(2018年4月)

 ・ 4月15日
 ・ 4月 8日
 ・ 4月 1日
 




 4月15日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「十字架の奇跡 」

           ルカの福音書23:47~49 マタイ27:51~56 三浦真信牧師

 イエスが十字架上で息を引き取られてから、いくつもの不思議な出来事が起きました。その一つとして、「神殿の幕が真っ二つに裂けた」(23:45)ことがあります。マタイ、マルコの並行記事では、エルサレム神殿の幕が「上から下まで」裂けたことが記されています(マタイ27:51、マルコ15:38)。完全に幕は裂けたのです。  

 「神殿の幕」とは、聖所と至聖所を隔てている幕のことです。聖所から至聖所に入っていくことができたのは、神にとりなしをする大祭司だけでした。大祭司も年に一度だけ、贖罪(しょくざい)の日に贖(あがな)いの供え物(動物の血)をもって入ることができるだけでした(へブル9:11~12)。大祭司は人間なので不完全です。また動物の血も完全に罪を取り除くことはできません。しかし完全な大祭司キリストは、たった一度の十字架の死により、完全な供え物となってくださいました。不完全なら繰り返し必要ですが、完全な大祭司であり完全な神の小羊キリストは、一度で完全な罪の贖(あがな)いを成し遂げてくださったのです。キリストが「完了した」(ヨハネ19:30)と十字架上で勝利を叫ばれた時に、もう贖(あがな)いは成し遂げられたのです。  

 今私たちは、イエスが流された十字架の血により、大胆に至聖所に入ることができます。「イエスご自身の肉体が垂れ幕(たれまく)」となり、イエスが「私たちのためにこの新しい生ける道を設けて」くださいました。「邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われた」のです。「約束された方は真実」なのです(へブル10:19~23)。イエスの血により罪きよめられた者たちは、「道であり真理でありいのちであるイエス」(ヨハネ14:6)を通して、いつでもどこでも神にお会いすることができるのです。聖所と至聖所を隔てていた幕は上から下まで真っ二つに裂かれました。大胆にイエスの御名によって神と交わる至聖所に入りましょう。


<47節>

 イエスの死後、「地が揺れ動き、岩が避け、墓が開いて多くの聖徒たちのからだが生き返り」ました(マタイ27:51~54)。イエスの十字架の一連の出来事をそばで見ていたローマの百人隊長は神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言っています(マタイ、マルコでは「この方はまことに神の子であった」)。イエスの十字架刑執行を見守るローマの隊長が、神をほめたたえる人に変えられたのです。イエスを十字架につける側にいた百人隊長が、イエスを神の子と信じ崇める人に変えられました。これもキリストの十字架の死がもたらした奇跡です。


<48節>

 これまでイエスをののしりあざけった群衆たちも、イエスの十字架上の言葉を聞き、3時間の暗やみを経験し(44節)、イエスの死と同時に起きた様々な超自然的な出来事を目の当たりにして、「胸をたたいて悲しみながら」帰っていきました。「胸をたたいて」という表現は、悔い改めを表すときに使う言葉でもあります(ルカ18:13)。群衆の中にも、ローマの百人隊長のように、自分の罪を悔い改め、そしてイエスを神の子と認めて崇めた人たちがいました。


<49節>

 男の弟子たちはイエスが捕らえられると皆逃げてしまいましたが、イエスの死までずっとイエスのそばにいた女性たちがいました(マルコ15:40~41)。イエスと出会って人生を変えられ、暗やみから光の中に移された多くの女性たちが、最後までイエスについていきました。それだけイエスを慕う思いが強かったのです。  

 神の子イエス・キリストが、すべの人の罪を負って十字架にかけられた時に、様々な不思議な出来事が起きました。それらを通して、異邦人であり当時ユダヤを統治していたローマの百人隊長が、神をほめたたえ崇める人に変えられ、イエスをののしっていた群衆の中からも、胸をたたいて悔い改めイエスを信じる者たちが起きてきました。  

 人は簡単には変わらないものです。いくら人が説得してもなかなか変わりません。しかし神の子の十字架の死と復活は、人を変える力があります。このイエスの十字架の時に、数々の奇跡が起こされ、神の力、神の愛、神のエネルギーが注がれたのです。「この十字架のイエスを見て救われ生きよ!」と神が特別なメッセージを送っておられるかのように、この十字架の重要性を強調するかのように、キリストの十字架の死の前後には多くの奇跡が起きているのです。 「キリストの十字架は私のためであった」「イエスを十字架につけたのは私自身だ」「私の罪がイエスを十字架につけたのだ」と気づき悔い改めた時に、イエスの十字架が私たちを新しく造り変えます。  

 キリストの十字架の死がもたらした何よりもの奇跡は、イエスに敵対していた者たちが罪を認め悔い改めて、神をほめたたえる人に変えられたことです。そして今も十字架のキリストを見上げる時に、この奇跡は起きるのです。キリストに出会った人たちを通して、今も神の国は広がり続けています。すでに神殿の幕は上から下まで真っ二つに引き裂かれ、イエスご自身が垂れ幕(たれまく)となり、道となって私たちを神のもとに招いておられます。今イエスを信じる者たちは、大胆に至聖所に入り神とお会いすることができるのです。祈ればいつでどこでも答えてくださる主がおられます。この特権を大胆に用い、どのような時にもキリストの御名によって祈りましょう!
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 4月8日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「十字架上での勝利の叫び」

           ルカの福音書23:44~46   三浦真信牧師

<44~45節>

 イエスが十字架にかけられたのは、朝9時頃です(マルコ15:25)。そして昼の12時までに「十字架上での7つのイエスの言葉」のうち以下の3つが語られています。

 ① 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)

 ② 「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)

 ③ 母マリヤのことを、12弟子の1人であるヨハネに託した言葉(ヨハネ19:26~27)  

 その後昼の12時頃から午後3時まで、太陽は光を失い全地が暗くなりました。過越しの祭りの期間で満月の時期であり、暦上も自然現象としての日食が起きる時ではありません。明らかに神が超自然的力で起こされた出来事です。これと同じようなことが、イスラエルが奴隷として苦しんでいたエジプトの地から脱出する直前にも起きています(出エジプト10:22)。  

 ルカはイエスの地上での最期の出来事を、「第2の出エジプト」と捉えています。イエスが山上でモーセ・エリヤと「エルサレムで遂げようとしておられるご最期について」(9:31)話されました。この「ご最期」という言葉を、ルカはあえて「エクソダス」という原語を使っています(医学的な「死」は普通「サナトス」です)。またⅡペテロ1:15で、ペテロも「死(この世を去る)」をあえて「エクソダス」で表現しています。「エクソダス」は、「出エジプト」を表す言葉です(英語でも出エジプトはExodusです)。キリストの死は、人類を罪の奴隷から解放するための出エジプトであり、またキリストを信じる者たちにとっての死も、罪の世から御国に移される出エジプトと同じ意味を持つのです。エジプトで過酷な労働を強いられ、苦しくてうめき叫ぶイスラエルの民たちの声を神は聞き、モーセを遣わして彼らをその束縛から解放しました。キリストもご自身のいのちを捨てて苦しむ私たちを罪から解放し、また死を迎えることを恐怖から(約束の地を目指して旅立つ)希望に変えてくださいました。ですから、イエスが十字架で死なれる直前に3時間、出エジプトの直前のように全地が暗くなったことは、第2の出エジプトを象徴しているかのようです。   

 この3時間の暗やみの中で、人々はどうしていたでしょうか? 最初は恐怖でパニックに陥り、叫んだりわめいたりしたかもしれません。でも少し落ち着くにつれて、様々な思いが心に生じたことでしょう。「自分たちがしていることは本当に正しかったのか?」「キリストを十字架につける自分たちは何者なのか?」イエスの十字架上での言葉を思い起こし、自分自身を省みた人も少なからずいたことでしょう。人生の中で暗やみに覆(おお)われる日が、誰にもあります。その暗やみの期間は、立ち止まって自分の歩みを振り返る時です。それまで神に頼らず歩んできたことを反省し、神に立ち返り、これからの生き方を問い直す大切な時です。本当に大切なことは何か、従うべきお方がどなたかを、考え直す時です。暗やみのおかげで、あえて忙しい手を強制的に止められ、静まって考え神に祈らざるをえなくなるのです。イエスが十字架にかけられている3時間の暗やみの時に、人々はこの出来事の意味を問いかけられたことでしょう。その中から、イエスを信じる者たちも起きてきました。  

 この暗やみの時間が終わる3時ごろに、イエスの十字架上での第4の言葉がありました。

 ④ 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。  

 このイエスの切実な叫びによって、暗やみが打ち破られます。イエスは神と等しい方でありながら、罪は犯しませんでしたが人間と同じ痛み苦しみを味わってくださいました。ダビデも苦しみの中でこの祈りをしています(詩篇22:1)。イエスは、肉体の痛みも心の苦痛も、私たちと同じように感じられたのです。父なる神からも人からも見捨てられるどん底の孤独にも耐えてくださいました。イエスは、この苦難の意味も目的もご存知でした。それでも「どうして?」と叫ばざるを得ない苦しみを経験してくださったのです。私たちが苦しい時、頭ではわかっていても「どうして?なぜ?」と叫ぶしかない時があります。イエスご自身が、人としてのその叫びをしてくださいました。ですから私たちは安心して同じ叫びを主にしていくことができるのです(へブル4: 15~16、5:7)。

 ⑤ 十字架上の5番目の言葉は、「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)です。

 死の直前で、肉体的にもイエスは、舌があごに貼りつくほどに口が渇いていました。同時に救いのために、この苦しみをも受けずにはいられないほどの、人々の魂への愛の渇きがありました。

 ⑥ 十字架上6番目の言葉は、「完了した」(ヨハネ19:30)です。

 「ああ、もう何もかも終わりだ…」という絶望ではなく、「父なる神から託された人類救いのわざがここに完成した!」という勝利の宣言です。


<46節>

 そして十字架上のイエスの7つの言葉の最後は、

 ⑦ 「父よ。わが霊を御手にゆだねます」です。  

 これも、「なすべきことはすべて終わり、あとは主の御手にすべて託します」という勝利の叫びです。イエスは、父なる神から遣わされ、父の御心を最後まで行い、その霊を神の御手にゆだねました。誰かを恨んだり憎むこともなく、神に従い通し、使命を果たし終えて安心してその霊を父の御手にお渡しになりました。  


 イエスが十字架にかかっておられるうちの約3時間、全地を暗やみが覆(おお)いました。この歴史的出来事の中で暗やみを経験した一人ひとりが、イエスの十字架の意味を問いかける時となりました。またイエスの十字架上の言葉の重みと、人間の罪の深さを感じた人もいたでしょう。  

 罪なき方がすべての人の罪を代わりに背負い、父なる神からも人からも見捨てられる孤独のどん底を味わいました。そして最後まで父の御心に従い、ついに人類の救いを完成し、勝利を叫ばれたのです。私たちに対する罪の呪いは、すべてイエスが代わりに受けてくださいました。救いの手順を、イエスがしっかりつけてくださったのです。あと私たち人間に問われているのは、この方の救いを受け入れるか否かだけです。イエスを信じる者は、死さえも第2の出エジプトとして、希望にあふれた旅立ちとなります。  

 罪なきキリストの壮絶な苦しみが、またその打ち傷が、私たちを癒すのです(イザヤ53:5~6)。イエスは十字架で、完全勝利を収めたのです。ハレルヤ!
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 4月1日
聖日礼拝メッセージ要約 主題:「途方(とほう)にくれたとき」

           ルカの福音書24:1~8   三浦真信牧師

 ユダヤ教指導者たちのねたみによって、罪のないイエス様は十字架にかけられ、死んでお墓におさめられました。イエス様の葬(ほうむ)られたお墓は、ほら穴式になっていて入り口を大きな石でふさがれていました。複数の兵士たちが、交代でその墓を見張っていました。なぜならイエス様がかつて、ご自分が十字架で死なれ三日目によみがえることを弟子たちに伝えていたからです。誰かがイエス様の遺体(いたい)を盗んで「イエスがよみがえった」と言わないように見張っていたのです。  

 イエス様が死んでからしばらくたって、それまでイエス様についてきていた女性たちが、イエス様のお墓に向かっていきました。彼女たちは、イエス様に出会うまでは、暗く悲しい毎日を送っていました。イエス様に出会って、初めて本当の喜びを経験したのです。ですからイエス様が死んでしまって、とても悲しみました。彼女たちは、その愛するイエス様の遺体(いたい)に良い香りのする薬や油を塗ってあげようとして、お墓に向かいました。  

 ところがお墓に行く途中で、一つの問題に気がつきます。お墓の入り口をふさぐ石は、とても重くて大人の男性5~6人でようやく動かせるものでした。とても女性たちだけでは動かせません。彼女たちは、そのことをどうしようかと話しながらも、引き返すことはせずお墓に向かっていきました。それほどにイエス様の遺体(いたい)がおさめられているお墓に行きたいという強い思いがあったのでしょう。またこれまでイエス様のなさる数多くの奇跡を彼女たちは見てきました。病の人がいやされたり、イエス様の話を聞きに来ていた大勢の人たちを、わずかなパンと魚で満腹にしたり…だから心配なことがあっても、神様が必ず何とかしてくださるから大丈夫と信じていたのでしょう。  

 心配しながらもお墓に向かって歩いていくと、あの大きな墓の石はころがしてあって、墓の入り口が開いていました。彼女たちが驚いてお墓の中に入ると、イエス様のからだがありませんでした。彼女たちは途方(とほう)にくれてしまいます。イエス様が死なれたことでもすでに彼女たちは途方(とほう)にくれていました。イエス様にお会いして喜びの人生に変えられ、彼女たちはイエス様を信頼してずっとついてきたのです。そのイエス様が死んでしまったのですから、当然のことです。大切な人が突然いなくなってしまった時に、だれもが途方(とほう)にくれてしまいます。彼女たちは、イエス様が死んだことでも途方(とほう)にくれ、お墓に来てイエス様の遺体(いたい)がなくなっていて、また途方(とほう)にくれてしまいました。  

 するとまばゆいばかりの服を着たふたりの人が、彼女たちに近づいてきました。恐ろしくなって地面に顔を伏せていると、「なぜ生きているイエス様を、死んだ人がいるお墓の中で探すのですか?ここにイエス様はおられませんよ。イエス様が言われていた通りに、よみがえられたのです」とその人たちは伝えました。そして女性たちは、イエス様がそう言われたことをその時に思い出しました。  

 このあと彼女たちは、他のお弟子さんたちとイエス様にお会いします。もう二度と会えないと思っていたイエス様と会うことができて、とても喜びました。イエス様は、その後「世の終わりまでずっとあなたがたと共にいますよ」と言って天に上られました。そして今もイエス様を信じる人たちといっしょにいつもイエス様はいてくださいます。  

 途方(とほう)にくれる時、どうしてよいかわからず困っている時、大切な人がいなくなってしまって悲しみにくれる時にこそ、復活したイエス様にお出会いする時です。人とはいつか必ずお別れする時がきます。でもイエス様は永遠にいっしょにいてくださいます。人の気持ちはすぐに変わります。でもイエス様は、ずっと変わることなく私たちを愛してくださいます。だからイエス様は「私の愛の中にとどまりなさい」とおっしゃいました(ヨハネ福音書15:4~10)。ずっと変わることなく私たちを愛し、ずっと共にいてくださる方は、イエス様だけです。この死からもよみがえられたイエス様が、ずっと私たちを愛し、ずっと共にいてくださるから、苦しいことや途方(とほう)にくれることがあっても大丈夫です。  

 「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮(きゅう)することはありません。途方(とほう)にくれていますが、行きづまることはありません」(Ⅱコリント4:8)。死からよみがえり、今も私たちと共にいてくださるイエス様の愛の中にとどまりましょう。
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