(2018年5月)

 ・ 5月13日
 ・ 5月 6日
 




 5月13日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「真理の宗教 三つの祝福」

           ヨハネの手紙第三2~3   ぺ・ヨハン 新一長老教会主任牧師

<3つの祝福>

  「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」(2節)。

 2節では3つの祝福が述べられています。第1は「たましいに幸いを得ている」 神様を信じる信仰の中で、霊的健康で生きて行くことが出来ます。第2は「すべての点で幸いを得る」 日常的生活の中で、神様の思い通りに生きていたら、いつも楽しい心で生きて行くことが出来ます。第3は「健康であるように」 身も心も健康な状態を維持することが出来ます。  


<真理の中を歩む>

 どうしたらこのような祝福を受けることが出来るのでしょう。2節と3節が原語では「何故なら」という言葉で繋がっています。長老ヨハネが手紙の名宛人ガイオの祝福を願う根拠は、3節にあるように彼が真理の中を歩んでいると聞いたからです。「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます」(3節)。

 私たちが3つの祝福を受けるためには、真理の中を歩む事が必要なのです。真理に歩むとはどういう意味なのでしょう。キリストの福音の真理です。三位一体の神様を信じて生きて行くことが、キリスト教の福音の内容であり、これが真理です。ガイオはこのキリストの真理の上にしっかり立っていたから、2節の祝福を受けることが出来ました。私たちも同じようにキリストの福音の上にしっかりと立つなら、この祝福に与(あずか)ることが出来るのです。


<人の持つ不安>

 キリスト教の福音は何故真理なのか、更に話を進めます。神学的に見れば、全ての人は3つの不安を持って生きていると言われます。1つ目は、存在論的不安です。全ての人は生まれた以上、必ず死ぬしかありません。人が避けて通れない死への不安と恐怖です。2つ目は、目的論的不安です。何のために人生を生きるのかについての不安で、私たちの欲は限りが無いのに、追求出来るのは僅かなことでしかありません。何を求めても、絶対的な価値を持てない-お金や子ども、仕事、いずれも私達に絶対的な幸福を保証するものではありません。

 3つ目は道徳的不安です。心の中の罪に向かう動機や良くない考えを持たない人は誰もいません。全ての人は罪を犯すようになり、その結果誰もが罪責感を持っています。正しく生きようとする良心と、もう一方罪を犯すことから来る道徳的不安との間で、葛藤が生じるのです。


<キリストによる解決>

 本物の宗教であるなら、これらを根本的に解決するものでなければなりませんが、キリスト教はこれらの不安を完璧に解決します。1つ目の存在論的不安については、死の持つ力を、死の後に来る天国で克服するようにして下さいました。

 2つ目の目的論的不安への解決です。神様は私たちを創造された方で、この方のために生きて行くことが幸せに生きる基準となります。神様のために自分の人生を捧げるのです。例えば、小さな子供から両親への誕生日プレゼントを贈ると、小さなものだとしても両親はそれを大きなものと感じて喜び、子供に多くの事をしてあげたいと思うものです。それと同様に、神様へ心を込めた礼拝を神様は喜ばれ、私たちを祝福して下さいます。神様のために私達の人生を捧げることこそ、私たちの幸せな人生なのです。

 3つ目は道徳的不安の解決です。神様は、イエス・キリストを送り、私たちの罪を全て赦されました。例えば、子供達が野球をしていて近くの家の窓ガラスを割ってしまったとします。お金が無いので、謝ることしか出来ません。その時に両親が来て弁償すれば、子供達は罪責感を持たずにすみます。同じように、私の力では心の中にある罪責感、不安を解決することが出来ません。イエス様は、私たちの罪の全ての代価を十字架によって支払って下さいました。


<真理の福音>

 「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32) 私たち、神様を信じるクリスチャンはこの真理をはっきりと悟り、確信しなければなりません。この真理を確信して生きるなら、2節のみ言葉のように、「すべての点で幸いを得、健康」になることが出来ます。キリスト教は人生の根本を解決する偉大な福音であり、まさにイエス・キリストの十字架です。

 この真理の宗教を信じている私たちは、韓国と日本の国境を超え、神様を父とする兄弟姉妹として、今日、共に礼拝を捧げています。これからも、キリストの真理の福音の中で、お互いが信仰の良き同伴者、協力者として歩んで行けるように心から願います。 
              (要約まとめ:田内博)
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 5月6日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「ひとりぼっちのときに…」

           創世記28:6~22   三浦真信牧師

 ヤコブは、父親(イサク)が兄エサウに与えるつもりでいた祝福を、エサウになりすまして代わりに受けてしまいました。自分が受ける分を横どりされたことを知った兄は、「ヤコブのやつ、絶対許さないぞ」とすごい剣幕(けんまく)で怒ります。

 母親(リベカ)は、エサウが弟ヤコブに危害を加えることを心配して、ヤコブを遠くにいる彼のおじさんの家に送り出します。ヤコブはひとりで長い旅に出ることになりました。 ヤコブは、ごつごつした岩だらけのさびしい荒野を歩いていきました。疲れると一休みし、またてくてくと歩き続けました。ずいぶん遠くまで来て夜になりました。「今日はここで寝よう」と言って、ちょうどいい大きさの石をまくらにして横になりました。空には月やたくさんの星が光っています。

 「ああひとりぼっちだ…」とヤコブは悲しくなりました。「お父さんやお兄さんをだましたから、こんなことになってしまったのかな…」とちくりと胸が痛んだことでしょう。いつの間にかヤコブはぐっすり眠ってしまいます。すると不思議な夢を見ました。それは天から地上にかかる長いはしごを、神さまの使いが上ったり下りたりしている夢でした。そして神さまの声がしました。「ヤコブよ。わたしはあなたのおじいさんアブラハム、お父さんイサクの神です。わたしはいつもあなたといっしょにいて、あなたを守ります。そしていつかあなたを連れ帰りますよ」と。

 ヤコブは、ひとりぼっちになったときに、お父さんやお兄さんをだまして悪いことをした自分なんか、みんなからも神さまからも見捨てられても仕方がないと思っていたので、そんな自分を神さまが守り助けてくださると言ってくださり、うれしくなりました。「ひとりぼっちだ…」と思っていたのに、「ひとりぼっちじゃない、神さまがいっしょにいてくださる」とわかって元気になったのです。

 ヤコブは目を覚ましました。「なんということだ。神さまがいっしょにいてくださるのに、ぼくは全然気づいていなかった。ここは神さまの家、天国の門だ!」とヤコブは言います(15~16節)。今荒野のさびしい、何もない場所にいるのに、そこも天とつながっている…ここも神さまの家であり、天に続く門のようだ…と知って、まわりは真っ暗でもヤコブの心は明るくなりました。

 そして朝になると、ヤコブはまくらにしていた石を地面に立てて、神さまにお祈りをしました。「神さま。こんなぼくといっしょにいつもいてくださると約束してくださって、ありがとうございます。あなたはぼくの神さまです。ぼくはあなたにずっとついていきます」。ヤコブはそう祈って、おじさんの家を目ざして元気に歩きだしました。


 ヤコブはお父さんをだまし、お兄さんに与えられるはずだった祝福を横どりした結果、お兄さんを怒らせてしまいいっしょに住めなくなってしまいました。でもおじさんの家に向かっていくさびしい荒野で神さまに出会い、神さまの約束を信じて元気にまた歩きだしていきました。

 今も世界中でひとりぼっちでさびしい思いをしている人がたくさんいます。まわりに人がいても、ひとりぼっちだと感じることもあります。神さまは、そんなさびしい思いをしている人に、よりそってくださいます。「あなたはひとりじゃないよ。わたしがいるよ。あなたがいるここが、神さまの家であり天国の門だよ。だから元気を出しなさい」と荒野にいたヤコブをはげましてくださったように、神さまは私たちをも力づけてくださいます。だから「ああ、ぼくは(わたしは)ひとりぼっちだな。さびしいな…」と思う時があったら、神さまにお祈りしましょう。ヤコブのように「悪いことをしてしまったな…」と思ったら、「神さま。ごめんなさい」とお祈りし、「自分が悪いことをした人にも…」あやまりましょう。ヤコブも、このあとお兄さんのエサウにあやまって仲なおりをします。

 神さまは、わたしたちの罪のためにひとり子イエスさまを送ってくださいました。イエスさまがすべての人の罪のみがわりに十字架で死んでくださいました。そのイエスさまのおかげで、わたしたちはいつでも神さまのもとに帰ることができます。

 「おそれるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(イザヤ41:10)と神さまはみなさんに語りかけておられます。さびしくなったら、この神さまのことばを思い出しましょう。神さまがともにいてくださるなら、どのような場所にいても、そこが「神の家、天の門」となるのです。そのことがわかると、また元気に歩きだすことができるのです。
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