスの奴隷」です。それがキリストと私との関係です。キリストが「右に行きなさいと言われれば、自分の思いが左でも右についていく」のがキリストの奴隷の生き方です。私たちのためにいのちを捨てて仕えてくださった方だから、信頼してついて行くことができるのです。そのキリストが「右に行きなさいと言われれば、自分の思いが左でも右についていく」のがキリストの奴隷の生き方です。  

 そして「神の福音のために」「選び分けられ」「使徒として召され」「キリスト・イエスのしもべとなった」と続けます。「神の福音のために」が、以下の三つにかかっているのです。

①神の福音のためにパウロは選び分けられました。

 「選び分ける」の原語は、「アホリゾー」です。この言葉は、「ある目的のために区別して取り分けておく」という意味があります。パウロの場合は、異邦人伝道のために選び分けられていたのです。私たち一人ひとりも、神の福音のために、神の特別なご計画のために、区別して取っておかれた存在です。

②神の福音のためにパウロは使徒として召されました。

 「使徒」とは、「遣わされた者」の意味ですが、新約聖書では特に「初代教会の基盤を築くため、キリストの代理人としてたてられた」特別な職務です。「召された」は、「called」です。神の福音のためにパウロは神に呼び出されたのです。それは人間から出たことではありません(ガラテヤ1:1)。ある宗教改革者は、「伝道者だけでなく、すべての職業は神からの召命によってなすべきもの」としています(「職業、天職」のことを「calling」といいます)。

③神の福音のためにパウロはキリスト・イエスのしもべとなりました。

 このようにすべては福音のためです。キリストに出会った後のパウロは、何をするにも福音のためにしました。嫌々ではなく、そのようにさせる力が福音にはあるのです。この福音の力、豊かさを、これからローマ人への手紙を通して体験していきましょう。今の時代に、今のそれぞれの年齢になってわかる真理があります。今神が語っておられる福音を受け取りましょう。      
 ページの先頭に戻る