(2018年8月)

 ・ 8月12日
 ・ 8月 5日
 




 8月12日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「罪の赦し−光の中を歩む−」

           ヨハネの手紙第一 1:1〜9 豊村臨太郎伝道師

 <執筆背景>

 ヨハネの手紙は、イエス・キリストの弟子ヨハネが、生涯の晩年(紀元90年頃)に、エペソで書いたと言われています。当時のキリスト教会は、復活のイエスと出会った人々や、十二使徒やパウロから福音を聞き回心したクリスチャンが少なくなっていました。そんな中でいくつかの問題が起こり、その解決のためにヨハネは手紙を書いたと思われます。  

 問題の一つは、クリスチャンの「喜び」が薄れていたことです。同時期に書かれたヨハネの黙示録からも様子がうかがえます。また、間違った教えの影響もありました。当時、流行していた考え方で、「肉体は悪、霊は善」という二元論がありました。それが教会に入り込み、「肉体は悪なのだから、神の子であるイエスが人となるはずがない。」という誤ったキリスト理解や「霊が聖ければ、体は何をしようと関係ない。罪など存在しない。」という、人間の罪を否定する考え方にもつながりました。キリストの受肉と人間の罪が否定されるのですから、十字架の意味が失われました。福音の核心がゆらぎクリスチャンの「喜び」が失われていたのです。


<1節、2節>

 そのようなクリスチャンに対して、ヨハネは自分が「聞いて、目で見て、触れた」(1節)お方について語り始めます。「いのちのことば」(1節)「永遠のいのち」(2節)と表現されているのはイエス・キリストのことです。ヨハネは、イエス・キリストを伝えることで、クリスチャンたちに福音の原点を思い起こさせようとしています。


<3節、4節>

 手紙の具体的な目的として、「交わりを持つようになるため」、「喜びが全きものとなるため」(新改訳2017では「満ちあふれるため」)とあります。ヨハネは「父なる神様とイエス様との交わり」をもつことで、クリスチャンに与えられている「喜び」が回復されることを願っています。最後の5章にも「私が…これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(5章13節)とあります。つまり、「父なる神様とイエス様との交わりをもつ」というのは、「永遠のいのちの実感をもつ」と言い換えることができます。  

 「永遠のいのちの実感」とは、イエス・キリストを信じることによって与えられる「罪の赦し」「心の平安」「この世では味わうことのできない喜び」と言えるでしょう。キリストを信じる者には、聖霊によって、「永遠のいのちの実感」が与えられています。しかし、その実感が様々なことが原因で失われやすいのです。ですからヨハネは「永遠のいのちの実感」と、そこから溢れる「喜び」が全きものになって欲しいと願い、様々な角度から語っています。その中から三つの点を取り上げて、今週から三回ご一緒に学んでゆきたいと願います。   

 第一週(8/12):「罪の赦し‐光の中を歩む‐」   
 第二週(8/19):「罪からの解放-古い自分との別れ-」   
 第三週(8/26):「人(兄弟)を愛する‐愛することを選び取る‐」


 <「罪の赦し−光の中を歩む–」(5節〜9節)>

  (1)「罪を認める」  

 「罪の赦し」のために必要なことの第一は「罪を認める」ことです。5節に「神は光」とありますが、「神様はきよく正しいお方」だということです。「闇」とは「罪」のことです。「罪」は私たちを神様との交わりから遠ざけます。そして、「永遠のいのちの実感」を失わせます。ですから、神様との交わりに入るために、まず自分の罪を認めることが必要です。8節に、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」とある通り、どんな人にも例外なく罪があります。他人の罪でも、人類の罪でもなく、自分の罪を個人的に認めましょう。

 (2)「罪を告白する」

 「罪の赦し」のために必要なことの第二は「告白」です。9節に「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。「罪を言い表す」というのは、心の闇を神様の光に照らしていただくことです。暗い部屋の中に一筋の光がさす時、一瞬で闇が消えさるように、私たちが罪を告白した瞬間に赦されます。神様の前に一人で祈ってもよいと思います。また、信頼できる人と一緒に祈ってもよいでしょう。 大切なのは自分の罪を認めて具体的に言い表すことです。神様は、その瞬間、罪を赦してくださいます。罪の赦しについて二つの御言葉をご紹介します。  

 「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎(とが)を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32篇5節)  

 「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1章18節)

(3)「みことばを受けとる」

 「罪の赦し」のために必要なことの第三は「みことばを受けとる」ことです。もし、私たちが自分の罪を認めて、明確に告白したなら、赦されたと信じる(受け取る)ことが大切です。たとえ「赦された感覚」がなくても、みことばに焦点を合わせることが大切です。1章9節には「私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。注意して読みたいのは「神は真実で正しい方」と書いてあることです。神様は「情」で赦すのでも、単なる「やさしさ」で赦すのでもなく、「真実で正しい方」だから、赦してくださるのです。その根拠はイエス・キリストの十字架です。ヨハネの手紙第一2章1節と2節には、「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための−−私たちの罪だけでなく、世全体のための−−なだめの供え物です。」とあります。私たちが罪を犯しても、全世界のためのなだめの供え物として、十字架で死んで下さったイエス・キリストが弁護してくださいます。だから、たとえどんな罪を犯したとても、何度も罪を犯しても、悔い改めて告白したら赦されるのです。そして、自分の「感覚」ではく、神様の「みことば」に自分自身を合わせる時、聖霊が働いてくださり、赦されたという実感も与えてくださいます。  

 私たちが①自分の罪を明確に認め、②神様の前に真実に告白する時、③確実に罪が赦されます。そして、イエス・キリストを通して既に与えられている「永遠のいのちの実感」が強められ「喜び」が回復されると信じます。  

 「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎(とが)を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32篇5節)    
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 8月5日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「互いに祝福する礼拝」

           ルカの福音書24:44~53  三浦真信牧師

<44節>

 主イエスは、「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する」と弟子たちに話しておられました。つまり、旧約聖書に書いてあるイエスについてのことは、必ず実現するということです。律法は人間が幸せに生きるために大切なものですが、人間の力で完全に守り行うことができません。律法の前には罪の咎めが生じ、「ああ、自分はだめだ」と失望することばかりです。だからこそ、罪から救ってくださる方が待ち望まれたのです。その救い主の到来が、預言書(イザヤ書など)、詩篇などを通して予告されてきたのです。イエスの十字架の死と復活によって、「神のことばは必ず全部成就する」ことが明らかにされたのです。


<45節>

 「旧約聖書に書かれた通りにイエスが十字架で死んで三日目に復活した」ことをわからせるために、復活の主イエスは弟子たちの心を開かれました。イエスが心を開いてくださらなければ、聖書の言葉はただの文字になってしまいます。復活の主イエスが私たちの心を開いてくださる時に、聖書が生きた言葉として、また真実な言葉として、私たちの心に飛び込んできます。  イエスはかねてから、弟子たちに十字架の死と復活を予告しておられました。しかしその時に彼らの心は閉ざされていました(ルカ9:22、44~45)。でも今、復活の主イエスを目の当たりにしている弟子たちの心をイエスが開かれた時に、彼らは聖書の通りのことが実現したことを悟ります。イエスが弟子たちの心を開いてくださったので、聖書に書かれた通りのことが起きたのだと理解したのです。


<46~48節>

 イエスは弟子たちの心を開き、聖書から以下のことを語ります。

 ① キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえること。これはすでに実現しました。

 ② キリストの名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣(の)べ伝えられること。バプテスマのヨハネによる、罪の赦しを得させる悔い改め(3:3)は、ヨルダン川という限られた地域で、ユダヤ人という限られた人々の中に起きました。しかしこれからは、イエス・キリストの名によって、悔い改めるすべての人が罪の赦しを受けるのです(使徒2:38、3:19)。今私たち一人ひとりもその恩恵にあずかっているのです。

 ③ イエスの弟子たち(私たち)は、これらのことの証人であるということ。キリストの名によって罪の赦しを得た者たち、復活して今も生きておられる主イエスに出会った者たちは、これらのことの証人なのです。地上の立場は、会社員であったり主婦であったり学生であっても、神の国における私たちは「キリストの証人」なのです(使徒1:8、マタイ28:18~20)。そのことを忘れないようにしましょう。


<49節>

 そしてイエスは弟子たちに、「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります」と言われます。それは助け主聖霊です(ヨハネ福音書14:16~)。復活の主イエスが、聖霊を送ってくださることを強調しています。  

 「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」とイエスは弟子たちに命じました。聖霊の力を、衣服を着るように身にまとうのです。「力(デュナミス)」はダイナマイトの語源になった言葉です。聖霊の爆発的な力は、地上からも人からも出てきません。いと高き所から与えられるものです。その力は、やがてペンテコステの時に与えられます。それまでは都エルサレムにとどまるようにと、主は命じました。都エルサレムは、イエスの弟子たちを当局が捕らえにくるかもしれない恐怖の場所です。でもその現場で、主が送ってくださる聖霊を待ち望むのです。「キリストの証人」として生きるために、私たちは聖霊の力を着せられる必要があるのです。エルサレムに留まるのは、聖霊の力を着せられて、やがて散らされていくためです。力を受けるためにエルサレムに留まりますが、それはやがて力を着せられて派遣されていくためなのです。


<50~53節>

 イエスは、復活後40日目に天に上りました(使徒1:3)。場所はオリーブ山です(使徒1:12)。「ベタニヤ」は、オリーブ山の麓です。ですから「ベタニヤの近く」(新改訳2017)という訳が適切でしょう。

 イエスは、「手を上げて祝福され、祝福しながら」弟子たちから離れていきました。弟子たちは、イエスの祝祷(しゅくとう)をずっと受けながら、イエスが天に上られるのを見届けました(使徒1:9~11)。  

 弟子たちは、その後「イエスを礼拝して」(新改訳2017、マタイ28:17)、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰ります。イエスが彼らから離れていくのに、彼らに悲しみはありませんでした。なぜなら、復活の主イエスは生きておられ、いつでもどこでも弟子たちから離れずに共にいてくださるからです。肉体を持ったイエスは、エルサレムにいてガリラヤにも同時にいることはできませんでした。しかし復活の主イエスは、礼拝の場にも生活の場にも、いっときも離れず共におられます。だから大きな喜びなのです。  

 そして「いつも宮にいて神をほめたたえて」いました。ここの「ほめたたえる」は、直訳は「祝福していた」です。50、51節の「祝福する」と同じ原語です。弟子たちが宮(神殿)でいつもしたことは礼拝です。礼拝は、神を祝福することです。礼拝で神からの祝福を受け取り、また私たちも神を祝福し、兄弟姉妹を祝福するのです。「神の祝福」とは、苦難が無くなることではありません。むしろ「苦難の中でも主が共におられること」が祝福なのです。  

 かつてエルサレムの神殿礼拝は形骸化(けいがいか)していました。しかし今イエスの御名による罪の赦しが宣(の)べ伝えられ、霊とまことによって主を礼拝することが実現しました。今も生きておられる主イエスを崇める礼拝が、この時から今に至ってこれからも続いていくのです。  

 復活の主イエスの祝福を受け取り(祝祷(しゅくとう))、キリストの神を祝福し(賛美)、共に礼拝する兄弟姉妹を祝福する(Ⅰペテロ3:9)礼拝を、共に喜びましょう。  

 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)

   【ルカの福音書の聖書メッセージは、今回で終了です】      
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