(2018年7月)

 ・ 7月 8日
 ・ 7月 1日
 




 7月8日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「心が燃えるイエスのことば」

           ルカの福音書24:13~32  三浦真信牧師

<13~14節>

 イエスがよみがえられた日に、ふたりの弟子がエマオという村に向かっていました。ひとりの名は「クレオパ」でした(18節)。クレオパは、ギリシャ語で「クレオパトロス」の短縮形です。同じく「クロパ」も、クレオパトロスの短縮形です。イエスの十字架のそばに立っていた女性で、「クロパの妻マリヤ」という人がいました(ヨハネ福音書19:25)。イエスが十字架にかけられた時にすぐ側にいたのですから、彼女もイエスの弟子でしょう。もしこの「クロパ」と、「クレオパ」が同一人物でしたら、エマオ途上のふたりの弟子は、クロパ(クレオパ)とその妻マリヤという可能性もあります。  

 ふたりの弟子は、エルサレムで起きたイエスの出来事について話し合いながら、エマオに向かって歩いていました。


<15~16節>

 なぜイエスのからだを納めた墓は空になっていたのか、イエスは本当に復活したのか…と話し合ったり論じ合っているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられました。エマオに着くまで、この同伴者がイエスだとふたりはわかりませんでした。彼らの目が「さえぎられていた」からです。でも彼らが気づかなくても、復活の主イエスは、彼らと共にこの道を歩んでくださっていたのです。私たちも、やがて復活の主イエスと顔と顔を合わせてお会いする日がきます。その日まで、イエスは私たちの人生の同伴者として共に歩いてくださるのです。私たちが意識していてもいなくても、変わりなく主イエスは共に道を歩いてくださっているのです。  

 エルサレムで起きたイエスの出来事に心がとらわれて、彼らの目はさえぎられていました。心が様々なことにとらわれていると、イエスが一緒にいてくださることがわからなくなってしまうことがあります。こちらがパニックになっていても、主がおられることを忘れていても、主イエスは変わりなく共にいてくださり、御声をかけ続けてくださっています。


<17~18節>

 ふたりと一緒に歩いていたイエスは、彼らが話していることが何のことかを尋ねます。ふたりは暗い顔をして、近頃エルサレムで起きたイエスの出来事を「あなただけが知らなかったのですか」と言います。「あなただけが」とは、とても強い言葉です。でも実際は、この「あなた(イエス)」こそ、誰よりも復活の事実を知っておられる方なのです。


<19~24節>

 ふたりの弟子たちは、イエスのことを「行いにもことばにも力のある預言者」であり、「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずと望みをかけていた」と話しました。その望みが、イエスの死によって失せてしまったということです。彼らも他の弟子たちのように、イエスがイスラエルをローマ帝国の支配から解放する政治的メシヤとして期待していました。イエスの死によってがっかりしていたところに、仲間の女性たちが墓に着くとイエスのからだはなく、御使いによりイエスが復活したことを告げられたと聞いて、ふたりは気が動転していました。

<25節>

 ふたりの話を聞いて、イエスは「ああ、愚かな人たち、心が愚かで鈍い人たち」と言って、旧約聖書からこの出来事を説き明かしました。決してふたりを馬鹿にしているのではなく、真理に気づいてほしいために、強い口調で言われたのです。イエスは、鈍い私たちに聖書の事実をわからせるため、ある時強い口調で語られたり、ショック療法によって気づかせてくださいます。それによって、私たちの心の目をさえぎっている様々な思い煩い、とらわれなどを取り除いてくださり、みことばの事実を見せてくださるのです。


<26~27節>

 キリストはが苦しみを受けて栄光を受ける方であることは、旧約聖書の中でも、イエスご自身も、予告していました。旧約聖書ですでにイエスのことが預言されています。キリストの光を通して読むときに、旧約聖書も福音として、神の恵みの言葉として、私たちの心の中に入ってくるのです。


<28~31節>

 ふたりの弟子は、イエスに一緒に泊まるように「無理に願い」ました。イエスから聞いたキリストに関する聖書の説き明かしをもっと聞きたいという強い求めと、日が暮れていたので旅人をもてなす必要を感じたのでしょう。  

 食卓で、普通は家の主人がする「パンを裂いて祝福する」行為を、あえてイエスがされました。その時に、ふたりの目が開かれます(神的受動態)。神が、彼らの目を開かれて、ずっと一緒にいた方が、イエスだとわかったのです。

 「目が開かれ」の、「開かれ」は、「目をさえぎっていたもの、とらわれていたものが、すーっと取り去られた」という状態です。目が閉じられていた状態から、目が開かれて光が差し込んできたような状態です。みことばの戸が開く時に、光が差し込み悟りを与えるのと似ています(詩篇119:130)。  

 ふたりの目が開かれてイエスだとわかると、イエスの姿は見えなくなりました。イエスのからだは、すでに復活のからだです。イエスの復活の事実を知らせるために、特別見える形で現れてくださいましたが、もう彼らがわかったので、肉眼で見える必要はなくなったのです。


<32節>

 イエスが見えなくなっても、ふたりの弟子たちの心の中には、熱い思いが残っていました。イエスが説き明かしてくださった聖書の真理を聞いていた時に、ずっと「心はうちに燃えていた」のです。主イエスが、ずっと聖書を説き明かしてくださっていたから、心があれほど熱く燃えたのだとわかりました。私たちは幸いなことに、今聖書を通していつでもイエスの説き明かしを聞くことができるのです。  

 イエスが道々ずっと説き明かしてくださった聖書のことばを通して、弟子たちの心は熱く燃やされました。悲しみとパニックで暗い顔つきをしていたクレオパたちですが、イエスの姿が見えなくなっても、イエスが語られた言葉によって、心は熱く燃やされていたのです。  

 イエスとの関係をさえぎり、みことばを心に入らせなくするものがあります。それらが、重く心にのしかかり、私たちの心を暗くします。でもさえぎっているものが取り除かれ、目が開かれて復活の主イエスを見る時に、そしてそのような主の言葉を聞く時に、私たちの暗い心は熱く燃やされます。  

 復活の主イエスは、エマオ途上の弟子たちといっしょに歩んで語りかけてくださったように、御国を目ざして旅を続ける私たちの同伴者となってくださっています。そして目には見えなくても、私たちの冷めた心を、みことばによって熱く燃やし続けてくださるのです。神の言葉が、私たちの喜びとなっていなければ、私たちは悩みの中で滅んでいたことでしょう(詩篇119:92)。悩んでいても、心が暗くなっても、聖書を読めばまた心が燃やされます。同伴者なる主は、今もみことばを通して私たちの心を燃やしてくださいます。毎日聖書を読みましょう。私たちの目をさえぎっているものを、聖霊に取り除いていただきましょう。みことばが、私の何よりもの喜びとなりますように!                                     
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 7月1日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「事実となるみことば」

           ルカの福音書24:1~12  三浦真信牧師

<1節>

 イエスの復活が「週の初めの日」であったことを、4福音書すべてが記しています。人類史上初めてのすばらしい出来事が起きたのです。イエスはすべての人の罪の身代わりに十字架で死なれましたが、それだけでしたら本当に罪が赦されるのか実感することができません。でも罪のとげである死にキリストが勝利してよみがえられたことで、キリストを信じる者たちも、罪と死に勝利することが明らかになったのです。この新しい出来事が、週の初めに起きます。そしてやがてキリスト教会は、主イエスが復活した週の初めである日曜日を安息日として礼拝するようになります。

 イエスが墓に納められるのを見届けた女性たち(23:55)は、準備しておいた香料を持って墓に着きます。ギリシャ語原語では「その墓」となっています。アリマタヤのヨセフが自分のために買って用意していた、誰も葬ったことのない「その墓」です(マタイ27:59~60)。

 その墓は、「岩に掘られた」(23:53)墓で、その中にイエスのからだを置き、大きくて丸い石(成人男性5~6人でようやく動せる重さ)で穴をふさいでいました。彼女たちは、墓に向かう途中で、その大きな石を転がしてくれる人がいるだろうかと話し合っていました(マルコ16:3)。「明け方早く」で、人がいるかもわかりませんでした。それでも彼女たちは引き返しませんでした。イエスの墓に一刻も早く行きたいという思いが強かったのでしょう。またイエスと共にこれまで歩んできて、何か不安なことがあっても、いつもイエスが何とかしてくださった奇跡を見てきたので、心のどこかに「神が何とかしてくださるから大丈夫」という思いが染みついていたのかもしれません。


<2~3節>

 不安なまま墓に着いた彼女たちは、墓穴をふさいでいた「石がわきにころがしてあった」のを見て驚きます。ここの「ころがしてあった」の原語は「ころがされてあった」(受動態分詞形)になっていて、行為者がない受け身になっています。これは「神によってころがされてあった」ということです。そして墓の中に入ってみると、「主イエスのからだ」はありませんでした。

 大きな墓石がころがされてあったのは、誰のためでしょうか?それは主イエスのためではあ りません。復活の主イエスは、石で墓がふさがれたままでも復活できましたし、外に行くこともできました。鍵を閉めて引きこもっていた弟子たちのいる部屋の中にも、復活の主イエスは現れています(ヨハネの福音書20:19)。墓石が転がされていたのは、香料を持って墓に来た彼女たちのためでした。彼女たちが墓の中に入って、イエスのからだがないことを目撃し、主イエスの復活の証人となるためでした。イエスが確かに復活して、今も生きておられることを証しする者と彼女たちがなるために、神は石をわきに転がされたのです。

 神は、私たちが復活の主イエスと出会うために、この墓の大石のような障害物を取り除いてくださる時があります。女性たちが、障害となる墓石を取り除かれてお墓の中に招き入れられ、「主イエスの(死んだ)からだはなかった」という事実を見たように、主イエスが復活して今も生きておられる事実を、私たちにも見せてくださるのです。「これでもあなたは信じないのですか?」と、キリストが生きておられる事実を否定できないように、復活の主の元に私たちを招いてくださいます。


<4~8節>

 墓の石が転がされ、イエスのからだがなかったことで、彼女たちは途方にくれました。「イエスのからだがないということは、イエスが復活したのだ」とわかっていれば、途方にくれることはなかったのです。むしろ喜ぶべきことでした。同じ出来事に遭遇しても、イエスの復活を信じるか否かで、喜びにもなり途方にくれることにもなるのです。環境は関係ありません。同じ環境でも、信仰に立つなら喜びとなり、復活のキリストを信じないなら途方にくれるしかないのです。彼女たちは、折角イエスのからだに香料を塗ろうとしてきたのに、それすらできないことで悲しくなりました。きっと誰かが石を転がして、イエスのからだを盗んだと思ったのでしょう。

 途方にくれている彼女たちのところに、「まばゆいばかりの(原語は「稲妻のように明るい」)衣を着たふたりの人が近寄ってきます。この二人は「主の使い(御使い)」でした(マタイ28:2,4)。御使いは、「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」と言います。ここの「生きている方」(現在能動分詞形)には、「死とは全く関係なく、永遠に生きておられる方」というニュアンスがあります。

 イエスは、まだガリラヤにおられるころに、すでに弟子たちや彼女たちに、ご自身の十字架の死と復活のことを語っておられました(9:22,44)。それにもかかわらず、実際にその通りのことが起きたら、全く忘れてしまっていたのです。彼女たちは、御使いからそのことを聞いて、ようやく「イエスのみことば」を思い出しました。そして主が語られた通り、主イエスはよみがえられたことを理解したのです。ずっとイエスと一緒にいた彼女たちでさえ、主のことばを忘れていたのです。ですから主のみことばは、何度も繰り返し聞く必要があるのです。1回聞いて、頭でわかっただけではだめなのです。


<9~12節>

 御使いのことばを聞いて、イエスがご自分で言われた通り死からよみがえられたことを知った彼女たちは、イエスの弟子たちに一部始終を報告しにいきます。もう途方にくれてはいません。感動と喜びに溢れて報告したことでしょう。彼女たちは、自分たちが見た事実を「報告した」のです。事実を報告することが、そのまま証しとなっていきました。

 この女性たちの中で、マグダラのマリヤの名前は、4福音書すべてに記されています。7つの悪い霊によって苦しい人生を歩んできた彼女は、イエスによって悪霊を追い出され、解放されて自由になりました(8:2)。その彼女が復活のイエスに真っ先に出会っています(ヨハネ福音書20:11~18)。

 このマグダラのマリヤはじめ複数の女性たちが、イエスの復活の出来事を弟子たちに報告しました。しかし弟子たちは彼女たちの話を「たわごと」(原語「レーロス」は医学用語で「精神錯乱状態者のうわごと」の意味)として信用しませんでした(11節) ペテロも信じてはいなかったようですが、気になったのか墓に走っていきました(12節)。そして墓の中に、イエスのからだを巻いたはずの「亜麻布」だけがあるのを見て、驚いて家に帰ります。

 11節の「話」という言葉は、原語で「レーマ」が使われおり、8節の「みことば」と同じです。また1:37でイエスの母マリヤが「神にとって不可能なこと(出来事)は一つもありません」と言っている「出来事」も、同じ「レーマ」です。つまり、イエスが語られたことば(みことば)は、そのまま出来事(事実)となっていくのです。単なる話では終わらないのです。イエスが語られたことは、そのまま具体的な出来事となっていくのです。聖書のみことばを読むときに、そのことばがそのまま事実となるレーマなる言葉として受け取りましょう。主イエスが、十字架で死んで三日目によみがえると語られたら、その通りになったのです。主イエスは、確かに死からよみがえり、今もそして永遠に生きておられる方です。主が語られた言葉は、そのまま事実となります。みことばを読むときに、「今日私の上に、このみことば通りの事実が起きるのだ」と信じ期待して読みましょう。                                     
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